第1028話 セラアニスは愛おしい
夢路魔法で作られた世界は現実世界のように五感で様々なものを感じられる。
水に触れれば冷たく、火に手を翳せば熱く、花を嗅げば香しく、菓子を口に含めば甘く、自分が立てる音は記憶通りに聞こえ、見えるものはすべてリアリティに溢れていた。
ただし、夢路魔法の世界はヨルシャミが意図的に弄らない限りは過ごしやすい気候や環境に保たれている場所である。
瞼越しに陽光を感じたセラアニスはその光の容赦なさに意識を浮上させた。
夏の終わりとはいえ、今まで寒くも暑くもない気温で過ごしてきたためとても暑く感じる。しかしそれこそがここは現実だという証明になっていた。
セラアニスはゆっくりと瞼を開き、予想より眩しかった光に手を翳しながら上半身を起こす。
夢路魔法の世界でもセラアニスの意図しない音や香りが届くことがあるが、その頻度はとても低かったのだと改めて認識した。
周囲に果てなく広がる世界で虫が鳴き、鳥が囀り、遠くから正体のわからない動物の声が聞こえ、不意に風が吹き、草いきれの香りが顔を撫でていく。
いつの間にか首元が汗ばんでいるのも、セラアニスにとってはいつぶりかわからなかった。
(そうか、あっちじゃ環境だけでなく不快感を伴うものも意識してないと再現されてなかったんだ……)
現実は不快感のあるものも遠慮なく刺激として与えてくる。
今はそれが愛おしい、とセラアニスは心の底からそう思った。
父のラビリンスでヨルシャミに体を譲ってもらった時にも感じたことだ。
しかし今度はあの時よりずっとずっと長くこのままでいられる。
このまま世界を、生きて感じていられる。
そう実感して潤んだ瞳でセラアニスはハンモックに揺られたまま隣に並び立つ伊織、ヨルシャミ、ニルヴァーレを見た。
その傍らにはナレーフカがウサウミウシを抱いて立っており、現実で見るのは久しぶりな顔にも、そして初めて見る顔にもセラアニスは笑みを浮かべる。
「……皆さん、こっちではお久しぶりです。ナレーフカさんは初めまして」
話は沢山聞いてます、と微笑むセラアニスにナレーフカも笑みを返した。
握手を交わすふたりを見守りながら伊織はその場に尻もちをつく。
「良かった……成功した~!」
「おや、イオリ、あれだけ自信満々だったのに最後まで保たなくて良かったのか?」
「緊張の糸が切れました。それに完璧に成功です、僕がヘロヘロになってもセラアニスさんを不安にさせることはないですし」
でもちゃんと挨拶しなきゃ、と伊織は頬を掻くとニルヴァーレの手を借りて立ち上がった。そして服を払いながらセラアニスへと近づく。
「現実ではお久しぶりです。違和感とかはありませんか?」
「はい、多分まだ立ち上がるのは難しいですけど……目覚めた瞬間よりは慣れてきました。これならしばらく練習すれば動き回れると思います。――ふふ、イオリさん、沢山頑張ってくれたんですね」
セラアニスはそのままハンモックの上で頭を下げた。
「本当にありがとうございます。ヨルシャミさんとニルヴァーレさんも命綱をありがとうございます。ナレーフカさんもとても素晴らしい発案をしてくれたこと、本当に感謝しています」
ありがとうございます、と再び頭を下げたセラアニスにヨルシャミとナレーフカは顔を見合わせて笑う。
セラアニスはどれだけ礼を述べてもまだ足りない様子だった。
「礼を言われるようなことではない。私はお前から肉体を貰い受けたのだ、その代わりを用意するのは当たり前であろう」
「セラアニスさん、新しい肉体に入ってそれを動かすための訓練は大変だったって聞いているわ。あなたも頑張ったからこその結果よ」
「皆さん……」
涙を零したセラアニスの頬を手の甲で拭い、ヨルシャミは「ゆっくりと動く練習もしていこう」と声をかけた。
頷いたセラアニスはあることを思い出して口を開く。
「そうだ、じつはお伝えしたいことがあって……」
「伝えたいこと?」
「はい、その」
セラアニスは息を深く吸い、両腕をぐっと伸ばしてヨルシャミと伊織の手を握る。
「おふたりとも、ご結婚おめでとうございます!!」
――セラアニスからの祝辞は夢路魔法の世界で貰っていた。
それもそろそろ二年近く経つほど前のことだ。
伊織とヨルシャミは不思議そうな顔をしたが、すぐに合点がいったのか笑みを浮かべた。それに気がついていないセラアニスは自分が言葉足らずだったことに思い至り、慌てて付け加える。
「夢路魔法の世界でもお伝えしましたが……こうして直接伝えたかったんです」
自分の新しい肉体で目覚めた時に伝えよう。
それを目標にして頑張っていたのだとセラアニスははにかんだ。
伊織とヨルシャミはそれぞれセラアニスの手を握り返す。
「ありがとうございます、セラアニスさん」
「改めて礼を言うぞ、セラアニスよ。……今後はこちらでもあちらでも、好きなところから見守っていてくれ」
セラアニスは「もちろんです!」と嬉しそうに頷いた。
かつての彼女の心情を思えば酷な願いだったかもしれないが、しかし今のセラアニスは自分からそれを願っている。
ヨルシャミがそう理解しているからこその言葉だった。
そこへ伊織が声をかける。
「セラアニスさん、じつはここには僕ら以外にも招いた人がいるんです」
「うむ、そうだ。ゲストを呼んであるぞ、仲間を全員というわけにはいかなかったが……このふたり――いや、三人は都合をつけることができた」
伊織たちの言葉にきょとんとし、ヨルシャミの手の動きに沿って視線を動かしたセラアニスは木陰から現れた人物に目を丸くした。
セルジェスとリータ、そしてその送迎を任されたサルサムである。
伊織たちもこの三人と会うのは少し久しぶりだった。
セルジェスは今も各国を巡って知識をつけており、リータとサルサムもサルサムの故郷であるベレリヤのラストラという街を拠点にして魔獣の残党狩りに出ている。
セラアニスを目覚めさせる地をベレリヤにしなかったのは、ヴォルネリアに潜む魔獣の動向に注意を向ける必要があったことも大きいが――セラアニスのもとへ連れて行きたい人物が国外国内両方で忙しなく移動しているため、それならどこにいても転移魔石を使うことになるし同じだな! という結論に達したのも理由のひとつだ。
同じ日に集まることは各々の予定があり難しい。
しかし、このふたりの予定が開くのが丁度今日だった。
ならセラアニスの肉体を作り出す実行日に相応しいのは今日だ。――そう伊織たちが決めたのである。
「セラアニス」
「お兄さま……」
「父を見送って以来だな。――おかえり」
歩み寄ったセルジェスはセラアニスの頭を胸に抱き、泣きそうな顔をしながら髪を撫でた。
セラアニスも掠れた声で、しかし必死に何度も頷きながら「ただいま」と応える。
「セラアニスさん、私は夢路魔法の世界で会えましたけれど……こうして現実でも久しぶりに会えて凄く嬉しいです!」
「っリータさん……」
「これからは一緒に色んなものを見て、色んなものを食べましょうね」
約束も守りますよ、とリータはセラアニスの手を握って言った。
セラアニスは再び沢山の涙を零しながらこくこくと頷く。
そこへ降り注ぐ陽光は相変わらず強かったが――相変わらず、愛おしかった。





