第133話 契約の履行・不履行
ネロはそろりそろりと巣に近づく。
天敵に疎い雛たちは、目がまだ開いていないのもあってか――もしくは雛であってもネロと同じくらい大きいため天敵判定すらされていないのか、なんの反応を示さなかった。
ネロはこれ幸いと巣に近い木に手をかけ、そのままするすると登っていく。
(下のほうに枝もないのにどうやって登ってるんだろ……)
熱い頭にぼうっとしながら伊織はそれを眺めていた。
赤目の蛇を倒す際にリータが木を登っていった時のことを思い返す。恐らくこの世界の人々にとってはわりとポピュラーな技能なのだろう。
登ろうと思えばバルドやサルサムも簡単に登れる気がした。
(ミュゲイラさんは筋肉があるぶん少し登りづらそうだなぁ、あと――)
ヨルシャミだけは登れずに中ほどで落ちてしまいそうだな、と。
そう思ったのと同時に、トンネルでのヨルシャミの姿がフラッシュバックして眉根を寄せる。
バルドの時はなんとか堪えたというのに台無しにしてしまった。
伊織は深く考えてしまう前に気を逸らそうとするも、手は無意識にヨルシャミの契約の証である腕輪を撫でていた。
「……契約の証……」
契約が履行された時には消え去るはずだったもの。
なら、これを使用した魔導師が死んだ場合はどうなるのか。
不履行でも残るのか、否か。
ヨルシャミとニルヴァーレの授業の中でそんな話をしたことはなかったが、後世に遺すためではなく、契約のためだけに魔法により物体として固定された証なら不履行になれば消えてしまう気がした。
(なんの保障もないけれど、……きっとヨルシャミはまだ生きてる)
不安を払い除けながらそう心の中で呟き、伊織は腕輪を撫でる手を止めた。
その時、視界の端でネロが大きく両腕を上げて丸のマークを作ったことに気がつく。事前に決めておいた魔石発見の合図である。
「あった……!」
伊織は喜色を滲ませて自分からも片腕を上げて合図した。
ここからネロ単独でも奪取できそうなら魔石を引っ掴んでこちらに逃げてくることになっている。
伊織も駆けつけたいところだったが、人数が増えると見つかりやすくなるため致し方ない。
ネロは木から降りると次は巨大な巣に登り始めた。
木と違い登りやすいが、脆い素材で形作られている部分もあるため気をつけないと踏み抜いて大きな音を出してしまう。
伊織の目には天然物のボルダリングをしているように映った。
ふわ、と風が吹いて伊織とネロの頬を撫でる。
その風に血生臭い臭いが乗っているような気がして、伊織は思わず振り返ると周囲を見た。
「……!」
遠くを跳ぶ黒い影。
親の大カラスかもしれない。
あの距離から臭いが届くとは考えられないが、命の危機を感じ取った本能ならありえるのかも、と伊織は焦燥感を抱きながらネロに『大カラス接近』のハンドサインを送った。
しかし、よほど魔石が手を伸ばしやすい位置にあったのだろう。
ネロは伊織のサインに返事をしつつも素早く巣の内側へぶら下がると、そこにあった煌めくものを手に掴む。
その瞬間だった。
ぶわっ! と真下から吹いた風を背に受けて伊織は息を呑む。
赤土の山を真下から飛んで上がってきた真っ黒な大カラスの姿が真後ろにあった。
目元に傷跡があり、雛たちの親の大カラスとは別個体だと一目でわかる。
自然界では同種でさえ天敵になるのだ。
「よりにもよって……このタイミングで乱入するなんて……」
運とタイミングの悪さに伊織は思わずそう呟いていた。
傷持ちの大カラスの狙いは伊織ではなく同種の雛。
そして、その近くにはネロがいる。
親の大カラスが間に合ったとして、あそこで大乱闘を繰り広げられては目も当てられない。
「……ッそっちに行くな!」
伊織は以前ヨルシャミが調整した火の魔石を取り出すと、片腕で傷持ちの大カラスに投げつけた。
存外柔らかげな胸元の羽に当たった魔石はそのまま跳ね返るかと思えたが、物体に触れた瞬間に甲高い音をさせてその場から打ち上がる。
『ガァッ!?』
目の前で光が炸裂し、更には我慢しきれないほどの熱を持ったなにかが首元から嘴の横を通って真上へ昇っていったのを目にして、傷持ちの大カラスは声を上げた。
素早く大仰に跳ね退いて両翼を大きく広げる。
もちろん静止するためのポーズではなく、そのままパニックを起こした大カラスは翼を広げたまま暴れ回った。
伊織は瞬きをする。
ネロがこちらに向かって走ってくるのが見えていた。
傷持ちの大カラスが上がってきた段階で、伊織の危機に気がつき走り出していたのかもしれない。
「ネロさ――」
しかし伊織の体は暴れ回る大カラスの凄まじい風圧に吹き飛ばされ、もはや足元に地面はなかった。
ネロは間に合わない。
バイクもまだ再召喚まではもう少し準備が足らない。
このままどこかに掴まらなければ地上まで真っ逆さまだろう。
だが腕を伸ばせる範囲に掴むことができるものは何ひとつなかった。枯れ枝どころか枯草一本見当たらない。
――しかし、伊織は痛む肩を無視して両腕を前へと差し出した。
走ってくるネロの姿勢がおかしい。
それは魔石を投げようとしているのだ。
爆ぜる火の魔石ではなく、奪還したニルヴァーレの魔石を。
「……ニルヴァーレさん」
伊織は落下する。
それを追うように落ちてきた魔石は、どこからともなく吹いた追い風に押し出されて伊織の手元に収まった。魔石をしっかりと両手で受け止めた伊織は名前を呼んで無根拠に安堵する。
その瞬間、周りの景色の色が反転し、変異した瞬間からびしりとヒビを走らせて壊れそうになりながら――世界の時間が止まった。
「……え?」
これはどう見ても風属性の魔法ではないのでは。
そんな疑問を更に増やすように、なぜか頭の両左右に手が置かれる。
ここは空中だ。岩肌も遠い。だというのに、まるで当たり前のように置かれた手の先には陽光を反射して輝く金色の髪と二色に分かれた美しい瞳があった。
ニルヴァーレは伊織を真上から見下ろして言う。
夢路魔法の中のように、どこか悠然とした態度で。
「さあ、イオリ。僕に許可をくれないか!」





