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小坂、休日を謳歌する その二

 さて、小坂邸から逃げ出した俺は、貴族街を出て繁華街へと向かった。


「せっかくだし酒でも飲むとするか。どこに行こうかな」


 既に日は暮れ周囲は暗く、聞こえる音など酔客の笑い声くらいだが、逆にそれが有難い。他の町ではどうか知らないが、この町では屋号もない店も多い。取材拒否の美味い店を探す感覚で、何か良さげな店はないものかと、耳を澄ませながら歩いた。


(一人酒なんて久しぶりだな。これは心が躍る)


 アルコールに滅法弱い体質なのだが、お酒自体は大好きだ。けれども、こっちに来てからはまだ飲んでおらず、クローディア達と一緒にいると飲む機会もそうそうない。クローディアは飲まないからだ。飲めない訳でもなく、酒そのものは好きであるらしいが、何故か飲まないのだ。

 色々な意味で振り切っているアビスはともかく、世話になった恩師を差し置いて、己だけ酒を楽しむ訳にもゆくまい。


(けれど、今日は別だ。師匠には悪いが、たまには羽を伸ばさせてもらおう)


 そんな事を考えて、思わず笑う。未婚にして、こんな気分になるとは思いもしなかった。嫁が実家に帰っている時の解放感とはこういうものだろうか。


(男には一人の時間が必要なのです)


 誰に言い訳しているのかは知らないが、何となく言っておかねばならぬ気がした。


「はぁい、お兄さん。考え込んでどうしたの?私と遊ばない?」


 そんな俺に声をかけてきたのは、際どい服に身を包んだ細身の女性だった。骨張った胸元は油でも塗られているのか、松明の明かりを眩しいほどに反射するも、ボリューム不足であるためか、俺の心は微塵も揺らがない。腰付きもまだまだ細く、深いスリットから覗く太腿は、蠱惑的、或いは扇情的と評するよりも、健康的な色艶を湛えているように見受けられる。今の俺より、外見から窺える年齢は僅かに上だろうか。


「…金持ってるように見えますか?もっと金持ってそうな奴に声をかけてください」


 肩越しに素気無く断り、再び歩き出した。ちっ、クソガキが—なんて声が背中に届けば、おおっ、怖っ—と、苦笑しつつ早足で距離を取る。先の女性は、俺の想像よりも年上なのかもしれない。

 さて、よくよく周囲を見回してみれば、夜の蝶と思わしき女性達が客引きに精を出している。どうやら、いつの間にか繁華街を抜けて宿街へと入っていたらしい。


(成る程。宿街だもんな。それにしても賑わってるな。繁華街より凄いんじゃないか?)


 初めて見る宿街の裏の顔に、やや興味をそそられる。家を買うまでは宿暮らしも経験したが、自室の窓を閉め切って本を読んでいたため、こんな光景を目にする事もなかった。


(こんな事なら、もう少し早くに出歩いてみるべきだったな)


 今度はアビスでも誘って、男二人で繰り出してみるのも悪くないだろう—と、顎を摩りながら考える。ファーレンあたりは剝れるかもしれないが、どうせ日が暮れてからは起きていられまい。森精族(エルフ)に夜更かしはなかなかの難事だ。


(試しにどこか入ってみるか?)


 とは考えたものの、しばらくは夜闇独自の仄かに甘い空気を満喫した。よほど客がつかまらないのか、声をかけられる事もあったし、視線が交差して笑いかけられる事もあったが、どうにも踏ん切りがつかない。繁華街と宿街を二、三度も往復した頃には、客引き達も訝しげな視線を向けてくるようになっていた。


(…ダメだ。屋号もなくては何を基準に選んで良いのか分からん)


 繁華街ではなかなかに騒がしい酔客達が、外まで聞こえる声で騒いでいたりもするが、どちらかといえば静かな酒を好む俺は、そういう空気は遠慮したい。一方で、宿街だと酒はついで—とでもいえば良かろうか。どうにも目的が違いそうな空気がある。おそらくは娼婦達が商売処として一部屋抑えてあるのだろう。そこで酒でも飲みながら、泡沫の恋を楽しむものなのだ。


(無駄に色女を買ってまで、酒が飲みたい訳でもないし…一人だと宿に入れそうもないし…ふぅ、諦めるか…)


 これでダメなら諦めよう—そう思い立ち、ダメ元で宿街の裏路地へと入り込んだ。酔客がその辺で用を足すのか、時折感じる嫌な臭いに顔をしかめながら歩く。そのまま一際細い路地へと入った時、唐突に清らかな旋律が舞い込んで来た。

 これは何かと耳を澄ますが、聞き間違えるはずもない。楽器の音だ。歌声だ。


(へえ。音楽なんて興味はないと思っていたが、こうやって聞くと悪くないな。…ちょっと行ってみるか)


 耳を頼りに道を進む。やがて辿り着いたのは、繁華街寄りの裏通りにある小さな家屋であった。中からは照明の灯りが僅かに漏れ、演奏が終わると疎らに拍手が起きる。やはり屋号らしき吊り看板はないが、僅かに漏れる男達の声から察するに、ここは酒場であるらしい。


(…行くか)


 扉を開くと、扉横に置かれた棚の上で、蝋燭の火が風に揺れた。






 目を覚ました時、そこは見知らぬ天井であった。寝転がったままで数度瞬きしたが、何も思い出せない。上体を起こそうとした俺は、頭痛を感じて眉を寄せた。


(二日酔い?…もしかして、酒を飲んだのか?)


 こうなる事が分かっていて、何をしてるんだ。馬鹿じゃなかろうか—と自嘲しながら、素早く己に法術を施す。教会などで時折見かける、青白い光とはやや違う、灰味がかった法術の光が俺を包んだ。


(…くそ…早く効いてくれよ…頭痛ぇ…)


 やがて法術の光が消え、気怠さも頭痛も消えたのを確認した後、上体を起こして周囲を見る。


「…ええと?」


 そこは小さな酒場であるらしい。カウンターに四席の椅子が並んでおり、俺の寝ていた長椅子と同じものが数個、そしてテーブル席が二つという酷く小さな店だ。そのかわり、ステージがある。ステージの上には楽器と思わしき物に布がかけられており、採光窓から差し込む日の光に照らされていた。


「やれやれ。酒に弱いのは相変わらずか」


 立ち上がって店の奥に目をやる。カウンターの裏手にはドアが設けられており、その奥が居住スペースになっているのだと思われた。そのまま店を出て行く事もできるが、酔って寝ていたならば迷惑をかけた事だろう。礼の一つも言わずに出て行っては、流石に不義理だろうと考えた。そもそも、金を払ったのかすら疑問だ。


「誰かいますか?」

「んん?おお!起きたか!」


 申し訳なく思いつつ、カウンターの中へと入り込み、ドアを開けて声をかける。すると、威勢の良い声が返ってきた。続いて木を踏みしめる足音も。奥は階段になっているらしく、二階から誰かが降りてきたのだろう。


「おはようございます。よく寝てましたね?」


 バタバタと音を鳴らして顔を出したのは、予想に反して年若い娘だった。

 思わず怪訝な顔を作る。最初に聞こえた声は、確かめるまでもなく男のものであったからだ。だがしかし、目の前に姿を見せたのは少女。これは一体どうした事か。


—ギイギイ—


 けれど、続いて奥から足音が聞こえてくれば、そういう事かと納得した。何も少女一人しかいなかった訳ではなく、更に誰かしらいただけの話だ。

 そして、後からひょっこりと顔を見せたのは、娘の父親と思わしき男であった。


「おう坊主、ようやく起きたか。気分はどうだ。酒に弱いんだろう?」


 男は無精髭を摩りながら言う。

 その言葉に、俺は苦笑いしながら返した。


「私はそんな事まで言っていたのですか?」


 そう尋ねたが、二人は一瞬固まった。動き出したかと思えば、男と少女は視線を交わした後、再びこちらへ視線を戻す。大柄な男の方が口を開いた。


「何だ、覚えてないのか?」


 すみません—と頭を下げると、男と少女は顔を見合わせて笑った。

 二人の反応に首を傾げていると、少女はコロコロと笑いながら言う。


「いえ、だって。酔っている時とあまりに態度が違うから…ごめんなさい」

「本当にな。坊主は素の方が可愛げあっていいぜ?その他人行儀な口の聞き方は、何つーか、距離を感じるな」


 少女に続き、男も快活に笑いながらそんな事を言う。へ、へぇ—と相槌を打ちながら、思い出せない事に冷や汗を流す。何をしていたのだろうか。昨晩の俺は。


「そ、そうだ!支払いは?」

「おおぅ!そう!それだそれ!まだ貰ってない分があったな!」


 男はカウンターの棚から紙束を取り出すと、パラパラとめくり始める。やがて見せられた伝票は、途中から俺が酒代を支払っていない事を示していた。前金が基本の世界である。これはツケというやつだ。初訪問からツケで飲むなど、どうしようもない客もいたものだ。


「す、すみません!直ちに支払います!」

「ふふふ。いいんですよ」


 長々と居座った事を詫びて、飲食代を多めに支払うと、店を後にした。


「その若さで女じゃなくうちを選ぶなんて、変な奴だな。また来いよ」


 別れ際に、男はコメントに困る事を言う。少女が何とも言えない顔で男を見ていた。

 男の言葉に深く礼を返してから、宿街の大通りへと向けて歩く。


(どうやら、余程良い酒が飲めたらしいな)


 ここで言う良い酒とは、上質な酒の事ではない。場の空気や、俺が楽しめたのかどうかを指すものだ。それを覚えていない事に少しだけ落胆すると、また訪問する事を心に決めて家路に着く。

 繁華街へ入ろうかという頃、昼を指す鐘がなった。


(もう昼過ぎか…腹ペコ四兄弟に悪い事をしたな。まあ、適当に済ませてるだろ)


 繁華街に入ると、適当な露店で買い食いをして昼飯を済ませる。そのまま家に帰ろうとしたが、ふと大衆浴場が目に付いた。


「…たまには利用してみるか」


 大衆浴場は初めてである。店内に入ると、受付と思わしき女性に声をかけた。


「すみません。初めてで勝手が分からないのです。少し教えてもらっても良いですか?」


 声をかけた女性は和かに笑いながら、利用に関する情報を事細かに教えてくれる。慇懃に礼を言い、男性用の浴場へと向かった。

 脱衣所で服を脱ぎ、老齢の男へ銭貨を渡して服の管理をお願いし、同時に洗い屋へも声をかけた。洗い屋はやや歳のいった女性であった。それでも、以前の俺と同年代だろう。若干の戸惑いを覚えたが、男が恥ずかしがるな—と背中を叩かれる。そういうものか—と、素直に従う事にした。


「あんた幾つだい?」


 洗い場の台の上にうつ伏せになると、徐に女性が声をかけてくる。蒸し風呂である洗い場は、なかなかに暑い。既に背中には大粒の汗が浮いているのが自覚できる。


「あー…確か、16…です」


 石鹸を擦り付けられる心地よさに脱力しながら返す。ホムンクルスであるこの肉体は、周囲に魔素のある状況では歳をとらない。無理やり作らせられたギルドカードによれば、16歳だったはずだ。


「確か—って何だい。親不孝な子だね」

「すみません」


 だがしかし、俺の回答はお気に召さなかったらしい。やや強めに尻を叩かれ、うっ—と、顔をしかめた。


「それにしても、うちの倅と同い年とはね。それで冒険者なんて大したものだ」


 けれど、女性の声音はすぐに平常のものへと戻る。快活に笑いながら、ゆっくりと俺の背中を擦ってゆく。洗い屋とはこういうものか—と、その気持ち良さに少し感激した。


(男が洗うとこうはゆくまい。初めは恥ずかしかったけれど、洗い屋は女性である方が望ましいかもな)


 最初は驚いたものだが、慣れてくると気にもならない。すっかりと夢見心地になり、良い気分を満喫していた。

 まあ、一点を除いてだが。


「うはは!くすぐったいのである!」

「お客さん動かないの!全く、子供みたいなんだから」


 隣の洗い場からは、どこかで聞いた事のある声が聞こえてくるのだ。本当にすぐ隣である。そう、彼我を隔てるもののない隣の台の上には、アビスが横になっていた。


(…タイミング悪すぎだろ…)


 俺は目を合わせないように顔ごと逸らす。だが、アビスは遠慮などしない。やり過ごしたい—という俺の思いとは裏腹に、やたら親しげに声をかけてくる。


「オサカよ、クローディアが怒っているのである。ファーレンも耳が垂れっぱなしなのである。面倒くさい事この上ない。クルスはヤバイである。怖くて近寄れんであるな。そんな訳で、早く帰ってやるのが良いである」


 渋い顔を作りながらアビスに視線を向ける。明らかに俺へと向けて話しかけている中、無視をする事もできないだろう。無視すれば、きっと彼はより大きな声で騒ぎ立てるだろうから。


「アビスさんが居辛いだけでしょ…」

「違いない!うはは!」


 俺の返答に、アビスは快活に笑う。

 そんなアビスの頭の上では、アーサーさんが陣取っていた。プルプルと震えながら、体内に埋め込まれた精霊石を明滅させている。洗い屋さん達は気にしていないようだが、スライムに慣れているのだろうか。


「何だいあんた?その若さで三股かい?感心しないね」


 ところで、アビスの言葉に反応したのは、俺だけではない。俺の身体を洗っていた女性もまた、アビスの言葉に別の意味で眉をひそめた。


「…違いますよ…冒険者といっても、Dランクです。そんな駆け出し同然の冒険者に、三股なんて甲斐性ある訳ないでしょう?単なるパーティメンバーですよ」


 俺は渋い顔を洗い屋に向けるが、言い訳するな—とばかりに、スパンと尻を叩かれた。理不尽である。

 それを見たアビスが横で笑う。誰のせいだと思っているのだろうか。


「で?昨晩はどこで遊んできたのであるか?」


 更にアビスは畳み掛けてくる。わざとやっているのではなかろうか?殴りたくなるような始末の悪さだ。


「…あんたねぇ。あたしくらいの歳になれば、まあそれなりに分かってはいるよ。男の性ってもんをさ。でもね、若い子には到底理解できないし、理解できても気持ちの良いもんじゃないよ?」


 洗い屋の女性は俺の腕を洗っていた手を止めると、渋い顔で告げてくる。アビスの言を受けて、俺が娼婦でも買ったものと思い込んだらしい。

 これには慌てて反論した。


「ち、違いますよ!昨晩はお酒を飲んで酔いつぶれていただけです。宿街の裏通りにあるステージのある飲み屋ですよ!」


 けれども、俺の反論は認められなかった。洗い屋の女性は、はぁ—と嘆息しつつ、石鹸の泡に塗れた手をかざした。


「あんたみたいな若い子が、宿街で娼婦に引っかからない訳ないだろ」


 またしても俺は尻を叩かれた。そこは打楽器ではないのだが。


「…お店に聞いてきてくださいよ。本当ですから…」


 うう—と唸る俺へと向けて、上体を持ち上げたアビスが首を伸ばして尋ねてくる。


「パシパシと見事な叩かれっぷりであるな?新しい扉を開いちゃったのであるか?」

「…次に口を開いたら、殺すぞアビス」


 流石にいじり過ぎだろう。ギロリと睨みつければ、アビスは呵々と笑いながら、うつ伏せになった。ようやく大人しくなってくれたので、俺も姿勢を戻す。


「さ、次は前だよ。仰向けになっておくれ」


 俺はもぞもぞと仰向けになると、無心になるべく瞼を閉じた。


「ふぅ。湯に浸かるのも良いであるが…蒸し風呂もなかなか良いであるな」

「…同感です」


 さて、洗い屋に身体を洗ってもらった俺達は、並んで蒸し風呂に入っていた。濛々と湯気の上がる木製の長椅子に、湯帷子を身に纏い腰を下ろす。これでもかと吹き出る汗を湯帷子に吸わせながら、大きく息を吐いた。

 俺とアビスでは、親子ほどに体格が違う。並んでいると、俺はアビスの子供にしか見えない事だろう。

 鼻歌を口遊みながら、組んだ脚を揺らすアビスに視線を向ける。ここ最近、アビスが俺の魔力を使用している感覚がない。聖剣の迷宮を潜っていた頃は湯水のように人の魔力を抜き出していたアビスであるが、近頃は随分と落ち着いていた。敵に囲まれていないから—という状況の差異もあるかもしれない。


「もう、完全に力を取り戻しているのですか?」


 俺の問いに、アビスは即答しなかった。チラリとこちらを一瞥すると、傍に置いていた酒杯を豪快に煽った。あったかいエールって、美味いのだろうか。


「いや、まだまだであるな。迷宮にいた頃よりは確実に力を増しているであるが、正直に言えば全盛期の三割といったところであるな。…まあ、今はまだこれで十分であるが」


 そうですか—と、嘆息した。

 アビスに俺が勝利したのは迷宮での話である。もうあれからどれほどの月日が流れたろうか。確かにあの時のアビスは弱り切っていた。見た目からでも分かるほどに。それでも、当時の俺にはキツい相手であったのだ。ところが、その頃よりも随分と強くなっているはずであるのに、それで三割だそうだ。もう苦笑しか出てこない。


「やれやれ。アビスさんに追いつけるのは、まだまだ先になりそうです」


 言い終えてから顔を手で覆い、汗を一気に拭い落とす。ポタポタと大きな水滴が足元で弾け、床に染みを作った。

 アビスは俺の言に呵々大笑すると、鋭い視線をこちらへと向け、挑発的に口元を歪める。


「ふん、小童が。なかなか言うである。そう簡単に追いつけると思わぬ事であるな」


 勝ち誇った顔で上機嫌に笑っているアビスだが、俺は渋い顔を作り掣肘した。


「いやいや。早いところ追いつかなくては困るでしょうよ。倒さなければならない相手は、アビスさんよりも格上なのでしょう?」


 俺の言葉にアビスは頷く。確かにな—と前置きした後、アビスはこちらに向き直る。


「だが、次は負けないのである。貴様と我ならば確実に勝てる」


 渋い顔を一転させ、今度は怪訝な顔でアビスを見た。その自信はどこからくるのやら。

 俺の視線を受けて、アビスは続ける。


「オサカ、貴様の強さはレベルではない。もっと別のところにあると我は思うのであるな」


 —だそうだ。圧倒的な力の前では、小細工など通用しないと思うのだが。まあ、それは言っても仕方ない。やるだけやってみる事にしよう。


「…はぁ、そういうものですかね?私個人は何処にでもいる小市民なのですが…善処しましょう」


 アビスは特に俺の言葉には言及せず、杯を俺へと突き出してくる。受け取った杯は、キンキンに冷えていた。よくよく見れば、俺の氷が杯の底に沈んでいる。いつの間にか俺のスキルを使っていたものであるらしい。飲めるの?これ?


「酒場で飲めて、我とは飲めんとは言わせんであるぞ?」


 俺は苦笑しながら杯を持ち上げると、予防線を張る。


「私は弱いので、酔い潰れたらアビスさん背負って帰ってくださいよ?変なお店とか行くのはなしですからね」


 俺の発言に目を見開いたアビスは、呵々大笑して俺の背を叩いた。


「ははは!任せるのである」






 俺が目を覚ました時、そこは真っ白なカーテンで仕切られた一室であった。どうやら自分はベッドの上で寝ているらしいが、視界はぼんやりと霞み、身体は上手く動かせない。

 歪んだ視界を何とか動かしてみれば、器具に吊られた己の左足が写り込んでいる。それはガッチリと固定具に包まれ、己の身に何が起きたのかを思い起こさせるのには十分であった。


(そうか。俺は…)

 

 —事故にあったのだ。

 深夜の交差点。仕事を終えて帰宅途中の事だ。右折待ちでウインカーを出して停まっていた俺の車の前には、同じく右折待ちのタクシーがいた。

 大型トラックが対向車線を走っていたのだが、タクシーは距離感を誤ったのか、大型トラックが交差点に進入する間際に、突如加速して右折した。ぼんやりとタクシーの背中を追っていた俺の目が、驚きに見開かれる。それほどまでにあり得ないタイミングだった。

 交差点には大型トラックのブレーキ音が鳴り響く。タクシーを回避すべくハンドルを切った大型トラックは、進路を変えて、俺の乗る自家用車めがけて突っ込んできた。


(それでこの結果か…ついてないな)


 俺の記憶はそこで途切れているが、大型トラックの運転手はどうなったのだろうか。見方によっては、トラックの運転手とて被害者であると言えなくもない。俺の怒りは、唐突に右折したタクシーの運転手へと向いていた。


「…結婚前で良かったわ」


 その時、俺の耳が音を拾う。それは女性の声と思わしきものであった。ちらりと視線を動かせば、視界の隅に僅かに入り込む人影が、カーテンの向こう側に窺えた。


「小坂さんの事は諦めなさい。障害を持った人間とやっていくなんて無理よ。考えている程甘くはないわ。滅私奉公なんて言うつもりはないけれど、貴女には自分を殺して小坂さんを支えてゆくなんて無理。必ず破綻するわ。悪戯に彼を傷つける前に終わりにしなさい」

「…でも…」


 どうやら香奈とその母親の会話であるらしい。

 香奈は俺の婚約者だ。自立した女性であり、己の幸福を俺に委ねない。そういう意味では、俺にぴったりな女性であった。


「…母さんの言葉は厳しいが…父さんにも難しいと思う。帯刀君には悪いが、今なら我々が悪者になれば済む。だけれどね、結婚後だとそうはいかない。やっぱりダメでした—なんて通用しないぞ。香奈に裏切られたように彼は感じてしまうだろう。私達がどう思われようと気にはしないが…香奈が悪く思われるのは、親としては悲しいものだ」


 これは香奈の父親の声であろうか。あまり俺達の関係には踏み込んでこない、付き合いやすい男性であった。

 俺はこの会話を聞いていて、怒りも戸惑いも感じてはいなかった。感じていたのは、共感である。


(そりゃそうだよな。俺が親でも、きっとそう言う)


 仕方ない—諦めて納得するしかないだろう。俺の問題に、彼女まで巻き込むのは流石に憚られる。


(俺から切り出すべきだよな。もう結婚はできませんって)


 視線を天井へと向けてぼんやりと考える。天井のシミが人の顔に見えた気がして、しばしそれを追う事に夢中になっていた。


「そんなに浅い付き合いじゃない。簡単には割り切れない。少し考えさせて。障害だって…残るって決まった訳じゃないし」


 俺の耳が年若い女の声を拾うと、視線が自然とカーテンの奥に浮かぶ影を追った。今の声は香奈のものだろうか。


(…こんな声だったか。こんなにも…)


 弱々しい声を出す女性であっただろうか。俺がもつ香奈のイメージは、もっと力強いイメージというか、いつも頑固で己の意見を曲げず、俺とは別のベクトルで、灰汁の強い女性であった。


(これも、彼女の一面なのかもしれないな…)


 そんな事を考えているうちに、随分と瞼が重たくなってきた。意識をカーテンの向こう側に向けようとするが、耐え難い睡魔に襲われると、すぐに意識を手放した。


「そもそも、気持ち悪いでしょう。どう考えても死んでたのよ?それが—」






 ゆっくりと瞼を持ち上げる。そこは白いカーテンで仕切られてなどいない小坂邸の自室だったのだが、どうにも身体が重い。何事か?—と、顔だけ持ち上げてみれば、腹にはファーレン。両腕はクローディアとクルスに占領されている。股座にはタンパク質がおり、天井ではアーサーが震えていた。視界には入り込まないが、ぐーぐーと鼾が聞こえる。これはアビスであろう。床にでも寝転がっているに違いない。凄まじい既視感を覚えた。

 まあ、それは良いか—と、今見た夢を思い返してみる。あの夢にも既視感を覚えたからだ。ガシガシと、頭をかいた気になって嘆息した。


(…あれは、夢だけど、夢じゃない。すっかり忘れていたが、確かにあんな一幕があった)


 今の今まで忘れていた。何故忘れていたのかは分からない。俺は今まで脚を潰されたくらいの認識でいた。けれど、現実は違う。どう考えても助からない—と、生還を絶望視されるような状況で病院へ運び込まれたらしい。実際に心臓も停止したそうだ。ところが、死亡として処理しようとした時に、奇跡的に息を吹き返したのだとか。意識こそすぐには戻らなかったものの、驚くほどの回復力でもって、ほぼ障害も残さずに社会に復帰できた。


「心臓が停止していたにもかかわらず、脳にも機能障害が残っていない。膝にわずかな障害を負っただけで済んだのは、奇跡としか言えないよ。君は多分、一生分の運を使い果たしたね。ははは」


 リハビリの場で、たまたま俺の側を通りかかった先生の言葉だ。これも、今の今まで忘れていた。

 だが、考えてみれば、香奈に会うのを躊躇するようになったのはこの時からだと思う。忘れていたはずだが、無意識化では覚えていたとでもいうのだろうか。

 ふむ—と腕組みした気になって考え込むと、面白い結論に辿り着いた。


(ああ、俺は香奈さんの事が好きだったのか。会えなくてもいいから、関係が終わって欲しくなかったのか…)


 会えば終わりを告げる事になるかもしれない。告げられる事になるのかもしれない。覚えている、忘れたにかかわらず、脚には障害を負った。それは事実だ。それが負い目となって、俺は香奈に合わなかったのだ。香奈が俺を避けている訳ではなかった。多忙を理由に、一方的に俺が逃げていたのだ。


(そうか…俺は香奈さんの事が…けど、今度こそ終わりだな…俺はもう、人ですらない。それ以前に、帰る当てすらないしなぁ…)


 今度は天を仰いだ気になって嘆息する。僅かに腹が上下して、むにゃ—とか、ファーレンが可愛らしい声を上げた。

 今の俺は不死系魔物(アンデッド)だ。使っている身体こそホムンクルスのものであるが、その本体は胸に埋まる魔石。魔素の集合体こそが、今の俺なのだ。それを思うと、何ともやりきれない思いに駆られる。


「オサカ師匠?」


 俺を呼ぶ声に意識を外へと向ければ、ファーレンが俺の顔を覗き込んでいた。

 ファーレンに焦点を合わせると、ファーレンは俺の顔へと手を伸ばし、頰へ指を這わせる。ゆっくりと俺の顔から離れてゆくファーレンの指には、雫が付着していた。涎などではない。涙であるらしい。思わず笑った。

 指を擦り合わせながら、ファーレンは心配そうに尋ねてくる。


「…何か、あったのですか?」


 ああ、何でもない—と前置きして、擦り合わせられる指元から、彼女の顔へと視線を戻した。


「情けないが、失恋して泣いているみたいだ」


 ファーレンの目がゆっくりと見開かれてゆく。何度か口を開閉させた後に、おずおずと口を開いた。


「オサカ師匠…恋とか、そういう感情があったんですね?」

「…お前が俺の事をどう思っているのか、よく分かった」


 思わずジト目でファーレンを見つめれば、ファーレンは慌てて口を抑える。手遅れである。今後はもう少しファーレンには厳しく接しよう。そう心に決めた。


「ほぅ?失恋とな?」


 左側からこちらを覗き込んできたのはクローディアだ。


「これは詳しく聞かねばならないのであります」


 次いで声を上げたのはクルス。右側からひょっこりと顔を持ち上げている。


「うはは。楽しそうであるな!」


 視界には映らないが、ガバリと身を起こしたと思わしき音が聞こえた。アビスに違いあるまい。


「にゃーんごろー」


 最後に俺の股座でタンパク質が欠伸をした。どうやら、全員が起きていたらしい。趣味の悪い事だ—と眉を寄せるも、ファーレンとアビスの腹が盛大に空腹を告げてくれば、怒る気持ちも失せる。思わず吹き出した。


「とりあえず何か作りますよ」


 俺の言葉に、全員が首肯した。






 ギルドの職員(部下)に呼び出されたのは、一刻を告げる鐘が鳴り終えたばかりの頃であった。アンラ神聖国王都ギルドより、全国のギルドマスターへ向けて緊急通信が入ったと言うのだ。急ぎギルドの会議室に入ると、既に険しい顔で待機していた幹部職員達と共に、緊急通信の場に加わった。


「メットーラのロロナだ。遅くなってすまない」


 席に着席して声をかけると、部屋の中央に置かれた水晶玉から、不機嫌そうな声が返ってきた。


『ガハハハハ。わしを待たせるとはいい度胸だな、ロロナ』


 私のみならず、会議室にいる全員の顔に渋みが浮かぶ。全員で顔を見合わせると、何か言いなよ—と、互いに牽制しあった。


『無視とは。随分と偉くなったもんだ』

「はぁ…これでも急いだつもりだよ。嫌味を言うなら、私達抜きでやって」


 ドッハッカの発言に思わず噛み付く。馬鹿野郎—とカッポーギが口真似だけで諌めてくるが、知った事ではない。


『止してください。ドッハッカ様、グランドギルドマスターたる者の発言ではありませんよ?ロロナも、上長に対する口の利き方ではありません。自粛なさい』


 次いで水晶玉から聞こえた声には舌打ちを返した。一方で、ドッハッカは豪快に笑い飛ばして終わった。


『よし、これで全員揃ったな。アンラ神聖国、アンラギルドのモスクルだ。まずは集まってくれた事に礼を言う。時間がないため、最初に全て説明してから質問を受け付ける。了承してほしい』


 水晶玉から聞こえるモスクルの声は、随分と緊迫した雰囲気であった。語り口も慌ただしい。きたか—と、眉をひそめる。


(…やっぱりそうなのかい?…モスクル…)


 私の頭の中を占めるのは、ファーレン達から聞いていた蟻の一件だ。蟻だとすれば最悪だ—これはオサカの言であるが、同意せざるを得ない。それ程までに、蟻は迷宮と悪い意味で相性が良い魔物だ。そして、迷宮はかなり成長してしまっているのだろう。唇を引き結び拳を握り込む中、書記官がサラサラと何かを書き始める。モスクルの説明が始まったのだ。


『アンラの南西。位置的にはアメランドの西になる。王都から馬車で四日。アメランドから馬車で二日程の距離に、蟻の巣が見つかった。それも、迷宮化したものだ。蟻という生物の特性かは不明だが、周辺は既に食い荒らされ、近くの村も…壊滅していたそうだ。住人は…消息不明だ』


 何だって?—という声を皮切りにして、水晶玉から次々に声が上がり、モスクルの発言は止まる。黙って聞けよ—と、舌打ちした。

 やがて、各国のギルマスが落ち着いたのを見計らい、再びモスクルが口を開いた。


『…急ぎ攻略隊を派遣したが、遅かった。運の悪い事に迷宮は拡張期に入り、超大型迷宮に進化した。魔物のレベルは100を超え、地上では見た事もないような、異形の蟻が多数出現し始めている。つい先程入った情報によれば、うちのBランク上位が半分やられたらしい。Aランクでも苦戦は必至のようだ。現場には幸運な事に、Sランクの剛剣がいた。だが、剛剣を持ってしても一対一で手一杯の相手であるらしい。もはやアンラの問題だけではなくなってしまった。すまないが、皆の力を貸してほしい。…頼む』


 モスクルの話は、そこで終わりであるらしい。水晶玉からは何の音も聞こえてこなくなった。


(…蟻…か…)


 状況は既に最悪。Bランクの上位冒険者が、逃げる間すらない程の強さにまで蟻は育っている。数も相当なものなのだろう。超大型ともなれば、迷宮としての深さも底が知れない。どうしてこうなった?—そんな思いが一瞬頭を過るが、管理責任を問う事など後で良い。どう対処するかが問題だ。


(オサカ…本当に協力してくれるだろうか?)


 次に脳裏を過ぎったのは、黒髪黒目の青年が率いる化け物達。先日の訪問では、意外にも嫌な顔はされなかった。いや、渋い顔は見せられたが、そこまで露骨に嫌がっている素振りは見せられていない—はずだ。


(あいつらなら…おそらくは…)


 オサカ達ならば、蟻など話にならないだろう。若干一名、頼りない森精族(エルフ)がいるが、オサカ達は、レベルが100を超えた程度では相手にすらならない獄卒共だ。


(オサカ達の事を告げるべきか?けど…)


 私を躊躇わせるのは、各国のギルドの反応である。オサカは強い。あまりにも強すぎる。それこそ、オサカの存在を知れば、各国はこぞってオサカを取り込もうとするだろう。しかしだ。


(…きっと、オサカは他者に迎合しない…)


 オサカは我が道を行く。そして、オサカはきっと、誰にも、どの国にもつかない。オサカが靡かないと知った時、各国はどうするであろうか。


(…分かりきった事か…)


 私は嘆息すると顔を覆った。考えるまでもなく、即座に答えに辿り着いたからだ。


(おそらくは魔王認定だ。人類の敵として討ち滅ぼそうとする)


 共通する敵がいるならば、オサカは心強い味方となろう。けれども、そうでなければ?—答えは決まっている。権力者達が枕を高くして眠るためには、強すぎる力の持ち主には、消えてもらうしかないのだから。


(けれど、それはダメだ。オサカと敵対した場合、消えるのは…私達だ)


 私はそう確信している。何日か前にギルドカードを無理やり作らせたが、あれは人の身でどうこうできるものではなかった。

 一度大きく息をついて眉間を揉む。


(私はあいつが嫌いではない。どうにも取り繕ってばかりで素を見せないが、悪い男ではないはずだ)


 ゆっくりと頭の中を整理する。各国の冒険者達に助力を得て迷宮を攻略すれば、おそらくは攻略自体は成る。けれども、被害は甚大なものになるだろう。アンラでは既に、Bランク上位の冒険者が半分もやられたらしい。その情報を先に出したのはモスクルの誠意だろうが、それを聞いた他国のギルドは、まともな手札は切ろうとしないだろう。良くて鼻つまみ者。悪ければその辺のゴロツキが関の山だ。


(人間という生き物は、こんな時でも自己の優位を確保すべく動くからな…はぁ、短命種の考え方は、いまいち好きになれないね)


 そうなれば、悪戯に被害は大きくなるだろう。鼻つまみ者達が集ったとて、連携すらまともに取れるか不明だ。

 私は嘆息しつつ天を仰ぐ。普段使われる事のない会議室の天井の隅には、小さな蜘蛛が巣を張って獲物を待ち構えていた。あれも町の外へと出れば、魔物になるのだろうか—そんな事を考えながら、ぼんやりと天井の染みを眺めた。


(やっぱりダメだよ。オサカに頼むしかない)


 きっと、モスクルは動く。最前線に出て陣頭指揮を執る事になるだろう。モスクルは強い。そう簡単にやられるとも思わない。その上、現地にはボーナスもいるらしい。この二人が組めば、より盤石だ。

 けれど、二人はもう若くない。私の知る彼らの姿は、若く、活力の溢れていた時分のものだ。生物である以上、老いには勝てない。加齢とともにパフォーマンスは落ちる。もはや、あの頃のようにはゆくまい。


(…オサカ、悪い)


 しばらくの間考え込み頭を抱えていたが、一度首を振ると顔を上げた。

 カッポーギと視線が交差する。彼の表情は、私の意思に任せる—とでもいわんばかりに、優しげな笑みを湛えていた。おそらくは、この先に私が提案しようとしている事を理解している顔だ。私も笑って返せば、カッポーギは頷いてみせた。


(最悪…私とカッポーギの首で許してもらうしかないかなぁ…)


 そんな物をオサカが求めるとも思わないが、それくらいの誠意と覚悟は見せるべきだろう。己らが異質である事を理解しているが故に隠居している者達を、こちらの都合で日の光に晒そうというのだから。


(よし。やるか)


 意識を外へと向ければ、水晶玉からはさまざまな声が聞こえてきていた。しかし、どれもこれもモスクルの責任を問うものばかりである。しょうもない—と、小さく呟いてから、話に割って入る。


「モスクル、上手くいけば蟻はどうとでもなる。けど、秘匿性の高い話な上に、諸刃の剣でね…詳細はこの場では伝えられない。今言えるのは、蟻以上の劇薬を用いる—って事くらいだね」


 水晶玉から声が消えた。

 しばしの間が空くも、誰もが声を発しない。私の言の意味を考えているのだろうか。まあ、有象無象などどうでも良い。聞きたいのはモスクルからの返答だ。急かさずに、彼が声を発するのを辛抱強く待った。

 どれくらい静寂が場を満たしていただろうか。ようやく、モスクルの重苦しい声が聞こえてくる。


『…何をさせるつもりか知らんが、成功すれば迷宮は確実に攻略できるのか?』


 モスクルの問いに、私はニヤリと笑う。迷宮攻略を成功とするならば、考えるまでもなく楽勝だろう。なにせ、あいつらは超が五つつくくらいの大型迷宮であろう、聖剣の迷宮を潜ってきたほどなのだから。


「ああ、確実に攻略できる」

『リスクだけは知りたい。諸刃の剣と言ったが、具体的にはどういったリスクだ?民間人に被害の及びそうなものか?』


 モスクルは私の返答を聞くや否や、即座に次の問いを投げてくる。けれど、これには答えられない。私は舌打ちを返し、今は言えない—とだけ告げた。

 それからは、再び沈黙が場を制した。各地のギルドマスター達は、今のやり取りに何を見ただろうか。モスクルは素直に承諾してくれるだろうか。そんな思いが胸を埋め尽くすと、手のひらが汗で湿った。


『…呑もう。頼めるか?』


 モスクルは随分と迷っていたようだった。悪戯に水晶玉の動力である精霊石を消耗させた後、ようやくその言葉を口にする。

 直ちにパピルスへと筆を走らせ、近くに佇む幹部の一人に手渡す。

 幹部はそれに素早く視線を走らせると、私へ一礼して会議室を出—ようとしたところで、カッポーギにメモ書きを奪われた。


「俺が行ってくるよ。ここ、退屈だし」


 はっきりと言ってくれるものである。カッポーギはヒラヒラと手を振りながらドアの奥へと消えた。


(全く…自由なんだから。…私もだけどさ)


 会議室のドアが閉まるのを認めてから、私はモスクルへ告げる。


「モスクル、下手を打てば首が飛ぶかもしれない。慎重にね?」

『…お、おい…ロロナ?どういう事だ?』


 モスクルの問いは無視した。


「その前に、秘匿性が高いと言ったよ。私とモスクル以外は回線を閉じておくれ。上手くいったら…また呼びかける。半日経っても私もモスクルも何も言い出さなければ…失敗して死んだとでも思ってくれ」

『…』


 私の発言に、水晶玉から息を呑む音が聞こえた。次いで、水晶玉の接続を示す光点が、次々に消えてゆく。

 やがて、アンラ以外の全ての光が消えると、モスクルが改めて問いかけてくる。


『…ロロナ…何をするつもりだ?』


 私の口はカラカラに乾いていた。緊張でもしているのか、上手く言葉が見つからない。冗談の一つでも言って気を紛らわせるつもりであったが、嫌に気取った言い回しになってしまった。


「説得だよ…死神のね」






 朝食の準備をしていると、台所へクローディアが顔を見せた。珍しい事もあるものだ—と破顔して迎え入れるも、クローディアは苦笑を浮かべて入り口に立ち尽くしている。

 どうしたのか?—と首を傾げれば、クローディアはようやく口を開いた。


「オサカよ、客じゃ」

「は?こんな朝っぱらにですか?」


 思わず間抜けな声を上げた。

 しかし、飯を食べ終わるまで待っていろ—などと言える訳もない。あまりにも失礼だ。エプロンで手を拭い、リビングへと向けて歩き出す。


「…エプロンは外しておけ」

「あ、はい」


 クローディアに指摘されたエプロンを外して、改めてリビングへと向かう。俺の後にクローディアが続いた。


「カッポーギじゃ。緊急召集状を持ってきおった。ロロナのサイン入りじゃな」

「きんきゅ…ええ…」


 何となく何が起きたのかを把握して、俺は渋面を作る。この間の話だろう。アンラがどうとか言っていたやつだ。


(それにしても、嫌な人選だ。カッポーギさんとか…超断り辛い…)


 クローディアにも用向きの察しはついているに違いなく、それ以上の言葉はない。そのまま無言でリビングへと歩いた。


「お待たせしました」


 リビングへ足を踏み入れてみれば、カッポーギは何事かを熱く語るファーレンに絡まれていた。けれども、俺達のように邪険にはしていない。我が事のように嬉しそうに聞いているのだ。

 カッポーギは、ファーレンが新規冒険者として活動している当初からの付き合いである。もしかすると、娘のように感じているのかもしれない。


「そうなのです!僕の拳がビシッとこう眉間にね!」


 ファーレンが腰を落として拳を突き出してみせれば、カッポーギからは喝采の声が上がる。


「すげぇじゃねえかファーレン!大躍進だなオイ!“ネームレス”に加わったって聞いた時はマジで心配したけどよ…良かったよ…本当に…グス」


 カッポーギは感極まったのか、そのまま泣き出してしまう。ものぐさで適当なくせに、どうにも熱い男だ。

 それはともかく、“ネームレス”ってなんだろう。まさかとは思うが、俺達の事なのであろうか。


「確かにパーティ名はないが…ネームレスなどと名乗った覚えはないぞ?」


 カッポーギを渋い顔で見つめながら声をかけると、カッポーギは何とも微妙な顔で俺を見つめ返した。


死霊騎士(デュラハン)の鎧…くれよ」


 第一声から無茶を言う男である。ふざけんな—と、追い払う仕草を見せつつ対面に座る。あげるのも悪くない—と思わせるあたり、この男の人徳は計り知れない。


「どういう理由で呼び出されるんだ?」


 クルスが淹れたのであろうお茶を啜っていたカッポーギだが、俺が声をかけると首を振る。


「すまない。それは俺からは言えん。お前達自身が確かめてくれ」


 カッポーギはそれだけ言うと、ソファから立ち上がり玄関へ向けて歩き始める。

 俺はその後ろ姿をしばらく見つめていたが、カッポーギがこれ以上口を開く気がない事を見て取ると、カッポーギの後についてゆく事にした。


「我らはどうするのであるか?」


 そんな事を尋ねてきたのはアビスである。俺は肩越しに笑いかけた。


「私を信じてくれるなら、待ってて良いですよ」


 それなりにカッコよく決めたつもりであったが、全員が付いてきた。酷くない?


「昨晩の独白により、お主は相当にヘタレな事が判明したからの」


 俺の隣に陣取るクローディアが、ニヤニヤしながら小っ恥ずかしい事を言う。これにはカッポーギも反応した。


「え?独白?何?気になる」

「気にするな」


 俺はカッポーギの肩を掴み、さっさと歩かせるべくグイグイと押した。

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