第127話 三つの道にて
初めはなにも起こらなかったように思えた。
しかしどこからともなく風が吹き、それが濡れた頬を撫でて伊織は水面から顔を上げる。未だ洞窟の中だというのに、平野を駆ける優しい風のようだった。
風は伊織たちの周りをくるりと舞い、ふたりと一匹を守るように頭を保護して酸素を届ける。
自然界ではありえないもの。
それこそが、この風がニルヴァーレの手によるものだという証拠だ。
魔法による風は無から生じているように見えるが、それは魔力が姿を変えたものである。酸素も同じように発生しているのか、もうほとんど水と岩肌しか存在しない空間でも息が吸えた。
暗い道を流されながら、それでも傍にニルヴァーレがいる気がして伊織は状況に似つかわしくない安堵感を感じる。
いや、実際に魔石としてニルヴァーレは伊織の傍にいるのだ。
(……ありがとうございます)
今度はちゃんと自分の口で伝えよう。
そう決心しながら、今は心の中だけでそう呟いた。
なにがどうなっているのかわからない、そんな顔をしているネロの手を引いて水の中を流され続ける。
ふたりはついには水で満たされ顔を上げる隙間のない道に入り込み、互いにどうにかこうにか離れ離れにならないようにしながら冷たい闇の中を進んでいった。
水中だというのに辛うじて呼吸ができるというのは不思議な感覚である。
しかし呼吸はできるものの、手足からはどんどん体温が奪われていく。
流れる水の先がどうなっているのか見当もつかないが――伊織たちにできるのは、今の状態のままひたすら耐えることだけだった。
***
静夏はバルドを瓦礫の隙間から助け出し、念のため彼を背負って移動していた。
その最中もバルドは頭痛を訴え続けている。
「すまない、耐えてくれ。村まで戻れば医者が――」
「あー、いや、多分痛いのは今だけだから気にしないでくれ。こっちこそすまない。これは久しぶりに頭をやられたからだな……でも全部じゃないか、虫食いすぎる。明瞭じゃない。とにかく今の損傷だけでも早く戻れ、この……、……」
む? と静夏は眉を僅かに寄せる。
そして「もしやこれはうわ言の類ではないだろうか」とすぐに思い至った。
もしくは意識が朦朧としつつあるのか、どうにもバルドがなにを言っているのかわからないところがある。
バルドを助け出した際に簡易的に確認したところ、体にも頭にも傷はなかったが、暗い中でもわかるほど彼の服は血で汚れていた。
髪を束ねていた紐は解けてしまい、今は銀髪を流れるままにしており、その銀色すら赤色で汚れている。
そして気になるのが彼が倒れていた場所におびただしい血痕が残っていたことだ。
しかし人間があれだけ出血すれば命はない。
恐らく魔獣のものだろう、と静夏は結論付ける。魔獣も塵となり消え去るまでは血痕が残るものだ。
(だが、外傷がなくとも頭を打ったのなら油断ならない)
会話を続けて意識を保ってもらったほうがいい。
そう判断した静夏は足を進めながらバルドに語りかけた。
「……昔、頭を打って記憶を失った主人公が、再び頭を打って記憶を取り戻したという話を読んだことがある。バルド、もし頭を打ったのならなにか思い出したことはないか?」
「思い出したこと?」
「ああ。記憶喪失だと言っていただろう」
あー、とバルドは再び間延びした声を漏らした。
まるで寝起きに少し難しい質問された人間のような反応だ。
バルドは静夏の背で揺られつつ、遠くを見るように目を細めて口を開く。
「そうだな……うん、ちょっと気づくことはあった」
「ほう」
「ただ仮説の域を出ないし、情報が穴ぼこすぎるんだ。確信を持ってから言いたい」
「それは残念だな」
多分なにも面白いことはないぜ。
そう言いながらバルドは揺れに身を任せ、そして小さく肩を揺らして笑った。
「なんだ?」
「なんか、おんぶって懐かしいなぁと思ってさ。される側の話じゃないんだけど」
記憶喪失なのに感じる懐かしさ。
なんとなく選んだ話題だったが、本当に記憶でも戻ったのだろうか。静夏がそう考えていると、バルドが続けて言った。
「伊織は――」
「伊織は?」
「ネロ……そう、ネロと左手の道に放り込んだ」
巻き込まれていないかどうかはわからない。
今の状態のバルドの言葉だと信憑性に欠ける。
しかし一番間近にいた人物からそう言われ、静夏は泣きたくなるほど安堵して胸を撫で下ろした。
仲間は全員心配だが、息子の安否を聞くと勝手に涙腺が反応してしまうのは今も昔も、そして世界を跨いでさえも母だからだろう。
バルドは直近の記憶だというのに、遥か昔のことを思い返すようにしながら言葉を続ける。
「サルサム、……サルサムたちは? どうなった?」
「……サルサムはリータやミュゲイラたちと反対側の道に進んだ。ヨルシャミの状態が芳しくないため先に街へ向かってもらっている」
「そうか、ひとまずは無事でよかった。……よし、静夏、止まってくれ」
バルドは静夏に足を止めさせると、背中から降りて自分の足で地面に立った。
胡乱なことを言っていたというのに不思議とふらついておらず、しっかりとした立ち姿だ。
そのままきびきびとした動きで出口に向かって歩き始める。
「もう大丈夫、自分で歩ける。早く村に戻ってこれからどうするか検討しよう」
そう言うバルドはどこか別人のように、しかしどこか見知ったままの人物のように思えた。
そして暗いからこそ見間違えたのだろうか、血の汚れも思っていたより随分と少ない。それこそ魔獣の返り血だけに見える。
落盤が起こる前のバルドの様子はどうだったろうか、と静夏は思い返そうとしたが――今労力を割くべきはそこではない、と思い直す。
同じ顔、同じ声のままだというのに僅かな違和感が拭えないが、しかし確かにバルドなのだ。
静夏は数歩で彼の隣に追いついて歩み始める。
「……わかった」
そして、短く答えて頷いた。
***
ミュゲイラは明るい光に目を細めて空を仰いだ。
トンネルの暗さに慣れた目には眩しいが、足は止めずに街に向かって歩き続ける。
その腕に抱かれたヨルシャミは頭部に布を当てた状態のまま未だに意識を失っていた。頭部は負傷すると出血量が多いため傷の重傷度を見るのは難しいが、意識が戻らないというのは最悪の状態だろう。
呼吸はしているが少し音がおかしい。
姉の隣を早足で進むリータはヨルシャミの腕がだらりと垂れているのに気がつくと、そっと胸の前で組むように持ち上げた。
「走りたいとこだが衝撃は与えないほうがいいよな……リータ、街はトンネルを抜けてから近いのか?」
「うん、徒歩だと三十分くらい。お姉ちゃんの歩幅ならもう少し早く着くと思う」
「ならあたしとサルサムはこのスピードのまま進むから、お前は先に街まで走って医者の手配をしといてくれないか?」
サルサムが「俺がヨルシャミを抱えてお前が走ったほうが早いんじゃないか」と提案したが、ミュゲイラは首を横に振った。
「こいつひとり抱えて歩くのはサルサムにもできるだろうけど、衝撃を抑えて歩くのって難しいだろ」
たしかに歩行の仕方が異なる。
加えて短時間というわけではなく、筋力と体幹共にしっかりとしているミュゲイラのほうが適任だ。
サルサムは音を殺して歩く方法は知っているが、それは単独での行動に限ったこと。今ここで活かせるものではなかった。
それに、とミュゲイラは笑う。
「リータの健脚はあたしより凄いんだ、長い距離を早く走るのにも向いてる」
「……なるほど。じゃあせめてミュゲイラの荷物は持とう。あともし体力が切れたら回復する間は代わってくれ、それくらいの間ならお前の真似事くらいはできる」
「ああ、そん時は宜しく!」
リータもミュゲイラに頷いた。
「じゃあ伝えに行ってくるね。……お姉ちゃんも無理しちゃダメよ」
ミュゲイラは敢えて明るく振る舞っているが、マッシヴ様と離れ離れになった上に自分のせいでヨルシャミに怪我をさせたと思っている。
リータはそんな姉の心情を思って両耳を下げたが、ミュゲイラは「大丈夫」とゆっくりと言った。
「姉御がいなくてもなんとかしてみせる。こんな時にぴーぴー泣きついてたら、あたしはあたしが許せなくなるからな。……ヨルシャミも絶対に助ける」
「――うん、絶対に!」
リータはミュゲイラ、ヨルシャミ、サルサムを順番に見ると、背中を向けて街へ続く道を走り始めた。
なんとしてでも姉たちと共にヨルシャミを救うために。





