真、修道士を護衛する その二
「我輩…は、犬で…ある」
「名はニャン太郎〜—ニャン太郎〜?…何で犬なのに〜、“ニャン太郎”なの〜?」
私が高校に入学すれば、授業で使うはずだった教科書。普段は出番などなく、亜空間の肥やしと化しているそれは、アシュレイやクシケンスにとって貴重な異文化の資料だ。護衛の暇を持て余して、クシケンスと共に音読していたアシュレイだったが、ふとした疑問をぶつけてきた。読んでいた魔術書から目を離して、教科書を覗き込む。そこには確かに、ニャン太郎という名の犬が、挿絵として描かれていた。微塵も可愛くない。
「…ジョークのつもりなんじゃない?」
「…ふぅん…我輩の—」
アシュレイはその答えで満足したらしく、音読へと戻ったため、私も視線を本へと戻す。今は夜営の真っ只中である。日は既に沈み、肌を撫で付ける風は冷たいが、珍しくアシュレイ自らが行使してくれた魔術は、結界を設けると同時に、辺りを快適な温度まで高めてくれていた。
「しかし…マコトに加えアシュレイまでいると、全く出番がないな」
「ふふふ。護衛依頼で御座いますからね。出番がないことは素晴らしいことなので御座います」
アイマスが薪をくべつつぼやけば、ソティが諫める。アイマスのそれはもちろん本気ではなく、まったくその通りだな—と、大笑をソティへと返していた。
「アシュレイの結界って、どうやっているの?精霊石も併用しているのはどうして?」
亜空間の中に下半身を突っ込み、花冠の精の花の上で充電中の由香里が尋ねる。やや眠そうなのは、花冠の精という植物系の魔物であるが故だ。植物系は全般的に夜は活動を休止するのが通常だ。今日は頑張って起きているのだろう。
「あれは呪術〜。魔物は人の匂いや魔素に寄ってくるから〜、それらを感知できない空間を広げただけ〜。精霊石を配してあるのは〜、目で見て分かるように〜。結界を張ったから平気だよ〜—って言ったって〜、目に見えないと〜、分からない人には不安でしょ〜?」
「ああ、なるほど」
由香里はアシュレイらの邪魔をしないように、私へ尋ねていたのだが、私が口を開くよりも早く、アシュレイ自らが答える。私も完全に理解できていた訳でもないため、アシュレイへ尋ねる手間が省けた。
(あの精霊石、単なるアピールだったんだね。私もそこまで考えたことなかったよ)
《そうでしょうよ。それにしても、配置の仕方が雑ですよ。あれだけ隙間だらけだと、逆に見える方が不安になりそうですけどね》
何故か吹き出したクシケンスはさておき、アシュレイが結界を張った以上、魔物が寄ってくることはない。たまに私もMAP魔術で付近を確認してはいるが、辺りには魔物一匹おらず、静かなものである。
「胃弱なへそ曲がりは—あ〜…何て読むの〜?」
突き出された教科書を覗き込む。そこには“餅”と書いてあった。
「もち」
「…餅は三つ食べると言い張る—餅ってなに〜?」
またしても投げかけられた問いかけに、アシュレイへと視線を向ける。アシュレイは期待の眼差しをこちらに寄越しているが、私では、うまく説明する言葉を持たなかった。
「ああ…ええと…もち米から作る食べ物だよ」
「もち米って何〜?」
さて、どうしよう—と由香里に助けを求めれば、由香里は瞼が閉じているではないか。首が傾いては、元に戻るという動作を繰り返しており、このまま寝かせておいてやろう—と、暖かい気持ちになれば、彼女を頼ることは諦めた。ならば、尋ねる相手は一羽しかおるまい。肩の上のラヴァは、余念なく羽繕いしていた。
(なんて説明すればいい?)
《そんなもの、米だよ—の一言でしょう?》
何を当たり前のことを—とでも言いたげな、冷めた視線を一度チラリと向けたきり、ラヴァは羽繕いへと戻る。確かにラヴァの言う通りであ?。もち米は米に他ならない。けれども、私達が日頃から食べていた米と、皆が想像する米を同一視されたくはなかった。だからこそ他に説明の仕方はないものか?—と悩んだのだ。
(…あれを米とは認めたくないけど…)
実のところ、この世界にも米はある。試食してもみたのだが、不味く、とてもではないが、食えたものではなかったのだ。それ故か、この世界には米を食べる文化はなく、精々が従魔の餌である。
「あ〜…米。あれの粘性があるやつ。それを蒸して、叩いて、塊を作るんだ。それに色々なものを挟んだり、タレを付けて食べたりするんだよ」
けれども、他に気の利いた言葉など思い浮かぶはずもなく、結局は米だと説明した。するとどうだ。途端にアシュレイは渋い顔を見せる。米など食える味ではない—というのは、この世界における共通の認識だが、アシュレイの顔はそうではない。食べたことのある者の表情だ。そうでなければ、あんなにすっぱい顔は作るまい。
「…あれの塊を三つも食べるの〜?勇者〜?」
アシュレイの中では、餅を食べることは勇者の域であるらしい。思わず笑ってしまった。
「私達の世界の米は美味しかったんだ。むしろ、私のいた国では、米が主食だよ?麦ももちろん食べられたけれど、副食的なポジションが多かったかな」
ほぅ—と声を上げるアシュレイの肩が叩かれる。叩いたのはアイマスと由香里で、肩越しに二人を見上げるアシュレイに、ニコニコと笑いかけていた。
「由香里、起きて大丈夫なの?」
「そんなのどうだっていいのよ。米が馬鹿にされるのは、日本人としては悲しいわ」
由香里を案じて声をかけるも、どうだっていい—と一太刀に伏せられた。由香里はごはん派であるらしい。私は朝ならパン派。昼と夜はごはん派だ。
「私達の世界のお米、食べてみない?」
由香里はニコニコしたままアシュレイに問いかける。その言葉に首を傾げるも、すぐに思い至って亜空間を開くと、中からライスパックを取り出す。レンジでチンか湯煎で食べるお手軽なやつだ。庭園の迷宮、その最奥にある、由香里の自宅で手に入れたやつである。
「え〜!?何これ〜!?」
アシュレイは取り出したライスパックを手渡されると、興味津々といった様子でひっくり返したり、匂いを嗅いだりしている。無理もない。この世界には本来ないものだ。やがて、表面に文字が印字されている事に気が付くと、徐に読み始めた。
「レンジ…の〜、場合…は一分半〜、湯煎の場合は〜…三分…お召し上がりください〜」
「おおっ!大分読めるようになってるね。初めての文章もバッチリじゃん。後、そこは“あたためて”だよ」
褒めてやれば、アシュレイは嬉しそうに破顔する。そんなアシュレイの姿に、アイマスと由香里が驚きに目を見開いていた。
「アシュレイが屈託のない笑顔…だと!?」
「違うでしょアイマス!凄いじゃないアシュレイ。日本語って、私達の世界では、一番難しいと言われている言語よ?」
これにはアシュレイも気を良くして胸を張り、まあね〜—と、自慢げに声を上げる。そのすぐ後には、思い出したかのように、アイマスは呪う〜—と、続いたのだが。
「で、食べてみる?」
由香里がそう尋ねるも、アシュレイの顔は渋い。ライスパックには興味津々なアシュレイだが、腹を摩りながら、何とも言えない顔をしているのだ。食べたいが、腹が空いていないのだろう。
「それなら、明日食べてみる?」
「お〜!」
「あ、あの…私も、食べたい…です」
アシュレイのみならず、クシケンスも手を上げれば、私と由香里は何だか誇らしい気持ちになる。リピーターがいるのは嬉しいことだ。途端に朝が待ち遠しくなり、最初の見張り番であるアイマスとクシケンスに後を託すと、さっさと横になった。
「…おはよう」
「おはようなので御座います」
「お、おは…よう、ござい…ます…」
早朝からクシケンスが青い顔を見せ、ガタガタと震えている。寒さのせいではあるまい。その横に腰を下ろすソティが、妙にツヤツヤしているのがその証左だ。
(また碌でもないことを考えているな)
《クシケンスも可哀想に…》
苦い顔で二人に朝の挨拶を交わすと、アシュレイが佇む焚き火の側へと近寄った。
「おお、やってるね」
『美味しそうな匂いがします』
予想通り、焚き火には鍋が設置されており、ライスパックが湯煎されていた。余程楽しみであるのか、アシュレイは屈み込み、じっとライスパックを見つめている。
「…いい匂い〜」
「そうだな。くくく…」
アシュレイの背後にはアイマスが佇んでいるのだが、アシュレイの背中を笑いながら観察していた。二人に朝の挨拶をすれば、アイマスは笑みを返し、アシュレイはライスパックから視線を動かさず、頷きだけで返してくる。なるほど、これでは笑われても仕方ない。ずっとこの調子なのだろう。
「由香里は?」
「いるぞ?ほら、あそこだ」
由香里は少し離れた場所にいた。そちらではアーサーさんが火を作り出しており、こちら同様に湯煎をしている。よくよく目を凝らして見れば、向こうで温められているのは、カレーのパウチであるらしい。
「お?レトルトカレーか。ライスだけで食べても味気ないしね」
「そう。ご飯に合うおかずがないのよね。朝からカレーだと重いかもしれないけれど、肉体労働だし、問題ないでしょ?」
由香里に近付き声をかければ、由香里は和かに応じる。アーサーさんが触手をヒラヒラと振ってきたので、私も手を振り返した。
「もういいんじゃない?」
「ふふ。なんで真が堪えられなくなってるの?」
レトルトパウチ包装されたカレーは、既に玉粒の汗をかいており、すぐにでも食べられそうな様相である。アシュレイは朝から贅沢だ。
—ピピピ、ピピピ—
やがて、三分が経過したのだろう。由香里の持つタイマーが鳴り響き、皿の上にライスとカレーが盛り付けられると、アシュレイとクシケンスは感動の声を上げた。
「ごめんなさいね。全員に行き渡るだけの分は流石にないのよ」
「ははは。良いさ。食べたことはあるからな。次に期待するよ。でも、一口くらいはくれよな?クシケンス」
「えっ!?い、嫌ですよ!?アイマスさんの…一口は、一口じゃ…ないのでっ!」
アイマスから隠すように、皿を抱え込むクシケンス。当たり前だ—と、悪びれる様子もなくアイマスが戯ければ、皆が笑った。
「…不味くない〜、いや!美味い〜!」
恐る恐る白米だけを掬って口に入れた後、アシュレイは大仰な仕草で歓喜の声を上げる。やはり、この世界の米と比較して、私達の世界の米は美味かったらしい。アシュレイはまた米だけをスプーンで掬うと、口の中に放り込んだ。
「カレーも…美味しい、ですよ?」
白米しか口にしないアシュレイに、焦れたクシケンスが声をかけるも、アシュレイはジト目を返すと、口を尖らせた。
「…う○こじゃんか〜」
「おいこらやめろ。カレー様を冒涜するな」
なんという罰当たりなことを口にするのか。アシュレイの罪は重い。
「匂いはいいんだけどね〜。ちょっと味の想像がつかない〜」
「いいから食べてみなよ」
それでも、ついに誘惑に負けたのか、慎重に、恐る恐るといった様子で、カレーライスを口に運ぶアシュレイ。吹き出したくなる絵面だが、本人は大真面目なのだ。笑ってはいけない。なお、味に関しては心配していない。私達の味覚と、この世界の人達の味覚は、そう変わらないからだ。きっと、アシュレイもカレーを気に入ることだろう。
《私も食べたくなってきましたよ…カレー》
(じゃあ、また庭園の迷宮行ってきて。私達の分もよろしく)
実のところ、定期的に由香里の家から消耗品を運搬しているのは、ラヴァであったりする。彼ならば、庭園の迷宮もひとっ飛びなのだ。亜空間も持っているため、取り逃がしもない。カレーに始まり、食材の全て。由香里の下着やら着替え類。カメラの電池にフィルム。これらの品が、ラヴァのフルスピードだと4日前後で手元に届く。一家に一羽クラスの便利な従魔、通称、ラヴァゾンである。もっとも、本人は物凄く嫌がるのだが。
《絶対嫌ですよ!もう何を言われても行きません!》
(へそ曲げないでよ。めっちゃいい所の干し肉買ってあげるから)
何を言われても行かないらしいが、物ではまだまだ釣れそうだ。いい所の干し肉!?—と、早くも涎を垂らしている。
(馬鹿め。今の私は文無しだ。そうそう高い肉など買えるか)
さて、吹き出すクシケンスはともかくとして、カレーを口に含んだアシュレイは、訝しむかのような顔で、もこもこと顎を動かしていたが、程なくして目が見開かれた。カレー様の魅力に取り憑かれたらしい。
「う、美味い〜!」
半ば確信していた反応だが、やはり見るまでは若干の不安もあった。それが杞憂に済んで、ホッと安堵の息を吐く。その後は由香里とサムズアップを交わした。
「美味い〜!美味い〜!」
アシュレイはカレーをペロリと平らげると、まさかのお代わりを要求してくる。けれど、カレーは既にない。ライスパックもカレーも、二人の食べたもので最後だったのだ。また由香里の迷宮—否、庭園の迷宮まで行かねば手に入らない。
「あー、これはね〜。実はそう簡単に手に入らないのだよ〜。具体的に言うとだね—」
そういえば、由香里の迷宮のことはアシュレイに伝えていなかった。今更な気もするが、修道士達からは見えないように車座になって、アシュレイに詳細を伝える。私達の世界の光景が、一部再現されていること。そこから物を持ち出したとしても、数日経てば勝手に補充されていることなどだ。
「今すぐ行こう!修道士はソティ一人で事足りるから〜!」
迷宮の最奥に、私達の世界の一部を垣間見れるスペースがあると告げた途端にこれだ。負の龍脈の事はすっかりと忘れているようである。アイマスが渋い顔でアシュレイの頭を叩き、現実に引き戻した。
「この仕事が終わったら、一緒に行こう。私達も半年に一度くらいに行ってるから、春になったら、どちらにしても行くんだよ。心配しなくても良いよ」
そう。調味料やレトルト食品をしこたま持ってきても、次に行った時には元通りなのだ。活用しない手はない。そんな訳で、私達の食生活はあり得ないほど潤っているのだ。食材さえあれば、味付けに困る事などない。向こうの味を再現できる訳だから。
「迷宮主か…そっか〜。最初見た時は触れない方が良いかな?—と思ったけど〜、うまくやれているようで良かったよ〜」
やはりアシュレイは由香里のことを気遣ってくれていたようだ。これには由香里もニッコリである。
「気を遣わせてごめんなさいね。色々と融通も利くし、特に不都合はないわ。良いのか悪いのかは別にして、私は気にしないから、普通に接してちょうだい」
由香里の言葉に、アシュレイはサムズアップで返した。
さて、朝の休息も終わり、アンラを立ってから五日目の移動の始まりである。私は今日もMAP魔術を行使し、先頭を行く。アシュレイの結界は強力だが、移動しつつ展開できる性質のものではない。だからこそ、広範囲をカバーできる私の出番だ。私の隣では、由香里が蔓人間をいつでも動かせるよう準備し、アイマスとクシケンスは後方の警戒に回っている。ソティ?既に信仰蓄積のために消えている。今日のノルマがなんとか言っていた。護衛の意味が分かっているのだろうか。
「では、参りましょう」
声を上げたのは、修道士団のリーダーであり、女神教の司教であるマギステルだ。金よりも銀に近い淡い金髪のロングヘアーを、後ろでアップに纏めた女性だ。肌は浅黒く、長身でスレンダーなモデル体系である。角や魔眼を持ってこそいないが、彼女は魔人族の血が入っていることは間違いなく、くりくりの瞳孔と照らし合わせて考えるに、森精族と魔人族とのハーフなのだろう。魔森精族というやつだ。
「マコト様、本日もよろしくお願いします」
「はいよー。任せておいてよー。今日も完璧な仕事をご覧に入れましょう」
鼻息荒くして告げる私に、マギステルはニコリと微笑む。とても優しげで癒される笑みだが、私は知っている。彼女とソティが親しげに会話していたのを。その意味を。
「ソティ。貴女達が引き受けてくださって、実のところ安堵しております。聖火を運ぶ修道士はほら…皆、女性ですから」
「恐れ多い言葉で御座います。マギステル司教。一時的とはいえ、また共に歩めることは、至上の喜びで御座います」
「まあ、嬉しいわソティ。また貴女の、目にも留まらぬ鉈捌きが見れるのね」
素知らぬふりをしつつも、傍で聞いていた私とラヴァの念話は止まらなかった。来た!異端審問官来た!ヤバいヤバい!—と、内心で大いに盛り上がったのは内緒だ。もっとも、クシケンスがガタガタと震えていたため、マギステルの過去を我々が知っているというのは、即座に見抜かれたのだが。
(彼女の二つ名、“簪だってさ。簪のマギステル。カッコいいよね)
《貴女も負けていませんよ?鏖殺の真さん》
今はちゃうわ—と、ラヴァにデコピンをかまそうとして噛みつかれる。私も学習しないな—と、傷む指を摩りながら北を目指した。
「…あ、なんかいる」
それからしばらくして、この日ついに、私のMAP魔術に敵影が映り込んだ。正確に言えば、今までも映り込んではいたが、私達の進路からは外れていたのだ。
「まあ。それでしたら、もう一度、信仰を蓄積してくるので御座います」
上品に両手を合わせながら、つい先ほど戻ったばかりのソティが満面の笑みを見せる。おそらくは、彼女の信仰蓄積が一段落したからこそ、敵影が捉えられるようになったのだろう。ちゃんと護衛として、機能していたのだ。
「いえいえ。ソティは先ほど戻ってきたばかりでしょう。ここは、私にやらせてください」
そう声を上げたのは、私達のすぐ後ろを歩いているマギステルだ。和かに微笑みながら、私や由香里にも、視線で是非を問うてくる。あんた護衛対象じゃん—と言いたいのをグッと堪えた。
「え…ええと…まあ、ずっと歩いているだけだと…」
「そうね。退屈かもしれないわね」
私と由香里は視線を交わし、互いに乾いた笑いを浮かべた。ここまで、ソティとのやり取りを見聞きした中で、気が付いたことがある。このマギステル、可愛い顔をしていながら、異端審問官を率いていた親玉だ。イチゴのピアスに騙されてはいけない。ソティを上回る殺人?狂なのだ。
「ふふ、お気遣い有難う」
言うや否や、マギステルは己の後ろ髪を纏めた簪を引き抜いた。長い髪が解け、風に揺れながら肩へとかかる。今更ながら、耳は尖っていないんだな—なんて思った。
《…真…》
(ふえ?何?…って、うおおい!?)
ラヴァに呼びかけられて、意識を内に向けたところで仰天した。MAP魔術に表示されている、敵を示す赤い点が、次々に消えてゆくではないか。逃げている訳ではない。逃げたのならば、赤い点が離れてゆくのだから。そうではなく、赤い点は消滅しているのだ。これが意味するところは、絶命に他ならない。
「…何か…しました?」
「真、マギステルさんはね、簪を投げたのよ」
恐る恐る背後を歩くマギステルへ問いかけてみれば、由香里が苦笑しながら教えてくれた。言われてみれば、抜き取ったはずの簪は、どこにも見当たらない。ふえっ!?いつの間に—と慌てれば、マギステルがクスリと笑った。
「ふふ、正解です。少し、風の精霊さんに力をお借りしています—っと」
言いながら、マギステルは大きく円を描くかのように腕を振るう。すると、いつの間にかマギステルの手の中に、簪が握られていた。黒い簪は、先の方がぬらりと光り輝いている。黒い色に紛れて見えないが、魔物の血に違いない。
「…私達、いる?」
「どうなのかしらね?」
MAP魔術には、既に赤い点は見えなくなっていた。恐るべき早技だ。ソティ並の殲滅力である。流石は、元異端審問官のボス。只者ではない。私と由香里は、苦笑を引っ込めることができなかった。
「へえ?そんなことがあったのか。はは、私も見たかったな」
そう言って、快活に笑うのはアイマスだ。アイマスとクシケンスは、後方の警戒に当たっていたが、特に何もなかったらしい。まあ、私のMAP魔術にも何も表示されていなかったのだ。当然である。ちなみに、呪術が使えるアシュレイは、聖火の目の前に配置されている。万が一にも聖火が消えぬよう、呪術を行使しているのだ。光の性質を伴う法術と、相反する呪術を扱うアシュレイである。修道士に囲まれながら使う呪術は、さぞかしストレスが溜まるに違いない。アーサーさん?彼は、その辺を自由に行き来していた。列を離れた者がいると、その者に付き添っていたりするのだ。要するに、お花摘みの護衛だ。私も一度、世話になった。知能があるんだよな—と思うと、途端に恥ずかしくなり、出るものも出なくなる。人とは不思議な生き物だ。
「あれ見るとさ、強さってのは、レベルだけで決まる訳じゃない—というのを思い知るよね。私達の方が、きっとレベルは高いだろうに、勝てる気がしないよ」
「マギステル司教は、精霊術が使えるので御座います。それそのものが、大きなアドバンテージなので御座いますから、多少のレベル差ならば、問題にならないので御座いましょう」
「へえ〜。精霊術かあ〜。やっぱり森精族の血が入っていると、魔力を扱うには有利に働くもんだね〜。魔法師なのかな〜」
夕暮れ時、皆で焚き火を囲みながら、昼間見たマギステルの活躍を話して聞かせていた。今日の料理当番はクシケンスだ。砂糖や醤油が余っていたため、肉じゃが擬きをお願いしたのだが、鍋を見つめるクシケンスの顔は青い。せめて、食べられる物が出てくることを祈るばかりだ。
「ただいま。修道士の皆さんへ、調味料のお裾分けしてきたわ」
「助かります、ユカリ。貴女に、神の御加護を」
修道士達の天幕から戻った由香里を労う。定期的に調味料も補充されるため、私達だけしか使わないと、結構な量が余る。そのため、こういう機会があったなら、料理を作って振る舞うことにしているのだ。今回は数が多すぎるため、調味料と、代表的なレシピを渡したのみだが。
「売れば大金持ちになれるじゃ〜ん?」
「ちょっとやめてよアシュレイ。売るほど量はないし、自分じゃ作れないから…何があるか分からないもの、怖くて売る気になんてなれないわ」
アシュレイの冗談混じりの提案に、由香里が首を振る。私も由香里の発言はもっともだと思うが、それと同時に、本当にもったいないと思う。この世界にも塩はある。胡椒もある。なんなら酒だってあるし、貴族の間になら、甘味もあった。もっとも、その甘味は、急速に安価な庶民の調味料へと姿を変えつつあるが、それは置いておこう。
「あ〜!小学校の時にさ、醤油の工場見に行ったんだよ!けどさ、全然作り方覚えてないの!くっそ〜!ちゃんと覚えてればな〜!」
この世界の調味料は、まだまだ雑味が多い。科学的な観点から徹底的に洗われ、舌触りにまで拘りを見せる私達の世界の調味料とは、出来が雲泥の差なのだ。酒にしても保存方法に難があり、作り立てがもっとも美味い。何年も寝かせた酒など、こっちの世界では飲めたものではない。そもそも、そんなものを飲めば死ぬ。そうなれば、私達の世界の調味料、酒。これらの出番ではなかろうか?一度、世に売り出せば、皆が挙って買い漁るに違いないのだ。市場は独占状態。左団扇の生活が待っていることだろう。本当にもったいないと思う。
「やめておきなさい、真。お金は確かに大切よ?でも、過ぎたるは猶及ばざるが如し—とも言うでしょ?力を持てば味方も増えるけれど、敵も増えるわ。私達では、現状でも己の身を守るので精一杯なのよ?とてもじゃないけれど、法の整備すら満足に進んでいない暴力が至高の現状で、何の後ろ楯もなしに、目立つような真似はダメ。程々で満足しておきなさい」
「はーい」
由香里の言葉は正論過ぎて、反論も反駁の余地もない。私のみならず、アイマスとアシュレイまでもが縮こまった。二人には一体、どんな心当たりがあるのだろうか。
『ところで皆さん…クシケンスを助けた方が良いのでは?』
「へ?うわっ!?」
「ちょっとクシケンス!?何を混ぜたの!?」
ラヴァの言に振り返れば、鍋からは朦々と黒い煙が立ち昇っているではないか。私と由香里は慌ててクシケンスの元まで走り、怪しげな鍋をひっくり返す。結局、その日の夕食は簡単な保存食のみとなった。
「…ラヴァ、アイマスとクシケンスを呼んできて。大至急」
『こちらでも捉えております。承知しました』
ラヴァが肩から飛び立ち、後方のアイマス達を呼びにゆく。久しぶりに感じる心臓の高鳴りに、手が震える。アンラを経ってから六日目の朝、ついに恐れていた事態がやってきたのだ。すなわち、万が一の可能性がある敵だ。
「ソティ、由香里。敵二体。それも、かなり強い。結構ヤバいよ?」
「…ア、アンラ大平原のど真ん中で御座いますよ?」
「真、本当に?」
ソティと由香里は訝しんで尋ねてくるが、MAP魔術には、大きな赤い点が二つ、こちらに近付いてきているのが表示されている。間違いなどではない。大型の魔物だ。何故こんな場所にいるのかはともかく、真っ直ぐにこちら目掛けて突き進んできている。会敵まで、そう間はない。
「私達も、お手伝いします」
マギステルが声を上げれば、その背後から、スルスルと音もなく数名の修道士が現れる。ソティと目配せしているあたり、かつての同僚だろう。
「…ええと、遠慮なく言わせてもらうけれど、大型の魔物だよ?勝手が違うと思うけれど…大丈夫?」
「はい、お気遣い感謝します。町の外で待機することもままありましたので、魔物との戦闘もそれなりには。足手まといにはならないと思います」
ニコリと微笑み、マギステルが袖から取り出したのは、黒い釵だった。それを見て、彼女の二つ名を思い出す。
(…なるほど、簪ではなく、釵のマギステル…か)
その他の面々も、戦棍だったり斧だったりと、やる気満々の得物を抜き放つ。その何れもが、血のためか、僅かに錆びているように見受けられる。真っ白な修道服とのギャップが半端ない。
「…剣はないんだね?」
「剣とは、正道に基き振るわれる神聖な武器です。私達のような、はみ出し者には相応しくないのです」
何気なく尋ねたのだが、物凄く重たい答えが返ってきた。慌てて頭を下げれば、マコトは優しいですね—と、皆で笑う。気にしたのは私一人であったらしい。
(好き好んで、はみ出し者になる奴なんて稀だよ。あー、やっちゃったな…)
《そう思うなら、今後も変わらぬ態度で接してあげなさい。それが、彼女達の何よりの望みでしょう》
人の心に無断で踏み込んでくる声も、今は少しばかり心強い。遅れて肩に舞い降りた相棒に、お帰り—と、声をかけた。
「敵はどこだ!?」
「まだずっと先だよ」
息急き切ってやってきたアイマスは、素早く剣を抜き放ち、盾を構える。先の話があっただけに、アイマスの剣へ、自然と視線が吸い寄せられた。
(アイマスは、正道に基いて剣を振るってるのかな?)
《…そうかもしれません。彼女は、いつも正面から敵に挑みますしね》
そうだね—と、小さく呟く。今、私の背後にいる修道士達は、どんな思いで剣を構えるアイマスを見ているのだろうか。私の中で、先の一幕はかなりヘビーなブローだったらしく、振り切るにはもうしばらくかかりそうだ。我ながら情けないな—と、自嘲した。




