第1057話 役立たずな車輪でも
知能の高い魔獣は世界の穴が閉じてしまったことを理解しており、それ故に何年もの間ずっと絶望を感じながら生き永らえていた。
自分が通ってきた道が完全に閉ざされて引き返せない。
どうやっても帰れない。
そんな絶望感だ。
そもそも一度生まれ落ちたなら狭間――ひいてはその向こうにある真なる故郷へ戻ることなどできないが、すべての魔獣にとって『帰りたいのに帰れない』という感情は恐怖の象徴そのものであり、普通の感情よりも心を大きく揺さぶる。
この世界は楽になりたくて辿り着いた場所だ。
故郷にはなりえない。
そんな絶望感に耐えながら機会を窺っていた小さな魔獣がいた。
淡い灰色の体に薄い耳。
長い尻尾は鱗に覆われている。
尻尾以外の特徴はハツカネズミにそっくりで、サイズも同じくらいだった。
ネズミの魔獣はこう見えて頭が良い。
彼は長いあいだ人々を観察し、そしてこのベタ村にヒトの中でもずば抜けて『厄介な個体』がいることを知った。
世界の穴を閉じたヒトの中でも特に凄まじい動きをしていたものだ。
ネズミの魔獣はミッケルバードでの戦闘中に生まれ、海の向こう側を目指す鳥型の魔獣に便乗した時のことを思い返す。
道中でヨルシャミや伊織のことを見かけ、こうして記憶していたのだが――もしこれから再び世界の穴が開くことがあれば、彼らが障害になることは想像に難くない。
自分たちはこうして取り残されてしまったが、それでも世界を侵す本能に従って最期まで足掻いてやる。
そんな一心でネズミの魔獣は伊織たちを秘密裏に監視し続けた。
幸いにも自身は魔獣の出涸らしのような矮小な存在であり、接近を気取られることはほとんどなかった。もちろん危なかったこともあるが上手く回避してきたのだ。
だから今日もきっと大丈夫だ、とネズミの魔獣は自分に言い聞かせる。
この日のために色々と準備をしてきた。
まず、この緑髪の個体は妊娠している。
生物は出産の際にとても無防備になるものだ。
加えて周囲の同族もそちらへ集中する。これはヒトに顕著な特徴だ。
襲撃にはもってこいのタイミングだった。
そのためにネズミの魔獣は生き残りの同族を訪ねて回って戦力を集め、合図するまで見つからないように近場で息を潜めろと指示して回ったのである。
猪と狼の魔獣は眷属もおり、戦力としては申し分なかった。
だが、すべて任せきりというわけにもいかない。
矮小な魔獣なりにプライドというものがある。
そこで厄介な個体へ直接手を下すべく、ネズミの魔獣もここまで出てきたわけだ。
それは敵の懐の中――厄介な個体が住む家屋の一室だった。
緑髪の個体が孕んでいるのは黒髪の個体の子供らしい。
厄介者同士の子供は今後の大きな障害になるだろう。
ここで同時に始末できれば、己の命が潰えてもこれからの同胞のためになる。
そうネズミの魔獣は浅い呼吸を繰り返して苦しむ緑髪の個体――ヨルシャミに近寄り、ソファへとよじ登った。そして手すりの位置へ乗ると、メキメキと顎関節を割いて口を大きく開く。
戦闘能力は皆無だ。
しかし窮鼠猫を噛むというように、なにもできないわけではない。
捨て身覚悟で不意をつけば頭蓋骨くらいは砕けるだろう。
数分かかるかもしれないが、今の敵の様子ならやり遂げられる。
そう確信し、ネズミの魔獣はヨルシャミの頭部目掛けて大きな口を突き出した。
***
バルドは日に何度も抗い難い眠気に襲われる。
その頻度は段々と減っていたが、起きている間もぼんやりとすることが多かった。
様々なものが目に見えているのに脳にモユがかかったように理解が進まないのだ。
例えば目の前にスプーンがあるとする。
スプーンがあるな、と感じ、それがなんのためのものか知識として知ってはいるが、ではそれで自分がどうすべきかというところまで思考が発展せず萎んでしまう。
だからこそ手に握らされても力が抜ければ落としてしまった。
その時も「スプーンが落ちたな」と理解はしていたが、しかしそれまでだ。
階段を上れない車輪のように延々とそこで空回っている。
なにか後押しがあれば乗り越えられるというのに、そんなバルドの背を押せる者はいなかった。
「……」
目前で苦しむヨルシャミ。
その間近に魔獣が接近しているのを目にしている今も、だ。
ヨルシャミが苦しんでいるのはわかる。
なぜ苦しんでいるのかは予想しようにも途中で思考が霧散した。
そんな彼の近くに魔獣がいる。魔獣がなんなのかはわかっている。危険性も知識としてはある。
しかしこれからなにが起こるのか、そこまで想像が至らない。
――イスに腰かけ、ただぼうっとその光景を眺めていたバルドは心の奥底にじりじりと焦げ付くような感情を感じた。
言語化が追いつかない感情だ。
これはなんだ、と久しぶりに疑問が湧いた。
狭間ではよく感じていた疑問だが、ここへ来てからは初めてかもしれない。
それは何故なんだろう。そう再び疑問が湧く。
こうして何故、なに、どうしてと疑問を抱くのは僕の専売特許だったじゃないか。
そう自嘲じみた考えが続けて湧いた。それも久方ぶりのことだった。
(ヨルシャミ……)
大切な仲間。
魔獣に襲われれば死んでしまう。
だというのに――何故。そう、何故自分はなにもせずに見ているのだろう。
バルドはそう思い至ったが、手足はぴくりとも動かない。
仲間が死にそうなら助けるべきだ。
助けたい。だというのに動けない。
何故。
何故。
何故。
そう何度も頭の中で叫んでいると、聞き慣れた声がした。
「僕が」
「……」
「僕が起きるほど回復したんだ。あともう一押しじゃないか」
「……」
嫌というほど聞いてきた声だ。
そして、これからはもう聞けないのだと、消えゆく側の立場で考えたことをバルドは思い出す。
瞬間的に今のような状態に陥った原因も理解した。
声が言うようにあともう一押しなら、今すぐにでも自力で飛び出して行きたい。
だというのに指先がぴくりと動いただけでやきもきしていると、声がため息をつきながら言った。
「ああ、――そのもう一押しをするのは僕の役目か。困ったね、自分の背を押すなんて柄じゃないんだけど」
そんなの今更か。
そう笑ったのはオルバートだった。
声と共に背中をトンッと押される感覚があり、バルドはイスから前のめりに落ちそうになる。しかし床に激突する前に強く踏み込み、背中に確かな感触の残滓を感じながら跳び出した。
今まさにヨルシャミの頭に齧りつかんとしていたネズミの魔獣がぎょっとする。
バルドはそのまま自ら右腕を魔獣の口に突っ込む形で殴り飛ばした。
魔獣も負けじと腕に噛みつくが、血が流れてもバルドはまったく怯まない。
そして。
「お、――ッれ、の……仲間に、なにすんだ!!」
バルドはそのまま魔獣の首を床に押し付け、渾身の力を込めた拳を振り下ろした。





