第122話 伊織の親
薬草採りを無傷で達成。
子供を助けても難なく無傷。
――だというのに伊織は最後の最後、宿屋の前で躓いて転んでしまった。
「……俺も人のこと言えないけど、最後まで気を抜くなよな」
「す、すみません」
ネロの手を借りて起き上がり、埃を叩いてパトレアの待つ部屋へと向かう。
勝負もおしまい、且つ夕刻ということでヨルシャミとバルドたちは買い出しついでにミュゲイラとリータ姉妹を呼びに行っていた。
サルサムは採取した痛み止めの薬草が多かったらしく、別途薬屋へ余った薬草を売りに行っている。
ちなみにこの地方では山は『開かれた財産』のため、採取はやりすぎなければ近隣の村や街の許可はいらないそうだ。
ただし場所が違えばルールも変わるため、初めて行く土地の場合は訊ねてからのほうが無難だろう。無用なトラブルは避けるに限る。
静夏は村長の話を聞きに行ったまま戻って来ていない。
伊織たちは隣室のヘルベールに声をかけ、三人でパトレアの元へ向かう。
ノックをし、返事を待ってから室内に入るとパトレアは大人しく布団に包まっていた。頭しか出ていないので少しカメのように見える。
そこでようやく伊織はハッとした。
「パトレアさん、待たせてすみません。勝負の合間に必要な薬草だけ先に届けて薬にしてもらえばよかったですね……!」
勝負がどちらに転んでも人が喜ぶ妙案だ、と思っていたが細かなところに気が回っていなかった。
そう伊織が反省しながら慌てていると、パトレアは「いえ!」と首を横にゆるゆる振った。
「寝床を貸してもらえただけでも大きな恩であります、それなのに薬まで……」
だから気にしないでください、と言葉を重ねる。
恐縮しつつ伊織は出来立ての薬をパトレアに手渡した。
「そのままでも効果はあるらしいんですが、飲みやすいよう煎じてもらいました。何度も飲むと少し胃が荒れるかもしれないので、胃薬も入ってるそうです。これを朝と夕にどうぞ」
「ありがとうございます、お代は――」
「あっ、勝負に使わせてもらいましたし要りませんよ! それより早く治してヘルベールさんを安心させてあげてください」
伊織が部屋に入った時、ヘルベールはリラックスした様子など微塵もなくイスに座っていた。
きっとパトレアが心配で十分に寛ぐことができなかったのだろう。
そんな予想をし、伊織はヘルベールのことも気に掛けながら言った。
パトレアは早速薬を飲み、口の中から食道までスースーするのか馬の耳をぴんっと立てて目を瞬かせた。
そこでなにかに気がついたヘルベールがハンカチを取り出す。
「失礼。肘が少し擦り剥けている」
「えっ、うわっ、ほんとだ!」
痛みがなく気がつかなかったが、恐らくさっき転んだ時にできたものだ。うっすらと血が滲んでいる。
ヘルベールはそれをハンカチで拭い取った。
「ありがとうございます、後で処置しておきますね。ハンカチもすみません、これも後で洗って……」
「いや、そこまで気にしなくていい。――お大事に」
そう呟くように言い、ヘルベールは赤い染みのついたハンカチを畳んでポケットにしまった。
***
薬はよく効き、あれからもう数時間休んでからパトレアとヘルベールは宿屋から去っていった。
時刻はもう夜中。
泊って行ってもいいのではと誘ったが「先を急いでいるので。遅れを取り戻さなくてはなりません」と丁重に断られた。
遠回りになるが、ふたりはトンネルを通らず隣の村へ向かうらしい。
「大丈夫かなぁ……」
「だいぶ顔色も良くなっていた。そう心配するな、伊織」
母親の言葉に伊織は小さく頷く。
病み上がりで夜道の移動は心配だが致し方ない。いくら一度は助けたとはいえ、過干渉は良くないものだ。
そう自分に言い聞かせ、伊織は去っていくふたりを見送った。
「――トンネルの魔獣についてだが、正式な討伐依頼を受けた。ただ今回は少し手間取るかもしれない」
見送りの直後、男性陣の部屋へ集まった一行は静夏が村長から聞かされたという話に耳を傾ける。
トンネルに巣食う魔獣は蝙蝠型で、前に伊織たちが洞窟で出会ったものと違い、更に大型で群れを成しているのだという。姿形もあの時とは違うようだ。
まだ誰も襲われていないが、それは襲われていないことで習性や特性などの情報がまったく得られていないということでもある。
それだけなら今まで道すがら対峙してきた魔獣や魔物の一部も同じだが、今回は場所が良くない。
「ふむ、なるほど。蝙蝠たちは天井に爪を食い込ませぶら下がっているが、その重みでトンネル自体が脆くなっている可能性があるのか」
「ああ。加えて先月に大雨が降ったらしい。沁み込んだ雨水でそこかしこ傷んでいたので補修を、と考えていた矢先だったようだ」
性質上、静夏の攻撃は衝撃が大きい。
衝撃を一点に集中させる技も編み出したが、それだけで対処は万全と言うには色々と未知数すぎる。
「トンネルは慣れてない奴が通ると迷子になるって村人から聞いたけどよ、これはマジなのか?」
バルドの問いに静夏は頷いた。
「迷路のように数多と枝分かれしているわけではないが、それでも道は多い。そのため村長が案内人を付けてくれるそうだ。……ヨルシャミよ、未だ目は良くならないようだが……明日にでも出発し、魔獣の対処に当たりたいと思っている」
「確認などせずとも大丈夫だ。それにあのトンネル、村の者たちも流通に使っているのであろう? 長々と通行止めをしていてはメリットはなにもない。さっさと倒してしまおう」
「頼もしい言葉だ」
静夏は表情を和らげて頷き、そして伊織の隣に緊張した面持ちで座っているネロを見た。
ネロは自分がここにいていいのかわからないといった顔だ。
「ネロはこれからどうするつもりだ?」
「……お、俺は……」
ネロは銀色の瞳のほとんどが瞼で隠れるほど俯いて視線を落とし、そして息を大きく吸って言った。
「――許されるなら、今回負けた相手にもう一度再戦を挑みたいと思っている。けどそれは今すぐじゃない。今よりもっと修行を積んで、強くなってからだ」
「ああ、準備ができたと思ったらいつでも挑むといい」
海原のように広く頼もしい言葉だった。
ネロは静夏をそっと見上げる。
こんなにも肯定し受け入れてくれる『親』という存在が心から羨ましい。
もし、もしも自分の両親がこんな言葉をくれる人だったら。
価値観が衝突せず、異なる意見でも否定せずに耳を傾けてくれる人だったら。
そこまで考えてネロは思考を散らした。
無いものねだりは今はしたくない。
それでもほんの少し、ネロは伊織になってみたかった。
「手始めに大きな街に行って、修行の足掛かりを探したいんだ。だから俺もトンネルを通って行くことになると思う。だから、ええと、その……」
静夏はネロの言葉の続きを待つ。
圧はなく、ああ見守られているのだと理解したネロは不意に泣きそうになったのを堪えながら言った。
「後学のために魔獣退治に同行させてもらってもいいか?」
どうにかこうにか絞り出すようにそう訊ねる。
静夏は悩むことすらせずに「もちろん歓迎する」と即答した。
「宜しくお願いします、ネロさん!」
「……ああ」
やはりこの世にこんな母親がいるなんて信じられなくて、羨ましい。
羨ましく、そして妬ましい。
なぜか隣で笑みを浮かべる伊織の方を見ることができず、ネロはまだ戸惑っている様子を装いながら、小さな声で短い返事をした。





