第1041話 三つの悲願を同時に叶えられるのは 【★】
伊織は手を引かれるままについていく。
するとフジは伊織を連れて雲の塊から飛び降り、そのまま凄まじい勢いで落下し始めた。真下から吹き上がる風で三つ編みが大きくばたつき、伊織は片目を瞑る。
底は見えない。
しかし途中から落下しているというよりも縦向きに走っているような気分になり、気がつけば本当に両足が床を踏みしめていた。
前へ進むたびフジは溌剌とし、姿形が上層にいる時よりもはっきりとしていく。
逆に伊織は魔力の防護壁を剥がされる速度が上がり、必死になって集中していた。
気を抜けばあっという間に潰されてしまいそうだ。
上手く捌けているうちは良いが、もし一度でもミスをしようものなら一気にバランスが崩れかねない。
(僕に憑依している時のニルヴァーレさんってこんな気分なのかな、……!)
集中している間に周囲の景色がぐるりと変わり、一斉に広がった毛細血管で全方向に血液が行き渡ったかのように全面が赤黒くなる。
それは見覚えのある色だった。
「世界の穴と同じ……? いや、あれよりも明るいけれど雰囲気が似てる……」
「ここから先は私の外だからね。ほら、見てごらん」
フジは伊織から手を離すと自分たちの前方を指し示す。
伊織は思わず息を呑んだ。
――人ひとりが通れるくらいの小さな穴。
しかしそれは世界の穴にそっくりだった。
綺麗な円ではなく抉れた不格好な傷にも見えるが、実際に根付いた世界の穴をふたつも目にした伊織だからこそ理解できる。
「これが狭間へ続く道ですか?」
「そう。こじ開けられた大穴とは別種だけれどね。そうだな……例えるならあれは心臓に開いた穴。そしてこれは皮膚をちょっと切った程度かな。本当は古傷だけど」
「古傷?」
フジは照れ笑いのような表情を浮かべて頬を掻いた。
「位置的に都合が良いから転移者を呼ぶ時や転生者を中に生まれ変わらせる時はここを通しているんだ」
「……! たしかに僕らが外から転生してきたなら、中に入れるすべも必要だったんでしょうけど……」
なんとなく経口で内側に入ったと思っていました、と伊織が口にする前に思考を読んだフジが「本来は私に口なんて無いからなぁ、ヒトのような食事の必要もないし」と笑う。
フジ曰く、それなりに無理やりに、しかし転移者そのものや転生者の魂を傷つけないように通すため、未来への投資とはいえ転生や転移は傷を負う行為だという。
加えてこれは特殊な傷のため塞がるのが遅い。
だからこそミッケルバードの世界の穴よりも癒えるのが遅いのだ。
まああっちはイオリが綺麗に縫ってくれたから治りが早かったのもあるけど、とフジは付け加える。
なんてことないことのように話している様子は人の姿をしていても本質的に異なる生き物だと伊織に感じさせた。
「ここから魔獣が入ってきたりはしないんですか?」
「今の君には大きく見えているだろうが、あれらが通れるサイズじゃないから平気だよ。それにね、ここなら私もさっきの所より低いリスクで来れるから、なにかあれば自分で対処できる」
他にもある程度の保護はしてるよとフジは笑う。
普段は絆創膏で塞いでいる注射痕。ただし治りは遅い。
そんな状態を想像した伊織は今から自分がこの穴をくぐることになるのだと深呼吸をした。
その背中をフジがぽんと押す。
「まずは狭間で世界の膿たちを君なりに救うといい。それに私は傷が塞がってもまだ少なからず腐った部分はそのままだからね、膿と一緒にその辺も綺麗にしてもらえれば免疫も上がるかもしれない」
「腐った部分を綺麗に、って、その、切除してもいいんですか?」
「いいよ、腐った部分はいずれ私を大きく侵す。あの子が見た未来のように」
シェミリザのことを思い出したのかフジは僅かに遠くを見たが、すぐに笑みを浮かべ直した。
「いいかい、本来ならここにヒトは来れない。ヨルシャミも君と同じ方法を使えたとしても魔力がもたないだろう。……君だからこそ来れたし、だからこそ私は君にここを教えた」
「フジさん……」
「私の医者になってくれ、イオリ」
世界は抗いながらも腐って死ぬ運命をどこか受け入れているようだった。
しかしこうして託されたということは、伊織が託すに値する相手だと認めたのだ。
普通、刃物を初めて持った赤ん坊に手術は頼まない。
だが成長し、多くのことを学んだ大人なら命を預けられるだろう。
――軽く頼んでいるようだったが、その裏にはフジの決意がある。
伊織は深く頷くと小さな小さな穴に向かって足を進めた。
狭間の向こう側で前世の故郷が死んだまま放置され、腐っている。
そこから現れる膿が溜まるたび救って消していこう。
発生源はそのままでも無尽蔵ではないはずだ。
そう伊織は心の中で反芻する。
世界の悪化して腐敗した部分は切り取る。
そうして世界の自浄と治癒を促し、回復し、ヒトでいう免疫力が上がれば――もしかすると、死んだ兄弟姉妹世界から膿が流れ着いても耐えきり、これから訪れる未来も変わるかもしれない。
膿の発生が終わる頃まで凌げればフジは予知よりも長生きできるのだ。
――発生が終了する頃には恐らく故郷は生き物が暮らせる環境ではなくなっているだろうが、その前に人類という種そのものが消え去っている可能性が高い。
それほど人類目線で見ると遠い未来だった。
そうやって狭間で作業している間にバルドとオルバートを探すこともできる。
長期戦ならそれこそ好きなだけ探せるだろう。
「……三つの悲願を同時に叶えられるのは、ここだけだ」
そう自身に言葉をかけ、伊織は手を穴の中へするりと差し入れた。
ハロウィンのヨルシャミ(絵:縁代まと)
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