第134話 頭は打ってない!
許可?
一体なんの?
そんな疑問は声にする前に消え去り、伊織は自分が置かれている状況も忘れて満面の笑みを浮かべると、目の前に現れたニルヴァーレの腕を握った。
それは現実世界で初めて触れる腕だった。
「ニルヴァーレさん! 良かった、無事だったんですね! 溺れそうになった時はありがとうございました、それに今も――今……その、これはどういう……?」
「やっと落ち着いたか。君がピンチのようだったから、無理やり外へと領域を広げて顕現したんだ。あの赤毛の坊やがイオリを助けろって言ってたからね」
本来なら本人が言わないと受ける気はなかったんだが、サービスだ。
ニルヴァーレはそう言って、周囲を覆う崩れゆく薄膜のようなものを指した。
「で、あれが広げた領域」
伊織は一筋の冷や汗を流す。
あれが広げた領域であり、その中にいるからこそニルヴァーレが存在していられるのだとしたら、もうその領域はボロボロなのではないか。
そして現れた瞬間から瓦解を始めていたということは、これはあまりにも力づくで実現したことなのではないか。
そう思い当って背筋が冷たくなった。
しかしニルヴァーレは気にしていない様子で続ける。
「今ここは夢路魔法の世界を薄く引き伸ばしているような状態にある。時間も強引に止めてる……というか体感時間を弄って止まっているように感じさせているが……持ってあと二分か」
「に、二分!?」
「ついでに解除されたら僕ごと壊れる」
伊織はサッと青くなって腕を握る力を強めた。
助けにきたというのに助けられ、そしてそのせいでニルヴァーレが壊れて――死んでしまっては元も子もない。
狼狽える伊織とは反対に、ニルヴァーレ本人は余裕を崩さないまま言った。
「そこで許可をくれ。君の体を借りたい」
「……へ?」
予想外の問いである。
混乱しつつも伊織は頭の中で言葉を整理した。力を借りたい、ではなく体を借りたい、ということはニルヴァーレが憑依するということだろう。
たしかにニルヴァーレは今や普通の肉体を持たない不思議な存在であり、夢路魔法の世界で自由に暮らしているのは彼の魂だ。
目の前に顕現したニルヴァーレも実際には肉体を持っておらず、魂だけなのだとすれば幽霊のように憑依できる可能性はあった。
しかし伊織は不安げな顔をする。
そんな表情を見てニルヴァーレは歯を覗かせて笑った。
「イオリの魂は強すぎるからね。普通に憑依なんてしようものなら、僕はたちまち消滅してしまうだろう。だが本人の許可があれば成功するかもしれないんだ」
「か、かもしれない、って確実じゃないんですか」
「だってなんの実証実験もしてないしね? この体になって得た、ただの直感に近い感覚によるものだ。でもだからって試さない理由なんてないだろう」
そんな不安定なことに全部を賭けようとしているのだ。
ようやく状況を飲み込めた伊織はニルヴァーレを睨みつけた。
「こういう無茶はしないでください……!」
「えー、どの口が言うんだい、イオリ」
「僕だって無茶しますけど、それでもです!」
ニルヴァーレは「献身は君の専売特許じゃないぞ」と肩を竦める。
「僕は魔石として同行できるだけでも良かったくらいなんだよ、ここまででも十分同行させてもらった。使い捨てるくらいでいいのに君ってやつは……」
「僕はあなたのこと、もう仲間だと思ってるんですけど」
仲間は使い捨てたり見捨てたりしません、と伊織は言いきる。
ニルヴァーレはついさっきまで呆れさせていた表情をきょとんとさせ、直後に目を見開いて立ち上がると、伊織の腕を引いて起き上がらせた。
まるで釣り上げるような動きだったが、その手は意外と優しい。
夢路魔法の世界で伊織に魔法を教えていた時と変わらない、師匠の手だった。
「君はズルいな! ここでそんなことを言われてしまったら、是が非でも助けたくなるじゃないか! ――そうか、これが仲間か」
ばらばらと周囲がひび割れて落下していく。
剥がれた空間は普段とは違う光の反射を見せながら、落ちていく途中で溶けて消えた。まるで最初からそこにはなにもなかったとでも言うように。
そのうちニルヴァーレもああなるのだろう。
――なら、と伊織はニルヴァーレを見上げる。
「さあ、イオリ」
「……わかりました。あなたに体を貸します、ニルヴァーレさん」
どう許可を出せばいいのかわからない。
こうして口で伝えるだけでもいいのかどうか、確かめる術がない。
下手をすればニルヴァーレは自分の中で死ぬだろう。
しかし折角助けに出てきてくれたというのに、このままなにもせず無駄足を踏ませたまま終わるよりは、可能性が低くても試したほうがずっといい。
伊織はそう強い意志で思い、ニルヴァーレに視線を返した。
「よし、では許可は貰ったよ。――大丈夫、契約は守ろう」
ニルヴァーレは自分の契約の証である指輪を指して微笑むと、ばさりと片腕で広げたマントの内側に伊織を優しく囲い込んだ。
***
ネロは震える足を奮い立たせてダガーを引き抜いた。
落下した伊織がどうなってしまったかわからないが、傷持ちの大カラスは依然としてそこにいる。驚きは収まっていないが逃げるつもりはないようだ。
パニックから回復すれば次はネロか雛を狙うだろう。
――伊織はきっと大丈夫。
水に押し流された時だって、あの魔石が守ってくれたじゃないか。
ネロはそう自分に言い聞かせ、今は伊織が戻ってきた時に出迎えられるように自身の防衛を優先した。
正気に返った傷持ちの大カラスがネロを捉える。
ダガーを構えていようが小さな存在だ。臆した様子はない。
見れば雛の親の大カラスもすぐそばまで迫っていた。
上手く二羽を争わせることができればいいが、最悪両方とも相手をするはめになる可能性もある。
(俺の火の魔石は残ってるけど、イオリが使った時のことを思うと近くで投げつけないと効果は薄そうだな……でもあまり近すぎると二の舞だ)
伊織より身長があるとはいえ、恐らく同じ状況になればネロも吹き飛ばされてしまうだろう。
それだけ超大型鳥類の羽ばたきは強力なのだ。高い場所では最高の武器になる。
身構え、緊張感が最大に達しようとした瞬間。
普通とは違う、おかしな吹き方をする風がネロの元に届いた。
自然に吹いていた南西からの風とは逆側から吹いてくる風。
それは一定の強さで南西の風を押しのけていた。
その違和感に他者の意思や意図のようなものを感じ取り、ネロは思わず大カラスから視線を外してそちらに目をやる。本来なら目を離すなど愚策だが見ずにはいられなかった。
崖のふちに何者かの指がかかり、驚くほどふわりとした軽い身のこなしで体を浮かせて着地する。
少し高い段差を越えただけのような、そんな動きだった。
「ッイオリ……!」
ネロは思わず大カラスの存在を忘れて安堵する。
崖の下から姿を現したのは魔石を抱えた伊織だった。
どうやって助かったのかはわからないが、地下でのことを考えるに魔石の風が這い上がるのをサポートしてくれたのかもしれない。
そう思っていると、視界外で親の大カラスが傷持ちの大カラスに体当たりし、あろうことかその巨体がネロのいる方角へと吹き飛ばされた。
巨体が間近に迫ったところで、伊織が無言のまま地を蹴り――風を纏うようにして凄まじいスピードで前進すると、ネロを掻っ攫ってその場から離れる。
次に地に足をついて蹴り進むまで優に五メートル。
大カラスの巣の隣もあっという間に通り過ぎ、そのまま赤土の山から飛び出したことに気がついてネロは驚愕と共に短く叫んだ。
落下する!
そう瞬時に覚悟を決めて歯を食い縛ったが、体にかかる重力は緩やかで、ほとんど飛ぶように滑空しているのがわかる。
――ただし本当にわかっただけで、その事実をネロの脳はすぐには受け止めてくれなかった。
「っな、なんッ、なんだっ!? 落ち……落ちない!? なんで!?」
「はははは! 使いやすくて魔力は無尽蔵、じつに素晴らしい体だな!」
戸惑いながら足元ばかり見ていたネロは伊織の声で伊織らしからぬことを言い放った口を見上げた。
表情は自信満々、眼下を見ているのかやや伏せた目は金色に仄かな青と緑が混ざっている。
いったい何事だろう、と思う前にネロは歯に衣着せるのも忘れて言い放っていた。
「イ、イオリ! お前、頭打ったのか!?」
「失礼な! 頭なんて打ってないよ!」
伊織は渦巻く風でドラゴンの羽のようなものを作り出すと、争い合う大カラスのいる赤土の山から一気に距離を取った。風の魔法で難なく空を飛んでいる。
それをやっと理解したネロの表情を満足げに見て、伊織――『彼』は言った。
「僕はニルヴァーレ。さっき君が放り投げた魔石さ!」





