第1023話 母と息子の夢
静夏は息子をじっと見つめる。
そのまなざしは前世のものとまったく同じものだった。
「伊織、私は今日という日を迎えられたことを心から嬉しく思っている」
真っ直ぐな言葉を送りながら微笑んだ静夏は両手で伊織の手を覆うように握った。
静夏の手は大きく、今も昔も伊織の手は丸ごと隠れてしまう。
しかし手の内側に感じる伊織の手は確実に大きくなっており、それを感じながら静夏は目を細めた。
「……前世でも息子の結婚式に立ち会いたいと何度も夢見たんだ。しかしそんなことが叶う肉体ではなく、それどころかお前からパートナーを作る余裕すら奪っていた」
「母さん……」
「そう、これもまた夢だった。――伊織、この世界は核家族であっても、そうでなくても好きに暮らしていい土地柄だ。私と共に暮らすことも、夢を叶えるためという気持ちからなら守らなくていい。自由な形で暮らし、自由に生きろ」
静夏は僅かに手の平に力を込めながら真摯な声音で言葉を続ける。
「それに、この世界で……同じ空の下で生きている、それだけで共に暮らすという夢まで叶ったも同然だ」
染み込むような母の言葉。
それを最後まで耳にした伊織は照れくさそうに笑った。
「母さんと同じ家で暮らすことは僕の夢でもあったんだ。でも……うん、よく考えてみたらそれは『普通の家族』をやり直したいってことだったんだと思う」
母の夢だから叶えたいと思うのと同時に、今度こそ病に邪魔されることなく健康になった母と暮らすことは伊織の夢のひとつでもあった。
それを欲した心の根本にあったのは、前世では得られなかった家族をやり直したいという気持ちだ。
洗脳後に増幅され、静夏に吐露したのと同じものである。
しかし住処としての家を定め、その中に留まらなくても家族は家族だった。
筋肉に恵まれて溌剌とした姿の母。
そんな静夏と旅をする中で伊織の夢は少しずつ叶い、子供時代のやり直しもナレッジメカニクスで叶った。
歪んだ形だったかもしれないが伊織にとっては大切な記憶だ。
もちろん前世の人生で失ったもの、得られなかったものはそのままの形では伊織の手元に返らない。あの時に得られなかったものはあの時にしかないからだ。
それを洗脳された伊織は嘆いたのである。
今は、その事実を受け入れられる。
今世で得たもの、そしてこれからの未来で得るものがあるとしっかりと自覚したおかげで、受け入れられる器ができた。
そう自分の言葉で言いながら、伊織は肩を揺らして笑う。
「……それに、僕もちょっと違う角度から悩んでたんだ」
「ふむ? 違う角度?」
「うん、ほら――」
そもそもヨルシャミも「親の同居はむしろ歓迎だが?」という意見である。
それでも伊織は転生当初とは変わった状況を鑑みて気になるところがあったのだ。
「母さんがミュゲイラさんかバルドと結婚したら、息子夫婦と同居するのはお邪魔になっちゃうかなって……あと父さん、ええと、オルバートともどうなるかわからないだろ?」
「う、む。そういうことか」
自身のそういった話が持ち出されることを予想していなかったのか、静夏は不意打ちを食らった顔をしながら咳払いをした。
頬と耳の端が赤い辺り、ふたりに対する感情もちゃんと前進しているらしい。
そう伊織が心の中で頷いていると静夏が口を開いた。
「どうなるかはわからないが、ミュゲと少しばかり話し合っている事柄がある。しかし――どんな結果でもお前たちを疎ましく思うことはない。決してだ」
「うん、ありがとう。じゃあ……」
伊織は片手を上げる。
手はパーの形――ではなく、五を表していた。
「今は保留って形にして、五年ごとに話し合おうか!」
「五年ごとに?」
「そう。僕もヨルシャミもしばらくは各地を転々とするから決まった家を持つ予定がないからさ。それが終わっても修行は続くし、もしかしたらそれに適した土地を見定めて家を建てることになるかもしれない」
予定は立っているが詳細がわからない、もしくは今すぐには決められないのに大きな括りの事柄が多いのだ。
これに静夏たちの今後の予定まで巻き込むのが伊織は嫌だった。
そう説明しながら伊織は続ける。
「もちろん合間合間に報告しに行くけど、まあ参考として五年ごとに再検討して、暮らせそうならその時は一緒に……って形でもいいと思うんだ。それに父さんたちの意見も聞きたいから」
「……そうだな」
「ふたりは必ず戻ってくるよ。僕が連れ戻す。だから今は母さんは母さん、僕は僕で暮らして、すべてハッキリしてからまた決めよう」
静夏はとても眩しいものを見つめるように目を細めた後、ゆっくりと口角を上げて微笑んだ。
「ああ、わかった。気の急いたことを訊ねてしまったな」
「ううん。僕も母さんもお互いに同じ気持ちだったって明確になったから嬉しいよ」
別の道を歩んでもいいが、同じ場所で暮らしてお互いの夢を叶えてもいい。
そう親子で同じことを思っていた。
本来なら言わなくてもわかることかもしれないが、親子でも言葉にして伝え合う大切さがたしかにある。それを感じながら伊織は窓から空を見上げた。
その視線の先にバルドとオルバートはいない。
しかし、いつかそのふたりに手を伸ばすと、他でもない自分自身に誓いながら。
そこへ外からニルヴァーレの声がかかった。
そろそろ始まるみたいだよ、と。
「――じゃあ行ってくるよ、母さん」
「ああ、いってらっしゃい、伊織」
最前列から見守っているぞ。
そう微笑みながら、静夏は伊織に力強く腕を引かれて立ち上がった。





