アンラを襲う呪印 その一
「お前がアシュレイか?」
「んあ〜?誰〜?」
講堂の中で、一人机に向かっていた魔人族の女—アシュレイが顔を上げる。小さな輪郭に大きな魔眼。不覚にも、可愛いと思ってしまった。
《…なんだこれは?》
俺はなおもアシュレイに語りかける。話を聞きたかったのだ。絶対の自信を持って臨んだ、広範囲殲滅の魔術式理論。けれども、教諭が最優秀として発表した者の名は、俺のものではなかった。アシュレイという、聞いたこともない女のものだった。そんな馬鹿な—と教諭に抗議しにゆくも、俺の剣幕に辟易した教諭が見せてきた魔術式の出来栄えに、俺は愕然とした。
《お、そうか。これは夢か。ほっほっほ。なんとも、懐かしいのう》
確かにそれは最優秀を飾るに相応しいもので、俺の構築した魔術式など、彼女の産み出した魔術式に比べれば、児戯に等しい。けれども、俺が囚われたのは魔術式ではなかった。どちらかと言えば魔法陣の方だ。緻密に重ねられた魔法陣は無駄がなく、魔力負荷を均等に分散できているばかりか、何よりも癖がない。癖のない魔法陣は隠蔽式を潜ませやすく、これならば、敵陣営に構築する工程を見られたとしても、本来の魔法陣を隠蔽することは容易い。実に実戦向きだ。ただ難解で威力を追求しただけの俺の術式など、及ぶべくはずもない完成度だった。
「お前がアシュレイか?—と聞いている」
「あんた誰〜?—って聞いている〜」
俺とアシュレイは、互いに見つめ合った—否、睨み合ったまま微動だにしない。俺から名乗りを上げるのは癪であったし、アシュレイにしてもまた、こんな不遜な態度の若者に名乗るのは、嫌だったのだろう。
《うんうん。そうそう。わしらの出会いは、こんなんだったなあ。我ながら、若い頃のわしは酷い。若気の至りとは、見たくないものだのう》
俺はなおもアシュレイと睨み合っていたが、このままでは埒が明かない。用があるのは俺なのだ。少しくらいはこちらが下手に出るべきだ—と思い直し、アシュレイの対面に椅子を引き寄せると、腰を下ろした。
「…デンテだ」
「…何それ〜?」
「俺の名前だ」
「変な名前〜」
そう呟いたきり、アシュレイは興味を失ったかのように、読書に戻る。こいつ—と、殴り飛ばしたい思いに駆られた。
《ほっほ。わしも酷いが、アシュレイも相当だのう》
怒りを静めるべく、深呼吸を繰り返す。俺にしては珍しいことに、怒りに任せて怒声を上げる気にはならなかった。
「…お前の広範囲殲滅魔術式、見せてもらった」
「…ふぅ〜ん」
広範囲殲滅魔術式のことに触れると、アシュレイはチラリと俺を見る。すぐに視線は本へと戻されたが、興味を持ってもらえたようで、少しばかり嬉しく感じられた。
「実に分かりやすく、見事なものだった」
「…え?」
ところが、俺の発言の何が琴線に触れたのか、耳驚いたかのように、目を見開いて顔を持ち上げるアシュレイ。これには、逆に俺が戸惑った。
「…分かりやすい〜?」
「…え?…あ、ああ」
嘘はない。実に分かりやすかった。後進のことを考えた、見本のような魔法陣だったと思う。しかし、彼女は笑った。よほどおかしかったのか、涙を流し、声に出して笑った。俺はそれを訝しむ—というよりは腹を立てて、睨みつけながら問いかける。せっかく人が褒めたというのに、その反応はなんなのか—と、憤っていた。
「…なぜ笑う?」
「あはは〜。だってさ〜、君一人だよ〜?未だかつて〜、私の書いた魔術式を、分かりやすい—なんて言ったのは〜」
俺の問いかけに、アシュレイはなおも笑いながら応じたが、それは俺を馬鹿にしたような笑いではなかった。むしろ—
「君、ぼっちだろ〜?周囲の人に聞いてみな〜?私の魔術式を理解できる人間なんて〜、一人もいないから〜。教諭にだって、真には理解できていないのにさ〜」
—いや、やはり馬鹿にしているのかもしれない。誰がぼっちだ。誰が。
《ぼっちだったのう。この時は認めるのが嫌だったが、確かにわしはぼっちだった》
面食らって口を噤む俺に、じゃあ、説明してもらおうかな〜と、意地の悪い笑みを向けてくるアシュレイ。その表情が妙に色っぽくて、俺は浮き足立ちながらも、慌てて言葉を紡いでゆく。アシュレイは本を閉じ、俺の話を聞く姿勢になっている。それが嬉しくて仕方なかった。
「ふふふ〜。正解。全問正解だよ〜。凄いね〜。まさか、完全に私の術式を理解できる者が現れるなんて〜、思いもしなかったよ〜。しかも、その若さで〜」
そう言って手を突き出してくるアシュレイ。その手が何を意味したものか分からずに呆けていると、業を煮やした彼女は、己から俺の手を握り込み、握手を交わした。
「よろしく〜、デンテ〜」
どこからか聞こえる話し声に、アシュレイの姿が遠のいてゆき、同時に、意識が浮上する。我が青春の思い出が齎した甘酸な余韻に浸りつつ、瞼をゆっくりと持ち上げてみれば、王宮の天井と思わしき煌びやかな飾り物が目に付いた。
(…趣味ではないのう。…もっとも、ベロートにとっても趣味ではなかろうがな)
身を起こし、掛けられていた毛布を取り払えば、即座に若い術師が走り寄ってきた。
「デンテ様!もう少しお休みになってください。まだ目を瞑られてから、数刻も経っておりません」
「何を言うか。若い者が頑張っておるのに、立場ある者が、いつまでも休んでいる訳にはゆかんだろう。ほら、気にせずやりなさい」
わしの言に、若い術師は当惑した顔を作るも、すぐに頷くと、広間を覆う大きな魔法陣へと戻ってゆく。わしもそれに続き、魔法陣へと近付いた。
「おはよう。少しは休めたかい?」
わしに声をかけてきたのはベロートだ。その横にはブルーツもおり、ニコニコと微笑んでいる。二人もわし同様に、この大型呪術に付きっきりだ。ベロートには流石に疲れが見えるも、ブルーツには微塵もそれが見当たらない。体力お化けだ。
「うむ。十分に休めたわ。すまんのう、ソファを借りておったわい」
「あら、いいのよ?そのくらい。ねえ、パパ?」
もちろん—と陽気に応えつつ、魔法陣に視線を戻すと、次にはすぐ顔をしかめるベロート。こやつの表情は、コロコロと変わって面白い。
「それにしても、アトリアかあ…一体、何があるっていうんだろうね?アシュレイからの文には、何か暗号めいたものはなかったのかい?」
ベロートにしては珍しく、この件に関しては、随分と急かしてくる。またか—と、嘆息した。これは既に何度も繰り返したやり取りであり、文そのものも、既に見せているのだ。
「何遍も言うておろう。その暗号が、まさにアトリアを覆う負の龍脈を知らせるものだったのだ。それ以外には何の情報もないわい」
「うう…困ったなぁ…」
ボソリとベロートが漏らした呟きを、わしとブルーツは耳聡く拾う。互いに目を見開き、視線を交わしてから、ベロートを睨み付けた。
「…パパ?何か、隠してる?」
「え?何のこと?」
ところが、ベロートはいけしゃあしゃあと嘯く。こういう時だけは、この男はポーカーフェイスを気取る。だが、日頃が表情豊かなだけに、かえって分かりやすい。絶対に何かある。あるに違いない。いつもの如く、何か仕込みをしていたところに、この報が舞い込んだのだろう。だから焦っているのだ。
「ぐあっ!?」
ベロートを問い詰めようとしたその時、宮廷魔術師の男が一人、声を上げて苦しみ始めた。呪詛返しをもらったに違いない。
「デンテ様…ダメです。また弾かれました…」
正直に言えば、心苦しい。こんなことはやらせたくはない。けれども、そうも言ってはいられない事情ができた。ベロートの仕込みがどういうものかは知らないが、このままでは困る事態になるのだろう。ここは心を鬼にして、やってもらう他ない。
「…もう一度だ。何とかして渡りをつけるしかないからの」
厳として告げれば、伺いを立てていた男は、しっかりと頷いた。倒れた男が運び出されるのを目で追いながら、次はどうするべきか考える。正面から挑んでも無理ならば、やや手間はかかるが、搦め手でゆく他ないだろう。
「…鳥だな。鳥を使え」
「はっ。直ちに」
宮廷魔術師達は、素早く広間の魔法陣を描き換えてゆく。見事な手並だ。やがて、魔法陣が完成すると、わしに声をかけてきた男が立ち上がり、魔法陣の真ん中に進み出て自らの腕を切り付けた。なかなかに痛ましい光景だが、誰も取り乱したりはしない。本人も、うっ—と、苦痛を覆い隠すかのように小さく声を発したのみで、その後は何事もなかったかのように、ポタポタと広間を濡らす血を眺め続けている。
「…無茶はするでないぞ?ダメそうだと判断したら、呪詛返しをくらう前に退け。よいな?」
「はい」
宮廷魔術師の肩書きに相応しく、誰もが有能であった。専門ではない呪術に関しても、一通りは修めているらしく、見ていて不安はない。だがしかし、敵はそれ以上であるらしく、呪術がことごとく弾かれる。これには溜め息しか出なかった。
「……きました」
「…抜かるでない。ここからだよ」
跪き、呪詛を込めていた男が声を上げれば、広間を彩る血の池の表面が、俄かに輝き出す。赤はたちまち青へと変わり、ついには雲を映し出せば、なんらかの鳥の視界を乗っ取ったことが理解できた。
「…アトリアまでは…まだ、だいぶありますね…今の依代から、さらに先の依代を探してみます。暫しお待ちを」
「くれぐれも、無理をしてくれるでないぞ?」
依代との結び付きを強めるため、彼は己が血を触媒とした。それそのものに問題がある訳ではないが、呪詛返しを受けた時、結び付きが強ければ強いほど、己が受けるダメージも跳ね上がる。鳥を操るだけとはいえど、そう侮れるものではない。
(アシュレイめ…やるならば最後までやってほしいものだのう)
術師大国であるメキラ王国にあって、その頂点に君臨する年齢不詳の女術師アシュレイ。そのアシュレイから、文が魔術師ギルドに届けられた。ご丁寧に、愛くるしいケット・シーを寄越してまで。このところ、不穏な噂の絶えないメキラ王国だが、彼女の言なら信用できる。
(ケット・シー…か。よもや、生きているうちに、もう一度、目にする機会に恵まれるとはのう。良かったのか悪かったのか…)
若かりし頃の思い出が、走馬灯のように蘇る。妖精族であるケット・シーや、クー・シー。比較的人類に友好的な彼らは、見返りさえあればキッチリと仕事はこなしてくれる。それを利用した取り決めを作ったのだ。彼らには暗号文そのものを持たせておき、使用する暗号の解読表は、ケット・シーや、クー・シー達の毛色で決まる。しかも、その暗号表の所在は、己らの頭の中である。万全の態勢でありながら、実にこの歳まで使用したことなどありはしなかった。しかも、アンラ神聖国には手頃な森がなく、彼らの姿を見ることなどない。我ながら、よく思い出せたものだ。
(いかんな。変な夢を見たせいか、少しばかり涙脆くなっているようだ)
青い血の海に広がる光景は、別のものへと変わった。今度はどこかの林の中であるらしく、まばらな木々の向こう側には、アンラ大平原と思わしき丘陵が広がっている。数度、瞬きして涙を引っ込めてから、声を上げた。
「やや東に寄ったのう。だが、問題ない。さらにアトリア近くに鳥はいそうか?」
「直ちに調べます」
玉粒の汗を浮かべながら、それでも男は魔力を込める。周囲で陣を囲む男達もまた、陣へと魔力を送り出し、男を助けていた。
「あっ!アトリアよ!」
「やった!凄いよみんな!」
何度かの依代交代の後、景色はアトリアを俯瞰するものへと変われば、ブルーツとベロートが声を上げて喜ぶ。血の海が映し出す映像は、町を挟んで片側が峻険な山岳となり、反対側は平原がどこまでも続いていた。
(間違いないの。あれはアトリアだな)
ようやくここまで辿り着いた。直接的にアトリアの光景を眺めようとしても、呪詛返しを食らう。どのような手を試しても無理であったが、発想を変えたことが功を奏した。これで、アトリアで何が起きているか知ることができる。
「う、ぐうぅ…」
ところが、蹲って魔力を込めていた男が、途端に苦しみ始める。血の海へと広がる映像は、アトリアを俯瞰するものと、何気ない日常を暮らす人々のものと思わしき映像とが、切れかけの照明が点滅するかのように、目紛しく入れ替わっていた。
「やめよ!無理に町の中へと潜り込む必要はない!俯瞰できれば十分だ!」
「あがああああ!」
必死に声をかけるが、もはや、わしの声は届いてなどいない。男が仰け反り泡を吹き出せば、突如として映像に亀裂が入り、やがて、濁った赤へと戻った。呪詛返しを受けたのだろう。男は仰向けに倒れ、ピクリとも動かない。尋常ではない苦しみ方に、誰もが顔を青くしていたが、ハッと我に返った周囲の男達が、慌てて駆け寄っていった。
「…い、生きておるか?」
「…な、なんとか…息はあります…」
肩越しに彼の生存を告げられ、ホッと安堵の息を吐く。男はそのまま担ぎ上げられると、別室へと運ばれていった。
「…今の反応は…弾かれましたよね?」
「…そうだのぅ…」
宮廷魔術師の男が一人、わしに近付き声をかけてくる。わしにもまた、思い当たることはあった。呪術は齧った程度であるが、あれがなんであるのか、術に精通した者ならば判別がつくだろう。
「…町の住人達は、全て何かしらの呪術的な干渉を受けているものと考えられます。それ故に、呪術が通じないのでしょう」
男の言葉に首肯を返す。やはりそうなのだ。今をときめく若い術師がそう言うならば、間違いないだろう。
「…参ったの…負の龍脈が集まっておるのは、人為的なものと見た方が良さそうだ」
あれほどの呪詛返しであるというのに、先の男は抗い続け、わしらに答えを提示して見せた。天晴な心意気だが、同時に、敵方にも察知された危険性がある。これ以上の呪術行使は危険だろう。魔力的な痕跡を消すべく、素早く指示を出した。
(まいったのう…本当にまいった。もうアトリアには聖火を運びに行く時期だというのに、これでは行かせられん。はあ…一旦、教会に顔を出しておくかのう)
毎年、年の終わりが近付くと、アンラ神聖国の三大都市に、聖火を運び込む。これは、年の初めの祭りで使うため—というよりは、女神教の教程と表する方が正しい。この教えにより、盲目な年若い修道士達へ、外の世界から町の中へと、恵みを持ち帰る者達の素晴らしさ、外の世界の厳しさを教えるのだ。行商人や冒険者、あるいは農夫達。彼らが如何に精神を擦り減らし、危険な世界に身を置いているのかを知り、町の中に住う場所のあることが幸福か認識してもらう。そういった趣旨の催しだったはずだ。祭りそのものとて国家事業ではあるが、状況を鑑みれば、アトリアへの聖火運搬は、中止にしてくれることだろう。その祭を楽しむはずのアトリアの民達が、そもそもおかしいのだから。
「ベロートよ、これではどうにもならんな。危険ではあるが、直接乗り込む以外に、町の中の様子を探る手立てがない。聖火がもうすぐであろう?アトリアへの運搬は中止するべきだのう。わしはこの件を伝えに教会へ行く。教皇たるお主にも来てほしい」
わしは何一つおかしなことなど言ってはいないと思う。だがしかし、ベロートは何も言わない。ただ青い顔で立ち尽くしているのみだ。流石にこれはおかしい—と、ブルーツと顔を見合わせた。
「パパ?」
「……あ、はは…」
ブルーツに声をかけられて、ようやくベロートは我に返るも、どうにも動きがぎこちない。これはやはり、何か隠している。聞き出さねばなるまい。
「あ、あのね…」
ところが、問い質すまでもなく、ベロートは口を開く。さて、何が出てくるのか?—と、耳を澄ました。
「…アトリア行きの聖火なんだけどさ…実は、昨日、出ちゃった…しかもね…護衛がさ、ア、アエテルヌム…」
「…」
「…」
訳が分からなかった。昨日といえば、アトリアの状況を調べるため、今日と同じく悪戦苦闘していたのだ。ベロートとて、ここで常に見守っていた。それがどうして、何があるか知れたものではないと分かっていながら、修道士達を既に出発させているのか。しかも、どうして護衛がアエテルヌムだと知っているのか。
「パパっ!?」
「だ、だって〜、こんな大事だと思わなかったんだよ〜!仕込みもあったしさ〜!ふいにしたくなかったんだよ〜!」
呆れてものが言えぬとは、こういうことか。それでも尋ねねばなるまい。ベロートは仕込みと言った。ならば、何か企てがあるに違いなく、それにはどうしても、修道士達をアトリアへと向かわせなければならない理由があったのだろうから。
「ベロートよ。その仕込みとやらはなんなのだ?流石に聞かせてもらえるのだろう?」
厳しい視線を向ければ、ベロートはついに観念したと見えて、大きく嘆息する。さて、どんな話が出るやら—とベロートが口を開くのを待っていれば、ベロートの元へ兵士が走り寄ってきた。
(なんだ?何かあったか?)
兵士は辺りの様子をチラリと窺い、ベロートに向けて敬礼する。この面子ならば話しても問題なかろう—と判断したのだろう。彼はそのまま用件を口にした。
「冒険者ギルドのマスターであらせられる、モスクル様がお見えになっております。陛下にお目通りを願っておりますが、お通ししてもよろしいでしょうか?」
ああ、うん—とベロートが力なく応じ、兵士はそれを訝しみながらも戻ってゆく。やがて、モスクルが広間へとやってきたのだが、そのモスクルはとても機嫌がよろしくないようだ。眉間にはこれでもかと言わんばかりに皺が寄り、顳顬にもはっきりと見て取れる青筋が浮いている。これは勘でしかないが、わしらが今ベロートを問い詰めている件と、同じ用向きだろうな—などと考えた。
「ベロート!お前なぁ!正気を疑うぞ!?」
モスクルの開口一番は、酷いものだった。よほど怒っているらしい。しかし、流石に宮廷魔術師達の目もある。ブルーツと二人がかりで落ち着かせ、話を聞く。彼の話は怒りのせいか、何度も脱線したが、修道士達をアトリアまで護衛する依頼を、アエテルヌムに受けさせた—ということだった。分かってはいたことだが、モスクルの苦労話は半端ない。精神的にまいっめ、臓物が捻じ切れるんじゃないか?—とすら思う。こちらもどっと疲れた。
「…はぁ。ベロート。…お主は…」
「パパ。これは怒られて当然よ?」
アエテルヌムしか動ける者が王都内にいない状況を故意に作り出し、そのタイミングで修道士達を出立させたのだ。全ては、ネームレスとアエテルヌムを引き合わせるために。
(まったく…どこで仕掛けてくるかと思えば…よりによってここでか)
ベロートがアエテルヌムとネームレスを引き合わせるべく、虎視眈々と機会を窺っていたことは知っていた。それが、ここだったのだ。アンラの聖火祭は、メキラ王国でも知られた祭で、当然、ロロナとて知っていることだろう。モスクルからヘルプを頼まれた彼女としては、断ろうにも断れなかったに違いない。口実としては、申し分ない。
「…時間をかけて、不自然ではない状況を作り出したのかの?」
「そうだよ…もう全ての仕込みが終わった後に、アトリアの報があったんだもん。タイミング悪すぎるよ…」
ベロートは一切を認めて縮こまるも、それで終わりではない。今度はモスクルに説明をしなくてはならないだろう。彼は彼で、ここで何が行われていたものか知る由はなく、この後のことも含めて話し合うにしても、手が足りないことは明白だ。協力者が必要だ。それも、ケイタイを作り出せるような極めて優秀な術者が。
「モスクルや、少し厄介なことになっておる」
「…そ、そうみたいだな。何があったんだ?」
わしとブルーツがここまでの経緯を語れば、モスクルの顔は見る見るうちに青くなってゆく。ベロートの計略が裏にあったことは見抜いたモスクルであったが、そのさらに裏では、アトリアに不穏な影が落ちていようなどとは、微塵も思っていなかったらしい。
「な、なんでそんな重要なことを黙ってたんだ!?」
「すまぬ…返す言葉もないわい」
「ごめんなさいね。私達も、これほどの大事だとは想像していなかったのよ…」
モスクルの言葉には、何一つ言い返せない。珍しくアシュレイから頼られたことで、浮かれていたのかもしれない。己で解決しなくては—という思いに駆られていたのは事実だ。思えば、少し休め—という周囲の声にも、耳を貸そうとはしなかった。軽く休息を取って、少し冷静になってみれば、こういう事態にはなっていなかったかもしれない。
「老いては子に従え—という言葉が浮いて出たわい。年寄りの冷や水、老いの木登りだのう。まったく、焼きが回ったわ」
「ああ、もういい!そう自分を責めるな!」
悄気返るわしを、モスクルは励まそうとしているのだろう。バシバシと背を叩いてくる。痛いわい馬鹿者。もう少し加減せんか。
「ベロー…陛下!馬は!?馬を出して修道士団を止めましょう!」
モスクルの言に、ベロートは首を振る。なんとなく想像はついていたが、ベロートの語った内容は、まさに予想通りだった。
「本当にごめん!アエテルヌムが依頼を受注するしかなくなるようにさ、一時的に王都から、動ける全ての戦力を出しているんだ。…そうなると、当然、馬もないんだよ。急いで呼び戻しはするけれど、数日では戻れないと思う」
手の込んだ真似をしてくれる—と、モスクルは肩を落とす。わしとしては、少しばかり感心していたりするのだが、それは言い出せる空気ではない。アトリアの件がなければ、ベロートの計略は上手くはまっていたことだろう。
「彼女達を呼び戻します」
ケイタイを取り出して、ベロートに視線を向けるモスクルだが、許可を得ようとしている訳ではない。決定事項を伝えているだけだ。ベロートもこの期に及んでは、何も言えはしない。渋い顔を作りつつ、承諾を返した。
—プルルルル—
モスクルのケイタイから、発信音が漏れて聞こえた。しばらくはそのまま待っていたモスクルだったが、繋がる気配はない。苛立ちを露わにして発信先を次々に変えてゆくも、誰にも繋がらなかったようだ。わしもマコトへ発信するが、繋がらない。きっと、マナーモードにしているのだろう。出立したばかりでトラブルということもなかろうが、状況が状況だけに、少しばかり気にかかる。
「…仕方ない。陛下、ここは私が追いかけます。私ならば、明日には追いつけることでしょう」
モスクルが修道士団を追いかけることを提案する。確かに、わしやモスクルならば可能だろう。ブルーツでも不足はないが、流石に王妃陛下を動かす訳にはゆかない。わしかモスクルが向かうのが、もっとも確実で間違いがない。
「…いや、ちょっと…待って…」
だがしかし、ベロートは待ったをかけた。もう踵を返して広間から立ち去ろうとしていたモスクルが、鬼の形相で振り返る。そのまま怒鳴り散らそうとしたため、手で制した。
「デンテ!?」
「待て。ベロートは巫山戯ておる訳ではなさそうだ」
不満げな声を上げてわしを睨み付けるモスクルに告げれば、モスクルもベロートへと視線を向けた。
「…ごめん、今更なんだけどさ…おかしくない?」
ベロートの言に、わしらは互いに視線を交わす。ベロートの言いたいことが分からない。一体、何がおかしいというのだろうか。さらにベロートの言葉を待てば、彼は、こんなことを口にした。
「元々さ、今回の件は、既にある状況を利用したに過ぎないんだ。確かに色々と工作はしたよ?けど、アトリアへ向かう修道士団には、冒険者を使わざるを得ない状況が出来上がっていて…僕はさ、そこにアエテルヌムを当て込むべく整理したのみだ」
「…どういうことかのう?」
訝しんで尋ねれば、ベロートは己の考えを整理するかのように、ゆっくりと続ける。
「秋に大型の魔物が出現した件は話したっけ?あれでさ、第三騎士団はかなりの損失が出たんだけど、そもそも、それがおかしい。だって、アンラ大平原は、大型の魔物が腹を満たせる環境じゃない。魔物だって疎らだし…付近の村にもなんら被害はなかった。あの魔物は、どうしてアンラ大平原、それもど真ん中にいたのさ?」
いたのさ?—と問われても、答えを返せる者などいはしない。そんなもの、知る由もないのだから。わしらは互いに視線を交わして首を振る。代表してモスクルが応じた。
「…たまたま、やってきたばかりだったとか?」
「うん。僕も、ついさっきまではそう考えていた。たまたま、どこからともなくアンラ大平原にやってきたところで、第三騎士団とかち合った—って。…でも、そうじゃなかったとしたら?」
「パパ…非常時なら、勿体ぶるのはやめて」
いつもの悪い癖が出始めたところで、素早くブルーツが掣肘した。けれども、ベロートは渋い顔を見せない。ごめんごめん—と、素直に詫びて先を続ける。どうやら、ベロートは非常時だという認識を持っているらしい。
「人為的に集められたアトリアの負の龍脈。呪術的な干渉を受けている町の人々。騎士団を消耗させるべく配された魔物…どれもこれもが、一つの線で繋がっていたとしたら?」
ベロートは実に恐ろしいことを言って退けた。わしも、モスクルも、ブルーツもが、何をも言えずに固まる。ただただ目を見開いて、ベロートの顔を見返した。
「じゃ、じゃあ、何か。どこの誰かは知らないが、何か目的があって、負の龍脈を集め、町の人達に呪術を施し、騎士団を消耗させたってのか?一体、そいつらの目的は何だ?」
やがて、我に返ったモスクルが、声を荒げてベロートに迫る。周囲の宮廷魔術師達も騒めき始めたため、こっちに来い—と、皆を手招きして呼び寄せた。
「多分だけど…アトリアの町に関しては、直接的な繋がりはない。別問題だ」
「お前が一本の線って言ったんだぞ!?」
「落ち着いてよモスクル。大枠で括れば、一本の線だとは思う。けれども、アトリアの町を覆う龍脈と呪術、それとアンラ大平原の魔物は、別の目的だと思う。そう考えた方が自然だよ」
モスクルの剣幕に、宮廷魔術師達は青くなっている。本来ならば不敬罪に問われてもおかしくないような物言いに、ベロートが怒り出すのではないか—と、気が気ではないのだろう。これにはわしも苦笑しかできないが、問題ない—という思いを首肯に変えて、皆を落ち着けた。
「第三騎士団で怪我も何もなかった者達は、皆が皆、南部の方の出身だった。北部の出の者達ばかりが怪我をしていてね。だからこそ、アメランド行きの修道士団を騎士団に任せて、アトリアは冒険者にお願いすることにしたんだ。そこで、無理難題を吹っかけたのは僕の仕業だけど…それは一先ず置いておく。アトリア、アメランドへ露払いも含めて、戦力を分散させなくてはならないのは、毎年恒例のことだから、今更確認するまでもないだろう。では、アンラ大平原に現れた、大型の魔物が人為的なものだとした場合…敵の狙いは何だと思う?」
ベロートの言に、顎髭を撫でつつ考え込む。アトリアの呪術、負の龍脈のことは、一旦、隅に置いておくとして、大型の魔物が人為的なものだと仮定した場合、その目的は騎士団を北部に、いや、アトリアに近付けさせないことだろうか。冬が来れば、騎士団は決まって聖火の運搬護衛にあたるのだから。北部の者が多く倒れれば、自然と騎士団は南部に向かう。
(…いや、待て。本当にそうかのう?騎士団が二手に分かれて、北部と南部に散る可能性とてある)
ここで、敵の目的云々の前に、こちら側の動き方で思考を割いた。何が引っかかったのかは分からないが、ふと違和感のようなものを覚えて、掘り下げてみることにした。
(…うむ、やはりダメだのう、外から騎士団の動きは操れん。王国騎士団なら軍部、あるいはベロート。教会騎士団ならば大司教以上のものでなくては配置など変えられん。どちらの条件も満たすのはベロートのみだが…ベロートが騎士団を南部にやったのは、南部の者が多かったからに過ぎぬ。となれば、この結果は偶然…ふむ)
偶然とするならば、騎士団の配置そのものには、敵は関心がなかったことに他ならない。そうなれば、一体、何が目的か。
(…ダメだのう。こんがらがってきたわい)
チラリと周囲の様子を窺えば、皆が皆、考え込んでいた。モスクルもブルーツも、難しい顔で眉を寄せている。そんな皆の表情を見て、満面の笑みを作るのはベロートだ。思ったよりも余裕があるらしい。
(…まったく。本当に意地の悪い真似が好きだのう)
わしから向けられる視線に気が付いて、ベロートは慌てて咳払いすれば、皆がベロートへ視線を戻す。シンキングタイムは終わりだ。
「アトリアだとか騎士団云々ではないんだよ。そこからは一旦離れて、王都から戦力をなくすことが目的だとしたら?」
「あっ…」
ベロートの言に、誰かが小さな呟きをこぼす。わしもまた、声を上げそうになっていた。盲点だった。いや、違う。きっと、何事もなければ、当たり前のように気が付けたことだろう。ただ、色々と重なり過ぎたために、逆に見えなくなっていたのだ。
(なんてな、言い訳だのう。やれやれ、耄碌したものだ)
王都が最も手薄になるタイミングである年末年始。そこに向けて騎士団に被害を出し、防衛力たり得る冒険者達を町の外へ出すことが目的だとすれば、確かに理に適っている。だがしかし、それはつまり—
「待ってパパ!それだと、敵は王都に攻め入ろうとしてるってこと!?」
そういうことだろう。誰もがベロートに視線を向けて、ブルーツの質問に対する答えを待つ。
「…杞憂かもしれない。けれど、あり得ないとは言えない」
「…そんな…」
もしそうなれば、厳しい決断も必要になることだろう。今、アンラにある防衛力は、王の近衛たる第一騎士団、国防を担う第二騎士団の二つしかない。魔術師ギルド、錬金術師ギルド、その他ギルドや宮廷魔術師とて、いざとなれば防衛に協力してくれることだろう。貴族の私兵とて、非常時となれば当てにできるかもしれない。けれど、それらをかき集めたとして、一体どれほどの数になるだろうか。
(すっかり後手に回った可能性も、あるということか…)
気が付けば、随分と深い皺を眉間に刻んでいた。ゆっくりとそれを揉み解し、ベロートへ尋ねる。
「ならば、修道士団を呼び戻すことは、せぬ方がよいな?」
わしの問いかけに、数名が怪訝な顔を作る。何故、呼び戻さないのか—と、不審に思ったのだろう。未だに整理が追いついていないということだ。なんだ、わしもまだまだイケるじゃないか—と、少しだけ気分を良くした。
「…そうだね。逆に王都は危なくなる可能性がある。ここで引き返させて、門の外で敵と鉢合わせたら、修道士達に犠牲が出かねないし、門の中にいても、敵が攻めてきちゃったりしたら、それは変わらないよ。アメランドもそうだけど、アトリアに向かった修道士団も、呼び戻すことはしない」
「…だが、アトリアもアトリアで、危険がないとは言い切れない状況だろう?そのまま向かわせていいのか?どこかで方向転換するなり、近場の村で待機させたりとか…」
間に髪を挟まず、モスクルが声を上げる。確かにアトリアはアトリアで、別の問題を抱えていることだろう。その問いかけ事態はもっともなのだが、わしはそうは思わない。そして、ベロートの考えもまた、わしと同じであった。
「そこはほら、間違いなく世界最高戦力であるネームレスが付いているんだ。むしろ、そこほど安全なところはないよね。それに、アトリア組には、僕も隠し球を数名潜ませているんだ。実は、自衛能力もそこそこあるんだよ?」
「なあっ!?おまっ…ぐっ!?」
また新たな情報が出てきたことで、モスクルが腹を抑えた。ベロートが計略、謀略を巡らせるのはいつものことだし、彼がベロートに振り回されるのもいつものことだ。けれども、腹を抑えて苦しげに呻くのはいつものことではない。精神的にまいった時に来る、腹の痛みに襲われているのだろう。可哀想に。
「逆に言えば、ネームレスでダメならば、多分、アトリアは誰にも攻略できないよ?…もっとも、アトリアが危険だとすれば—の話だけどさ。そんな訳だからさ、どうだろうね?ここは一つ、ネームレスに乗り込んでもらおうよ?」
悪びれることなく言われると腹が立つが、ここはベロートの言う通り、ネームレスに甘えるしかないだろう。アトリアが危険だと仮定すれば、圧倒的な力で捻じ伏せる他ない。もはや、魔術的に介入することは難しいだろうから。
「…そうね。不義理だけど…それしかないわ…」
ブルーツが苦々しい顔で呟くと、モスクルが真っ向から反発した。
「巫山戯るな!折衝してるのは誰だと思ってる!?いい加減にしろ!」
反発というか、爆発だ。溜め込んだものが噴出している。見かねた宮廷魔術師の一人が、落ち着かせるべく肩を叩いた。
「情報は渡すか?」
わしはベロートに尋ねたのだが、横からモスクルの怒声が飛んできた。
「当たり前だ!デンテ!お前まで何を言っている!?どこまで巫山戯たことを…いたたっ!」
ついに腹の痛みが我慢の限界を超えたのか、モスクルは蹲る。先にモスクルの肩を叩いていた男が、そのまま介抱に回った。
「…情報か。…僕としては渡しておいた方が良いと思うけれど、プロの意見は?」
「言葉が足りんかったが、わしが言うておるのは、アトリアのことだ。術に明るい者であれば渡すべきだが、そうでないならば、アトリアの現状は知らせぬ方が良い」
わしの言葉に、宮廷魔術師達も皆が首肯して見せた。別に意地悪で言っている訳ではなく、ちゃんとした理由がある。呪術とは、感染するからだ。それも、見える者、知る者ほど感染しやすい。逆に、見えぬ者、知らぬ者は、そう簡単には感染しなかったりする。これは、悪意ある呪術が、恐怖や怒りといった負の感情を経由して、肉体へ影響を及ぼすためである。ベロートはそれを知ってか知らずか、ふぅん—と、簡単に納得したが。
「まあ、術者の皆さんが口を揃えて言うのなら、その方が良いんだろうね。じゃあ、そうしよっか」
ベロートに続き、ブルーツも納得するが、モスクルは違った。呪術に感染する理由を説明するまで、狂犬のような表情を崩さず、納得しなかった。信用がないのう。
(問題はマコトだな。ソティなら自前でどうとでもできるだろうが…まあ、ソティと離れることもあるまいし、ラヴァもおる。仮に見えたとしても、あやつらなら問題はあるまい)
マコトの魔力制御能力は、極めて高い。人間種に限った話ならば、最高峰。もしかすると、わしを凌ぐかもしれない。けれども、年若く経験の足りない彼女は、色々と迂闊だ。それを思えば不安もあるが、同時に、驚くほど利発でもある。これだけならば判断に困るところだが、今回はユカリが同行しているそうだ。彼女はマコトに輪をかけて賢い。ならば間違いはないだろう。悪戯に怯えさすよりは、何も知らずに十全を発揮してもらう方が良かろう。
(…神頼みなんて、ガラではないのだがのう)
ふう—と嘆息しつつ視線を動かせば、宮廷魔術師の一人が静かに近付いてくる。何かと思えば、先に別室に連れて行かれた男が、意識を取り戻したという報告だった。




