第1014話 長い話になりそうだ
そこは一言で表すなら、赤黒い空間だった。
空にぽっかりと開いた世界の穴の向こう側と同じ色。
それは巨大な生き物の体内に似ている。
食われたのに延々と死ねないとこんな状態になるのかもな、とバルドは思った。
呼吸などという贅沢なものは一度たりともできず、毎秒のように襲ってくる苦しさに初めのうちは何度も悶え苦しんだ。
口から泡のひとつも出ないのに水中で溺死しかけているかのようだ。
今ではそれにも慣れてしまったが、呼吸ができないということは声を発することもできないということである。
もう感覚のない腕の先にオルバートがいるのかどうかもよくわからなかった。
なにせ赤黒さしか感じ取れず、正常な視界とは言い難い状態だったのだ。
闇が漆黒ではなく赤錆に黒を混ぜたような色をしていたなら、元の世界でも似たような体験をできたかもしれない。
しかし、ある時から直接耳にしたかのように何者かの声が聞こえるようになり――それがオルバートの声であるとわかるようになるまで時間は要さなかった。
オルバートにとっても予想外のことだったらしく、異様な現象にふたりで驚く。
だがそれも束の間の驚愕であり、気がつけばこの空間についての考察を話し合うことに集中していた。
「空気は無いみたいだが、意識はあるし体の水分が沸騰してもいないから真空じゃなさそうだ。どういう原理で存在してるんだ?」
「あの時に吸い込まれたのが世界の穴だとすると、我々の常識をそのまま適用しようとするのはナンセンスだよ」
「でも気になるだろ、実際にそういう場所に身を置いてたら」
「まあね」
取り留めのない話をしながら周囲を見ようとしたが、やはりこの赤黒い空間は質量がないのに目に張り付いているかのようで、上下左右どちらを向いても同じ色しか見えない。
伸ばした腕が物体に触れることはなく、試しに片腕だけで宙を掻いてみたが――視界がこの有り様では前進しているのかどうかすら感じ取れなかった。
ただ、顔の産毛ひとつ動いていない気がする。
「お前も同じ状態か?」
バルドがそう問うとオルバートは「概ね一緒だよ」と答える。
閉口したふたりはどうすべきか思考を巡らせた。
このような状況になっても――まだ伊織たちのいる世界に帰ることを諦めてはいない。そのための思考である。
ようやく会えた家族だった。
藤石織人はそのために何千年も試行錯誤を繰り返してきたのだ。
おかしな空間に放り出されたとはいえ、こんな短い期間では絶望などしない。
「とりあえずがむしゃらにでも移動を望める行動を繰り返そう。なにもせずに漂っているだけでは得られる情報も希薄だ」
「でも山で遭難した時は下手に動かないほうがいいとも言うぞ?」
「海で離岸流に流されたら岸と並行に泳ぐことが大切だろう?」
「……」
「……」
「つまり、これだけなにもわからないなら心配するだけ無駄ってことさ」
たしかにな、と折れたバルドは再び腕を動かし始めた。
地面に足が付いていない浮いた状態のため、両足もバタ足で動かしてみたが空気を蹴っているような抵抗感のなさである。
恐らく誰かに見られていたら滑稽な姿だろうが致し方ない。そうジタバタとしていると――しばらくして、ほんの僅かだが何者かの気配が近づいてくるのがわかった。
耳はまともに聞こえないはずだというのに、大勢の人間がぶつぶつとなにかを呟きながら牛歩でこちらに向かってくる、そんな感覚だ。
体感時間で半日経ち、その気配が色濃くなった。
(なんだ……? 世界の穴の向こうってことは魔獣か?)
魔獣や魔物の素となる人々の思念を含む世界の膿。
それはミッケルバードで数多と討たれ、最後には枯渇するほど量を減らしていた。
しかし根絶やしにしたわけではない。なら世界の穴の向こうで『それ』と遭遇するのもおかしくはなかった。
刹那、沢山の人間の声がざわめきとなりバルドたちを包み込む。
あちらから近づいたのかこちらから近づいたのか判別はできないが、どうやら意思を持った世界の膿に突っ込んだらしいということだけはわかった。
風のように走り抜けていくざわめきはどれも苦悶の声で、苦しい、助けてほしい、故郷に帰りたいと嘆いている。
バルドはその声とは別に様々な人間の記憶と感情の切れ端を次々と頭に突っ込まれて低く呻いた。
凡そ三十分ほどかけてすり抜けた後、バルドは四肢をぐったりとさせて食い縛っていた歯を解く。
「キッツいな、今まで倒した魔獣の頭の中を全部見せられた気分だ」
「そう何度も経験はしたくないね……」
耐えることはできるが、その間は脱出のための思考が止まってしまう。
しかし恐らくあれひとつではない。そして時間の経過と共に体験する回数は増えていくことだろう。
バルドは再び腕を動かしながらオルバートに問う。
「きっと伊織は世界の穴を閉じた。つまり世界の膿も行き場を失ったわけだ。これから加速的にこの空間を埋め尽くすと思うが、お前はどう考えてる?」
「良い気分はしないが同感だよ」
「はぁ、じゃあさっきのにも慣れてかないとな……」
そこへオルバートが静かに言った。
「……人間は慣れる生き物だ。無呼吸に慣れてしまったように、あれにもそのうち慣れるさ」
「励ましてくれてるのか? 気味悪いな」
「僕も吐き気を抑えてる」
苦々しげに言うオルバートにバルドは笑う。
それをオルバートが不審げに見ている、そんな映像が頭の中に広がった。
「僕は僕が大嫌いだ。けどあの時……少しは許せた気がするんだよ。だから今はお前のことが憎くはない」
「……そっちこそ気味が悪いね」
「あとはまぁ、この空間で唯一の話し相手だ。少しくらいは大事にするさ」
自分を大切にすること、それは織人が苦手としていたことだった。
利己的な性格を自覚していたからこそ、そんな自分を大切にすることがとてつもなく恥ずかしいことのように思えたのだ。
しかし、それは自分を大切に思ってくれている人間の気持ちを踏みにじることでもあった。
365日ずっと自分を好きでいることはできない。
しかし嫌いになる時の『どん底』をもう少し底上げしてみよう。
そうバルドは思う。
その頭の中に浮かぶのは静夏と伊織という家族、そして織人として死に方を求めて彷徨っていた時に出会ったベンジャミルタやシャリエトたち、記憶を無くして義父の模倣をし――それが解けた後も仲間でいてくれたサルサムをはじめとする仲間たちだった。
オルバートにもそれが伝わったのか、僅かに言い淀んでから返事が返ってきた。
「……君は君を大切にするといい。僕にはそんな相手はいない」
「いるだろ」
「僕でなきゃならないわけじゃない。代わりがいる」
「お前さぁ、静夏と話して前向きになったんなら自分の考えを曲げるなよ」
咎人でも、家族の傍にいることが相応しくない人間でも、静夏と伊織が望むならともに未来を歩みたい。一度はそう思ったのなら曲げるな、とバルドは言う。
オルバートは嫌そうな声を出した。
「……それを君に話したことがあったかな」
「さあ、どうだろう。自分のことのように思い出したが、……」
腕の先は未だに見えない。
違和感にバルドとオルバートはしばらく黙っていたが、時間を無駄にする行為だと思い至ったのか再び帰るための思考を再開した。
「まあそれはいいとして、なあ、お前たしか転移魔石を持ってなかったか?」
「悪いけど魔力がほぼ残っていないんだ」
「それでも無理やりミッケルバードでもベレリヤでもいいから座標指定して飛んでみてくれないか。届かなくても方角くらいならわかるだろ」
あまりお勧めしないけれど、と言いつつオルバートは転移魔石を取り出したようだった。
この空間は世界の外側のため、移動先の座標指定を上手くできたとしても飛ぶ際に問題が起こる可能性が高い。転移魔石は少なくとも世界内で使うことを想定して作られたものだ。
だがなにもしないよりはマシか、とオルバートは座標をベレリヤに設定する。
もし成功した場合、少しでも移動しやすい場所を選んだ結果だった。
出発地の座標はやはりでたらめな数値になっている。
それでもオルバートは僅かな魔力を使って転移魔石を発動させた。
次の瞬間、周囲の赤黒い景色が揺らいで初めて変化があった。加速的に前へ進んでいる。
しかし本来は一瞬で転移するはずのものだが、これは物理的に前へと進んでいた。
しばらく黙った後にオルバートが口を開く。
「――転移魔法は世界内を走る見えざるパイプを使って高速移動しているのではないか、という仮説を立てたことがあってね」
「仮説って、全部解明して転移魔石を作ったんじゃないのかよ」
「シァシァがいたからこそだ。それに彼も魔導師、魔導師にしかわからない感覚で組み立てたプログラムも多い」
アイツ死んだらブラックボックスになる技術多すぎない? とバルドは高速で移動しながら半眼になる。
「とりあえずここにそのパイプはないらしい」
「じゃあなんでこんな変な移動の仕方してるんだよ」
「さあ。世界内のパイプに沿ってなんとか移動してるのかもしれないね、遠くから磁石で引っ張ってるみたいな。……しかし、それがもし宇宙から地球ほどの距離で起こっているのだとしたら」
オルバートは黙り込む。
恐らくそこまでとんでもない力で移動しているわけではないだろう。そしてこの空間では物理的法則は世界内とは異なる。
だが、そんな状態でも急に停止すればどうなるかはなんとなく予想できた。
オルバートがゆっくりと言う。
「そろそろ魔力が切れる。衝撃に備えようか」
「ああー……なんだろ、放浪してた時に人間大砲にされたのを思い出すな」
「それは」
凄い経験したね。
そうオルバートが答える前に、高速移動から突然制止したふたりは先ほどまでの安定した平行移動とは比にならない激しさで前方に吹き飛んでいった。
何百回、何千回転もしながらふたりは果てしない空間を飛ばされていく。
時間の間隔も曖昧になった頃、ようやく回転が緩まった。
宇宙空間のように一度飛ばされればそれまで、というわけではないらしい。その観測も正しいとは言いきれないが。
うっすらと目を開けたバルドはそこで初めて赤黒さ以外を見た。
見えないはずなのに見える。
視線の先にあったのは、腐った世界だった。
「ああ、これ」
「前世の故郷だろうね。随分と遠いけれど」
青白い水死体のような色だ。
色でしかわからないが、そちらに故郷があることは本能的にわかった。
振り返ればそちらにも赤黒いものがある。
あれこそ腐りゆく転生後の世界なのだろう。
そんなものを見られるこの空間こそ異世界と呼ぶべきだ、とバルドたちはどちらからともなく呟く。
「……炎症を起こして腐って赤黒く爛れてる、そういう色だったのか」
「生身でこんな場所に来てしまったヒトの五感にはそう感じられるだけかもしれないけどね」
観測者がヒトでなければ異なる見え方をしただろう、と言ってからオルバートは唸った。
「どちらにあるかはわかったけれど……ふたつの世界の狭間に来たようなものだ、これは驚くほど遠ざかったね」
「結果としては前進だろ、やるっきゃねぇよ」
「……いつになったら義父さんの真似をやめるんだ、織人」
ほんの少し不機嫌そうな声だった。
それを聞いたバルドは肩を揺らして笑う。
「真似じゃなくて、もうこれも俺だ。そして僕だ」
「……」
「お前にだってわかる時が来るさ。色んな話をしながら足掻こうか」
「――転生時期にズレがあるように、今の世界と前の世界では時の流れに差がある。この空間も例外じゃないだろうね。……はぁ、長い話になりそうだ」
もし救助を望めても向こうでは数分も経っていないかもしれない。
自力で足掻くのもこの距離では一体どれだけかかるのか。
それをすべて理解した上で、オルバートは吐息など出ていないため息をつくと観念したようだった。
あと数百年は付き合ってもらうぞ。
そう快活に言って、バルドは再び赤黒い世界に向かって腕を動かし始めた。





