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小坂、アンラ大平原を横断する

消費税10%になりましたね。

地味に痛いです。


それとは関係ありませんが、今回もあまり話は進みません。申し訳ない。

「え!?ロロナさんも行くんですか!?」


 俺が驚きの声を上げると、カッポーギが苦笑いした。

 魔石の量産から一夜明けた早朝、二刻にはアンラギルドへと亜空間を開き、そこから蟻の巣—蟻塚の迷宮へと赴く事になっている。

 ところが、朝一でギルドを訪ねた俺達へ齎された報は、ロロナも行くからちょっと待て—というものであった。

 俺は思わずカッポーギに小声で尋ねる。


「ロロナさんて、人妻ですよね?」

「ん?ああ、そうだよ」


 カッポーギは何でもないかのように首肯する。

 背後からクローディア達の責めるような視線を感じたが、何を想像しているのだろうか。相手にするのも馬鹿らしいので、放っておく事にした。


「俺もアビスさんも男なんですけれど…その…倫理的な問題とか、ないですかね?ロロナさんの旦那さん、気にしたりしません?」


 俺の問いに、カッポーギは腕を組んで唸り、背後からは疑惑を湛える声が聞こえてくる。


「お主が…男?男か?男を語れるのか?」


 今度は我慢ならなかった。煩いよ—と、思わず渋い顔をクローディアへ向ける。

 そんな中、異議あり—と言わんばかりにファーレンが手を上げた。

 嫌な予感しかしないが、発言を促してみる事にする。どうぞ—と声をかければ、ファーレンは得意げに言った。


「いやいや!年若くても、オサカ師匠は立派に男性でしたよ!お尻とか硬そうで、背中も凄く立派でした!」


 室内の空気が凍る。

 何を言ってくれてるんだ、この馬鹿は—と、渋い顔をファーレンへ向けた。どうしてこの子は、毎度毎度、地雷を踏み抜いてくれるのだろうか。


「お主ら…」

「ぶはっ!」

「…殺すであります」


 クローディアがジト目をファーレンへ向け、アビスが吹き出す。クルスは虚ろな目で、銃のセーフティーを外した。

 最後に、カッポーギが呆れたような顔をファーレンに向ける。


「ファーレン、お前…よりによって、こんな揉めそうな物件に手を出したのか?…苦労するぞ?」


 カッポーギの言に、己が口走った事の意味を察したらしい。ファーレンは慌てて訂正した。どちらかといえば、主にクルスに向けて。


「ちちち、違うんです!オサカ師匠がお風呂に入っているなんて思ってなくて!お風呂を開けたらオサカ師匠が居て!危なっ!?クルスさん、ストップ!それは洒落にならないです!うわあっ!?」


 ドォン—と、クルスのマグナムが火を噴いた。言い訳を聞く気はないらしい。


(よく躱したな、今の)


 狭い会議室の中を、クルスとファーレンが走り回る。どちらも本気であろう事は、表情から容易に知れた。

 俺はといえば、腕組みして立ち尽くしていた。飛び散る壁の破片が煩わしい—などと考えながら、深く嘆息する。せっかく胸の内にしまっていたのだが、己から暴露していたら世話はない。全く、疲れさせてくれるものである。

 俺が嘆息する横では、クローディアもまた嘆息していたりする。そんなクローディアの呟きを拾って、俺はクローディアへと視線を向けた。


「あやつ、何度も同じ轍を踏みおって」


 クローディアは顳顬を揉みながらファーレンを見つめている。やはり、ファーレンは同じ失敗を繰り返していたようである。クローディアの入浴中にも突撃したのだろう。

 さて、実にファーレンらしいオチがついたところで、会議室内に旅装となったロロナが入ってきた。ロロナは会議室の有様を見て、何故か俺に鋭い視線を向けてくる。


「穴開けた分の修繕費は払えよ」


 俺は暴れまわるクルスと、逃げ惑うファーレンに視線を向ける。クルスがマグナムの引き金を引く度に、壁には大きな穴が空く。言い訳ができようはずもなく、諦めて首肯した。


「では、亜空間を開きます」


 改めて出発を告げれば、皆が俺へと向き直る。通話の水晶を起動してもらい、魔力リンクを辿る。特に問題もなく、昨日同様に俺とクローディアが亜空間を重ねた。


「来たか。待っていたぞ」


 アンラギルドには、モスクル、ベロートの他に、黒い法衣を纏った女性が和かに佇んでいた。

 美しい銀髪に男好きしそうな顔と身体つきだ。文句なしの美人なのだが…腰に鉈をぶら下げている。

 あまりのミスマッチに眉を寄せていると、部外者がいる事に難色を示した—と、受け取られたらしい。慌ててモスクルが口を挟んできた。


「この方はアンラ神聖国の王妃であり、十天の一人でもあるブルーツ・アンラ・ブルティング王妃陛下だ」


 十天?—と、聞いた事があるようなないような言葉に首を傾げる。チラリとロロナに視線を送り、説明を求めたのだが、ロロナはこの上なく不機嫌そうな表情を見せている。口は横一文字に引き結ばれ、何を語るつもりもないらしい。

 クローディアに視線を向けても、クローディアにも分からないらしく、首を振って返してきた。となれば、アビスやクルスが知る道理はない。俺は視線をモスクルへと戻した。

 なお、ファーレンは何か知っているらしい。頻りにこちらへ視線を向けてくるが、拘うつもりはない。この子の話は長く、また地雷でも踏まれたら厄介だ。無視するに限る。


「…続けていいか?」

「すまない。よろしくお願いします」


 頭を下げれば、モスクルは説明を再開した。

 咎めるようなファーレンの視線が背中に刺さるが、やはり無視した。


「今回の件では、流石に国王陛下を出張らせる訳にはいかない。故に国王陛下の代理として、王妃陛下に来てもらう事になる。勿論、王妃陛下についても、昨日の約束は遵守してもらう。こっちの都合で申し訳ないが、これ以上、君達を混乱させる真似はしない。了承してほしい」


 口外禁止を遵守してくれるのであれば、特に困ることもない。軽く頷いてモスクルを安堵させておく。

 それよりも、困った事になった。ロロナもそうだが、モスクルも旅装であり、ブルーツの法衣も旅装なのであろう。アンラギルドの会議室脇には大掛かりな荷物もあり、どう見ても泊まりの行程を意識している。それに対して、こちらは全員が平服だ。更には、亜空間という便利な魔術を持っているにしても、手ぶらである。そもそも、泊まりの準備などしてはいない。てっきり俺達だけで行くと思っていたために、夜は亜空間を開き、家に帰るつもりでいたからだ。


(迷宮を馬鹿にしてる—とでも思われたかな)


 などと考えて、苦笑を浮かべた。


「はじめまして、ブルーツよ。パンケーキ美味しかったわ。メープルシロップっていうの?あれはどうやって作るのかしら?」


 ブルーツの第一声は甘味の話であった。

 施政者にしては随分と砕けた人柄であるらしく、挨拶がてら、手を差し出してくるではないか。苦笑を浮かべたままで、握手に応じた。


(…やり辛いなぁ)


 権力者と関わり合いになる事は避けたいとはいえ、フレンドリーに迫られては、無下に扱うのも忍びない。メープルシロップについては、嘘偽りなく応じる事にした。


「王妃陛下、申し上げます。メープルシロップは…サトウカエデという木が必要になりまして。この辺りには生えておりませんし、寒い場所でしか甘くはならないのです。アンラでの生産は、難しいと考えます」


 俺は慇懃に答えたが、ブルーツの凹み様と言ったら筆舌に尽くし難いほどだ。まだまだ甘味は高価な物だ。余計なトラブルも起こしたくはない。今後はメープルシロップを秘匿する事に決めた。


「さて、オサカ君達には面倒だろうが、王妃陛下は馬車での移動になる。大変申し訳無いのだが、君らにも付き合ってほしい」


 強引にモスクルが話を本筋へと戻す。ブルーツに付き合うのが面倒になったのだろう。早く話を進めたい—と、顔に書いてある。

 一方で、馬車か—と、俺は眉間を揉んでいた。どれほど迷宮内で彷徨っていたのかは不明だが、この世界に来て、少なくとも一年は経過している事は間違いない。アルセイド大陸に出て、メットーラに居を構えてからもそこそこになるのだが、実は馬車に乗った事は未だになかったりする。

 理由は単純で、乗る必要がないのと、どう見ても尻が痛くなりそうだからだ。特に、尻が痛くなるのは我慢ならない。極力避けたい事態だ。


「…まあ、構いませんが…護衛の意味合いも兼ねて横を走っていても良いですか?」


 そんな訳で提案してみたのだが、この言葉にギョッとしたのはロロナとクローディアである。流石に息が続かないのであろう。

 最悪、抱えて走れば良いだけなので、二人の責めるような視線は無視したのだが、モスクルはそうは考えてくれないらしい。首を振って言った。


「いや、君達の馬車も用意してある。流石に王妃陛下と同じ馬車は気疲れするだろう?」


 モスクルは快活に笑うが、それを聞いたブルーツは剝れている。不敬罪とかにならないのだろうか。


「失礼しちゃうわ」


 ブルーツに苦笑いして、モスクルヘ慇懃に礼を返した。気遣いは嬉しいが、そういう事ではないのだよ。とはいえ、これ以上わがままを言える空気でもない。大人しく従っておく事にした。


「よし、じゃあ裏手から出よう」


 モスクルの言に、俺達は連れ立ってアンラのギルドを出た。裏通りに停めてあった馬車に乗り、一路蟻塚の迷宮を目指して出発する。

 最後の最後に、いってらっしゃい—と、ベロートは口を開いた。昨日とは打って変わって大人しかったが、どうしたものだろうか。気にしても仕方ないため、礼を返して済ませたが。


「…綺麗な町だ」


 さて、ガタゴトと揺れる馬車の中、窓のカーテンを僅かに持ち上げて、外の景色を眺める。至る所に運河を設けてある王都アンラの街並みは、それは美しいものであった。


「アンラ神聖国の王都アンラといえば、水の都と呼ばれるほどに美しい景観が、よく話題に上がります」


 正面に座るファーレンの言葉に、なるほど—と、首肯を返す。視線の先では跳ね橋が持ち上がり、船を一艘通していた。


「…見事なもんだな」


 それからしばらくは景色を眺めて過ごしたが、やがて、城門を通過して麦畑しか見えなくなれば、流石に飽きて窓から身を離した。


「それにしても…」


 俺が窓から向き直ったのを機に、アビスが渋い顔で座り直す。言いたい事は痛いほどに分かる。


「ええ。やはり、この揺れは如何ともし難いですね」


 俺達の乗る馬車は見た目こそ簡素だが、中はしっかりと作られており、お尻が痛い以外の不満はなかった。もっとも、そこが一番の問題なのだが。


「尻が痛いである」

「…ええ」


 俺とアビスは、激しい揺れの中、中腰になり尻の痛みに顔を歪める。本気で辛い。これほどとは想像すらしていなかった。

 ところで、クローディアはおろか、ファーレンまでも辛そうにはしていない。クルスも平気であるらしい。渋い顔をしているのは、俺とアビスのみであった。


「…師匠達…全然辛そうではないですね?」

「…ま、初めてではないからの」


 咎めるかの如く声を低くして尋ねれば、クローディアは余裕を感じさせる返答を寄越してきた。しかしだ。どうにも、その言には納得ゆかない。果たして、揺れがもたらす尻の痛みとは、経験でどうにかなるものだというのか。


「…お尻の厚み…か?」


 訝しみ思わずこぼした呟きは、女性陣を不快にさせたらしい。三者三様に不満げな顔を作り、代表してクローディアが物申してきた。


「お主、今、物凄く失礼な事を言うておる自覚はあるか?」


 次いで、仕方ないのぅ—と呟き、クローディアは得意げな顔で半腰になり、己の座席の下に敷いたクッションを見せてくれた。


「馬車移動になるおそれもあったからの。用意しておいたのじゃ」


 流石としか言えない準備の良さである。よくよく見れば、ファーレンもクルスもクッションを敷いていた。教えてくれても良いじゃない—と、僅かに剝れる。


「…アビスさん」

「うむ。そうであるな」


 俺はアビスと顔を見合わせると、馬車の扉を開けて外に飛び出し走り出す。もはや尻の痛みは限界だったのだ。


「オサカよ、我と貴様のどちらが早いか競争するのである!」

「…それは迷子フラグです。ファーレンと二人きりの時にお願いします」


 アビスの提案を無下にするのは気が咎めたが、流石に王妃陛下であるブルーツも一緒にいるのだ。巫山戯て迷子になりました—は、洒落にならないだろう。

 そして向こうの馬車に乗せられた哀れなロロナのためにも、ここは時間を短縮すべく動くべきである。


「何をするつもりであるか?」


 俺がクローディア達の乗る馬車へと、並走するように近寄れば、馬はこちらを気にしているのであろう。チラチラと視線を送ってくる。危ないから脇見すんな。

 ちなみに、窓からはファーレンがこちらを睨んでいた。どうやらアビスとの会話が聞こえていたらしい。おそるべし森精族(エルフ)イヤーである。


「酷いですよオサカ師匠!僕は迷子になんてなりません!」


 ファーレンもすっかりと俺達になれてきたせいか、随分と遠慮がなくなってきたように思う。最初の頃の初々しさは、もはや影も形もない。今も窓から身を乗り出して、頻りに何かを叫んでいる。まぁ、いつも通り無視するのであるが。


「オバー・パワー、オバー・クイック、リジェネレート」


 俺が馬へ向けてエンチャントをかけると、馬車は狂ったかのように加速しはじめる。二頭引きの馬車なのだが、クローディア達を乗せているにもかかわらず、ドンドンと音を立てて、車体を飛び跳ねさせている。


「馬車が壊れるのではないか?」

「プロテジョン・アタック!」


 焦りに声を上擦らせつつ、車体へと物理耐性を付与する。このままでは大破しかねないほどに危ない音を鳴らしていた車体は、飛び跳ねる様こそ変わらないものの、木の軋む音は消えた。一安心である。


「…頑丈にはなりましたね」

「うむ。あれだけガンガンと飛び跳ねていても、傷一つつかないのであるな」


 俺とアビスはやや遠巻きに並走しながら、馬車の様子を窺う。生きのいい魚のように飛び跳ねる様は、危なくて近寄りたくなかった。


「ところで、衝撃を殺すような魔術ってないですか?」

「…聞いた事がないであるな。貴様の闇魔術でなんとかならんであるか?」


 俺の切実な思いは、あっさりと否定され歯噛みする。この先にクローディアの怒号が待っている事は間違いあるまい。


(そうか…アビスさんの生きてきた時代には、馬車なんてなかったんだろうな…くそぅ)


 闇魔術により重量を操作する事はできる。軽くしたり重くしたり—といった具合だ。けれども、急激に車体の重量が変われば馬達がどうなるか知れたものではない。重くすれば馬が足を取られて転倒するかもしれないし、軽くしたら更なる加速と揺れが馬車を襲うかもしれない。よって、怖くて試せない。詰んだ。


「もう、エンチャントが切れるのを待つしか、手がありません」

「事故を起こさぬように、ようく周囲を見ておくであるな」


 俺達の乗っていた馬車は、とっくにブルーツらの乗る馬車を追い越してしまい、街道を爆走していた。ガンガンと車体を飛び跳ねさせながら。


(これ、やばいか?やばいか?)


 徐々に焦りが強くなってくる。もういっその事、馬車に乗り込むか?—などと考えていると、急激に馬車が減速した。まだエンチャントが切れるほどに時間は経過していないにもかかわらずだ。何が起きたのかを把握して、感嘆の声を上げた。


「そうか。デ・エンチャントだ」

「その手があったであるな!」


 デ・エンチャントとは、エンチャントの逆で、己の魔力で対象の魔力を阻害するようなエンチャントを行い、能力を低下させるものである。

 当然、俺も使えるが、敵の能力を下げるまでもない俺にとって、使わない魔術筆頭となっている。故に思い浮かびもしなかった。


「ふっぷ…おぇぇぇぇぇぇ」


 馬車の速度が落ちた事で、身動きが取れるようになったのだろう。窓から身を乗り出したファーレンが街道の土に養分を与えると、それを蔑む声が馬車内から聞こえてくる。どうやらクルスは平常運転であるらしい。

 やがて馬車は完全に停止したのを見届けて、俺とアビスは遠巻きに歩みを止めると語り合う。


「…じゃあ、王妃陛下の馬車を待ちますか」

「そうであるな。クローディアの説教も長くなるであろうしな」


 俺の言に、アビスは笑いながら返してきた。

 それは俺も予想している。良かれと思ってやった事だが、こうも裏目に出るとは予想できなかった。


(まさか…馬があれほど早く走れるようになるとは…)


 肩を落として嘆息していると、ドガァン—と馬車の扉を蹴り飛ばして、鬼の形相を浮かべたクローディアが飛び出てきた。相当ご立腹であるらしい。そのまま、ステップの上からキョロキョロと辺りを見回し、遠巻きに様子を窺う俺を発見すると、大きく息を吸い込む。


「オサカァ!!!」

「はいっ!今行きます!」


 直ちにクローディアの元まで走り、挨拶代わりの殴打を頭頂部にもらった。理不尽である—とは、今回ばかりは言えない。


「いった!?」

「何が痛いじゃ戯け!そこに直れ!」


 涙目で後頭部を摩りつつ、急いで正座する。

 アビスの予想通り、クローディアの説教は長かった。ブルーツ達の到着までは、当たり前のように続いた。

 さて、ブルーツ達がやってきた時には、既に太陽は沈みかけていたため、そのまま夜営となった。俺は罰として、夜営準備を一手に引き受けさせられる事になったのだが、それは大体いつもの事であるので気にはならない。さっさと土魔術で家を作り上げると、夕食の支度に取り掛かる事にした。


「なんだこりゃ…」


 モスクルは突如街道脇に出現した、五階建てのビルに驚きを隠せていない。それはブルーツにしてもそうであったし、ロロナもまた然り。


「あいつら、いつもこんな事やってんの?」


 半眼をロロナが向けてくるが、俺は無視して食材の準備に取り掛かっている。なお、最新版の夜営ハウスでは、ウォーターベッドが主流である。試しに拵えてみたところ、石のベッドよりもはるかに高評価であったのだ。料理の下処理を手早く済ませ、空いた時間で各部屋にウォーターベッドを設置する事にした。


「悔しいが、見事な手際じゃのぅ」


 —と、クローディアを唸らせる程には、俺の動きは洗練されたものであったりする。


「もうお風呂入れますよ。女性陣から先に入っちゃってください。師匠、クルス、王妃陛下とロロナさんに色々教えてあげてください」


 調理場から顔を出して、リビングの面々に告げれば、ファーレンが口を尖らせる。


「オサカ師匠!僕にも何か言付けてくださいよ!」


 ふぅん—と、ジト目を返すが、ファーレンはなおも鼻息荒くして、俺の言葉を待っている。仕方ない。相手をしてやる事にしよう。


「…脱ぎ散らかすな。パンツを脱衣所に忘れるから」


 アビスに指を指されて爆笑される中、ファーレンは頽れた。前科があるため何も言い返せないのだろう。






「ロロナさん、髪を洗ってあげます」

「いや、触るなファーレン。お前は必ずいらんボケをかますから」


 ロロナに拒絶されたファーレンは、肩を落としてロロナの横に座る。そのまま手を伸ばせば、アーサーさんが弱酸性の水溶液を作り、渡していた。


「ねぇ、それは何なのさ?」

「ふっふっふ、これはですね〜。何を隠そう、我々の苦労の結晶です」


 いつもの調子で語り出したファーレンだったが、ロロナは聞いていない。長い付き合いであるだけに、接し方も心得たものなのだろう。

 わしは手早く石鹸を洗い流して、アーサーさんへと手を伸ばす。プシャ—っと、勢いよくアーサーさん汁が飛んでくれば、手のひらに小池を作った。


「おっとっと。勿体ないのぅ」


 石鹸で髪を洗うと、髪質がアルカリ性に傾き痛むため、弱酸性の水溶液を頭部の洗浄後に髪に馴染ませるのだとか。リンスとよぶらしい。オサカの受け売りだ。わしに言わせれば、アーサーさん汁なのだが。


「いつもすまぬな、アーサーさん」


 そう言って頭を下げれば、アーサーさんはプルリと震えて応じた。どういたしまして—と、言っているかのような光景だ。


「ブラックスライムも手懐けているのね…」


 さて、頭髪にアーサーさん汁を馴染ませていると、逸早く身体を洗い終えたブルーツが隣に腰を下ろす。かと思えば、アーサーさんをツンツンと突きながら呟いた。


「やめておくのじゃ。その程度で怒るような狭量な魔物ではないが、アーサーさんにヘソを曲げられてはかなわぬ」


 もしこのスライムが世界を滅ぼせる、厄災クラスのスライムであると知った時、ブルーツの美貌はどれ程歪むだろうか。そんな事を考えると、ついつい顔がにやける。誰かさんの性悪が、わしにまで感染したようだ。本当に碌でもない—と言っては、少しばかり可哀想か。


「鏡もこんな立派な…ちょっと待って。この建物自体、さっき即興で作ったはずだよね?」


 ようやく鏡の美しさに気付いたらしい。浴槽へと浸かるべくしてわしが立ち上がる中、ロロナはクルスへと尋ねる。もうファーレンへは尋ねないらしい。


「閣下に不可能などないのであります」


 クルスは石鹸の泡が目に入らぬように目を瞑っていたが、この時ばかりは胸を張って答える。

 するとどうした事か。またしてもむくむくと鎌首を擡げる悪戯心よ。


「馬は止められんかったがのぅ」


 クルスの後ろを通過しながら、わしは毒づいてみた。ぐっ—と渋い顔をクルスも作ったが、否定はできないらしい。あの時の恐怖は、未だに癒ん。まだまだ引き摺るつもりだ。


「閣下は…殺して止められるのであります!しかし、馬の事を慮って—

「殺さずに止めんか!物騒極まりないわ!」


 思わず声を荒げれば、クルスは今度こそ項垂れて、すごすごと引き下がった。

 全く—とぼやくわしの横には、ブルーツが並び立つ。チラリと横目でブルーツを見れば、乳があった。また無駄に見事な肉置きだ。それでいて、腰のくびれもまた見事なものだから質が悪い。何故にそれが両立されるのか。


「なんじゃ、王妃陛下よ。わしに聞きたい事でもあるのか?」


 浴槽へと歩みを止める事なく尋ねる。

 ブルーツもまた、ニコニコと和かな笑みを浮かべて、わしの横を歩く。


「そりゃあもう。師匠さんから見て、オサカ君てどんな子なの?」


 この問いには、はぁ?—と、素っ頓狂な声を上げた。何を言うかと思えば、実に答え辛い質問だったから。

 そんな反応にもかかわらず、ブルーツはニコニコとわしの答えを待っている。

 仕方ない—と、嘆息まじりに答える事にした。


「お主がどこまで知っておるかで答えは変わるな」


 試すような返事をしたのはわしだが、それに続くブルーツの言もなかなかに強かだった。


「そういう事なら、昨日夫が見聞ききしたところまでかしらね」


 お主—と思わずジト目を向けるも、ブルーツは澄ました顔でわしの横を歩く。

 わしは根負けして視線を逸らし、盛大に嘆息した。


(ったく、はっきりと喋らん奴はやり辛くて仕方ないわい。施政者という奴は、今も昔も変わらんのぅ)


 そんな事を考えて苛立つわしとブルーツの間に、ファーレンが割って入る。流石は森精族(エルフ)イヤー、よく音を拾うらしい。


「オサカ師匠はとても強くて、頭も切れるのですよ!兎に角やる事が大き過ぎて、僕のような小市民にはついていくのが精一杯な凄い人です。でも、もう少し乙女心というものを忖度してほしいです…」


 最後の方は切実だった。仕方ない。オサカじゃし。


「あれは手遅れじゃ。諦めて次にゆけ」


 わしの言に、ファーレンがガクリと肩を落とす。少し酷なようだが、オサカはきっと、わしらの思いに応えるつもりなどない。なんとなく分かってきた。

 それでも、わしはあれに救われた。故に、わしはオサカの側にいて、いつまでもあやつを支えてゆきたいと考えている。少なくとも、この身が自由であるうちは。

 ファーレンとてそうなのかもしれない。けれど、ホムンクルスであるわしと違い、ファーレンは有限だ。しかも、子を為さねばならない女の性だ。聞けば、長命種である森精族(エルフ)も、人間と結婚適齢期は変わらぬというではないか。ならば、悪戯に時間を浪費させる訳にはゆかない。ファーレンはもはや十代後半。二十歳を超えたら、いよいよ行き遅れだ。


「う〜ん」


 浴槽に片足をつけ、湯の温度を見てから、ゆっくりと湯に浸かる。

 その横にはブルーツがいたが、考え込むような顔を見せてから、わしらを見回して尋ねてきた。


「ねえ、オサカ君、うちの娘のお婿さんにしていいかしら?」


—ジャキ—


 洗い場の方から聞き慣れた音が響けば、即座にファーレンが洗い場へと飛び出して、クルスを羽交い締めにする。


「ククククルスさん!堪えて!抑えて!国際問題ですよ!オサカ師匠の望むところではありませんよ!」

「閣下は私のものであります閣下は私のものであります閣下は私のものであります閣下は私のものであります閣下は私のものであります閣下は私のものであります閣下は—」


 あれは手遅れだ。もはや矯正のしようもあるまい。オサカは手を尽くしてクルスを独り立ちさせようとしているようだが、無理だと思う。

 まあ、クルスの事は置いておこう。わしはブルーツへ視線を戻すと、嘆息まじりに応じた。


「…あんな調子じゃ。やめてくれると助かるのぅ」


 わしの言に、ブルーツはチラリとファーレンらを見る。しかし、それでも退かなかった。


「そんな事を言っても、いつまでも冒険者なんてしていられないでしょう?冒険者を続けられなくなったらどうするの?器量良しな貴女達は引く手数多だろうから、オサカ君でなくとも、どうとでもなるだろうけれど…男の子だとそう上手くはゆかないでしょ?その点、うちの子を娶ってくれれば、少なくとも、お金に関する心配はなくなるのよ?」


 ご高説ごもっともだが、ブルーツが言っているのは一般論で、わしらには当てはまらない。なぜなら、いつまでも冒険者をやっていられるからだ。この世に魔素と、冒険者という仕事がある限りは。有限なのはファーレンくらいだ。

 ふと思い出し、わしはチラリと己の下腹部を見る。そこにあるのは臍だ。本来であれば、わしらホムンクルスには臍がない。けれども、町へ出ると決めた時、オサカ、クルスらと共に、部分錬成で構造を書き換えたのだ。思ったよりも痛かった。


「…あやつはいずれここからいなくなる。娘の事を政治の道具として見ていないなら、やめておいた方が良いじゃろ」

「あら?そうなの?」


 わしの言葉を意外そうに尋ね返すブルーツに、わしは首肯してみせる。


「あやつは色々と特殊でな。ただでさえ厄介事を多く抱えておる上に、なまじ強過ぎる力を手に入れたがため、いらんトラブルが舞い込んでくる事にもなりかねん。トドメは今言った通り、あやつは遅かれ早かれ必ずこの地から消える。一見すると人当たりの良い好青年に見えるがな…実は、焦げ付いた不良債権じゃよ」


 わしの言葉に目を見開いたブルーツであったが、やがてコロコロと笑い出した。

 わしも少しだけ笑いそうになる。己で言っていて、実に上手い事を言ったもんだ—と、自賛した。


(にしても、大人の女か…わしも後、数年歳を得た姿であれば、オサカは愛してくれたかのぅ)


 長年少女の姿であるわしにとって、大人の女の姿はコンプレックスだ。艶やかさを感じさせるブルーツを羨ましく思いつつ、湯船に浮かぶ双丘を睨みつけた。

 ところで、わしとブルーツの会話は、ロロナも含めて、皆が聞いていたらしい。事情を全く知らないロロナは複雑な顔を見せ、全てを知るファーレンもまた、微妙な表情を見せている。予想していた事だが、クルスは平常運転だ。思うに、オサカの世界へついてゆく気満々なのだろう。

 そんな一同の表情を見回すと、ブルーツは残念そうに嘆息した。


「なんだ。既に奥さん候補は沢山いるのね〜」

「…何を聞いていればそうなるのじゃ」


 思わずジト目をブルーツへ向ける。

 しかし相手の胆力も相当なもの。ブルーツはニコリと笑ってから、わしに言って退けた。


「クローディアに、クルスに、ファーレン。三人もいるじゃない?…なら、もう一人くらい増えても平気よね?うちの子、多分強い人が好きだから」

「なっ!?」


 わしは慌ててクルスを見る。また暴発するかと思いきや、当のクルスは赤くなってテレテレしていた。

 どうやら、奥さん候補にカウントされた事がお気に召したらしい。その横では、ファーレンが何とも言えない顔でクルスを見つめている。


「しかし、実際どうなんだい?オサカのそう言った話は全く聞かないけど。あいつもまがりなりにも男だろ?」


 そこで話に加わってきたのはロロナである。いつの間にやら浴槽に浸かって、気持ち良さそうに寛いでいる。

 これには、ファーレンが赤くなりながら答えた。


「こ、この間、娼館に行ってきたとかなんとか…」

「な、なんじゃとっ!?」


 あまりの事に大いに慌てて立ち上がる。わしらより娼婦を選ぶというのか!?何故!?—と、憎悪にも似た怒りが込み上げてくる。クルスやファーレンに負けたならば諦めもつく。けれど、娼婦はないだろう。それは余りにも酷いのではなかろうか。


「クローディア様、落ち着くであります。それは誤報であります。アビス様の戯れでありました」


 へ?—と、間抜けな声を上げてしまったが、取り繕う気も起きない。戯れとは、嘘という事なのだろうか。ファーレンに一度視線を向けたが、ファーレンも目を見開いたまま固まっている。ファーレンも知らぬ話であるらしい。

 さて、わしが落ち着いたと見たのだろう。クルスは徐に続けた。


「アビス様からそんな話を聞かされて、毒婦を始末しようと調べたのでありますが、閣下が飲んでいたのは娼館ではなく、小さな演奏酒場であります。そこで楽器の音色に聞き惚れながら、一晩過ごしたようであります」


 なんじゃ—と、力が抜けて浴槽に座り込む。顔の半分まで湯に浸かり、危なく水を飲むところであった。


「なるほどのぅ…毒婦を始末しようとして調べて回ったか。…ならば、間違いなさそうじゃのぅ」


 クルスの発言を思い返すと、少しだけゾッとしなくもなかったが、そこは聞かなかった事にした。


「おいクルス!毒婦でも何でもメットーラの人間なんだ。犯罪者以外は始末するなよ!?」


 しかし、ロロナは強かった。わしやファーレンがスルーした話題に平然と触れる。

 クルスも不承不承ながら、ロロナには頷いて返していた。


「若いのに枯れているのねぇ。孫の顔は見れないかしら?」


 そして、ブルーツはなおも続ける。いい加減に諦めたらどうなのか。


「止めはせんが、苦労するぞ?おぬしの娘となれば王女であろう?そんな苦労をさせんでも良かろうに」


 わしがジト目をブルーツへと向けると、あら?言ってなかったわね—と前置きしてから、ブルーツは淡々と語った。


「アンラの王族は飾りなの。世襲制でもない一代限りのものだから、他国に合わせて王族なんて呼び名を使っているけれど、ベロートが引退すれば、私らは王族でもなんでもなくなるわ」


 ふむ、そういえば、そんな話も聞いたな—と、空目で思い返す。変わった政治形態だが、宗教国家ならではの発想なのだろうか。

 ブルーツに視線を戻して頷いてみせれば、ブルーツは先の様子とは一転し、嬉々として続けた。


「そもそも、娘は諸侯との付き合いを煩わしく思ったのか、家を捨てて10歳で教会に入っちゃったの。思いっきり玄関口に唾を吐き捨てて出て行ったのが、今でも忘れられないわ」


 何とも反応に困る話であった。そうか—としか言えない。玄関に唾を吐いていく王女ってどうなのだろうか。

 ブルーツは基本的には子煩悩であるのだろう。まだ語り足りないらしく、更に続ける。


「元とはいえ王族を一修道士としてなんて扱えないから、孤児という事にして扱ってもらってるの。町中ですれ違っても、お互いに挨拶すらできないなんて酷いわ」


 ブルーツの娘語りは終わりであるらしい。

 ブルーツは挨拶したいらしいが、果たして向こうはどう思っているのだろう。玄関口へと唾を吐くほどだし。それを考えれば、おいそれとコメントはできない。


「やっぱりあれなのかしら…異端審問官か死刑執行人になりたい—という夢を否定したのが不味かったのかしら…」

「そんな事を言わせる血が不味いんじゃないのかのぅ?」


 終わったと思ったら、まだ続くようである。流石に限界だ。一体全体、どこの世界にそんな娘がいるというのか。異端審問官になりたい—など、真っ当な環境で育った娘子の言葉とは思えない。忌憚なく意見し、凄く渋い顔をブルーツへと向けた。

 ファーレンとロロナも、流石にこれには苦笑いを見せていたが、クルスは違う。


「死刑になった死体は、持ち帰れるのでありますか?」


 持ち帰ってどうしようというのであろうか。わしも、ファーレンも、ロロナですらこれには触れなかった。

 そして、尋ねられた方のブルーツはといえば、う〜ん—と、考え込んでいる。考える程の内容でもないと思う。


「どうなのかしら…いいんじゃない?」

「「「いい訳あるか(ありません)っ!?」」」


 ブルーツの言に、わしらは即座に否定する。

 なら、興味ないのであります—と、明後日の方向を向くクルス。死体さえ貰えるなら、やっても良いという事であるらしい。


(全く、風呂くらいゆっくりと浸かりたいものじゃ)


 ファーレンとクルスだけでも騒がしいのに、更にはブルーツまで加われば、随分と賑やかになる。大人しいのはロロナくらいだ。はぁ—と嘆息しつつ、なんとなしにアーサーさんを見る。

 わしの視線に気が付いたのか、アーサーさんはプルリと震えてみせた。






 夕食を並べていると、女性陣が湯浴みを終えて帰ってきた。既にアビスは食べ始めており、三皿程、空いた皿が重ねられている。

 四皿目をアビスに手渡しながら、クローディアへと声をかけた。


「師匠、我が家に亜空間を開いてもらえますか?タンパク質とエルにご飯をあげないと」

「うむ、任せよ」


 クローディアが亜空間を開き、俺がそれに亜空間を重ねると、小坂邸のリビングが現れる。

 そこではタンパク質が飾り棚の上に登っており、棚の下で尾を振るエルを眺めている。三次元をフル活用してエルから逃げているらしい。


「タンパク質、エル、ご飯だよ」


 ところが、声をかけるとどうした事か。二体の毛玉はダッシュで俺の元へとやってくる。


「こらこら。待ちなさい」


 俺がタンパク質の餌をクルスに手渡すと、クルスは首肯してから、タンパク質へ餌をやり始めた。

 俺もエルの前にご飯を置く。だが、すぐにはやらない。エルの躾が先だ。

 既に食べ始めているタンパク質と、己の前に置かれた餌箱を交互に見ながら、ダラダラと涎を垂らすエルの姿に、思わず苦笑する。気の毒ではあるが、タンパク質の方が先輩なのだ。上下関係はきちんと把握させなくてはならない。


「お手。おかわり。伏せ」


 エルは器用に俺の課す課題をクリアしてみせた。望んでもいないのに立ち上がり、ちんちんまで披露してくれている。早く食べたいらしい。


「ふふ、よし」


 ついにオーケーを出せば、エルはガツガツと餌にかぶりつく。これではすぐになくなってしまうな—などと苦笑しながら、餌を食べるエルの背をゆっくりと撫でた。ちなみに、これも躾だ。食べている時に触れられる事に慣れさせておかないと、餌を取られると思い込んで、食べ物を前にしては、人が近付く度に噛み付くおそれがある。


「さて…ん?どうしました?お好きな席にどうぞ?」


 顔を上げれば、クローディア達女性陣だけではなく、既に着座していたモスクルまでもが俺を見つめていた。


(…あ、やべ。王妃陛下よりも先に、犬猫に飯をやっちまった)


 一瞬、己の非礼を責められるのかとも思ったが、そうではなかった。エルを見つめていたらしい。その視線は、やたらと好奇の色を湛えていた。

 皆はエルから俺へと視線を持ち上げるも、言葉が見つからないらしく、黙りこくっている。

 俺も皆が何を言いたいのか分からないため、戸惑うばかりだ。


「いや、凄いものじゃのぅ…魔物に芸を仕込むのか?」

「あ、ああ…全く、見事だ。こんな事ができるものか…」


 やがて、声を上げたのはクローディアにモスクルだった。


「…は?」


 俺は怪訝な顔をする。犬に芸を仕込むのは、躾も兼ねての事だ。何を当たり前の事を—と反応に困っていると、横合いからはファーレンが出てきた。


「僕も!僕もやってみたいです!」


 そう言ってファーレンはガッツポーズを作ってみせる。これは意外な申し出だ。そういう趣味なのだろうか。仕方ない。軽く付き合う事にした。


「う、うーん、じゃあ…お手」

「わん。…そうじゃなくて!」


 どうやら犬の真似をしたかった訳ではないらしい。よくよく考えるまでもなく、当たり前の事だ。なぜ俺は、ファーレンが犬の真似をしたいなどと思い込んだのだろうか。


(きっと、円らな瞳が犬を思わせるからだな。うん)


 さて、皿を舐め回した後のエルが尾を振りながら甘えてくると、ファーレンが前に出た。お手—と、上機嫌に手を出したファーレンに対して、エルは前足をファーレンの手のひらにちゃんと載せる。流石は俺のエル。賢い。


「あらあ〜、頭がいいのねぇ」

「これは…凄いわ」


 今度の声はブルーツとロロナだ。二人は並んで前に出てきたが、ロロナはブルーツと顔を見合わせると、表情を消して下がっていった。


(…なんだ?仲悪いのか?)


 ブルーツは寂しげにロロナの背中を見つめ続ける。これはどうした事か?—と、尋ねても良いものか戸惑っていると、皿から顔を上げたアビスが口を開く。


「犬に芸を仕込むのは、一般的な事ではないのである。そもそも、犬自体そうそう世話する物好きがおらんであるからな」


 言い終えるや否や四皿目を空にしたアビスは、俺に断りを入れるでもなく、配膳台の上から勝手に五皿目を取った。


(ああ、そうか。そういえば、ペット自体が御貴族様の道楽だしな。野良犬なんかはすぐに食われちまうし)


 成る程—と、アビスの言に一人で納得する。色々と余裕のない世界だ。仕方ない事なのだろう。


「じゃあ、もう少し見せてやるとしますか」

「ワン!」


 千切れんばかりに尾を振るうエルに向けて、魔術でも撃ち込んだかのように振る舞う。普通ならば銃なのだろうが、この世界には銃などない。いや、すぐ背後の眼帯の淑女が持っていたりするのだが。


「バンッ」


 しかし、掛け声は銃声を模したものだ。この辺りはまあ、仕方ない。

 さて、そうするとどうだろう。エルはコロンと転がり横倒しになると、顔を俺へと向けて尾を振る。大成功だ。肉を一切れ摘むと、手ずからエルへと食べさせて褒めた。


「凄い!凄いですよ師匠!」

「エルは賢いのであります」


 ファーレンやクルスの感動が伝わっているのか、エルは嬉しそうに飛び跳ねている。

 そのまま、エルとタンパク質を加えた夕食となったが、女性陣はタンパク質とエルにはベタ甘であった。俺の躾など吹っ飛んでゆきかねないほどに。


(だからこそ、エルを皆には合わせたくなかったんだけどなぁ)


 そんなエルの陰では、じっとエルを撫で続けるクルスへと、咎めるかのような視線を向けるタンパク質の姿があった。構って欲しいのだろう。エルに嫉妬しているのだ。

 俺は一度タンパク質を撫で付けてから、クルスへと声をかける。


「クルス、あくまでも先輩はタンパク質だ。犬もそうだけど、猫も嫉妬深いから、新入りを優先するようなところを見せてはいけないよ。まずはタンパク質を撫でてから、エルを撫でる事。ご飯にしても何にしても、まずはタンパク質が優先だよ」

「成る程。これはタンパク質に悪い事をしてしまったのであります」


 パタパタと慌てて駆け寄ってきたクルスは、タンパク質を持ち上げると、そのまま椅子に腰を下ろして撫で始める。

 タンパク質はゴロゴロと喉を鳴らしては、クルスの手に顔を擦り付けていた。どうやら満足してくれているようだ。


「オサカ君は…魔物使い(ビーストテイマー)なのか?」


 タンパク質の甘え声にほっこりしている俺へ向けて、質問をしてきたのはモスクルである。

 魔物使い(ビーストテイマー)という職業(クラス)も、この世界にはある。その名の通り魔物を使役する者達だ。そして使役する魔物の活用法はといえば、単に冒険者としての相棒にとどまらず、魔物の種類によっては、商業ギルドや職人ギルドでも活躍する—らしい。聞き齧りであり、一知半解の知識だ。メットーラでは見た事はないし。


「違いますよ」


 苦笑まじりに首を振るも、モスクルは訝しむかのような視線を向けてくる。疑っているらしい。

 ちなみに、俺が動物に詳しいのは、子供の頃は田舎住まいであったせいか、犬や猫が辺りに腐る程いたため、自然と扱い方に習熟していったためだ。その上、この世界には精霊石がある。そのおかげで、魔物は下手な動物よりも、はるかに扱い易いくらいだ。


「魔物に精霊石を飲ませると、非常に物分かりが良くなるので、躾が楽なんですよ」

「…な、なんだと?」


 アーサーさんにしろ、エルにしろ、何処にでもいる魔物である。精霊石を飲ませることにより、全く人に襲いかからなくなるどころか、人語を理解するまでに賢くなるため、非常に楽なのだ。

 これを説明すると、モスクルとブルーツは興味深そうに頷いていた。


「いずれは、人と魔物が手を取り合って暮らしていける世界が来るかもしれませんよ?」


 笑いながらそんな事を言えば、それに返してきたのはブルーツであった。


「夢物語だけれども、悪くないわね。そういう考え方は好きよ…あ、そうそう、オサカ君。うちの娘なんだけど—」

「オサカ師匠!明日も早いのでお風呂済ませちゃってください!」


 ファーレンにしては珍しく、他者の言葉にかぶせてくる。


「お、おいおい。まだ夕飯が…」

「こっちでやっておきます!」


 ブルーツが口を尖らせて不満げな顔を見せていたが、俺はファーレンに背中を押されて風呂場へと向かう事になった。


(こっちでやっておく—って、なんだよ。俺の夕飯まで、お前らが食うって事か?)


 訳が分からず、首を傾げながら浴室へと入った。

 ちなみに、脱衣所には綺麗に折り畳まれた下着が放置されていた。脱ぎ散らかそうが散らかすまいが、忘れるものであるらしい。

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