第1044話 最期の贈り物
世界の膿は相変わらず漂ってくるが、腐敗した部位の処置は完了した。
伊織はしばらくその場に留まってパトロールをした後、縫合部が落ち着いた頃合いを見計らってバルドとオルバートの捜索範囲を広げた。
あまり離れすぎると戻れなくなる危険があるため、出力したロープを自分が通ってきた古傷の近くにくっつけておく。
まるで宇宙飛行士にでもなったような気分だった。
また、このロープは伊織の魔力で出来ているため、世界の膿が触れた場合はそれが伊織に伝わる。
つまりすぐに駆けつけられるわけだ。
もちろん遠く離れている場合は相応の時間がかかるため、駆けつけた頃には世界の膿はどこかへ行ってしまった後というパターンもある。
――というよりも、実際に捜索範囲を広げてしばらく経った頃にあった。
そこで伊織は感知し次第ロープの一部が伸びて膿たちを捕える網に変形するように細工を施した。
もちろんすぐには成功しなかったが、試行錯誤はもはやお家芸である。
その網に世界の膿を殺す力はない。
伊織が時間をかけて改良を施せば可能だが、そうすると故郷に帰るという願いを叶えられなくなるのだ。あれはあくまでも伊織の魂で焼かなくてはならない。
自己満足でそれを行なうなら中途半端ではなく、最後までとことんやるべきだ。
そう伊織は決めていた。
そのため伊織が遠征から戻るまで、膿を捕えておく役目が網に与えられたのだ。
網状ではあるが魔力でできているため、膿が世界に及ぼす影響も軽減される。
魔力の残量を見ながらになるが、慣れてくると目印代わりではないロープを増やして不在中の防衛を任せることも可能になった。
完全には防ぎきれないものの、以前より大分フジの負担は減ったはずだ。
その間に回復もしている、と伊織は感じていた。
なぜなら――ごく小さな縫合部に限るが、縫い合わせていた伊織の糸が取れたのもこの頃なのである。
意図して外さない限り伊織の糸は傷がなくなれば自然と抜糸されるため、この状態になった結論はひとつだけだ。
「フジさんも頑張ってる。だから僕も頑張らないと」
恐らくフジは周辺の時の流れを遅くしていても回復速度に支障がないように細やかな調整を行なっているに違いない。
伊織が自分の夢路魔法の世界で行なうものより難度の高いものだ。
その時間の調整も離れれば効かなくなる。
ロープの長さから見て五百キロほど離れた時点で、ああここが境界線なんだな、と伊織が感じる場所があった。
それを越えた場所で捜索を行なう場合、体感になるものの経過時間はなるべくメモしておこうと伊織は出力したメモ帳に半日刻みで印を付けていく。
そうして一ヵ月が経った。
バルドとオルバートは未だに見つからなかったが、恐ろしく遠くに青黒いものがあるのを視認した。――腐った故郷だ、と伊織は察する。
そんな世界の中でも未だに生き続けている者たちがいる。
知った景色もそのまま残っているかもしれない。
そんなことを考えながら、それでも伊織は視線を引き剥がして父たちを探す作業を再開した。
更に時を重ね、稀にふたつの故郷を想って鼻を啜り、精神衛生のために疑似的に食事や睡眠をとって日常を忘れないように努める。
帰った際に廃人になっていては目的を達成できたとは言えない。
「……あれは……随分大きな膿だな」
そんな時、伊織は少し離れた位置に巨大な膿の塊が漂っているのに気がついた。
大きさのせいでゆっくりと移動しているように見えるが、実際は恐ろしく高速なのだろう。雲のようなものだ。
伊織は慣れた様子で噴出する風の向きを変えると膿の塊に近づいた。
どれだけ大きくても伊織が触れれば消えてしまう。
しかしこれだけ大きいとちょっと時間がかかるかもな、と思った伊織は少しばかり眉根を寄せた。
世界の膿は触れた瞬間に不鮮明ながら思考を伝えてくることがある。
普段は伊織の魂にジャミングされるような形になっているのかノイズ混じりだが、これだけ大きいと触れている時間も長くなるため鮮明に聞こえてくるのだ。
(ここまで大きくはないけど、こないだの膿も凄かったもんなぁ。でも……)
魂だけで彷徨っている伊織を認識した膿の中には羨望を含めて罵詈雑言を飛ばすものもいたが、それは世界の膿が苦しんでいるからだ。
そんな膿を救うためにここにいるのだから耐えなくてはならない。
伊織は自分にそう喝を入れ、両腕を広げると世界の膿に触れた。
「……ッ、ぐ……っ! ぅあッ……!」
しばらくして伊織に襲い掛かったのは今までとは比べものにならない思念の波だった。波どころか大渦だ。
他人の記憶や望み、やり残したこと、後悔の感情。
今感じている痛みや苦しみへの嘆き、そして早く楽になりたい、帰りたい、という様々な情報が体中を通過していく。
全身が耳になったかのようだった。
伊織は歯を食いしばりつつも前へ前へと進む。
痛かったな、苦しかったな、無念だよなと相槌を打ち、こんな方法でしか救えないことを謝り、腕を伸ばしていく。
巨大な世界の膿は徐々に消えていき、そしてうっすらと向こう側が見えた時――伊織の耳元で声が聞こえた。
『おとうさん、あっちにいるよ』
「え……」
魂での会話のためか、その言葉は壊れていなかった。
伊織は思わず振り返る。
世界の膿は綺麗に消え去っていた。
聞こえた声は幼い子供のもので、言葉以外にも方向を示す情報が伊織の頭の中に押し込められている。
それはまるで急いで書いた手紙を郵便受けに捻じ込んだような雑さだったが、伊織には十分な情報だった。
「……あっちから伝わるように、僕の考えもあっちに伝わってた、のか……?」
そして最期にお礼として伊織の望む情報を遺していったのだ。
それは世界の膿が伊織の救済を救いとして受け入れたということでもあった。
頭の中に押し込まれた情報に残った残滓はとても穏やかである。
世界の膿の、こんなにも優しい意思を聞いたのは初めてだった。
「……」
伊織は自然と溢れた涙を止めずにしばらくなにもない空間を見つめた後、睫毛から離れた水滴をその場に残して飛び出す。
目指すのはもちろん、世界の膿の最期の贈り物が示す方角だ。





