第102話 仲間との夕食 【★】
どうやらバルドは薬指に指輪を嵌める風習をどこかで耳にしただけらしく、伊織の予想通りこの地域にはない風習のようだった。
でもこの場合贈ってきたのはニルヴァーレってことになるんじゃ? と言い始めたバルドの口を今度は伊織とサルサムのふたりがかりで塞ぎ、ようやく落ち着いたところで辺りが完全に暗くなっていることに気づく。
「そうだ……あのっ、じつは今夜みんなと一緒に食べたいものがあって」
「一緒に食べたいもの?」
そうです、と伊織は自身の荷物から包みを取り出した。
魔法で作られた氷はしっかりと仕事をしており、傷みもなく保たれたそれは――ロスウサギの肉だった。
また食べたいと思っていても、一度出発してしまえばなかなか口に入ることがないもの。
それを自分で稼いだ金で購入し仲間に振る舞おうと考えたのだ。
肉の正体に気がついたミュゲイラは「わお!」と手を叩いて笑みを浮かべる。
「これロスウサギだろ!? そうだよな!?」
「はい、店長が魔法の氷をくれたんで全然傷んでな――」
「でかしたイオリ~ッ!!」
「ぐえっ!」
凄まじい勢いで両腕によるホールド――もといハグを受け、伊織はまるで潰れたカエルのような声を出す。
内臓がすべて出てしまいそうな圧に酸欠状態になっていると、リータが慌ててミュゲイラの腕を引っ張った。
「お姉ちゃん、イオリさんが圧死するから!」
「へ? なに言ってんだよ、これくらいで潰れるはず……うわ! マジだごめん!」
ミュゲイラがぱっと両腕を外し、解放された伊織はその場に倒れつつもロスウサギの肉だけは死守する。
それを見てサルサムが「根性あるな……」と呟く声が聞こえたが、褒められたのかどうか少し自信がない。
へろへろになりつつも伊織は調理を始めた。
奮発して購入したのは大きなブロック肉のため人数分ある。
スッと包丁を通してみると驚くほど簡単に切れた。
筋を切断するような形で丁寧に切れ目を入れ、オイルを伸ばしたフライパンに並べる。肉そのものを楽しむために今回はシンプルなステーキにしようと伊織は考えていた。
オイルはロストーネッドで購入した植物性のサロマ油というもので、香りはオリーブオイルに似ている。
火を通しているだけで食欲を刺激する香りが辺りに漂い始めた。
「へえ、手慣れたもんだな」
イモの皮剥きを手伝っていたバルドがひょいと伊織の手元を覗き込んで言う。
伊織はちらりと静夏が少し離れたところで食器類を用意しているのを確認し、なるべく母親に聞こえないように答えた。
普段は気にしないし本人も気にしていないが、聞こえないならそれに越したことはない。
「前世じゃ家にひとりでいることが多かったから……たまに来るお手伝いさんから色々習ったんだ」
「家にひとり? 聖女……静夏はどうしてたんだ」
転生したことは話したが、前世の詳しいことは端折っている。他人の苦労話など聞いても気持ちのいいものではないだろう。
伊織はほんの少し躊躇ってから口を開いた。
「前世の母さんは凄く病弱だったから、僕が小学生になる頃には入退院を繰り返してて。父さんも幼い頃に死んじゃったから、自然とひとりでいることが多かったんだ」
兄弟はおらず、親戚もすぐに遊びに行けるほど近くにはいない。
友人はいたものの、その関係は広く浅い。クラス替えや進級などで簡単に切れてしまう縁であり、実際にそこまでの付き合いで終わった人間が多かった。
これは伊織から一線を引き、そこから踏み込もうとしてこなかったからだろう。
訳ありの家庭で友人に気を遣わせるのがどうしても嫌だったのだ。
静夏の実家の計らいで伊織の世話をするハウスキーパーは派遣されていた。
しかし伊織本人が家事を覚えるにつれ、少しでも自立したいと訪問回数を減らすように自ら頼んだのだ。
そのため学生時代のほとんどをひとりで調理し、ひとりで食べてきた。
「ああ、でも寂しいとかはなかったんだよ。心霊番組……ええと、わかるかな……怖い出し物……? を見た夜とかは心細かったけれど」
「……なるほど」
しばらく手元を見て静止していたバルドは、イモがすでに剥き終わっていると気がつくとザルの中に入れて笑みを浮かべる。
「なら、今の母親を見てて嬉しいだろ、伊織」
「……うん」
「仲間もいるしな」
健康体で、好きな時に好きなように動き回ることができる母親。
静かな夜とは程遠い賑やかな仲間たち。
バイクという相棒も心強い存在となって自分を追ってきてくれた。
ここには日本で得られなかったものが揃っている。
「不便に感じることもあるし、魔獣とかは怖いけど……僕、ここで生まれ直せてよかったって思ってる」
自分の心を確認するようにしてそう呟き、伊織は塩胡椒を肉に振りかけた。
***
最後に味を調えて皿に移し、匂いをふんふんと嗅ぎながらカバンから出てきたウサウミウシにも一切れお裾分けする。――毎回鼻がどこにあるのか気になって仕方ないが、嗅ぐ仕草だけで鼻の穴は確認できなかった。
施設でわかったウサウミウシの話もしなくてはならない。
しかし今は休息を優先し、ゆっくりと夕飯を済ませてからでもいいだろう。
そう考えながら伊織は仲間と一緒に準備を進め、各々腰を下ろしたところでヨルシャミを見た。
あれから一度も目覚めていないが、顔色も大分良くなっている。
未だにすやすやと寝息をたてているため、ここはそっとしておいてヨルシャミの分は別にとっておこうか。
そこまで考えたところでヨルシャミがぱちっと両目を開いたので、油断していた伊織は思わず叫ぶところだった。
「お、おはよう?」
「おはよう、……肉の匂いを感じたと思ったら目覚めた」
体に栄養が必要なのかもしれない。
ヨルシャミはそうだるそうに起き上がったが、その腹がクゥゥ……と捨てられた犬の声のように鳴ったため、単純に空腹に耐えかねて目覚めたのかもしれないと伊織は思った。
ヨルシャミはステーキの匂いをくんくんと嗅いでいるが、なんとなくさっきのウサウミウシに似ている。
「おお、起きたか嬢ちゃん!」
「ヨルシャミだ。なんだ、全員合流したのか」
施設制圧後も一緒にいるバルドとサルサムにヨルシャミはそう言ったが、なぜか満腹になって転がっているウサウミウシに向かって言っていた。
その違和感にヨルシャミ自身も気がついたのか己の目元に触れる。
「ううむ、目の調子が悪いな。ダメージが色濃く出たようだ」
「大丈夫なのか? 歩くのも難しいんじゃ……」
「いや、物の形や色はぼんやりとわかる。明暗も感じ取れる故、回復に努めれば大丈夫だろう」
研究員たちの記憶を封印する際も目を瞑った状態だというのに問題なかったことを伊織は思い出す。
移動はバイクも用いるため、視力が落ちていてもそう支障はないかもしれない。
それでも心配なものは心配だ。
なにか目を休める方法はないかと伊織が考えていると、バルドがハッとした。
「ん!? ならなんでウサウミウシと俺らを間違えたんだ!? ミュゲイラと間違うならともかく、形と色が把握できるならさすがにわかるだろそれ!?」
「ははは! 寝転がっている姿のイメージがお前に直結したようだ!」
「要するにオッサンくさいって言われてる!?」
「寝姿はわりと似てるぞ」
サルサムの追撃によりバルドは「えー!」と不満な様子だったが、伊織はなんとなく直接的な助け舟を出せなかった。
代わりに話題を変えるべくヨルシャミに皿を差し出す。
「じゃあ回復に努めるためにもみんなで夕食にしよう、ヨルシャミ」
「うむ。……ん? これはロスウサギの肉か?」
ただのステーキではないと匂いと雰囲気から察したのか、先ほどよりも皿に顔を近づけながらヨルシャミが訊ねる。やはりウサウミウシに似ていた。
そして。
「そうそう。さっき調理したところだから温かいうちに食べ――」
「でかした! これならば体の栄養も心の栄養もばっちりだ!」
「ぐえっ!」
再び熱烈なハグを受ける。
目測を誤っているためハグどころかホールドに近い。
ミュゲイラの時ほどの圧はないものの、反り返った伊織は肉を落とさないように手の先に全神経を集中させながら思った。
美味な食べ物は人を狂わせるのかもしれない、と。
ヨルシャミ(イラスト:縁代まと)





