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異世界転移したけれど、さっさとお家に帰りたい  作者: 焼酎丸
第5章 アンラ神聖国に蠢く闇
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アンラを襲う呪印 その三

—ゴォン、ゴォン—


 昼時を知らせる鐘の音が、どこからともなく聞こえてくる。締め切られた会議室に窓はなく、魔道具の作り出す薄明かりの中、わしらは顔を突き合わせていた。突き合わせていた—と言っても、何かしら建設的な話ができている訳ではない。ベロートとブルーツが頭を抱え、わし、モスクル、そしてスパマガジニーは黙すのみであった。


(困ったことになったのう)


 鐘が鳴り止み静寂が訪れると、はぁ—と大きく嘆息しながら、ベロートが口を開いた。


「聖水は効かない。祝福を授けた霊銀(ミスリル)の短剣も、一回使ったら祝福し直し。修道士達は出払っているし…戻せば察知されるでしょ?…もう、どうしたらいいのさ?」


 言い終えた後は、再び項垂れて頭を抱え込む。なかなかに堪えているようだ。つい先刻も同じことを口にしたが、今一度声に出した。


「昨日見せただろう。呪印を消し飛ばす程の魔力をぶつけるしかない。或いは、呪具を見つける事が出来れば…呪印の解除もできるやもしれん」

「お前の全魔力を費やして、お前の高弟一人から呪いを消したんだぞ?判明しているだけでも王都民の五割以上が呪われている状況で、それだけの魔力を持つ者はお前以外にはいない。何年かかると思ってる。別のやり方を考えるんだ」


 わしに続いたのはモスクルであったが、彼はわしの意見に否定的なようだ。無理もない。わしの全魔力をもってして、一人の呪印を焼き払うのが精一杯。だが、今現在、調査の及んでいる限りでは、500人以上もの民達が呪いにかかっている。老いによるものか、わしは1日やそこらでは、MPが全快とはゆかない。他に任せられる者もいなければ、解呪に何年かかるか知れたものではない。


(それに、魔力を流される側にも、相応の力が求められる。レベルの低い町人などには、わしの魔力は強過ぎるからのう)


 王都民にかけられた呪いは、聖水でも取り払う事は出来なかった。即座にクローディアへと連絡したモスクルが指示されたのは、“ありったけの魔力を流して、呪印を破壊しろ”であった。クローディア曰く、解呪ではなく、破呪という呪術の破り方であるらしい。これだけの呪術ならば、間違いなく呪具がある。そして、呪具があるならば、解呪のための暗号があるに違いなく、それなくして解呪は成らない。破呪以外に手はないのだ。


(祝福された霊銀(ミスリル)の武器が、もっとあったら良かったのにのう)


 最初に発見された宮廷魔術師の男は、祝福された霊銀(ミスリル)の短剣で、呪印を破壊することができた。けれども、それだけで短剣は祝福の力を完全に失ってしまったのだ。再度、祝福の力を授けようとすれば、長い年月をかけて、祈祷を行わねばならない。


(クローディアをもってして、呪具を見つける以外に手がないとはのう…ふぅ、呪術は厄介だ。まいったの)


 己の高弟を助けた時は、クローディアの指示に従い、全魔力を呪印へと叩きつけてみることにした。なにぶん、破呪というものは初めてであるために、己が高弟を被験体に選んだ。結果、わしは魔力枯渇に陥り気を失ったが、高弟の呪印は無事に破壊されていたそうだ。


(わしが気を失っている間、ベロート達は王都民の調査を開始。結果、昨日だけでも五割以上の王都民が、何らかの呪いに侵されている事が判明しておる—か。ああ、ままならん)


 改めて状況を顧みて、崖っぷちであることを再認識する。呪印の効果にもよるだろうが、下手をすれば、アンラ神聖国は滅びるかもしれない。なんとかしなければならない。けれど、やるべきことも定まらず、他国を頼る訳にもゆかない。もちろん、ネームレスを呼ぶ訳にもいかなくなった。状況が大きく変わったからだ。国を揺るがすほどの呪いが人為的なものとなれば、それを成した奴がいるのだ。敵の姿も分からぬうちから増援などを呼んだ暁には、共倒れになる可能性とてある。いくらなんでも、不義理であるし、危険過ぎる。


「その、よろしいですかな」


 静まり返った会議室内に、年齢を感じさせない澄んだ声が響き渡る。その声の主は、スポマガジニーだった。彼はベロートに問いかけていたが、その顔には覚悟のようなものが見受けられる。何か、きまり悪いことでも言おうとしているに違いない。


「呪われた王都民ですが…一つだけ共通点がありますよ…」

「…女神教の信徒ってことだろ?」


 スポマガジニーが言い淀むと、代わりにベロートが後を継ぐ。これには、わしのみならず、皆が耳驚いて声を上げた。


「す、既にお気付きでしたか?」

「いや、だってさあ…教皇とはいえね、僕にもペーペーだった時代はあるわけで。その頃に、いっぱい声をかけてくれた人達の名前が載ってるんだもん。嫌でも思い付くよ」


 机に突っ伏すなり、はあ〜—と大きな溜め息をこぼしつつ、ベロートは報告書を手繰り寄せる。


「このゴランさんとか、先代教皇の大粛清でも埃一つ出なかった熱心な信徒さんだ。凄いよね。異端審問官を派遣されて、唯一、真っ白とのお墨付きが出たんだよ?信じられないよね。どんだけだよ。…こっちのアペンさんなんかは、冒険者上がりの粗野な僕に、嫌な顔一つ見せずに、欠かさず挨拶してくれた礼儀正しい人だ。冒険者としての功績から、貴族待遇で迎えられた僕はさ、教会内のどの派閥にも入れてもらえなくてさ〜…彼の挨拶には、随分と救われたよ」


 一人一人、ベロートが報告書にあげられた人名を指差しながら、この人はどうだった、この人はああだった—と続けてゆく。冒険者から聖職者へと転身し、そこから破竹の勢いで教皇へと駆け上がった男の半生が垣間見えたようで、少しだけ面白く感じた。


「ま、そんな感じさ。若い人は知らないけれど、昔から熱心に教会へと通っている人達は、大体知ってるよ」


 どうだい?—とでも言いたげな、悪戯小僧そのものの表情を覗かせるベロート。未だに机に突っ伏したままの彼に、スポマガジニーは首を下げた。


「…ならば陛下、憚りながら具申致します」

「僕が黒幕なんじゃないか?—って言いたいんだろ?いいよ、そんな遠慮しなくて。見知った顔しかいないんだし、いつも通りやってよ」


 今度もまた、スポマガジニーの先を取ってベロートが驚くべきことを口にする。開いた口が塞がらないとはこのことだろう。スポマガジニーもダラダラと汗をかいて、恐縮しきりだ。


「…スポマガジニー宰相…」

「申し訳ありません、王妃陛下。しかし、確認せぬ訳にはいかぬのです。何卒、ご寛恕を」


 この場にベロートしかいなければ、スポマガジニーとていつも通りに振る舞えたことだろう。しかし、実際はそうではない。ベロートの隣には、彼女がいる。十天の一人にしてベロートの妻、そして最強の護衛であるブルーツ・アンラ・ブルティングが。今のスポマガジニーの発言—正確にはベロートが言って退けたのだが—がよほど許せなかったらしく、腰に佩いた大鉈をすぐにでも抜き放ちそうな、冷たい視線をスポマガジニーへと向けていた。


「…よさぬか、ブルーツ。ベロートはこの国のトップではあるが、女神教の教皇でもある。そして、スポマガジニーの家は—」

「宰相として代々陛下を補佐し、教皇が国王となる国の制度から、平等を期すため、女神教からは離れていなくてはならない。常に陛下を導き、疑い、民と同じ視線を持たねばならない—でしょう?…分かってるわよ。そうじゃないの!そうじゃないのよ!」


 わしが諫めようとして声をかければ、ますますムキになって目を吊り上げるブルーツ。分かっていても、怒らずにはいられないらしい。


「頭では理解しているの!パパは教皇。女神教内部に細工があるとすれば、パパが真っ先に疑われる—そんなの当たり前よ。でも!でもよ!?パパだってそれが分かっているから、そんな馬鹿なことなんてしないし、何よりも、スポマガジニーだって、パパの人柄は知っているでしょう!?パパが犯人な訳ないじゃない!どうしてそんな酷いことが言えるのよっ!?」

「…申し訳ありません」


 ブルーツの剣幕に、スポマガジニーは頭を上げることができない。先ほどまでの凍てつくような視線から一転して、怒気をありありと宿した焼け付くような眼差しには、わしやモスクルも何も言えない。同情の念を禁じ得ないが、これも彼の役目の一つなれば、甘んじてもらう他ないだろう。


「やめなさい」


 諦めていたわしに代わり声を上げたのは、まさかのベロートだった。ベロートがブルーツを窘めることはそうない。思わずモスクルと顔を見合わせた。


「ママ、落ち着いて。スポマガジニーはよくやってくれてるよ。今だって、僕らに気を遣ってくれていたし、怒ってくれるのは嬉しいけれど、責めるのはダメだよ」

「あ、パパ…その、私…」


 ベロートのキリリと引き締まった顔は長続きせず、すぐに相好を崩すと、いつもの穏やかな顔付きへと戻る。けれども、それだけでもブルーツには効果的面であった。ブルーツはチラチラとベロートを覗き見ながら、ごめんなさい—と、スポマガジニーへ詫びた。


(…そこで赤くなるのか…)


 何故かブルーツの頰はほんのり色付き、しまいには、パパ…やっぱり素敵—とか呟き始めれば、それを聞きつけたベロートは、サービスとばかりに、再び表情を引き締める始末だ。こういうのをバカップルというらしい。


「…スポマガジニー様、ベロートのことで問題でも?」

「…様も不要ですよ。モスクル君」


 額の汗を拭いながら、モスクルに笑いかけるスポマガジニー。視線が交差したため、苦笑でもって彼の苦労を労った。


「まずは陛下が白であることを、確認しなくてはならなかった。王都民への説明をする時に、陛下が白と言い切れない状況にあっては困るのですよ。もちろん、陛下が白であることは私も疑うところではない。けれど、それとは別にして、何かしら白であることを証明できる物があれば—と、考えていたのです」

「あ、それなら必要ないよ。僕にも呪印あるから」


 スポマガジニーの言に乗っかり、ベロートが申告すれば、会議室内が一気に静まり返った。先ほどまでの凛々しい表情は鳴りを潜め、ベロートは再び机に突っ伏しているが、そんなことはどうでもいい。今、こやつは何と言った?


「…パ、パパ?…今、何て?」

「僕にも呪印があったんだよ。皆とは違う、特別製。やったね」


 ベロートの爆弾発言に、今度は会議室内が凍り付いた。ははは—と一人笑うベロートに、わしを含めた皆が青い顔を向ける。


「パパ!何でそんな重要なこと黙ってるの!?」

「え?言ったって仕方ないじゃない。安静にしていれば消える類の物じゃないし、大きさも報告書にある物よりはるかにデカいし、印も複雑だし。どうにもならないよね」


 ブルーツがなおも責め、ベロートはそれをのらりくらりと躱す。眉間を揉みながら二人のやり取りが終わるのを待っていたのだが、焦れたブルーツが立ち上がり、ベロートの上衣を剥ぎ始める。


「あ、ちょっとママ!こんなところで!」

「そういうことじゃないでしょパパ!」


 上半身を裸にされたベロートは、さらに追い打ちとして聖水を振りかけられる。寒っ!?—と本人はガタガタ震えるが、ブルーツは容赦しない。ベロートをがっしり掴み、肩に顔を近付ける。呪印は程なくして浮かび上がった。


「な、何よこれっ!?」

「やめよブルーツ!」


 嫌な予感に立ち上がれば、ブルーツは浮かび上がった呪印に触れようとするではないか。慌ててブルーツの手を押さえた。


—ドッ—


 何が起きたのか分からなかった。明滅する視界とままならない呼吸のせいで、上手く考えが纏まらない。分かったのは、己が倒れ伏しているということだけだ。


「やだっ!?デンテ!?」

「おいっ!デンテ!しっかりしろ!」

「いけない!法術師を!早く!」

「直ちに呼んでまいります!」


 皆がわしに駆け寄り、身を案じてくる。問題ない—と立ち上がろうとして、腕に力が入らないことに気が付いた。これはどうしたことだ?—と視線を向けるよりも先に、モスクルがわしを抱えて起こす。そのままわしは壁に身を預けられた。


「デンテ…息はできるか?」

「…あ、ああ…なんとかのう…何が、どうなった?」


 モスクルに頷いて返しつつ、チラリと己の腕を見る。だがしかし、そこに己の腕はなかった。右の腕が、肘から先が見当たらないのだ。ボタボタと大量の血を吐き出し、ローブを真っ赤に染め上げている。不思議と痛みはない。いや、傷を自覚したせいか、ゆっくりと痛み始めた。これは堪らない。


「ああっ!ごめんなさい!ごめんなさいデンテ!ほ、法術師を!」

「落ち着けブルーツ!」


 視線を持ち上げてブルーツを見やれば、わしの腕と思わしき枯れた前腕を抱き抱えて戸惑っている。その奥にはベロートがいたが、彼の肩に浮かび上がっている呪印は、暗い光を放ち、時折紫電を撒き散らしていた。


(…そうか。呪印には防御機構が備わっておったのか…)


 何が起きたのかを理解した。ブルーツを止めようとして、わしは呪印に触れてしまったのだろう。呪印の防御機構が働き、その衝撃で弾き飛ばされたに違いない。


(…わしも焼きが回ったなあ…)


 口の中にゆっくりと、渋味が広がってゆく。強かに壁へと打ち付けられたのか、内蔵も傷付いているのかもしれない。単純に口の中を切っただけならば良いのだが。


「…もう、ダメだ。どう考えても俺達だけでは対処できない。クローディアを呼ぶぞ」


 間近で聞こえた声に視線を向ければ、己の衣服を破り、わしの腕を止血しているモスクルと目が合った。


(それは…いかんよ…)


 クローディア達ならば—という思いは確かにある。彼女らのパーティは、一騎当千の猛者揃いであるそうだ。蟻の話を聞いた以上、それを疑う余地はない。ならば、この事態も打開してくれるのではなかろうか。そう縋りたくなるのは当然だろう。わしだってそうしたい。けれど、どんなに強くとも、彼らは一介の冒険者に過ぎない。確かに一騎当千なのだろう。だが、敵が万の数を率いていたらどうなる。それだけじゃない。この危険な呪印が、もし彼女達にも感染したら。


「…ダメ…だ。関わり、ない…者達を…巻き込んでは、ならぬ…」


 なんとか声を紡ぎ、モスクルを思い留まらせようとした。だが、モスクルは苦笑しつつ頭を振ると、くしゃりと顔を歪ませる。


「…俺の妻と娘も、女神教の敬虔な信徒なんだよ」

「…」


 それっきり口を噤むと、モスクルはケイタイを取り出した。それを持ち出すのはあまりにも卑怯だと思う。わしの娘夫婦や、可愛い孫とて、それは変わらない。休日には親子三人連れ立って、教会へと出向く背中を思い返すと、こんな理不尽なことがあって良いものか—と、涙がこみ上げてきた。


「クローディアか?俺だ。モスクルだ。…ああ、そうだ。例の件だ。単刀直入に言う。助けてくれ。もう俺達だけでは、どうこうできる範疇にない。お前達の力を、知恵を、手を貸してほしい。……ああ、危険が伴う。都合のいい話だということも理解している。…それを承知で、頼んでいる」


 モスクルの耳に当てた人差し指から、僅かに魔力の輝きが見て取れる。クローディアと会話しているのだろう。痛む背中に鞭を打ち、何とか左腕を伸ばすと、モスクルの指を掴んだ。


「お、おいっ!?」

「ちょっとデンテ!?動かないで!」


 モスクルとブルーツが慌てているが、どうしても黙していることができなかった。


「クローディアよ…聞こえ、るか?」

『…その声、デンテか?…どうした?いやに滑舌が悪いのう?』


 モスクルはわしに気を遣い、己の指をわしの耳近くまで持ってきた。視線で感謝を伝え、話すことに注力する。


「娘夫婦と、孫の笑顔を守りたいのだ。頼む」

『…』


 本格的に辛くなってきた。これ以上の無理は利かない。ゆっくりとモスクルの指を離して、壁に身を預ける。冷たい石造りの壁が、いやに火照った身体には気持ちがいい。


(ほっほ、我ながら情けないのう)


 言いたいことは言った。実に自分本位で、気位の高い者などには笑われる、あるいは嘲笑されるかもしれん発言だ。クローディアとは全く無縁で、何の交渉にもならない思いの発露。だが、嘘偽りないわしの気持ちだ。


(いかんなあ、眠くなってきた)


 少しだけ疲れたらしい。思えば、こんな大怪我をしたのは何十年ぶりだろうか。若い頃は無理も利いたが、寄る年波には勝てない。


(少しくらい休んでも良いかの)


 どうせ、この場でわしに文句を言える者などいはしない。少し寝るだけだし、何も言われないだろう。そう勝手に判断して、ゆっくりと瞼を閉じた。






『娘夫婦と、孫の笑顔を守りたいのだ。頼む』


 ペンを走らせていた手が止まった。それっきり何の声も聞こえてはこず、思わず、耳に当てていた指を離して手のひらを見つめる。通話は未だに継続されていた。


(…どういうことだ?娘夫婦と孫の危機?それとも、町そのものの危機だとでもいうのか?)


 モスクルは、どうこうできる範疇にない—と、言った。その後に続いたのは、デンテの願い。よく状況は飲み込めない。何を遠慮しているのか、こやつらは事態の全容を語ろうとはしないからだ。


「おい、デンテ。モスクル…なんじゃ、誰も聞いておらんのか?」


 再びケイタイを耳に当て声を上げるも、誰の声も返ってはこない。これは、何かまずいのではないか?—という思いを抱き、喉を鳴らした。


—コンコン—


 ドアをノックする音に気が付いて、誰何の声を上げれば、姿を見せたのは年若い丁稚の少年だった。わしのことを同年代の少女だとでも思っているらしく、やたらと気軽に話しかけてくる。わしを知る者は皆、やたらと畏ったり、距離を置いたりする中、こういった者の存在は有難い。否定することは容易いのだが、どうにもその気さくさが心地よく、実年齢を言うに言えない状況が続いている。


「クローディア、もうすぐ行商団の一行が到着するらしいよ。準備してくれ—ってさ」

「あい分かった」


 わしが頷いたのを見るや否や、少年はニコリと笑って走り去ってゆく。まだまだ仕事が残っているのだろうが、開けたドアくらいは閉めてほしいものだ。


「…仕方ない奴じゃのう」


 己の口走った言葉に、ドアを閉めようとして歩き出した足が止まった。以前は、この台詞を何度口にしたことだろうか。事あるごとにガミガミと口やかましく説教して、やがて熱も引いてきた頃、相手の萎れた態度に気がつくと、最後には、先の台詞が続くのだ。言い過ぎたわい—などという言葉は、なかなか彼を前にしては、出なかったように思う。


(まだ帰ってはこんのか…オサカ…)


 聖剣の迷宮。その最奥へと赴くべく、彼は日々、奥へと潜っていた。それも、たった一人で。話を聞いて、わしを含めた誰もが震え上がった。それほどまでに、わしらが踏破してきた軌跡とは、難易度がかけ離れており、とても、付いて行く—などと言える場所ではなさそうだった。もっとも、言ったとしても、彼は首を振ったことだろう。どんな文献にも載っていない魔物の群れ。それは、これまで最高位と思われていた魔物達には、まだ上があることの証左に他ならない。全員が止めた。わしも、クルスすらも止めたが、オサカは頑として聞き入れない。だが、日数が経つにつれ、わしらは慣れてしまった。最初はわしら同様に難色を示していたアビスも、オサカならば大丈夫—と安心しきり、何も言わなくなった。そんな時、事故は起きた。


(起きた—か。違うな。わしが起こしたんじゃ…)


 どうしてもオサカに連絡を取る必要に迫られ、わしは聖剣の迷宮へと立ち入り、そこからケイタイでオサカへと連絡を飛ばした。まさか、オサカが魔力に反応する罠の間近にいるなどとは露知らずに。ケイタイが繋がるや否や、オサカの反応は消えた。生きているのは分かる。無事なのも分かる。しかし、眷属化による恩恵も、オサカの現在地までは教えてはくれない。分かるのは、随分と離れた場所に、彼がいるであろうことだけだ。


『クローディア!クローディア聞こえるか!?』

「…っ!?」


 耳に当てたままとなっていたケイタイから、モスクルの声が聞こえてきた。我に返り、何をしていた—と怒鳴ろうとしたが、それよりも先に、モスクルが先を続ける。


『デンテがヤバい!本当にヤバいんだ!何とかできる手立てはないかっ!?』

「な、なんじゃとっ!?」


 ヤバいとは、どのようにヤバいのか。必要な情報が不足している。何とかできる手立てとは、わしに何を期待しての発言だろう。


(ええいっ!くそっ!見に行く方が早いっ!)


 袖机を乱暴に開き、亜空間を開く魔道具を探す。出てきた魔道具は、魔石に印を刻んだだけの簡易タイプのものではなく、わし専用に拵えられたものだった。わしがアーサーさんと共に、魔道具を組み立てている姿を模した駒だ。言うまでもなく、オサカ手作りの一品である。


(…すまぬ、オサカよ。少し寄り道するぞ)


 机の上に広げられた書きかけの魔法陣を、オサカに見立てて撫でる。それは、オサカをこちら側へと呼び戻すための召喚陣だ。オサカが消えてから、もう一年と半年が経とうとしている。その間、時間を作っては描き、消してはまた描きを続けてきた陣である。


『クローディア!聞いているのか!?』


 分かっておる—とモスクルに返して、駒に魔力を込めた。モスクルの元へと飛ぶのだ。そうしなくては、デンテの状態がわからないのだから。


「モスクル!そのままケイタイを繋いでおれ!今からそこへ飛ぶ!」


 言うや否や、相手の反応も待たずに亜空間を重ねる。座標指定は、魔力リンクを辿る作業と並行して行った。山脈を通過し、中継器が埋まっている土の中から、また次の中継器へ。大平原を瞬く間に通り過ぎ、王都アンラヘ。もはや、モスクルは目と鼻の先。だがここで、思わぬ事態が発生した。


「ぬうっ!?」

『お、おいっ!?どうしたクローディア!?』


 胸の辺りに押さえつけられるような違和感を覚え、視線を落としてみれば、わしのローブの上から、徐々に呪印が浮かび上がりつつあった。


(なんじゃとっ!?)


 あまりの事態に驚き、危なく平静を失いそうになるも、既の所で抑えつける。呪術とは、心の弱い部分から浸透して身を侵す。平静が保てなくては呪いの進行が一気に進むのだ。


(こ、こんなことが…)


 信じられない話だが、ケイタイの魔力リンクを逆に追い、わしに呪術をかけようとしている者がいるらしい。どこからどうやって、ケイタイの魔力リンクへとアクセスしているのかは分からないが、起きている事象が如実に物語っている。


(…こ、の…)


 現れつつある呪印そのものは、見慣れた呪印であった。鳥を操る時などに使う、支配の印だ。何の理由があってのことかは知らないが、わしの身体を乗っ取ろうとしているに違いない。


(させるか、痴れ者が!)


 全身の魔力を胸部へ集中させ、呪印を焼き払う。亜空間の維持がおざなりになっているが、気にしてはいられない。呪術をかけられるのはごめんだし、亜空間が閉じたら閉じたで、また開けば良いだけの話だ。


『おいっ!?クローディア!聞いているのかっ!?』


 耳に当てた指からは、モスクルのこちらを案ずる声が響いてくる。お前達だって、散々人を待たせたくせに—と、毒付きたいのも後回しだ。それどころではなかった。


(こやつ、わしよりも魔力量が上だと言うのかっ!?)


 限界まで己の魔力を高めたが、呪印が消えないのだ。侵食速度こそ衰えたものの、今もなお、わしの胸には呪印が広がりつつある。


(信じられん…何者なのだ…)


 苦しい戦いだ。簡単に焼き払えると思っていた呪印は、全然消える気配がなく、むしろ広がってゆく有様。こうなれば、亜空間を破棄して対処しなくてはならなくなる。けれど、亜空間を破棄した時の反動が怖い。その反動に身を怯ませた間隙を突いて、一気に呪印が完成しないとも限らない。


(そうか!ケイタイを切れば、魔力リンクも!…いや、切れぬ)


 わしのケイタイは、使用感を調べるため、魔石フリーの最新タイプだ。それが仇となった。胸に魔力を込めている現状では、その魔力をケイタイが感知してしまい、通話を維持するものと判断してしまっている。


(おのれ!くそっ!わしの負けじゃ!)


 もはや、己一人での破呪は不可能だろう。呪印はまもなく完成し、わしを蝕む。けれども、そうそう素直に言うことを聞く質でもない。わしは諦めが悪いのだ。確かに負けは認めよう。悔しいが、この術者は、レベル100を超えたわしをも凌駕する腕前だと。しかしだ。わし一人には勝てたとして、それが二人、三人と増えたなら、果たしてどうかな?


(あった!これでどうじゃ!?)


 駒を持つ手で袖机の中を漁り、クルスとアビスの魔石を取り出す。二つの魔石を抱き抱え、その魔力をも、胸の呪印へと叩き込んだ。


『…クローディア…早く…早くしてくれ!』

「…少しくらい…待っておれ…」


 呪印は消えた。己の意識した通りに身体も動く。どうやら、凌ぎ切ったらしい。魔石を二つ空にして、ようやくとは、とんでもない術者もいたものだ。


(呪具だとすれば、恐ろしく呪詛を溜め込んだものよの。一体、どれほどの怨念を集めたのか。それに、万が一じゃろうが、レベル100超えの可能性も考えるべきかのう…少し、天狗になっておったわ)


 ぐらんぐらんと揺れる頭に鞭を打ち、何とか一言だけ紡いだ。呼び鈴を鳴らして、現れた執事に魔石の替えを頼み、マナ・ポーションを一気にあおった。


「モスクルよ…今行く」

『あ、ああ…なんだ?何かあったのか?』


 結局、亜空間は消え去り、魔術を不用意に消去した反動に襲われた。一気にMPが消費され、身体が怠いが、そうも言ってはいられない。そっちで説明する—とだけ告げ、なけなしのMPで再び亜空間を開いた。


(やはり、もう妨害はしてこんか。巫山戯おってからに)


 先にわしへと呪術を仕掛けた者は、きっと、遊び感覚だったのだろう。そうでなくては、あんな目に付くところに、呪術を仕掛けたりはしない。遠隔であったために、細やかな制御が利かなかった—とは考え辛いだろう。あれほど強力な術をかけられるのだ。遊んでやろう—くらいの感覚で、わしに呪印を施そうとしたに違いない。


(アンラか。思ったよりも、深刻な状況であることは間違いないのう。よりにもよって、オサカのおらん時に…)


 兜の緒を締め直し、亜空間を潜ったが、そこには、想像していたよりも凄惨な光景が広がっていた。石造りの室内は、天井から吊るされた照明の魔道具による明かりしかないのだが、精霊石の魔力が減っているのか、あるいは壊れているのか、明かりは不規則に明滅していた。


「クローディア!こっちだ!早く見てくれ!」


 室内は夥しい血痕で真っ赤に染まり、机や椅子は折れ曲り、部屋の隅へと散らばっている。空の本棚もひしゃげ、辺りには木片が転がっていた。


「う、うむ…」


 鼻を突く、血と体液の香り。考えるまでもなく人間のものだ。薄暗い室内の隅には、人垣ができていた。モスクルの声も、そちらから聞こえてくる。魔力枯渇寸前の気怠さを抑え込み、人垣へ向かった。


「お、お願い!デンテを助けて!」


 黒い法衣の女が、ボロボロと涙をこぼしながら懇願してくる。折れ曲り、もはや原型を留めない腕を抱える女は、見たことがあった。


(確か…ブルーツ。ブルーツ・アンラ・ブルティング…この国の王妃じゃな)


 その王妃が助けれてくれ—と言う相手がデンテだ。碌な状況ではないのだろう。やれるだけやってみる—と口にして、視線を前へと戻す。人集りの隙間から、寝かされた者の足が見えているが、あれがデンテだろうか。


「ダメです!法術が通じません!」

「クローディア!早く!」


 男達が叫び、モスクルと思わしき禿頭が声を荒げた。ビクリと肩が跳ね上がり、我に返る。どうやら、怖気付いていたらしい。何という様か。


「見せてみよ、何がどうなった?」

「呪印だ!法術をかけようとしたが、呪印が妨害してきて、どうにもならん!」


 駆け寄り、人垣の隙間へ身体を捻じ込む。神官服の男達が必死に祈りを捧げており、法術陣は確かに展開されている。けれども、その法術から生まれる光を阻害するかのように、デンテの胸には呪印が浮いていた。


(デンテ…これは酷い…)


 デンテは片腕を失い、下腹部にも大きな穴を開けていた。その傍には血濡れになった木片が転がっており、なるほど、これが腹に刺さっていたのだろう。


(なるほど。部屋の惨状はともかくとして、法術を施したいが、呪印が邪魔で法術が使えんということか。これは確かに、わしの出番よな)


 魔人族は人間族よりも闇属性に適性が高く、呪術の行使や解析に強い。その強みは自分達でも理解しており、魔人族の傾向としては、術師になるつもりがなくとも、呪術は修めるのが一般的で、これは1000年前から変わってはいない。わしも呪術に関しては、一角と呼べるほどには学んである。余談だが、光の属性に偏る法術に関しては、使えないこともないが、多くの場合、からっきしだったりする。まともに扱えるものといえば、効果の一段下がるカオス系の法術、あるいは不死系魔物(アンデッド)くらいにしか使えない、闇属性のダーク系法術くらいのもので、物好きくらいしか学ぼうとはしないだろう。


「…見せてみい。いや、そのままで良い。少しだけだが効果は出ておるからの。そのまま続けよ」


 周囲の野次馬共を退けて、呪印に触れぬよう注意しながら、ゆっくりとデンテに手をかざす。静かに、少しずつ魔力を流して、呪印の波長を探る。わしにちょっかいを出してきた者と、この呪印を施した者が同一であるならば、簡単に考えては痛い目を見る。ここは、慎重にやるべきだろう。


「…どういうことじゃ?この呪印…お主の魔力で生成されておるぞ?」

「…へ?ぼ、僕?」


 ところが、呪印から得られた魔力波長は、なかなかに特徴的だった。こんな魔力の形があるものか—などと首を捻ったが、その魔力がすぐ背後からも感じられるではないか。背後を振り返れば、そこにいたのはベロート・アンラ・ブルティング。この国のトップであった。


「何を呆けておる。心当たりは?」

「あ、ええと…これかな?」


 キョロキョロと周囲を見回していたベロートに、侍女と思わしき女が聖水を両手に持って近付けば、ベロートはそれを受け取るや否や、己の肩に振りかけた。そういえば、なぜこやつは上半身裸なのじゃ?このクソ寒い時に。


「…ぬ…それは…また難儀な…」


 気狂いを見る目を向けていたが、ベロートの肩に浮かび上がった呪印を見れば、ああ、なるほど—と、得心がゆく。驚くべきはその完成度の高さ。そして、容易に想像できる解呪の難しさだろうか。


「うん。デンテはこれに触れちゃって、吹き飛ばされたんだ。凄い怪我でさ。何とか治そうとしたんだけど…今度は呪印が…」

「あい分かった。そういうことならば良い」


 呪印には防御機構が備わっていたのだろう。腕が折れ曲がるほどの衝撃に加えて、触れた者への魔力的な干渉を阻害する呪印も付加した、悪意に満ちた防御機構だ。


(これは…いかんのう)


 デンテの胸に浮かぶ呪印は、見ただけでそれと分かるプロテクトが施されていた。けれども、プロテクト自体には防御機構は何ら施されてはおらず、破呪も可能だろう。呪術を施した相手に、プロテクトを破ったことを知られても良いならば。


「…この呪印は、先に教えた破呪で破壊可能じゃ。ただし、何らかの呪印と連動しておるな。それがどういったものかは分からぬが、十中八九、この呪印を破壊すれば、敵にバレるぞ?良いか?」


 肩越しに尋ねれば、ベロートやモスクルは互いに視線を交わす。逡巡しているのだろう。けれども、二人は表情を引き締めると、共に頷いて見せた。


「…承知した。それなりに魔力の高い者は、わしの肩に触れて魔力を流せ。後はわしがやる」

「俺は魔法師だ。それなりに魔力はある」

「…僕はそこまででもないけれど、ないよりはマシだと思う」

「私も…魔力はそこまで高くないわ。けど、やらせて」


 わしの言に、モスクル、ベロート、そしてブルーツが名乗りを上げる。他の者達は申し訳なさそうに頭を下げるが、見るからに文官だ。魔力以前に、魔物と対峙したこともあるか疑わしい。仕方ないだろう。その気遣いだけでも有難いものだ。


「さて、やるか!」


 モスクルらから、わしの肩へと流れ込む魔力を、わしの魔力と練り合わせて放出する。デンテの胸に浮かぶ呪印へと余すことなく叩きつけてやれば、呪印は程なくして消え去った。


「さあ!ここからが正念場じゃぞ!法術師は限界まで祈りを捧げろ!ヒールを絶やすなよ!?」

「は、はいっ!」


 法術師に喝を入れた後に、ケイタイを取り出せば、モスクルとベロートの二人は、肩で息をしながらも、怪訝な顔を見せた。わしは呪術はそこそこできるが、法術となれば専門外だ。それに、ただ法術を施していただけでは間に合わない。デンテの身体は、もはや死んでいるに等しい。徐々に法術の効きが悪くなっていっているのが、何よりの証拠だろう。ここから状況をひっくり返すならば、もう人の力ではダメなのだ。権能と呼ばれる、摂理を超えた異能に頼る他ない。


『ぬ?クローディアであるか?どうしたである?』

「アビス様よ、単刀直入に言う。アムルタートの権能で、人を助けてほしいのじゃ。もはや一刻の猶予もない。今から亜空間を開く。アムルタートと共に来てほしい」


 一方的にアビスヘ告げ、亜空間を開く。そこはメットーラの農園であった。アビス達は牛の従魔に干し草を与えていたらしく、厚手のカバーオールに身を包み、呆気に取られた顔でこちらを見つめていた。いつも思うが、彼らの作業着姿は様になっていると思う。


「早う!」

「ななな、何なのであるか!?」

「は、はい!今行きます!」

「何なのよ一体!?」


 皆を手招きすれば、三人は慌ててこちらへとやってくる。農夫達が目を見開いてこちらを見ているが、口止めなど後回しだ。さっさと亜空間を閉じると、用件を伝えた。


「そこの爺を助けてやってほしい。ここで死なすには惜しい人物じゃ。頼む」


 わしの言に、三人の神はデンテに視線を落とすと、途端に顔をしかめた。法術では間に合わないというのが、見て取れたに違いない。


「…アビス様…クローディア様には御恩が…」

「そうだよおっさん。細かいことは言いっこなしでしょ?」


 アムルタートとハルワタートは共に助けてくれるつもりであるらしい。後は、アビス次第ということだ。アビスヘ視線を向ければ、アビスは未だにデンテを苦い顔で見つめていた。


「…権能を人に使うつもりであるか?…アムルタートの?」

「そ、そうじゃ」


 アムルタートの権能は、不滅。この力を周囲に及ぼせば、生命は力に溢れ、瞬く間に成長する。野菜が三日で収穫できるほどに、馬鹿げた成長力を手にするのだ。わしはその権能をデンテに行使してもらおうとしている。読みが当たれば、死の淵に腰まで浸かったデンテとて、息を吹き返すはずだ。そうなれば、法術も効果を現すに違いない。


(イケる。必ず成功する)


 確信はあるが、確証はない。それはアビスにしても同じなのだ。試したことがないため、些か不安があるのだろう。彼の反応を窺うに、目立つとか、そういったことで悩んでいる訳ではなさそうだ。


「アムルタートは、そこまで細かい加減ができぬである。おそらく、かなり若返ると思うであるが…苦情は聞かぬであるぞ?」

「はっ。そんなのは、構わんじゃろう」


 アビスの言を鼻で笑えば、アビスは苦笑を浮かべながらも承諾する。姉妹は即座に行動に移った。


「ちょっとあんた、腕貸して」

「え?あ、はい」


 ブルーツからデンテの腕を受け取ったハルワタートは、腕にこびり付いた血を掬い上げると、デンテの足元に膝を突いたアムルタートの元へと向かう。ブルーツへの敬意も何もない。その場にいた野次馬達が、呆気に取られる—というよりは青くなった。どう見ても農夫にしか見えない小娘が、あろうことか、王妃をあんた呼ばわりした上、差し出された腕に例の一つも返さないばかりか、無視しているのだ。無理もない。わしもそこまで身分に忖度するつもりはないが、この態度には、流石に苦笑するしかない。


「お姉様。血を作り出せますか?」

「誰に言ってんのアミー?楽勝よ。腕の方もよろしくね」


 デンテの腹に手を当てたアムルタートが、ハルワタートに血を作るよう要請すれば、ハルワタートは先ほど手にした血の塊を、指の腹で擦り始める。すると、指の腹から瞬く間に血が溢れ、それらは空中で大きな赤い球体を作り出した。


「神官の皆様、祈りを止めないでください。生命力は補充しますが、傷を治すのは皆様の法術が頼りです」

「は、はいっ!」


 アムルタートの声を受けて、ハルワタートの神業に目を奪われていた神官達が、慌てて祈りを再開した。


「どれ、我も少し活躍するである」

「ぬ?アビス様がか?」


 珍しいことに、アビスが重い腰を上げた。わしの余計な一言にジト目を向けてくるが、すぐに相好は崩される。まあ、見ているであるな—と一声発した後には、室内が眩い光で溢れた。


「こ、これは!?」

「何が起きた!?」


 野次馬達が慌てるのも無理はない。わしもまた、体験しているからこそ、これは一体どうしたことか!?—と、目を見開いていた。頭の回転が尋常ではなくなっている。まるで目に映る景色の全てがスローモーションになっているかのような錯覚さえ受けるほどだ。それだけではない。目で捉えられる光景にも変化が訪れていた。魔力—否、魔素の流れや、結合して魔力に変わる様が見て取れるのだ。法術の祈りが癒しの力を得て、周囲の魔素を濃厚な魔力の塊に変え、その魔力の塊が、欠損した部位に入り込むと、あたかも体の一部であったかのように、皮膚へと姿を変えてゆくのが見て取れた。


「これは、いわゆる加護というやつであるな。貴様らの言うところの、神技であるか。この神技は、魔力制御の円滑化であるな。法術の働きが段違いであろう?地味ではあるが、術者にとっては強力な神技である」


 魔力制御の円滑化。それはつまり、膨大な詠唱を必要とするような大魔術が片手間で扱え、かつ、その威力においても、比較にならないことだろう。確かに地味ではあるが、強力無比な加護ではなかろうか。実際に、法術の効きが段違いに高まっているのだ。


(い、今なら…大魔術を連続で撃てるのう。確信できるわい)


 己の魔力を手のひらに集めて、形を変える。平常ではあり得ないほど、簡単に魔力が動かせることに愕然とする。いつの間にか、MPの消耗により感じていた気怠さも消えている。魔力の回復速度まで、劇的に高まっているようだ。


「アミー、血を流し込むから、その後に腕を接続して」

「はい、お姉様」


 そのアビスの齎した神業に、驚きもしない姉妹は、着々と己の仕事をこなす。先にハルワタートの作り出した赤い血の球体から、少しずつ血がデンテの腕へと吸い込まれてゆき、全ての血が体内へと戻った後、千切れ飛んでいたデンテの腕が接続された。


「…ちょっとアミー…もういいんじゃない?」

「え?…そ、そうですか?」


 ところで、法術の光に照らされるデンテの顔から、見る見るうちに皺が取れてゆく。好好爺然としていたデンテの顔は、精悍さを取り戻し、真っ白だった毛色も茶に染まっていた。人間族の一般的な寿命は50歳とされているが、彼はそれよりも随分と長く生きていたのだろう。刻まれた年輪が解けるにしたがって、見慣れた人間族の高齢者へと姿を変えてゆくのは、見ていて飽きない。


「うわ〜、本当に若返っちゃった…」

「あらあら。これ、いくつくらいかしら?」

「よ、40後半くらいか?」

「陛下やモスクル君と、変わらない年頃に見えますよ?」


 ベロートらも興味津々でデンテの寝顔を覗き込んでいる。もはや、デンテの顔には色が戻り、スースーと整った寝息まで立てている。誰もが安堵の息を吐き、彼は助かったのだということを理解していた。

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