絶望 その一
「…グリム…」
空を見上げたまま、アイマスが苦々しい顔で呟いた。ひぃ—と、クシケンスが後退れば、彼女の展開した錬金陣はたちまちのうちに消失した。
「クシケンス!何をしてる!詠唱を止めるな!修道士はアシュレイの近くに集まれ!」
アイマスの怒号にクシケンスは慌てて錬金陣を立て直し、修道士達はおしくらまんじゅうでもするかの如く、身を寄せ合う。アイマスがこうも声を荒げることは珍しい。それほど余裕がないのだろう。
「…マコト…私があれを止める。エンチャントを頼む」
「アイマスっ!?」
アイマスの求めに、私のみならず、皆が驚き目を見開く。正気とは思えなかった。グリムを止めるという発言もさることながら、私はエンチャントが不得手だからだ。いや、使えないと言ってもいい。専ら攻撃魔術に特化している私は、ラヴァの補助なくしてエンチャントを成功させた試しがない。けれど、そんな私にエンチャントを施せ—とアイマスは要請してきた。ラヴァと協力して—ではなくだ。考えるに、それでは私とラヴァの魔力が混じり合い、アイマスを強化しきれないからだろう。
(正面から挑むつもりなんだ)
エンチャントの得意なラヴァ、錬金陣でエンチャントの効果を底上げするクシケンス。さらに、そこに私のエンチャントも加えてくれ—と言っているのだ。付与魔術は通常の魔術とは違い、理論上、異なる魔力であれば、いくらでも重ねられるのが強みだ。魔力を上手く制御できない由香里、修道士達から離れられないアシュレイは仕方ないにしても、術者3名によるエンチャントは、グリムを相手取るつもりならば外せないのだろう。
「…言っとくけど、効果のほどは期待しないでよ?」
「ああ。あるだけ有難い」
吐き捨てるかのように告げるも、アイマスは肩越しに笑った。なんだよそりゃ—と、口を尖らせる。アイマスが見せたのは、まるで、最後の晩餐を思わせるかのような、悲壮感を漂わせるものだった。
(こんなところで終わる気はないっつーの!)
付与魔術の基本は、己の魔力を相手の魔力に同調させることだ。これが出来ねば、付与魔術とはなり得ない。けれども、私の魔力は少しばかり特異だ。原因は分かっている。私の持つスキルの中に、“侵食”というものがある。これが厄介なのだ。エンチャントを施した相手の魔力までも侵し、私の魔力に染めてしまう。これでは、相手は己の魔力として私の魔力を運用できないばかりか、己の魔力すらも満足に扱えなくなる。はっきり言えば、まるっきりデ・エンチャントだ。強化しているはずが、弱化させてしまうのである。
「…失敗しても知らないよ」
「はは、成功するさ。マコトなら」
視線を一度上空へと戻せば、いつの間にやら大きな影に覆われているのに気が付いた。グリムの巨体はゆっくりと私達めがけて下降してきているのだ。否、そうではない。私達に向けて滑空してきている。巨大過ぎて、その速度を見誤っているのだろう。
(くっそ!責任重大じゃんか!)
あの巨体をどうにかする上で、盾のスキルを持つアイマスは不可欠だ。大岩を作って進路を遮る。衝撃を加えて軌道を逸らす。いずれの手段を用いようとも、あの大質量では対処しきれない。どうしても、大質量を受け止める防波堤がいるのだ。その防波堤たるアイマスが防ぎきれなければ、私達は押し潰されて、あるいは飲み込まれて死ぬ。私達のみではない。背後の修道士達も皆、助からないだろう。
(…無理だ。無理だよ…失敗したら後がないじゃんか…他に手は?)
一度は決意を固めたはずなのだが、いざやろうとすると、どうしても身体が動かない。しくじれば死ぬのだ。それも己だけではなく、皆が道連れだ。成功する保証などなく、失敗した時の保険もない。ぶっつけ本番で勝負に出るには、グリムはあまりにも強大過ぎた。
(こ、こんなの無理だよ)
ガバ—と大きく開かれた怪鳥の口を見て、すっかりと恐怖に竦み上がり、一度は練った魔力を手放してしまう。考えは纏まらず、脳裏には血塗れになり動かなくなったアイマスらの姿が浮かんでは消えてゆく。いつの間にか膝は震えだし、歯の根が合わなくなっていた。どんどんと濃くなってゆくグリムの影に、巨体が奏でる風切音。もう駄目だ—と、泣きそうになった。
「落ち着きなさい、真」
「…ゆ、由香里…」
すっかりと動転した私の肩に手を置いたのは、同胞の由香里だった。
「駄目だったら一緒に頭を下げてあげるから。もっと自分に自信を持ちなさい。貴女ならできるわ」
「…それ、あの世でだよね?」
言い含めるかのような物言いに、引きつった笑みを浮かべながら尋ねれば、当たり前じゃない—と、由香里は笑う。ふと視線を感じて周囲を見れば、アイマスも肩越しに笑っていた。
「恨んだりなんてしないさ。どの道、ラヴァとクシケンスのエンチャントのみでは防ぎ切れないだろう。ここを切り抜けられるかどうかは、マコトにかかってる訳だしな」
「…だから、責任重大過ぎるっての…」
アイマスの軽口に、私も軽口で返す。恐怖のせいか、仲間の暖かさか。理由は不明だが、ボロボロと涙がこぼれた。
(落ち着け…できる。…私はできる…)
ラヴァやクシケンスは、エンチャントの詠唱のみを終えた状態で、私の術の発動を待っていた。おそらくは、私が失敗した場合に備えて、私のエンチャントをかき消すべく待機しているのだろう。
「ソティ、マギステル。逃げられる者達まで付き合う必要はないんだぞ?」
その時、アイマスが肩越しにソティへ声をかける。そうだ。ソティらには駿馬も真っ青の脚がある。私達に付き合う必要なんてない。逃げるべきだ。仲間と共に、一人でも多く。
「何を言っているので御座いますか?アイマスが止めた後、誰があんなデカブツを仕留めるので御座いますか?私達の攻撃力は、必要不可欠で御座います」
しかし、ソティは首を傾げて、巫山戯たことをさらりと言って退ける。アイマスを信頼しているのだ。更には、アイマスを強化するであろう私のことも。私にしてもアイマスにしても、微塵も失敗するなどとは思っていないに違いない。横で聞いていて、思わず吹き出し、それまでの詠唱がふいになるところだった。
(すごいよソティ。…全く、己の肝っ玉の小ささが嫌になるね)
思わぬところで肩の力が抜けたものだ。今ならば、何でもやれそうな気がする。乱暴に涙を拭い、由香里を見た。
「仲間って、凄いね」
「そうね。私もそう思う」
是が非でも成功させなければなるまい。アイマスの、ひいてはソティの、いや、皆の信頼を裏切ることなどできはしない。成功させる以外の道などない。
「プロテジョン・アタック!オバー・アタック!」
今度こそ、エンチャントをアイマスへ施す。私の魔力がアイマスを包み込み、ゆっくりと馴染んでゆく。けれども、まだ安心はできず、私は術の制御を手放さない。完全にアイマスの魔力へ同調し切らない限り、油断は禁物だ。
『プロテジョン・アタック!オバー・アタック!』
「プ、プロテジョン・アタック!オバー・アタック!」
しかし、私の魔力がアイマスへ馴染みきる前に、ラヴァとクシケンスのエンチャントがアイマスを包み込む。まだ私のエンチャントは成功したとは言い切れないのにだ。万が一、侵食が発生すれば、ラヴァ達のエンチャントまでもが無駄になる。おい!?—と焦燥に駆られてクシケンスに視線を向ければ、クシケンスはニカリと笑って見せた。
「大丈夫です。ほ、保証…します。天才と呼ばれる、私が」
『右に同じく!真がここ一番で失敗るはずなどありません!』
クシケンスに続き、上空のラヴァまでもがそんなことを言うではないか。
「随分とハードルを上げてくれるね?」
『人間、追い詰められた時の方が、思わぬ力が出るものです』
二人の思いに軽口で返せば、鳥が人間を語った。まあ、それは置いておこう。これに応えられずして、いつ応えようというのか。もはや遠慮などしない。様子見の低威力エンチャントなど廃棄だ。ありったけをプレゼントしてやろう。
「きっついのいくよ!アイマス!」
言うや否や、己の全力をアイマスへと向ける。一際巨大な魔力がアイマスを包み込み、その身を覆えば、アイマスは大きく身を捻った。
「待ったぞ!マコト!」
アイマスの魔力が一気に膨れ上がる。ミシミシと聞こえそうなほどに全身で剣を引いたかと思えば、アイマスを覆っていた魔力は、驚くべき滑らかさで剣身へと収束してゆく。
「喰らえ!グリムゥゥゥゥ!!」
轟—と、まるで突風でも吹いたかのように雪が舞い上がり、私の顔を石礫が叩く。アイマスは剣を横薙ぎに振るっていた。目を細めたままでグリムを見れば、アイマスの放った飛刃がグリムの嘴を強かに打ち付けており、その首はあまりの衝撃に歪んでいた。
『サンダーコレクト!』
次いでグリムに襲いかかるのは、ラヴァの放つ雷撃だ。展開する魔法陣の精密さは、極めて高度な魔術の証左に他ならない。
『…ファイア!』
音すらも置き去りにする稲光が駆け抜けた後には、耳を劈くような雷鳴が鳴り響く。グリムの羽が空を舞い、雷電が駆け抜けたであろう地肌が剥き出しとなり、片眼は熱により白く濁っている。もはや自然治癒は望めないだろう。乱発できない隠し球だけあり、相変わらずの破壊力だ。
「私も!」
ラヴァの放った一撃に私も続く。長々と詠唱している時間などない。ありったけの魔力を衝撃へと変えて、グリムに叩き付けた。
「お、おおっ!?」
ついにグリムの巨体が制御を失い、ぐらりと空中で体勢を崩せば、一気に高度が下がった。
「や、やったのか!?」
「まだよアイマス!」
そのまま墜落したかに思えたが、グリムは既の所で体勢を整えると、更に加速する。滑空の衝撃で雪原を切り裂きながら、私達めがけて大口を開く。もう、グリムは目と鼻の先だ。やはり、アイマスが止める以外にないだろう。
「ちっ!デ・エンチャントを頼む!」
「デ・プロテジョン・アタック!デ・オバー・アタック!デ・クイック!」
『クシケンス!我々も続きますよ!』
「は、はいっ!」
私の後を追い、ラヴァとクシケンスもデ・エンチャントを重ねてゆく。グリムの巨体を覆うには、随分と多くの魔力を消費するが、やるしかない。私達は肩で息を吐きながらも、なんとかデ・エンチャントを行使した。
「…きっつ…」
「…そ、そう…です、ね…」
『大き過ぎますよ…』
あまりのデカさに、本当にデ・エンチャントが機能しているのか判別がつかないが、ちゃんと機能しているのだろう。これ以上は強化も弱化もやりようがなく、後のことはアイマスに委ねるしかない。
「頼むよアイマス」
「任せておけ」
準備は整ったとばかりに、アイマスが盾を打ち鳴らしながら前方へ駆ける。ガンガン—という音は、魔物達にとってはよほど不快なのだろうか。絶望の名を冠する怪鳥が、アイマスめがけ、より一層加速した。幾分か羽が抜け落ちているせいか、グラグラと不安定に揺れてこそいるが、それでも私達を逃す気はないらしい。
「全員下がれ!下がれるだけだ!」
「ごめん!お願い!」
アイマスの指示に従い、修道士達と共に駆ける。なお、アイマスが声を上げるよりも早く、ソティは消えていた。先にはアイマスや私を信じているかのような口ぶりで話していたものだが、あれは一体何だったのだろうか。けれども、そんな些事をアイマスは気にしない。いや、既にグリムしか目に入っていないのだろう。全身に再び魔力が漲り始めている。闘技を使うつもりなのだ。盾を構えて腰を落とす姿を見るに、やろうとしているのはフォートレスに違いない。
「あ、あれ?由香里!?」
ところで、そんなアイマスのすぐ背後には、未だに由香里が佇んでいるではないか。何をしているのか—と、慌てて駆け寄る。もう衝撃を肌で感じる程の距離にグリムは迫っているのだ。巻き込まれたら、いかに高レベルの由香里といえども耐えられないだろう。
「由香里!離れるよ!」
「…真が応えてくれたんだから、絶対に耐えてよ?」
由香里に声をかければ、由香里はこちらに頷いては見せる。けれども、直ちにそこを離れる訳ではなく、悠長なことを言いながら、無数の蔓人間を生成していた。何をしているのか—と由香里を引き剥がすべく近付けば、蔓人間は扇状にアイマスの背後へと陣取ると、スクラムでも組むかのように取り付いた。どうやら、蔓人間はアイマスへの餞別らしい。
「ごめんね真。離れましょう」
「うん—って、うわ!?」
言うや否や、私を担ぎ上げて跳躍する由香里。瞬く間に小さくなってゆくアイマスが、チラリと肩越しに私を見た。
「当た—————」
地を揺らし迫りくるグリムの齎す衝撃は、音を伴いアイマスの声をかき消す。彼女は確かに声を発した。当たり前だ、任せておけ—とでも言ったのかもしれない。ごめんね、怖かった?—と、私を下ろしながら詫びてくる由香里に首を振りながら、そんなことを考えていた。
平和な日々も悪くない。それは嘘偽りない気持ちだ。何事もなく平穏無事に暮らせるならば、それが一番幸せなのだろう。家庭を築くことに憧れたりもするし、仲良さげに手を繋ぐ親子とすれ違うと、ついつい視線を向けてしまったりもする。もし、ベルセルクなど持っていなければ、男性顔負けの体格を誇る私でも、そういった未来はあり得たかもしれない。
(まさか、考えの変わった矢先に、お前のような奴と見えることになろうとはな)
強敵と見えることで、ベルセルクに選ばれた理由が、何かしら分かるのではないか?—と、かつての私は考えていた。それ故に、我武者羅にレベルを高めた。ソティは信仰の都合から、私の考えに賛同した。マコトとて、魔術師という立場から、レベル上げには否定的な言葉を返しはしなかった。けれど、クシケンスが仲間になり、ユカリとも出会った。それからどれほどの月日が流れたのか。ふと気が付けば、平穏な日常を恋しく思うようになっていた。ベルセルクに選ばれた理由など、もはや二の次で、危険を冒すことなどあり得ない—と、彼女達と過ごす日常を大切に思うようになっていた。
(マコト達は下がったか。…ソティは…まあ、勝手にやるだろ)
己に何かあったとて、ソティならばどうとでもなる。現に、マコトらが仲間に加わる前には、壁役を交代することも少なくなかった。あれを害せる魔物など、そうそういはしない。けれど、マコト達はそうではない。彼女らの中で、前衛をこなせるのは、ユカリくらいだろう。それでも、今私達が置かれている状況にあっては、それも難しいと感じる。パーティの壁たる私無くしては、何かあれば容易に瓦解するに違いない。
—ボボボボボボ—
グリムの齎す衝撃に前髪が持ち上がり、外套が忙しなくはためく。間もなくぶつかり合う。私と、グリムが。エンチャントを三重に施し、同じくデ・エンチャントを三重に見舞った。これで私が止められなければ、土台無理な話だったのだ。そう考えて、グリムに魅入られた己の不運を嘆くしかないだろう。
(…しくじったら、そのまま丸呑みになるな…)
怖気付いている訳でもないが、どうしても変なところに意識は向く。失敗すれば後がないことは明白であり、そうなれば自然と視線は嘴に縫い付けられた。
(ああ…すっごいことになってるな。あれは助からんだろう)
大きく開かれた嘴の裏には、数多くの凹凸が見えている。丸呑みにした後は、あれですり潰すのだろうか。そんなことを考えた次の瞬間には、背後のマコト達や修道士達が平らげられる姿を想像してしまい、苛立ちに眉を寄せた。
(…あいつらを食わせてやる訳にはいかない。悪いな)
冒険者というものは、手に職を持たない者達の駆け込み寺であると同時に、命をチップにして大枚を稼ぐ仕事だ。一攫千金のチャンスは確かにあるが、世の中そんなに甘くない。一攫千金を狙う者は、大半がチャンスを掴み取る前に死に、多少頭の働く者などは、己に見合ったランクに留まり落ち着く。一度外へ出れば、危険が常に付き纏い、判断を誤れば死ぬ。運が悪くても死ぬ。ギルドはなるべく危険を冒さないように指導してくれてはいるが、事故は往々にして起こるし、綺麗事は通じない。全て自己責任の世知辛い業界だ。
(それでもな…別れるなら、笑って別れたいんだよ)
こんな所で、マコト達を失う訳にはゆかない。彼女達は本当によくやっている。元の世界に帰るべく、必死に魔術の研鑽に励むマコト。彼女の研究から得られる副産物は、魔術を一段階上へと引き上げることだろう。そのマコトを支えるべく、錬金術師ギルドで働くユカリ。本当は、マコトと共に魔術の研究に没頭したいはずなのに、それでは金が底をつく。だからこそ、彼女は裏方に自ら回ったのだ。そんなユカリを一人前にすべく、己の技術を惜しみなく叩き込むのはクシケンス。彼女の霊薬に関わる発想、技術は超一流だ。それを快く授けてくれる懐の深さは、他に類を見ない。そして、日々神に祈りを捧げ、孤児達と遅くまで聖火台を作り続けていたソティに修道士達。行き場のない子供達が歪まずに育つよう、分け隔てなく愛しみ、教育まで施す。そうそうできることではない。誰もが、こんな所で死んで良い者達ではない。何の役にも立っていない無駄飯喰らいは、己のみだ。
(ああ、誰か忘れてると思ったが…アシュレイもいたな。そういえば)
なにを〜!?—と怒れるアシュレイを想像して、少しだけ愉快な心持ちになった。もちろん、彼女とて、この世界に必要な人間だ。
(困った時の、神頼み—だったか。私が祈るなんて貴重だぞ?)
愉快な気持ちそのままに、天を仰ぐ。厚い雲に覆われた空には、神などいるようには思えなかったが、それでも己の背後で震える者達のことを思えば、祈らずにはいられなかった。
(あいつらは報われるべき奴らだ。この身はどうなってもいい。頼むから、あいつらは無傷で帰してやってくれ)
頼むよ—と、再度請う。これで心残りはない。後は、己の全力をぶつけるのみだ。
「アイマス!」
背後からマコトの悲痛な声が届く。私がいつまで経っても動こうとしないため、焦れたのだろう。まったく、堪え性のない奴だ。
「さあ、来い!」
一度狙いを定めれば、大地を抉り、土ごと獲物を飲み込むと語られるグリム。まさに言い伝えられる通りで、グリムの嘴が大地を削り、厚く積もった雪ごと平原を飲み込み始める。このまま私達を平らげるつもりなのだろう。
「ああ、怖い。怖くてどうしようもないな。いっそ笑えてくる」
ふと目の前に迫るグリムが、魔物の大群に見えた。チラリと視線を落とせば、私の構えた盾は、心許ない戸板に。手入れを欠かさない剣は、錆の浮いた農具に。まるで自嘲でもするかのように、ふっ—と、小さく笑った。
(…なるほど。彼はこんな心持ちだったのか…)
絶望的だ。勝てっこない。子供でも分かる。けれど、魔物の群れを前にして、彼は逃げなかった。村の皆が逃げ出し、なんの援護も期待できない状況の中、たった一人で魔物の群勢へと立ち向かった。村の仲間達を一人でも多く生き延びさせるべく、大群を前に立ちはだかったのだ。ならば、私も逃げる訳にはゆかない。
「頼むぞ…フォートレス!」
フォートレス—盾職の基本にして奥義。この技と挑発行動をどこまで熟達させるかで、盾職の評価は決まると言っても過言ではない。魔力に瞬間的な不動性を持たせ、如何なる重量の攻撃にも耐えるという無茶苦茶な盾を作り出す闘技だ。
「ふぅっ!」
背中を伝う冷や汗から意識を逸らし、恐怖に立ち向かうべく一層腰を落とす。次第に衝撃は風の暴力へと変わり、大きく開かれた嘴が眼前へと迫る。ついにグリムの巨体が魔力の盾へ衝突すると、全身が悲鳴を上げた。
「ぐうう!」
フォートレスの効果により、盾へと不動性をもたせてある—はずなのだが、グリムの巨体は盾ごと私まで押し込み始めるではないか。敵は己を遥かに上回る巨体だ。一度足が滑り始めると、もはや止まる術などない。
(これほどか!とんでもないな!)
更に予想外であったのは、グリムは風の障壁を纏っていた事か。ドラゴンなどの大型生物は、羽で飛行する訳ではない。自重を空へと浮かすために、風魔法を用いる。羽は魔法と姿勢制御に用いられるのが主な役割だ。グリムは鳥であるため、見かけに反して軽いかと思いきや、そんなことはなかった。三重に強化と弱化を重ねた上でフォートレスを用いて、なお手に余る重量を備えていた。盾、上衣、皮膚に至るまでが、グリムの纏う風の鎧で削られてゆく。グリムは確かに絶望の名に相応しい化け物であった。
(くそっ!ままならないな!)
このままでは、削り殺される。あるいは、押し潰されるのか。いずれにしても私に先はない。己の力を過信していた訳ではいが、グリムの力量は完全に見誤っていた。これだけの援護があって、それでも踏み止まることすらかなわないとは思わなかった。
—ピキピキ—
作り出した魔力の盾に、小さな亀裂が入る。それを認めてギョッとしたものの、すぐに意識を切り替えた。取り乱してはならない。闘技や武技も、言わば魔法だ。心の強さは技の精度に大きく影響する。心が呑み込まれては、魔力の盾とて十全を発揮し得ないのだから。
(…まだ!まだだ!まだ終わっていない!)
それに、活路がない訳ではない。マコト達の施してくれたエンチャントは、今や私の魔力の一部として、正しく機能してくれている。ならば、この魔力を用いれば、フォートレスの更に上位にある闘技を発動させられるはずだ。
「ぬうう!うおおおおお!」
しかし、起死回生の一手を打つべく、全力で盾を前へと突き出すものの、徐々に押し込まれ、次第に旗色が悪くなる。これはまずい。不十分な体勢では満足に力が入らず、より上位の闘技を発動した瞬間に、体制を崩して呑み込まれることもあり得る。このまま闘技を発動させることはできない。最低でも、姿勢を立て直さなくてはならないだろう。
「がっ!?」
まるでこちらの思考を読み取っているかのように、ちょうどよく妨害が入る。一際大きなうねりを見せた風の暴威が盾を躱し、強かに肩を叩いたのだ。僅かに押し込まれ、足が浮いた。
『ブオオオオオオオオオ!!!』
「くうっ!」
更には、ここに来て、それまで沈黙を保っていたグリムが雄叫びを上げる。するとどうしたことか。荒れ狂う風がより激しくなったではないか。これはヤバい—と、肝が冷えた。
「アイマス!」
轟々と鳴り響く風を切り裂き、マコトの声が耳朶を打つ。何かと思えば、私の傍から石柱が立ち上がり、グリムめがけて迫った。
(マコト!?クシケンスかっ!?)
『ブオオオオオオオオオ!!』
見れば、硬化まで伴った石柱である。硬化は錬金術の術理が齎す結果である事から、石柱はマコトとクシケンスの合成魔術であろう。だが、グリムの風の鎧に遮られ、石柱はグリムを捉える前に、どんどんと削られてゆく。
(くそ!この風!この風さえっ!)
歯が割れそうな程に食いしばって全身に力を込めるが、それでも徐々に身体は押し込まれ、蔓人間の補助も虚しく、瓦解寸前になっていた。押し留めることもできず、軌道を逸らすことすらままならない。もう、ここまでか—と、観念しかけたその時だった。
「風よやめ!」
暴風の真っ只中にありながら、今度は透き通るようなアシュレイの声を聞く。風よやめ—その呪文が齎された刹那、グリムの纏う風の鎧が掻き消えた。思わず笑いそうになる。流石だよ、大先生。
「うらぁ!」
『ブオオオオオオオオオ!!』
チャンスと見て、より一層盾を押し付けた。だが、グリムとて負けてはいない。先ほどまでの丸呑みに向けた執着は何処へやら、唐突に頭の向きを変えたかと思えば、私を噛み砕かんとして横から嘴を閉じようとする。咄嗟に両腕を開き、盾と剣で嘴を押さえ込んだ。ミシミシと嫌な音が聞こえるも、それはさして問題ではない。舌だ。考えなしに両腕を開いた私の眼前には、巨大な舌がうねっていた。
(まずい!)
今、体勢を崩したら終わりだ。己の浅慮を悔やむ前に顔が引きつった。
「アイマスをガード!」
背後から届いた声は、由香里のものだ。私の背中を押していた蔓人間達が、前へと飛び出しては、グリムの舌を嘴と縛り上げる。背中が随分と心許なくなったが、好機に違いない。この隙に体勢を立て直すのだ。なんとしても。
『ブオオオオオオオオオ!!』
「煩い!」
グリムの咆哮に、魔力の盾へ致命的な亀裂が入った。もう保たない。即座に体勢を立て直し、新たな闘技を使わなくてはならないだろう。
(体勢を立て直せ!どうにか!少しでもいい!)
歯を食いしばり、身体を前へと押し込む。けれど、現実は無情だ。どんなに力を込めても、グリムの巨体はピクリとも動かない。それどころか、嘴を押さえつけようと開かれた両の腕は、少しずつ閉じ始めている。もはや、これまでだろうか。
(いや、ダメだ!そんなのは認めない!マコト達は私が守る!守ってみせる!)
鎌首を擡げた弱気に克己し、施していた身体強化を更に強める。何もなかった私に、日々を生きることの楽しさを教えてくれた仲間達。私を信じて、今なお援護してくれている仲間達。絶対に守るのだ。私はここで終わってもいい。なんとしても、背後の者達は救う。救ってみせる。
(なんだ!?…身体が?)
不意に身体が軽くなった。グググ—と嘘のように両腕が簡単に開き、グリムの嘴を押し返す。グリムの暴威が和らいだ訳ではない。魔力の盾は今なお削られ続けており、私の両腕にかかる力とて、微塵も落ちてはいない。だがしかし、どういう訳か、それをさして辛いとは感じなくなっていた。まるで腹の底から力が湧いて出るかの如く、余裕がある。意識が加速し、まるで世界の流れが遅くなったかのような万能感に包まれていた。天の助けか、はたまた秘められた力でも目覚めたのか。何にせよ、これならば不足はない。遠慮なくやらせてもらおう。
『その力はダメだよ』
その時、何かが私の肩へと乗っかった。それと同時に飛ばされてきた念話にハッとする。途端、万能感は消えた。
「ぐあっ!?うぐぐぐぐ!!」
『ブオオオオオオオオオ!!』
世界が動き出すと同時に、再びグリムの攻勢が始まり、私は一気に崖っぷちへ追い込まれる。あのままならば間違いなくやれていた。何故邪魔をするのか。
『その力はダメ。それは命を削るもの。そんなことはさせないよ。大丈夫、アイマスは負けない』
内心で腹を立てていたのを見透かしたかのように、念話が届く。念話の主は、肩に乗る何かだろう。余裕がない中、視線をチラリと肩へ向ければ、黒い球体が乗っかっていた。
(っ!?アーサーさんかっ!?)
その通り—と正解を告げると共に、アーサーさんの身体が私の全身を覆う。足に根が生えたかのように大地に固定され、浮きかけていた身体が安定する。そればかりか、身体中を暖かい湯で覆われたかのような心地よさに包まれた。これは魔力だ。アーサーさんが己の魔力を私に馴染ませてくれているのだ。さしずめ、簡易エンチャントといったところか。
「アイマス!頑張って!」
さらに私の両脇をかすめて、再び石柱がグリムを叩く。それでもグリムは止まらない。先ほど止んだ風の暴威も再び始まった。どんだけだよ、この化物が—と、呆れて笑うしかない。だが、もう負ける気がしなかった。私達の勝ちだ。
「やるぞ!アーサーさん!」
全身に力を込めて、グリムの嘴を押し開けば、後は任せろ—とばかりに、アーサーさんの触手が後を継ぐ。私は両手を前へと突き出し、高らかに告げた。
「バスチオン!」
亀裂の入ったフォートレスが、瞬く間に修復されてゆく。否、そうではない。新たな闘技として生まれ変わっているのだ。ただでさえ身の丈を超える大きな盾を更に分厚く、更に広くした、まるで壁を思わせるような、巨大な盾が現れた。
『お見事』
「…ははっ、やれるもんだな…」
私の発動させた、フォートレスの上位闘技だ。生まれ変わった巨大な盾は、その威容に相応しい強度を持つものらしく、嘴も風も通さない。私に施されたエンチャントは全て消えてしまったが、問題はない。後は、この巨体の勢いを止めるのみだ。今度こそやってみせる。
「プロテジョン・アタック!オバー・アタック!」
ところが、決意を新たに歯を食いしばった私に向けて、再び2人と1羽のエンチャントが届く。思わず笑いそうになった。
(まったく、格好がつかないな。結局、皆に止めてもらったようなもんだ)
さらにダメ押しとばかりに、背後からドンドンと破裂音が轟き、私の背中が前へと押される。私の背後で組み付いた蔓人間を爆発させ、推進力に変えているのだろう。大した衝撃を覚えないのは、アーサーさんに包まれているからだろうか。
「うおおおおおお!!」
ここまでお膳立てされて、たかが鳥の1羽を防げなくてなんとする。己の全魔力を総結集するばかりか、アーサーさんの魔力まで拝借して身体強化を施した。まずは止める。なんとしてでも止めるのだ。後のことは、ソティがどうにかしてくれる。
「諦めろ!グリムゥゥゥゥ!!!」
裂帛の気合と共に魔力の盾を押し込む。風の障壁を押し開き、グリムの嘴へとバスチオンを叩き付ければ、ついにグリムの勢いは完全に消えた。
—ズズゥゥゥゥゥゥ—
風の暴威が止み、グリムの巨体が雪原に沈む。これには修道士から驚嘆の声が上がった。名高い絶望をたった数人で押し留めたのだ。修道士達の驚きや歓喜は当然であろう。けれど、これで終わった訳ではない。まだ一手を防いだのみだ。むしろ、ここからがスタートだ。
「ここで仕留めるぞ!絶対に飛び立たせるな!」
声を張り上げ、剣を握り込む。しかし、足元が定まらず、気が付けば雪を抱いて伏していた。ガンガンと頭の中を直接叩かれているかのように、頭痛と目眩が襲いかかってくる。不甲斐ない話だが、自身の魔力はほぼ空であった。立ち上がることも難しい。
“お疲れ様でした。後は任せてください”
目の前に現れた木板よりも、ズリズリと引きずられているのが気になる。巻き込まれないように、グリムから離されているのだろう。それにしたって酷いと思う。もう少し丁寧に扱ってもらいたいものだ。
(ああ、くそ…頼むぞ…ソティ…)
けれども、悪い気はしない。むしろ、やりきったという満足感に包まれていた。もう何も心配はない。後はソティに託すとしよう。




