第1052話 その声に応えない道理が
なにもない空間にじりじりと金色の線が描かれ、やがてそれが魔法陣の形をとる。
あとは召喚対象を呼べばいい。
普段の召喚魔法は対象の種族や姿形、性質などを指定して呼び出すことが多いが、バルドに関してはより『特定の個人だけを呼ぶ』という面を強めるために彼の名前を呼ぶことにした。
伊織は召喚魔法を発動させ、狭間で待つバルドへと語り掛ける。
(バルド、聞こえるか? 迎えに来たよ、応えてくれ!)
――応答はない。
無差別なら第一候補が応じなければそこから近い場所にいる者や条件に近い者からランダムに選ばれる傾向にあるが、伊織は頑なにバルドだけを呼び続けた。
(バルド!)
召喚対象との絆を深めるために名付けを行なうことからもわかる通り、召喚魔法と『名前』の関わりは深いものだ。
だからこそ伊織は彼の名前を呼び続ける。
召喚魔法で呼び出される召喚獣の故郷は様々だが、ヨルシャミ曰くいくつかの決まった世界から呼んでいるという。
その世界を伊織はフジの外から観測することはできなかったが、他のレイヤーに存在している眷属のような世界だとフジにバルドの救出方法を話した際に説明された。
ウサウミウシやネコウモリは同郷だがリーヴァやサメたちは異なる世界の出身というわけだ。
そんなお得意先とも言える世界はすでに召喚に適した道が存在している。
長年召喚が繰り返され、フジに負担のない形で道が敷かれて定着したものだ。
新しく血管が作られる血管新生のようなものである。
しかし狭間は内側の世界から見れば異世界も同然だが、そんな召喚に適した道は存在しない。
伊織はそんな道を新たに作りながらバルドに語り掛けることになる。
(……だから声が届きにくいのか?)
あのような状態だとしてもバルドが応えないはずがない。
なら声が届いていないか、もしくはバルドが応えている声を伊織が拾えていないかのどちらかだ。
――バルドの精神が完全に死んでしまったという可能性は今は考えない。
それは最後まで足掻いてから初めて考慮すべき可能性だと伊織はわかっていた。
「……」
どれだけ呼び続けていたかはわからないが、自身の両足が震えていることに伊織はようやく気がつく。
召喚を始めてからそれだけ時間が経ったこと。
ニルヴァーレが時折動かしていたとはいえ少なからず体が弱っていたこと。
そしてバルドのことを想い、果てしなく大きな不安を感じていること。
それらを一気に自覚した伊織は挫けそうな心に鞭打って召喚魔法を維持し続けた。
後ろではヨルシャミとニルヴァーレが敢えて口を出さずに見守り続けている。
その眼差しを感じながら、伊織は遠く遠く離れた場所にいるバルドを。
(――父さん!!)
父を呼んだ。
***
とても長い間、赤黒い色ばかりを見てきた。
今も目に映る光景は同じ色に染まり、運良く視界に入った手は緑色に見える。
補色残像か、と無意識に考えられる程度の思考能力は戻ってきたが、それも日によってムラがあった。
この手より前に、なにか赤以外の色が付いたものを見た気がする。
一体なんだったろうか。
とても大切なものだった気がする。
バルドはそう思考を巡らせる。
思考は錆びついたというよりも――形の異なる歯車を嵌めてしまった時のように不自由な動きを強いられていたが、それもいくらかまともになっていた。
思考は『なぜこのような状態になったか』というものに移行する。
だが上手く思い出せない。
しかし、なにかとても大きな衝撃があったのはわかる。
まるで記憶喪失になった時のようだ、と思い至ったところでバルドは自我の枠に触れた気がして瞬きをした。
だが芋づる式に回復するものでもなく、疑問だけが降り積もってなかなか答えに辿り着けない。
そんな状態はバルドにとっては思考停止して漂流していた時の何倍も辛かった。
ここはどこだったろうか。
なぜ酸素もなにもかもないのだろうか。
どんな目的でここへ来たのか。
もしくは、どんな理由で来ることになったのだろうか。
そして――
(……約束をした気がする)
――そう思うのは何故なのか。
赤黒い色の中、孤独に漂いながらバルドがそんな疑問を新たに掴んだ時だった。
小さな声のようなものが聞こえたのだ。
音のない空間で聞こえるはずのない声は頭の内側から湧き出た幻聴のようだったが、本物だという説得力を持っている。
その説得力に心奪われていると、声は必死になった子供のように父を呼んだ。
(……行ってやらないと)
バルドはまだ自分が何者なのかも思い出せない。
しかし子供が呼んでいる。
自分の腕に抱いたことのある、とても大切な宝物が呼んでいる。
その声に応えない道理がどこにあるのか。
「……」
子供が父親を探しているように、父親も子供を探していた。そう不意に理解した。
呼び声の先にその子供がいるのだろう。
随分と長いあいだ探していた気がする。
バルドはそう安堵を混じらせた泣き笑いの表情を浮かべ、声のする方角へと腕を伸ばした。
(なんだ……そこにいたのか、伊織)
そして子供の声に父親として応える。
その瞬間、全身を駆け抜けたのは今までに感じたことのない種類の衝撃だった。
魂ごと引き寄せられるような感覚だ。
目前に広がっていた赤黒さが霧に覆われるようにして霞み、代わりに金色の光が視界の中心から外側へと飛散する。
光の奔流に驚く間もなく、バルドは前へと力強く引き寄せられ――気がつけば手首を何者かにしっかりと掴まれていた。
その腕の先に迸った金の光と同じ色の瞳が見える。
ああ、昔見た色はこの色だ。
そう理解しながら、バルドは宙に身を躍らせて成長した我が子を抱きすくめた。





