第1040話 フジさんの『良い手』
「いや、しかし冗談抜きで本当に早かったね。中ではどれくらい経ったのかな? 十年も経ってないんじゃないか?」
「あはは、そうですね」
フジは気さくに笑い、まるで時間の経過を感じさせない自然さであの時の続きのように話し始めながら伊織に手を貸した。
そしてもう一脚イスを作り出すと座るように勧める。
伊織は纏っていた炎のマントをふわりと消すとそこへ腰かけた。
「自力で来るのは骨が折れました。すごいですね、上にある暗い空間もこの空間も。あの時はフジさんがきちんと環境を整えてくれてたんだって改めて身に沁みました」
「今にも死にそうな子を業火に放り込む気にはなれないだろう? 代わりに今は立派になったからあまり力は貸さないよ、精々この雲の及ぶ範囲までだ」
伊織が初めてここへ来た時、フジの作った雲は地平線の彼方まで続くほどだった。
しかし今はすぐに端が見える。ごく狭い範囲だけだ。
伊織はこくりと頷いた。
――きっと成長した伊織がいつ来てもいいように、フジはずっとここで待っていてくれたのだろう。
お互いに近い場所にいなくては空間の波が合わさってもくっつかないのだから。
その『近い場所』という感覚が人外めいている可能性も高かったが、伊織から見つけられたこと、そして今振り返ってみれば見えない川の底で『この向こうにフジのいる空間がある』と確信できたのも、フジが伊織の感覚に合わせて比較的近くにいたからだ。
そのリスクを知っている伊織は「これ以上望むことはないですよ」と頭を下げる。
「……フジさんは僕が近くまで来たことに気づいてたんですか?」
「また流されてた辺りでね。あそこに魂が入るとノイズが出るんだ、君のはそりゃあもう凄いんだよ、そっちの故郷で言うヘビメタみたいな感じ」
「ヘ、ヘビメタみたいな感じ」
ヒトには聞こえないけどね、とフジは笑った。
そしてイスの上でゆったりと足を組み直すと伊織を正面から見る。
その眼差しはあの頃と変わっていない。
「私は内側のことをすべて把握しているわけではないけれど、これだけはハッキリとわかる。あの大穴の傷は癒えた。そうだね?」
「はい、傷跡は消えて糸も取れました」
「ふふふ、私は君に運が良かったと言ったけれど、君と出会えた私もまた運が良かったな」
嬉しげにそう言うとフジはテーブルの上で指を組んだ。
「父を救い、世界の膿を救い、世界の未来を救うこと。君の悲願はこの三つだ。さて、進捗は如何かな?」
伊織は頷くとこれまでの成果をフジに伝える。
まずここへ来るために夢路魔法を覚え、テイムした魔力を魂の防護に回らせ、その魔力を夢路魔法の世界及びこの空間でも召喚という形で補充できることを。
途中までは命綱の魔法があり、今は帰るための目印として待機していることを。
そして魔獣に関しては魔獣の魂を抜いて伊織の魂で焼くことにより、間接的に還せるようになったことを聞いたフジは手を叩いた。
「それは素晴らしい! 強引だが君にしかできない荒業だ、つまり必殺技ってところかな!」
「必殺技って言うには条件がありすぎですけどね、弱らせたりシチュエーションを整えないと上手くいかないので」
「それはあれか、魂を上手く抜けないってことかい?」
伊織が「その通りです」と頷くとフジはにっこりと笑みを浮かべる。
「内側に入り込んだ魔獣は君がそうやって細心の注意を払って還せる者だけ還すことになるだろうが――穴の向こう、狭間を漂う者たちはまだ肉体を持たない。君に恐ろしい労力がかかるだろうが、地道に還すことで清浄さを取り戻せるかもしれないね」
昔、伊織は世界の穴から生まれ落ちる前の魔獣たちにも肉体があると思っていた。
そう、母の胎内で育まれる胎児のように。
しかしミッケルバードで互いに力を出し尽くした時、魔獣の『出来損ない』たちが現れたことである可能性を知ったのだ。
魔獣は世界の穴を通った時に初めて物理的な肉体を得るのではないか、と。
その肉体は故郷の生き物を模り、しかし似せて作っただけで能力が外見や習性に沿っていないこともあった。紛い物で作ったツギハギだらけの生き物だ。
しかし、あれは世界の膿たちの『故郷で肉体を得て苦しみから解き放たれたい』という想いの象徴でもあったのだ。
そして故郷をもう一度見たいという願いから、ヒトの目を持つ者も多かった。
その瞳の向こうに、かつて故郷でごく普通に生きていたであろう人々の意思を想像し、伊織は瞼を伏せる。
「……それは長期戦になりますよね」
「そうだね。怖いかい?」
「覚悟はしてきました。……ヨルシャミたちは待ってるって言ってくれたんで、意地でも帰りますけどね」
強い子だね、とフジは微笑むと空を見上げた。
「それじゃあ、こっちの時間の流れも極力遅くしてあげよう。君が調整できる夢路魔法の世界は上のほうにあるからどうしようもないんだろう?」
「でもそれはフジさんの負担に……」
「なに、そろそろここから退くからどうということはない」
そうか、自分が辿り着いたからにはフジさんはここから退いてもいいんだ。
伊織はそう思い至った顔をしたが、しかしフジは立ち上がるとそのまま伊織の手首を掴んで引いた。
「ほら、行こう」
「……? 一体どこに――」
「ここから狭間へ行く方法を探るところから始めるのは時間の無駄遣いだ。なにせ」
フジは金色の双眸をすっと細めて言う。
「私は、狭間までの道を知っているからね」
「!? 本当ですか!?」
「あぁ、ただ前にも言った通り、具体的な方法は思いついただけで私が使えるわけじゃない。内側に悪影響があっては困る」
以前フジは「良い手がある」と話していた。
それが狭間への道を知っているということだったのか、と伊織は気づく。
恐らく先ほどの『世界の膿を魂で焼いて回る』というのも織り込み済みだ。
――たしかにこれは自力でここまで来れる力を付けてからでないと実現できない。
そう理解し、伊織は一旦フジの手を解くと今度は自ら手を繋いだ。
「わかりました、……連れて行ってください、その狭間に続く道へ」





