第1066話 予知のはじまり
長く生きるからには、体だけでなく心も健康に保っておきたい。
それがペルシュシュカの信条だ。
信条に従って今まで無理な仕事はせず、私欲を満たすためか纏まった金が必要な時にのみ少しだけ無理をした。
その特大の無理が伊織の捜索開始からミッケルバードの一件までだったが、これから行なおうとしていることはそれに匹敵するなとペルシュシュカは思う。
顔には出さない。
このお人好しの救世主は軽く頼んでいるように見えて、実際のところは迷惑と負担をかけることを心底気にしているとペルシュシュカは気がついていた。
いじわるをしてやろうという気持ちの時なら揶揄ってもいいが、まぁ今はいいか、という気分だ。
――初めはリータとサルサムたちの目的がどのように着地するのか気になり、見届けたくて同行した。
それが今では伊織のやろうとしていることも気になっている。
個人としても伊織を気に入っており、さすがあのシァシァを骨抜きにしただけあるわねというのがペルシュシュカの感想だ。
だからこそ今回も最後まで付き合ってあげるか、と早い段階で観念している。
それでも女装を目一杯楽しんだのは――それはそれ、これはこれ。
なにがあってもオイシイ機会は逃さないぞというペルシュシュカの健康法である。
伊織の心の健康はさておき。
占術魔法による予知は予言と同じく専用の下準備を行なってから実行する。
これを行なわないとノックバックが恐ろしい。
遠い遠い未来を見るなら尚のことだ。一見無意味に見える下準備はすべてこのノックバックを和らげるためのものである。
それを伊織、そして伊織の呼び出した人型のリーヴァがせっせと手伝い、夜遅くにようやく完成した。
途中でインスピレーションを得たペルシュシュカに「これもアタシの集中力が高まるからヨロシク!」とリーヴァとお揃いのメイド服を着せられた伊織が唸るという珍事もあったが、それを知っているのはペルシュシュカとリーヴァだけだ。
「――さて、準備できたわね」
魔法の籠められた香炉や香り、魔石飾りの配置、予知の時専用の壁紙と床材、重たい遮光カーテン、完璧な人払い、床に描かれた手製の魔法陣。
それらに不備はない。
「これ、本来なら前日から専用の食事を取ったり薬湯に入らなきゃいけないから、次は数日前から教えといてちょうだいね。結構面倒なのよ」
「……! わかりました」
「それじゃ始めましょっか。……そうそう、アナタにひとつ役目をあげるわ」
役目? と首を傾げる伊織にペルシュシュカは優雅な仕草で微笑んだ。
「予言と違ってアタシの意識が飛ぶと思うんだけど……暴れそうならそこの箱に入ってるものを自由に使ってちょうだい。今から付けてても良いけど上手く書きつけられなかったら困るから」
ペルシュシュカの占術魔法は予言の場合、呼び出した光が星の動きを再現して暗い部屋に宇宙を投影する。ペルシュシュカがその動きを読んで解釈を加えて文章にするのが流れだ。これは召喚魔法に近い。
予知の場合は意識を失った状態――つまり一種のトランス状態になり、ペルシュシュカは直接未来を見ているような感覚でこれから起こる光景を知るのだという。
その間、現実では手が自動的に動いて未来に関わる事柄を文字で書きつけていく。
それを目覚めたペルシュシュカの記憶と合わせ、鮮明な未来予知をするといった寸法だ。
ただし未来があまりにも悲惨で精神的なダメージを受けた場合、トランス状態に陥っている肉体が勝手に暴れる可能性がある。
これを伊織に防いでもらおう、ということだ。
箱の中には猿轡からその他の拘束具まで様々なものが収まっていた。
「昔ちょっとエグいの見た時は思いきり舌を噛んじゃってね。それを見た依頼人が料金を上乗せしてくれたから良かったけど、しばらく食事の時間が地獄だったのよ」
「っ……わかりました、もし怪我をしたら回復魔法で癒しますね」
「次回の女装でキワどいやつの追加も宜しく頼むわ」
「わか、……わ……ッ、わかり、ました」
よし! と手を叩いたペルシュシュカは小筆を手に取る。
普段は万年筆だが、予知の際はこちらのほうが乗りが良い。
その小筆に墨を染み込ませ、ペルシュシュカは魔法を発動させた。
真っ赤な魔法陣が背後に現れ、ふわりと舞った長髪の間から光の粒が現れる。
光の粒は部屋に散らず、そのままペルシュシュカの周囲をぐるりと回ると不意に彼の頭の中へ吸い込まれるようにして消えた。
刹那、半開きになったペルシュシュカの瞳から生気が失せ、同じように全身から力が抜ける。
右腕だけはしっかりと宙に浮き、小筆を構えたまま静止していた。
伊織は小さく喉を鳴らす。
一分がとても長く感じられ、このままペルシュシュカが動かずに終わるのではないかと思った瞬間、ぴくりと右腕が跳ねて半紙に文字を書き始めた。
素早く、しかし丁寧に、墨がなくなれば硯に筆を下す動作まで起きている時と遜色ない。異様な光景と相俟って惚れ惚れと見入ってしまうほどだ。
――彼の優美な動きが突如何者かに追われているかのように荒々しくなったのは、それから五分も経たない時だった。





