第1074話 世界の神への提案
「世界の穴は閉じられました。今後自分たちのような前世の記憶や神に与えられた力を持った転生者は現れません。これを前提に聞いてください」
伊織は赤黒い空間で言葉を交わしたフジの姿を思い返しながら言う。
フジは一見してグロテスクにも思える空間であっても伊織のためにテーブルとイスを用意し、優雅に腰掛けると今度は湯呑に入ったホットミルクを振る舞いながら話を聞いた。
——なお、前に振る舞われたのはティーカップに緑茶である。
今回の湯呑は緑茶のほうがいいですよ、と指摘するのは野暮だろうと伊織は黙ってそれを飲んだが、存外飲みやすかったため内側へ戻ってきてから何度か試している。
何度も相槌を打ちながら伊織の頼み事に耳を傾け――世界の神からすれば頼み事というより『提案』だと感じられた、と笑って返したフジは快諾した。
そうして伊織は再び帰還したのである。
前回とは異なり狭間で長時間過ごしたわけでもないため、内側の世界では二日ほどしか経過していなかったおかげで準備も滞ることがなかったのが幸いだった。
伊織は全員に聞こえるように話を続ける。
「僕は世界の神にひとつの願いごと……提案をしました。それが、前世の故郷である世界にまだ残っている魂があったらこちらに迎え入れてほしい、というものです」
「く……腐って死んだ世界の、ですか!?」
そんな声が上がったが、口にした者は家族らしき人に軽く叩かれていた。
前世とはいえ記憶を地続きで持った救世主にとっては今も故郷は故郷。
そんな場所に対して言うには不謹慎だろうと思ったらしい。
伊織は怒るでもなく頷くと「外側と内側では時間の流れが異なるので、恐らく故郷の人たちはまだなにも知らずに生きている可能性が高いんです」と言った。
「内側が腐り果てるのは人類の感覚からすると恐ろしく先のことになりますが……世界の神曰く、世界が内部まで死にきったら輪廻の輪もなくなって魂はそのまま消えてしまうんだそうです」
「そんな……」
「これもいつか来る終わりです。けれど手を差し伸べられるなら、僕は助けたい」
魔獣に対してまで手を差し伸べた伊織は故郷の人々も可能な限り救いたかった。
肉体を丸々転移させる方法は転移者という前例があるものの、転生方式よりフジへの負担が大きい。それを全人類分など不可能である。
だが、魂だけならそれよりも多くの数を受け入れることができるとフジは言った。
「まずは世界を繋ぐパイプのようなものが必要になるだろう、という話になったのでこれは僕がなんとかします」
「なんとかします……って、そんなことまで可能なんですか!?」
「あはは、これから可能にできるよう試行錯誤するって感じですね……でもこういう目標に向かってなにかをするのは慣れてるので」
大丈夫です、と伊織は断言する。
そして人々が納得するように説明を続けた。
腐った世界でも魂自体は侵されていないため、双子の兄弟姉妹から輸血をされるようなもの。
受け入れた魂はこの世界に属するようになる。
前提として話した通り、伊織たちのように特殊な力や記憶はない。
肉体を得るのも世界の神が用意するのではなく、こちらの輪廻の輪に混ざってから順番を待つことになるということを。
それらを話し終えてから伊織は再び頭を下げた。
「独断で決めてしまい申し訳ありません。受け入れることでこの世界の環境に影響はないと世界の神も言っていましたが――いつか、あなたたちの子孫や大切な人の子孫の魂が僕の故郷の人たちになるかもしれない。だから話すべきだと思いました」
こればっかりはこの世界の人たちに明かさないのはフェアではないと伊織は感じていた。
もちろん事実を受け入れやすくするために神聖視を利用しようという小細工はある。つまり誠実な気持ちのみではない。
そんな罪悪感を持ちながら伊織は言葉を続ける。
罪悪感を抱いても利用するなら最後まできちんと利用するべきだ、と思いながら。
「僕は世界の神にとっては病んだ原因になった世界の一端です。けれど世界の神は自分の中にいる生き物に接するのと同じように愛情を向けてくれました。僕はそれに応えたい」
「……せ……世界の神は我々を愛してくださっているんですか?」
思わずといった様子で零れた質問はもう誰の口から発されたのかわからない。
しかし離れていてもその声を拾った伊織は微笑んで頷いた。
「善悪すべてを問わず愛してくれてますよ、……さすが神様ですよね」
人々はざわめきながら言葉を交わしている。
世界の神は内側へ降臨することはできないが、それでも人々を愛していると間接的に伝わったのだ。シェミリザのような感情を抱く者もいたかもしれない。
しばらく世界の神の話題で持ちきりになった後、その話は伊織の提案について移行していった。
それを耳にした伊織は心臓が跳ね上がるような気持ちだったが、ひとつも取り零さずに聞き取ろうと黙って耳を傾ける。
「独断っていっても俺たちは神様のところに行けないしな……」
「でも事前に相談とかさ」
「気軽に行き来していい所じゃないだろ」
「まぁ難民を受け入れるようなものだし良いんじゃないか? しかも世界の双子みたいなとこなんだろ」
「そもそも魂かどっちのか判別なんてできないんだよね? 血が繋がってるなら中身は気にしないわよ」
「というか……魂ってあったんだ」
――魂の存在自体は高位の魔導師の間ではポピュラーだが、そもそもヨルシャミたちのように目で見ることができる者は稀少だ。
一般人には存在自体を意識したことがない者も多い。
物に魂が宿ると考える、冥福を祈る、現世の行ないが悪いとヒトに生まれ変われない、といった文化はあるが、それとはまた別の話だった。
それを失念していた伊織はもっと噛み砕いて伝えるべきだったかと慌てたが、すぐに別の声が聞こえてくる。
「よくわからないことも多いけれど、イオリ様がああ言うなら異論はないわ」
「あの人は俺の母さんを助けてくれたことがあるんだ、信じられる」
「神様の代弁者で救世主な人を疑うのもね……」
「うちも前に橋が壊れた時に力を貸してくれたぞ」
「村に魔獣が出た時にすぐに倒してくれたわ」
「困ってる人を見捨てられない人なんだよ、多分」
信じよう。受け入れよう。
そんな言葉が聞こえる。
ああ、と伊織は目を丸くした。
神聖視はされている。住民の大半はそれを軸に納得していた。
しかし中には伊織個人を見て頷いている人も存在している。
それもひとりやふたりではない。集中し、風の魔法で声を丁寧に拾いながら伊織は胸が締め付けられるような感情が湧いて唇に力を込めた。
その唇を解いて言葉を発する。
「……ありがとう、ございます」
受け入れてくれた人々は伊織にとっての救世主だ。
そんな救世主全員に言うように、伊織は一音ずつ気持ちを込めて礼を述べた。





