第996話 君を不幸にする気はないよ 【★】
「そうか、なるほど。イオリの魂だからこそだろうが、そのような形で邂逅できるとはな……」
――しばしの時間を使い、伊織から事のあらましを聞いたヨルシャミは自分の顎をさすりながら感心したように言った。
肉体から離脱した魂は常人なら意識を保つのも難しく、成すすべなく流れに乗って生まれ変わっていただろう。
もちろん世界の神による転生とは異なり、自然のサイクルの一部として生まれ変わる場合は記憶も人格も残らなくなる。人類であるかどうかも怪しい。
個人としてはそこで終わってしまうわけだ。
伊織も大きな流れに巻き込まれてしまい、自力では逆らえない状態にまで陥ったが、そのタイミングで世界の神フジの目に留まり助けられた。
だから僕だけの力じゃないよ、と伊織が眉を下げると「我々では目に留まるところまで行けぬわ」とヨルシャミに笑われた。
「なんにせよ、目標のためにイオリを鍛えること自体は今までと変わらぬわけか」
「うん、ヨルシャミにはまた負担をかけちゃうけど……」
「私もなにも出来ぬ状態より打ち込めるものがあったほうがいい。ただ……イオリよ、己の人生をすべて投げ打とうなどとは考えるな」
ヨルシャミはコップに水を注ぎながら言う。
「お前は今、あまりにも多くのものに手を差し伸べようとしている。それらがすべて成功する保証はない。だからこそ必死になって可能性を増やそうと日々を過ごすことになるかもしれないが――お前の人生はお前のものだ」
「ヨルシャミ……」
「救いの手を差し伸べきれないことを悔いずに受け入れ、お前の人生のことも大切にしてくれ」
その言葉にシェミリザとの最後の会話を思い出した伊織は目を細めた。
あの時、伊織はシェミリザに言った。
シェミリザだって酷い目に遭えば心が弱る。守りたいものに救いの手を差し伸べきれないこともある。もちろん、そのことを悔いることも。
それこそが人である証左、証だと。
シェミリザは笑ってそれを聞いた後、返事として言ったのだ。
あなたも肝に銘じておきなさい、と。
伊織の傲慢なほどの善心をわかっているからこその言葉だった。
伊織は一度だけ目を伏せてから「うん」と頷く。どことなく安堵した顔をしたヨルシャミは「それにな」と言葉を重ねた。
「眠りにつく前にシァシァから軽い説明は受けただろうが、今の伊織は人間でありながら枠外にいるような存在だ」
「うん、僕が生き永らえたのはパパが延命処置してくれたからなんだよな」
ナレッジメカニクスでは所属している者が有益と判断されて幹部になった場合、本人の希望さえあれば延命処置を受けられる。
その結果、シァシァが生きている限り長命種並みの——もしかすると一部の長命種より長い命を得たのがセトラス、ヘルベール、ナレーフカ、そして魔石に変わる前のニルヴァーレだ。
そんな者たちと同じステージに立つことになった、とシァシァの説明から理解した伊織に抵抗感はなかった。
もちろんまったくないと言えば嘘になるが、延命処置を受けた人間と共に暮らし、接してきた洗脳中の生活が影響しているらしい。
生きる指標、モデルケースがいる状態からのスタートであり、落ち着いて目標に時間を使えると喜んだくらいだ。
ヨルシャミは水を注いだコップを伊織に差し出して言う。
「我々の独断で決めたことにメリットを示すのは後ろめたいが……つまり、今のイオリには時間がある。だからこそ急くな、バルドやオルバートたちもそれは望むまい」
「……うん」
「魔獣に関してもすべてを背負うな。救おうとするお前を止めはしないが、救おうとして身を滅ぼすなら話は別故な」
そうなれば協力はしない、とヨルシャミはきっぱりと言い放った。
伊織はゆっくりと頷いてコップを受け取る。
「君を不幸にする気はないよ」
「……う、うむ、ならば良い」
伊織が不幸になればヨルシャミも不幸になる。
それを自覚していると示され、ヨルシャミは笑みを浮かべながら照れ隠しに咳払いをした。
「まぁ後のことは追々決めよう、皆に話す段取りも必要だ」
「段取り?」
「回復魔法とて万能ではないと身を以て知っているであろう? お前が早く話したくとも聞く側も満身創痍、国だって良くも悪くも混乱している。落ち着く時間は必要であろうよ」
たしかに、と頷いた伊織に「その辺りは私が調整して機を窺う」と肩を叩く。
そしてコップの水を飲む伊織を満足げに眺めながら頬を掻いた。
「しかし、その、なんだ。驚いたとはいえ、あのような失態を見せることになるとは……情けない限りだ」
「失態……ああ、さっきの水を被ったやつ?」
そうだ、とヨルシャミは唇を噛む。
プライドの傷つくようなドジだったらしい。
オルバートならともかく何故私が……とぶつぶつ呟くヨルシャミに伊織は笑った。
「いや、頼り甲斐云々はちょっとアレだったけど、僕的には可愛かったからいいよ」
「かわっ……!? か、変わった趣味をしているな」
「好きな人なら大抵のことは可愛く見えると思うけど?」
ヨルシャミは即座に反論しようとしたが言葉が出てこなかった。
元の姿、すなわち伊織より遥かに高い背丈をした男の姿でもしっかりと惚れて愛情を向けてくる少年の言葉だ。重さと信用が違う。
きっと男の姿のヨルシャミが同じことをしても寸分違わぬ感情を向けただろう。
否定できなくなったヨルシャミは話題を変えようと頭をフル回転させる。
「ま、まあ気分転換になったようで良かった! これから忙しくなる故な、ガス抜きもしっかりせねば」
「うん、結婚式もどうするか決めていかなきゃだし」
「けっ……こ……う、うむ、うむうむ、そうであるな!」
ミッケルバードの施設で受けたプロポーズを思い出したヨルシャミはフリーズしかけた。話題は変わったが、変わった先も心の準備が必要なことだった。
その様子に伊織はくすくすと笑うと、コップを置いてヨルシャミの手を握った。
「さっき自分の人生も大切にするって約束したし、ヨルシャミを不幸にしないって約束もしたよな」
「……ああ」
「だから目標を追いながら、けどちゃんと自分のしたいこともする。僕は君と人生を歩みたい。その道は予想より長くなりそうだけど……一緒に来てくれるんだろ?」
ヨルシャミは握られた手と、握る手を見下ろす。
もう温かさの戻らないと思っていた手。握られることのないと思っていた手だ。
それが今は安堵するような体温を伝え、しっかりとヨルシャミの手を握っている。
それを自分から手放すなど言語道断だとヨルシャミは笑うと、自分からもぎゅっと握り返した。
ミッケルバードでのプロポーズでは生きて帰ってからやり直せと伝えたが、それは応えたも同然だった。
今も伊織は結婚を前提で話していたが、このセリフはきっと第二のプロポーズなのだろう。
ヨルシャミは歯を覗かせて笑う。
「もちろんだ。お前が嫌がってもついて行こう」
「あはは、嫌がる機会なんてなさそうだけどなぁ。……ヨルシャミ」
伊織はヨルシャミの頬に手をやる。
そのままお互い顔を近づけたところで――部屋のドアが開いてそれぞれ反対方向にひっくり返りかけた。
「ヨルシャミ、替えのタオルを持ってき……伊織!? 目覚めたのか!」
「か、母さん、おはよ」
伊織は赤い顔でぎこちなく手を振る。
静夏は満面の笑みを浮かべて近づきながら、それと同時に滝のような涙を流しながら「おはよう!」と返した。
そのあまりにも凄まじい涙の量に伊織は口元を引き攣らせる。
「母さんの涙腺、前よりぶっ壊れてない!? ナイアガラの滝やイグアスの滝を思い出したんだけど!」
「すまない、お前の生還を知ってからどうにもコントロールできないんだ」
「変な後遺症残してごめんな!?」
水分の消費量が心配すぎる、と伊織は慌てふためく。
――こうして、静夏の持参したタオルは予定とは異なる活躍の場を得たのだった。
ヨルシャミ(絵:縁代まと)
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