第1046話 父子の約束
「……バルド?」
不穏な空気を感じ取りつつも覚悟を決めた伊織は再びバルドの名前を呼ぶ。
今度は相手の耳にしっかりと声が届くよう、一音一音気を配りながら発音した。
風の魔法による声だが通常の発声と遜色ないはずだ。
しかしバルドは視線をこちらに向けはするものの、感情の乗った反応は返さない。
ただひたすらぼうっとした顔で伊織を見ていた。
「まだ夢の中にいるのか? ……そうだよな、すぐ戻って来れるわけないか」
伊織は沈んだ顔をしながらバルドの両手を握る。
温水越しだが感触はしっかりと伝わったのか、バルドは手のほうに視線を向けた。
「夢うつつでもいい。もし声が聞こえてるなら、そして言葉の意味を少しでも理解できるなら――僕がここにいないのに名前を呼んだ時、その声に応えてくれないか」
伊織はここで初めて内側の世界へ連れ戻す手段について伝えるべく口を開く。
今まで自分の中だけでぐるぐると考えていたことだ。
それを声に出すのは初めてだった。
「僕はバルドと父さんを世界の内側から召喚魔法で呼び出そうと思ってる」
「……」
「ただ、これには呼びかけに応えてもらう必要があるし、魂の繋がりも重要なんだ」
伊織はその絆が作りづらいため召喚魔法には苦心したが、こうして直接許可を取り付けてから呼べば成功率は上がるだろう。
そして。
「――繋がりに関しては、僕とバルドなら十分にあるだろ」
父と子として。
そして大切な仲間として、伊織はバルドと時間を重ねてきた。
それはバルドが生きてきた期間から見れば短い時間だったかもしれないが、絆に影響するのは長さではなく質だと伊織は考えている。
そうゆっくりと伝えながら伊織はバルドの手を握ったまま続けた。
「召喚魔法は異世界から対象を呼び出す魔法だけれど、本質的には『世界の外から対象を呼び出す魔法』だ。僕らの前世の故郷レベルの遠さになるとフジさん……世界の神くらいにしか呼び出せないだろうけど、ここは世界のすぐ外だから、きっと応答さえあれば成功すると思うんだ」
伊織はバルドとオルバートを召喚し、そして永続召喚という形で内側に留めるつもりでいる。
召喚対象であるふたりが狭間の住人ではないため不確定な部分は多いが、ふたりの魂は内側から見れば異世界のものであるため、条件としては悪くないはずだと伊織は考えた。
もちろん事前に試す余裕も手段もないが、これが一番バルドたちにとって負担の少ない方法になる。
「……もし成功しなかったら、もう一度なんとかしてここまで潜って……今度はふたりの魂だけを連れ帰る。肉体は捨てることになるけれど、新しい肉体を作るアテがあるんだ。――って、あはは、なんか倫理観ないなぁこれ」
ないって自覚だけは忘れないようにしないと、と伊織は苦笑しながら頬を掻く。
しかし、その言葉や仕草にもバルドは笑うことも怒ることもしなかった。
伊織は胸を締め付けられるような寂しさを感じながら立ち上がる。
「そしてごめん、ここは呼吸ができて楽だと思うんだけれど……父さんが見つかってないから、探しに行っている間はまた今までみたいな環境の中で待ってもらうことになるんだ」
この規模のものを狭間で維持するのは伊織でも魔力が足らなくなってしまう。
バルドは長い間受け続けた苦痛から逃れるために感情の欠如した状態になったのかもしれない。なら楽になった途端に地獄に逆戻りさせるのは伊織にとって心苦しいことだった。
しかし、どうしようもないことならしっかりと説明しなくてはならない。
そんな一心で伊織はバルドの肩を掴んだ。
「でも必ずここへ戻ってきて、さっき話したように世界の中から――母さんたちの待つ世界からバルドを呼ぶ。だからその時は応えてくれ」
「……」
「そうすればきっと帰れるから」
応えるだけでなく、フジの世界へと降り立つことを召喚対象が望む必要がある。
バルドからすれば『みんなのもとへ帰りたい』という気持ちだ。
それは何千年も『家族のもとへ帰りたい』と願い続けていた藤石織人ならすでに満たしていることだった。
焦げ茶色の瞳が伊織をじっと見上げている。
そして僅かに瞼を持ち上げ、それにより絞られた瞳孔を向けたままバルドは乾いた声を漏らした。
「帰、れる」
「……っ! そう、帰れる。家族や仲間のところに帰れる」
「……」
一言だけ発したきりバルドは再び押し黙ったが、伊織は初めて応答があったことに満面の笑みを浮かべる。
久しぶりに耳にしたバルドの声はとても酷いものだったが、懐かしさを感じる面影があった。その声を耳と胸の中で反芻しながら伊織は立ち上がる。
「今から父さんを探してくるよ。たまに戻ってくるからここで待っててくれ」
「……」
「――大丈夫、置いていったりしないから。約束だ」
今のバルドが不安を感じているかどうかはわからない。
しかし実際にはどうであろうが、伊織はここで昔バルドが口にしたように「大丈夫」と伝え、励まし、未来に希望を持たせる選択肢以外を選ぶつもりはなかった。
長い苦痛を耐えるには心の灯火を消さないことが一番大切だ。
そうわかっているからこそである。
そうして伊織は父と子の約束のため、バルドの手を持ち上げて小指をぎゅっと絡ませた。





