第1056話 まるで狙いすましたかのような
「大丈夫か、ヨルシャミ」
「む、来てくれたかシズカよ。しかしこの衝撃……もしや魔獣でも出たのか?」
痛みが遠のいたタイミングで体を起こしていたヨルシャミはびりびりと震える窓を見ながら静夏に問い掛ける。
まるで外でゾウがタップダンスでもしているかのような振動だ。
静夏はヨルシャミを不安にさせないため、そして無理を押して出ていって魔法を使うのを控えさせるため「ミュゲがぬかるみで転んだ」と言おうとしたが、すんでのところで信憑性が薄すぎることに思い至って口を噤む。
そんな姿を見てヨルシャミは笑った。
「心配せずとも魔獣が出たからといって飛び出して行ったりはせん。足を引っ張るのは明白故な、子供の保護を任されたと思って隠れておこう」
「そうか……よかった、ミュゲが転んだことにしようか迷っていたんだ」
「それは一瞬信じてしまいそうであるな」
真顔で言ったヨルシャミに静夏は意外と効果があったかもしれないと思い直したが、この場に伊織がいればツッコミを入れたであろうことは明白だった。
しかしあっという間に振動が激化し、猪と狼の鳴き声が四方からこだまする。
今の伊織たちなら魔獣を相手に立ち回ることは難しいことではない。
ただしここは村の中。建物や住民に危害が及ばないよう配慮しながら数にものを言わせた敵を撃破することに手間取っているようだ。
そわそわしている静夏の背をヨルシャミが押す。
「村人が気になるなら行け。ここはミッケルバードではないのだ、イオリらも地形が変形するような大技は使えん。手加減しながら立ち回るのは大変だろう」
「だが……」
「幸いにもまだ痛みの感覚は広い。今は落ち着いている」
むしろこの隙にさっさと行ったほうがいいぞ、とヨルシャミは言い重ねた。
前駆陣痛から本陣痛が始まるまでは個人差がある。
だからこそ静夏は余裕を持って待機していたが、ヨルシャミとしては『だから今のうちに行ってくれ』と考えていた。
静夏はしばらく迷っていたが、この迷っている間も時間を無駄にしていると考えて頷くと「すぐに戻る」とヨルシャミの肩にブランケットをかけて家を飛び出す。
ふう、と息をついたヨルシャミはしばらく座ったまま様子を見ることにした。
棚の上には伊織が作った時計がある。
ベタ村では未だに日時計が主力であり、伊織たちも正確な時間に縛られない生活に慣れていたが、お産が近いならひとつくらいあったほうが良いだろうとナレッジメカニクスで学んだ技術と出力魔法を合わせて自作したのだ。
電池の代わりに魔力塊を入れてあるため、時計としての役割りを果たすだけなら向こう百年は使える優れものである。
(今の痛みの間隔は……不定期ではあるが、凡そ十分くらいか? たしかステラリカは楽な姿勢でいいと言っていたな……)
ベッドに移動しようとも考えたが、寝室は窓が大きいため屋外の状況を考えるとリビングのほうが安全だろう。
そう判断し、ヨルシャミはソファに座ったままブランケットに包まる。
リビングには食事用のテーブルとイスがあり、そこにはバルドが座っていた。
普通のイスではずり落ちやすいため、彼専用に作ったロッキングチェアのようなイスである。腰が痛い時はヨルシャミもよく世話になっていた。
さすがにあの状態のバルドに助けを求めるわけにはいかない。
むしろ、いざという時は自力でバルドごと家から脱出せねば、とヨルシャミは覚悟を決めておく。
そうしてしばらく耐えていると――外からひと際大きな振動を感じた瞬間、ヨルシャミはぎょっとして足元を見た。明らかにそれとわかるほど破水している。
血でなくて良かったと一瞬安堵したものの、次なる問題が大きすぎる。
「妊娠期間だけでなくこの状態に至るまでも早いのか!? いや、元よりそういうものか、おのれ……!」
眉根を寄せたヨルシャミはずるずるとソファに横になった。
まだ生まれるまで時間はある。だが細菌感染の危険が出た上、そもそも適切なタイミングの破水ではない可能性も残されている以上、早くステラリカを呼び寄せたほうがいいとヨルシャミは考える。
しかし、ここから自力で移動はできない。
(本来なら緊急時は一時的に村医者が来ることになっていたが、このような状況では難しいな)
細く長く息を吐きながらヨルシャミはブランケットを握り締めた。
恐らく村医者もベルのもとへと避難している。無理に呼び寄せれば魔獣の餌食になってしまうだろう。
せめて伊織たちに現状を知らせられれば対応の選択肢が増えるのだが、魔法を使えない以上それは難しい話だ。連絡用魔石もある程度の魔力を食う。
(ウサウミウシは……ええい、健やかな寝顔をしている!)
ウサウミウシは幸せそうにしっかりと熟睡していた。
平和の化身である。
そもそもインカム等を用意していても良かったというのに、常に誰かが家にいる状態にしているし、いざという時は村医者が来てくれるから大丈夫だと簡単に却下したのが早計だったのだとヨルシャミは自省する。
魔獣の残党も数を減らしており、特に聖女マッシヴ様や伊織が拠点としているベタ村の周辺はそれが顕著だった。
ここに来てから見た魔獣といえば小型の弱いものが二体程度だ。
それ故に油断をしすぎていた。
(まさかこのような隠し玉があったとは。それにこのタイミング、まるで狙いすましたかのような……、ッぐ……)
唐突に歴戦の戦士でも耐えるのに苦労する痛みが湧き出す。
しかも耐えた経験の少ない位置からの痛みだ。
途中から女性になったヨルシャミも相応の生理現象はあり、慣れないなりに対処してきたが、痛みの度合いはその時の比ではなかった。
ヨルシャミは苦しみながら短い呼吸を繰り返す。
とたたた、と。
そこへ小さな足音が届いたが――外からの衝撃音に簡単に掻き消されてしまった。





