第1037話 伊織の命綱と底に向かって
「こ、これが僕用の命綱魔法……?」
夢路魔法の世界へ入った伊織は切り株の上にちょこんとのった小さな生き物――手の平サイズのウサウミウシを見ながら、思わず気の抜けたような声を漏らした。
そしてヨルシャミの表情と言葉の意味を理解して口元に笑みを浮かべる。
「たしかに見知ったどころじゃないなぁ」
小さなウサウミウシを持ち上げると、ウサウミウシは手の平の上で「ぴぃ!」と鳴いた。
意思があるのかはウサウミウシであるためはっきりとはしないが、今まで見たどのウサウミウシよりも小さいそれは正直言って可愛らしい。
ただし。
(手の平を這った時の感触が完璧にカタツムリだ……!)
小さくなったせいで更にクオリティが上がっていた。
とはいえ長年連れ添ってきた相棒ともいえる存在と同じ姿である。命を預けるのに不満はない。
伊織はウサウミウシをひと撫ですると、足元に階段を作り出して下り始めた。
一段一段を確実に踏みしめながら、伊織はセラアニスに出した手紙の返事の内容を思い返す。
今日は夜を待つ間に受けた大きな報告があった。
ミッケルバードの上空に残っていた世界の穴の縫合跡。
その傷が完全に癒えたという報告である。
目視ではなにも見当たらなくなり、役目を終えた伊織の金の糸も溶けるように消えていたという。
念のため各国が指折りの魔導師を派遣して確認したが、目視以外のありとあらゆる報告で観察しても『そこにはもうなにもない』という結果に辿り着いたそうだ。
駆けつけたシァシァたちも特殊な機械で調べたが同じ結果だった。
元々世界の穴は観測することがとても困難な存在だ。
しかしミッケルバードに根を下ろして固定化されてからは性質が変わり、人類の目にも見えるようになっていたことから、今回の観測結果も信用性は高い。
加えて伊織には『世界の傷が癒えるまで決して消さないと決めた糸が消えた』という判断材料があった。
バッテリーとしてぶら下げていた魔力の塊はそのまま大地に落ち、確認に訪れていたベレリヤの魔導師に回収されたものが伊織に返還された。
その後「これは傷の門番みたいなものです。このまま消してしまうのは勿体ないので」と伊織からニルヴァーレに贈られ、伊織から見れば救世主のひとりである彼の糧になっている。
それらの事柄を手紙にしたため、テクテクに託して送ったのがつい先刻のことだ。
「同じ日になったのは偶然だけど……この報告を聞いて、改めて今日にして良かったって思ったんだ」
手元のウサウミウシに語り掛けながら伊織は足を進めていく。
あの日、穴を閉じることでバルドとオルバートはこちらに戻る手段を断たれた。
――吸い込まれた段階でそれは同じことだったが、バルドたちの特異性があれば糸のような細さであっても望みはあったかもしれないと伊織は思っている。
実行する気はさらさらないが、何度となく「再び世界の穴を開けば……」という考えが脳裏を過ったのもそのせいだ。
しかしそれをせず、自力で他の方法を見つけるべく鍛錬を積んできた。
そんな世界の穴が完全に癒えた日に、真っ当な手段でバルドたちを助けることができれば――伊織の思う救世主であり続けられるだろう。
「……ヨルシャミが五年でここまで漕ぎつけられるなんて思わなかったって言ってたんだよ。それだけ頑張りが実現したってことだよな。それに運もあった」
セラアニスの魂を移す際にナレーフカの一言で新たな閃きが得られたように、これまでも様々な人の力や知識を借りて成長することができたのだ。
三人寄れば文殊の知恵ってやつだなぁ、と伊織はウサウミウシに語りながら笑う。
伊織の魂の防護はまず『夢路魔法の世界で魔力を召喚する』という方法を試みた。
魔力は世界の神が初めに呼び寄せた救世主である。
そして伊織たちの前世の故郷には魔力は存在していなかった。
つまり魔力に関しては兄弟姉妹世界からの転移ではなく、召喚魔法に近い方法を用いたわけだ。
通常、召喚魔法は自分の力と釣り合わない対象だと契約に至らず失敗する。
契約不要なサモンテイマーも魔力などという存在をテイムできる者はいない。
――並みの、ならば。
伊織は魔力をテイムした実績がある。
つまり召喚魔法で呼び出した魔力をそのまま使役できるというわけだ。
とはいえ都度都度膨大な魔力をテイムすることになるため、長い時間は持たない。
(それでも夢路魔法の世界に直接召喚した魔力を僕の周り……魂の周りに纏うことで防護になるってわかった。魔力たちには無理をさせるけれど――)
人間のように思考しているわけではないが、魔力も嫌なら従いはしない。
なら一緒に頑張ろうと伊織は心の中で魔力に語り掛ける。
「成功したら僕の魂から出るエネルギーを好きなだけ食べていいからな」
これくらいしかできないけれど、と付け加えてから最後の一段を降り、伊織は真っ暗な空間を見回した。
寒々しい光景だと感じたことで体感温度が下がる。
その昔、ヨルシャミが世界の神と相対したのはこの層だ。
今回はここから更に下ることになる。
伊織は地面と思しき場所に手をつき、己の夢路魔法の世界の底がフジの空間と重なるように調整した。
だがあちらの空間は一体どこにあるのかはっきりとはしていない。
一度到達した時の感覚を頼りに底へ底へと夢路魔法の世界を長く広く伸ばしていく。主である伊織はその世界のすべてを知覚していた。
何時間もそれを繰り返す。
時間の流れは弄ってあるため現実世界ではそう時間は経っていないだろうが、精神力の摩耗を感じ始めた頃――世界の端に異質なものを感じ、伊織は目を見開いた。
「あった」
「ぴぃ?」
「……あったよ、ウサウミウシ。多分あそこだ」
ゆっくりと立ち上がった伊織は力を込めて目の前の黒い空間に指を差し込み、扉を開くように空間ごと開いた。
その向こうには再び階段が続いている。
伊織はウサウミウシに「行こうか」と声をかけると、先ほどまでと同じように一段ずつ確実に下っていった。





