真、異世界へ飛ばされる
鬱蒼とした森の中を歩いていた。記憶が確かであれば、あたしは都心のカフェにいたはずだ。カフェで由香里と、由香里の上司と思わしき男性の三人で話していたはずなのだ。
ところが、目を覚ましてみれば、どう贔屓目に見てもカフェとは思えない森林の中に、あたしはうつ伏せに倒れていた。
「…誘拐された?」
口に出してみるも、何か違うと頭を振る。
誘拐されたならば、何故あたしを自由にさせているのか。お金目的にせよ、あたしの体目的にせよ、縛られていないどころか、犯人の姿一つ見えないのはおかしい。
「…体目的はない、か」
チラリと己の貧相な肉置きを一瞥しては、無念そうに嘆息して呟く。いや、体目的なんて真っ平御免だが。
それにあたしは別に誘拐されたい訳ではない。むしろ、誘拐されるなんて、想像するだけでも恐怖で震えてくる。
けれども、今の状況を鑑みるに、誘拐であった方が良かったかもしれないと思えるのだ。森の景観、気候、あたしの五感から得られる情報は教えているのだ。
“ここは日本とは違う”
—と。それを考えて青ざめたあたしは、森の前後も方角も考えずに歩いた。不安であったのだ。黙っていてはどうなるか知れたものではない。野生の肉食動物がいるだろう。森から出て人里を見つけなくては飢えて死ぬかも知れない。考えれば考える程に、思考はマイナス方向に偏ってゆく。
あたしは眉を寄せて周囲を見回す。四方八方を囲む木々は、楢類や針葉樹の類であるらしい。所々に付いている傷跡は、熊でもいるのだろうか?—と、あたしを震え上がらせる。あたしはより一層歩幅を大きく取ると、さっさと森を抜けるべく足早に進んだ。
「おおお!神よ、感謝します」
それからどれ程歩いただろうか。僅かに汗ばむ額を袖で拭いながら、あたしは破顔していた。
道に出た。道に出たのだ。舗装路—という訳ではなかったが、明らかに人口のものと思われる道に出たのだ。
あたしは左右を見比べて、どちらに歩くべきか思案した。
「ふむ。こういう時はあれだね…棒倒しだ」
あたしは藪の中に少しばかり入ると、手頃な木の枝を掴んで道へと戻る。道の真ん中で屈み、木の棒を平らな場所へと立てると、徐に手を離す。すると、木の棒はあたしの背後方向を指して倒れた。
それはいけない。何故ならあたしの背後方向は森の中である。知りたいのは、道の進む先なのだ。再び木の棒を立てて手を離す。今度はあたしの前方向に木の棒は倒れた。
「何だよ神様よ〜、そんなにあたしを森の中へ進ませたいのかよ!」
ブーブーと文句を言いながら、再度木の棒を立てて手を離す。三度目にしてようやく木の棒はあたしの右方向へと倒れた。
その結果に満足して頷くと、右方向へと向けて歩き出した。
「よしよし。幸先良いぞ〜」
少しだけ余裕が出てくると、改めて周囲の様子を窺ってみる。
木は相変わらず楢類と針葉樹が高く立ち並び、陽の光を遮っている。これでは方角を知る事すら難しい。あたしの歩いている方向がどの方角であるのか、今ある情報だけで推し量る事は難しかったが、それは気にしても仕方ないだろう。
取り敢えずは道を見つけただけでも良しとせねばなるまい。それに、方角よりも気にするべきは他にある。ここが何処であるか—だ。
「…やっぱり日本じゃないよね、ここ」
あたしは改めてそれを認識すると、深く嘆息してから立ち止まる。
チラリと視線を動かせば、道の脇に腰を下ろすには丁度良いサイズの石を見つけた。徐に石の上に腰を下ろすと、スニーカーを脱いで疲れた足を休ませる事にする。足の指をワキワキと動かし、靴を少しでも乾燥させるべく上下に振った。
少しだけ臭いを嗅いだのは内緒だ。
「うん、まだ臭わない。まだ平気」
誰ともなしにサムズアップを作ると、しばらくはゆっくりした。
やがて、俄かに眠気が襲ってきたため、歩みを再開する事にする。こんなところで寝てはいけない。靴を履いて石から立ち上がると、大きく伸びをしてから歩き出した。
—ガサ—
その時であった。前方で僅かに草の揺れる音が鳴る。肉食動物ではなかろうね?—と、全身を一気に緊張が覆い、目を皿にして前方の草むらを見た。腰を落とし脚は開いて、いつでも逃げ出せる姿勢を取る。
「…ごくり」
唾を飲む音が聞こえた。言うまでもなく自身の出した音である。
それからどれくらい経っただろうか。何秒かも知れないし、何分もそうしていたかも知れない。いい加減に焦れてきた頃、あたしは何かの気配を感じて上を見た。
そこには—
「ゲギャギャ!」
木上からあたしめがけて飛びかかってくる、緑の肌を持つ子供らしきものの姿を捉えた。緑の子供の腕には棍棒のようなものが握られており、あたし目掛けて振りかぶっている。慌ててその場を跳びのくと、それまであたしのいたであろう場所に、棍棒が振り下ろされる。
あたしは間一髪のところで、回避する事に成功した。
(なっ!?何っ!?何なの!?)
あたしは後退りながらも子供から目を離さない。
緑の肌は見間違いなどではなく、身体には腰巻一つしか纏ってはいない。腕は長いが脚は短く、腹が餓鬼の様に膨らんでいる。
だが、背中越しにあたしを睨みつけたその顔は、とても子供と呼べる様な代物ではなかった。目は蜥蜴のそれを思わせる縦長の瞳孔に、血管の様な模様を持つ黄色い虹彩を見せている。大きな鼻は兎も角、問題なのはその顎と歯だ。おそらくは肉食なのだろう。下顎は小さく、歯は鋭く尖っている。間違いなく肉を噛み切る事に特化した顎である。その歯の成熟した様子を見るに、子供というよりは、小人と称した方が良いだろう。
ゴクリとまた喉を鳴らすと、あたしの脳裏に何個かの選択肢が浮かんだ。
→たたかう
まほう
わざ
アイテム
にげる
しばし脳裏に浮かんだ文字群を見つめていたが、力強く頷くと、一目散にその場から逃げ出した。
「戦う?アイテム?無理無理!逃げる一択でしょ!?何さあれぇ!?」
意外と余裕がなさそうで余裕があるな—と、走りながら思った。
そのまま背中越しに後ろを見て様子を窺えば、緑の小人はあたしを追いかけて来ているではないか。それ自体は予想していたものの、緑の小人はその短い脚からは想像がつかない程に足が早く、あたしの鈍足では引き離す事が叶わない。
あたしは恐怖に泣きそうになっているが、最初に腰が抜けなかった事は幸運であった。いつでも逃げ出せる様に身構えていた事が功を奏したのかもしれない。
(どうする!?どうする!?)
考えても答えなどでない。あたしは単なる中学生なのだ。いや、高校生になるのであろうか?—それはいい。今はどうでもいい。兎も角、出来る事などたかが知れていた。今の状況で言えば、逃げる以外の事など出来はしない。
(いや、出来る事はまだある!)
あたしは走りながら、道端に転がる石ころに視線を落とす。投石である。
その辺りに幾らでも落ちている石を拾い上げて、投げるくらいの事ならあたしにでも出来るのだ。まあ、やらないが。
石を拾い上げようとスピードを落とせば当然追い付かれる。あたしはあれと接近戦を繰り広げるクソ度胸など持ち合わせてはいない。蚤の心臓は伊達では無いと言っておこう。
ふと、そこでもう一つ己に手がある事を思い出す。それはあたしが幼少の頃から大人に言われ続けてきた事だ。不審者に会ったら—
「た、助けてー!誰か、誰かー!」
—と、助けを求める事である。
あたしは走りながら必死に声を上げた。もしかしたらあたしの声によりやってくるのは、緑の小人の仲間かも知れない。それでも僅かな可能性に賭けて、力の限り声を張り上げ続けた。
けれど、現実は非情である。あたしの声により誰かが駆けつけるよりも早く、強い衝撃と、遅れて激痛が右肩を襲った。あたしは踏ん張る事ができず、盛大に転がり、うつ伏せに倒れ込んだ。
「い、痛…」
右肩の痛みに加えて、地面に身体中を打ち付けた痛みも加わり視界が明滅する。それでも僅かに遅れて正気を取り戻すと、即座に身を翻して仰向けになる。
痛みは未だにあたしの全身を駆け巡っているものの、流石にそれどころでは無い。生命の危機であるのだ。予想に違わず、緑の小人はあたし目掛けて顎を開いて飛びかからんとしていた。
「ゲギャ!」
「うわっ!」
あたしは咄嗟に左腕を伸ばして、小人の首を抑える事に成功する。
けれど、小人とて負けてはいない。いや、膂力ならば小人の方が僅かに上であった。あたし並みに細い枯れ木の様な腕の何処にそんな力が?—と問い質したくなるくらいの腕力で、あたしの腕を取り払わんとする。
さりとて、こちらも瀬戸際である。未だかつて無いほどに、腕に力を込めて必死に抵抗した。
「石!石!」
痛む右肩に涙を浮かべながら、空いている右手で手頃な石を握り込むと、小人の眼を目掛けて叩きつけた。
—グシャ—
「ギャギギギ!」
強度はそこまででも無い様で、あたしの反撃にドス黒い血を流しながら、慌ててあたしから逃れようとする小人。あたしから手を離して両手で目元を覆っている。
けれども、今度はあたしが小人の首を抑えているため離れる事ができない。あたしの目を見た小人の顔が恐怖に染まる。失礼な奴だな。
小人の顔が恐怖に染まる理由は何となく分かる。あたしの顔に書いてあるのだろう。
—お前を生かして帰す気はない—
—と。当たり前だ。あたしとて必死なのだ。命を狙われた以上、枕を高くして眠るためには、外敵の排除は必須だ。だからもう、容赦しない。
あたしの石を握る右手が再び小人の頭部へと打ち込まれた。
「ギャッ!」
小さな悲鳴を上げて倒れ込む小人。この時ようやくあたしの腕が小人の首から離れた。
しかし、それは危機を脱したと判断したからではない。小人にトドメを刺すためだ。
あたしは自らの傍に落ちている棍棒を左手で拾い上げると、うつ伏せで頭部を抑えて悶える小人に向けて振り下ろす。
「ギャッ!」
「グッ!」
一度、二度、三度…。あたしが棍棒を振るう度に小人から漏れる悲鳴は小さくなり、やがて何も聞こえなくなる。僅かに抵抗を示していた腕もだらりと垂れ下がり、完全に事切れていると思われた。
それでもあたしは念を入れて数回棍棒を叩きつけると、脱力してその場にへたり込む。小人は大きな口を開け放っており、長い舌は垂れ下がり土を湿らせる。破れた頭部から流れ落ちる血もまた。
そんな小人を見て、極限状態から一気に正気に戻ったあたしは、己の成した事の意味を考えると、真っ青になって蹲った。吐き気は堪えても、涙は堪える事が出来なかった。
「うっ、うっ、何だよこれ…訳わかんないよぉ…」
そのまま泣いた。恐怖と、安堵と、不安と、色々な感情が綯い交ぜになって涙に変わり、あたしの頰を伝ってゆく。
肩の痛みやら、全身を強かに打ち付けた痛みまでが今になって振り返してくる。あたしは訳が分からなくなり更に泣き暮れた。
(…今、何時だろう)
どれくらいそうしていただろうか。ハタと気が付く。
このままではこの場に小人の仲間が集まってくるかもしれない。そうなる前にこの場を離れるべきだ—と。
棍棒を左手に握ると、よろよろと立ち上がり、その場を後にした。
夜が来た—
あたしは樹洞の中にいた。膝を抱えて蹲ったまま、前方を見つめていた。その目にはもはや力などなく、何かに怯えるかの様に絶えず左右に揺れているのを自覚している。
あの後、しばらく歩いた後に、夕暮れの訪れと共に森の中へと僅かに入ったのだ。それは剝き出しの道の上では目立って仕方ないからだ。
夜闇を活動の場にする夜行性の動物だっている事だろう。けど、そういう存在にしたって、道の真ん中に丸見えでいるよりは、森の茂みに隠れていた方が幾らかマシであると思われた。樹洞を見つけられたのは全くの偶然である。
(ここは日本じゃない—いや、あたしのいた世界ですらない)
その日一日中歩きながら考えた結果、そう結論を出すに至っていた。理由としてはあの緑の小人。あれの存在が最も大きいが、それ以外にもある。
まずはこの状況である。あたしがカフェで意識を失ってから目を覚ますまで、どれくらいの時間が経ったのであろうか?体感では一瞬であるが、実際に数時間も経過してはいないだろうと考えている。
それは服の汚れ方や身体のベタつき具合からの判断である。数時間で真を海外まで運んで森林の中へ放置する?何の目的があって?やる意味もなければ、可能であるとも思えない。
加えて、樹洞へ逃げ込む前に見た小動物である。それは一見するとリスに見えた。あたしは頭上の枝で頰をモコモコと動かすリスを眺めていたのだ。
そのリスが尻尾で木の幹を叩けば、木の枝がニョキニョキと不自然なスピードで伸び始めたではないか。
あたしが唖然と見守る中、リスは伸びた枝を伝って隣の木へと乗り移って行ってしまったのだ。
あたしの元いた世界であれば、あのリスは即座に確保されて、木材量産のために利用されているはずである。
「あたし、何処に来ちゃったんだろう…これからどうなるんだろう…」
声に出すと途端に心細くなり、父からの借り物であるポストマンバッグの肩紐を握り締めて唇を引き結んだ。
僅かに涙が出そうになるのを気合いで堪えると、前方へと視線を戻す。
何処かで狼の遠吠えらしき声が聞こえ、心臓の鼓動が早くなる。
あたしは早く夜が明けてくれる事を願いながら、肌寒さを覚えて更に小さく身を屈めた。
—チチ、チチ—
「んお?寝ちゃってた?」
目を覚ますと、膝に預けていた額を持ち上げる。どれくらいそうしていたのかは知らないが、膝は痺れ、額は僅かにヒリヒリする。カーゴパンツの太腿部分には、あたしが垂らしたであろう涎の後があり、口元を拭えば手の甲に光る筋が一つ。
ハンカチを取り出して綺麗に拭い取ると、見なかった事にした。
「さて、今日も一日頑張りますか」
—とか言いながら、樹洞で蹲ったまま動かない。
視線のみで忙しなく周囲の様子を窺いながら、右肩を動かそうとして痛みに顔を顰める。どうやらあたしの肩はまだ回復してはいないらしい。
ゆっくりと左手で患部と思わしき場所に触れると、熱を持ち、心なしか腫れている様に思える。いや、はっきりと腫れている。
「くそっ、あの小人め…」
忌々しげに舌打ちを一つしてから、今度こそ立ち上がった。昨日は僅かに動かせた右腕であるが、今日はまるっきり動かす事が出来ない。あたしは棍棒を左手に持って樹洞を後にした。
森から道へと戻ると、明け方に雨でも降ったのだろうか。僅かに土が泥濘るんでいる。サンダルではなく、スニーカーを履いていた事にホッと安堵の息をついて歩き出す。
その日は昨日と比べて僅かに冷えた。まだ朝方である事を抜きにしても、随分と薄暗いのだ。おそらくは太陽が雲に覆われてしまっているのであろう。
あたしはそれだけ確かめると、視線を前に戻してよろよろと歩き出す。起き抜けよりも少し身体が怠い。肩を痛めた影響であろうか。気を抜くと倒れてしまいそうなのを、必死に堪えて何処までも歩いた。
(早く森を抜けたい)
虚ろな目で森の中を歩き続けていた。太陽は中天まで差し掛かった事が、雲の隙間より僅かに差し込む光で分かる。今、あたしはうっすらと汗をかいていた。肩の痛みによるものであろうが、拘っている暇などない。どうせ治す術などないのだ。一刻も早く森を出て、安全を確保する以外の手はない。
そんな事を考えながら歩いていたその時、あたしは顔を顰めて立ち止まる。道の途中に痕跡を見つけたのだ。一際深い泥濘—否、水溜りから、二本の細い筋が道の先へと伸びていた。細い筋の間には馬の蹄の跡らしき窪みもある。それは馬車の通過した形跡ではないかと思われた。
それを認めると、僅かに期待に胸を弾ませる。
(昨日の小人には馬車を作る様な技術は無いだろうから…少なくとも生命体は他にもいる訳だ。それも、馬車が作れる程の知的生命体だ)
もし友好的な存在であれば、色々と便宜を図ってもらう事は出来るだろうか?この怪我を治せる者はいるだろうか?—と考えて、あたしの目に少しだけ光が宿る。言葉の壁とか、この際ガン無視である。都合の悪い事は考えないのが長生きの秘訣だ。
—ガサガサ—
「ひっ!?」
それでも、やはり神は無情であるのかもしれない。草の擦れる音に、思わず声を上げて棍棒を構えた。心臓が少しずつ高鳴り始め、耳鳴りが聞こえ始める。呼吸も少しずつ荒くなり、目は何者をも逃すまいと、絶えず周囲の様子を窺い動き回る。
あたしはゆっくりと音のなった場所から警戒範囲を周囲へ拡大させてゆく。昨日と同じ小人であれば、注意を十分に引きつけてから、別方向より襲い掛かってくるはずである。
(今奇襲されて最も恐ろしい事態は…棍棒を手放す事)
昨日とは違い右腕を動かす事がほぼ出来ない。左腕の棍棒は生命線だ。
あたしは僅かに考えた後、音のなった側へ右半身を向ける。右腕ならどうせ動かせないのだ。肉の盾くらいにはなるだろう—と逞しい事を考えていたが、其の実、恐怖で歯の根が合わず、カタカタと音を立てている。
—ガサガサガサ—
あたしのすぐ側で音がなる。即座に振り向こうとするも、身体が動かなかった。恐怖によるものか、驚いた事によるものか、或いは他に何かあったのか。何れにしてもあたしにとっては幸運な事に、先手を取らずに済んだのだ。
藪から姿を見せたのは、鎧を着込んだ戦士と思わしき長身の女性に、修道士にしか見えない白皙の美少女、そして魔法使いの様な風体の、気怠げな女性という三人の人間であったからだ。
「え?人間!?」
「@#/&!?」
あたしは驚きに声を上げ、相手の戦士もまた何かを口にした。
戦士は剣の柄と思わしきものに手をかけていたが、あたしは相手が人間であった事、また同性であった事に安堵しきってしまい、その場にヘタリ込むと、すぐさま意識を手放した。
あたしが目を覚ました時、辺りはすっかり暗くなっていた。ゆっくりと広がる視界の先には、生い茂る木々の葉が屋根の役目を果たしている。どうやら雨が降っているらしい事は、パラパラと雨粒の落下する音により理解できた。
慌てて身体を起こす。身体の下には外套が敷かれており、目の前では焚き火に当たる三人の女性があたしを見ていた。
「…あ、えと…」
声を出そうとして、言葉が通じなかった事を思い出す。どうしたものかと考えを巡らせるも、ボディランゲージも良さそうなものが思い浮かばない。
そんなあたしの様子に、暴れる事はなさそうだ—と、見たのだろうか。戦士と思わしき女性があたしへと語りかけてきた。
『肩の調子はどうだ?』
「肩?あれ?」
尋ねられて気が付いた。肩が痛くないのだ。
あたしは起き上がり身体を捻るも、ちっとも痛くない。ぐるぐると右肩を回して右手を数回動かした後、破顔して礼を言った。
「有難う、すっかり良くなったみたいです。治療してくれたのですか?」
どういう訳かは分からないが、肩は完治しているらしい。感謝を込めて、全員へ頭を下げる。
ところが、向こうは何とも言えない顔で曖昧に笑っていた。
思わず怪訝な顔を作ると、戦士らしき女性が何かを話そうとするのを魔法使いらしき女性が手で制し、代わりにあたしへと語りかけてくる。
『君の言葉は理解できない〜。だから、勝手な事をしてゴメンなんだけど〜…“意思疎通のリング”を手首にはめさせてもらっているから〜。悪く思わないで〜』
魔法使いらしき女性が己の手首を指し示す。其処には緑色のリングがはめられていた。己の手首を見ると、左手の手首には緑色のリングがはまっていた。
視線を上げれば、戦士らしき女性も、修道士と思わしき美少女も、緑色のリングを手首にはめている。
それを見て、成る程—と首肯する。この世界がどういう場所かは知らないが、この程度の事なら当たり前にできるのであろう。
あたしの様子に理解の色を見たのだろう。魔法使いらしき女性は頷いてみせた後に続ける。
『肩はこの腹黒修道士が治療した〜。骨が折れていたってさ〜。良くあんな怪我で歩いていたね〜。っとと、先ずはリングの使い方だよね〜。私達に伝えたい事を強く念じてみて〜。それだけ〜』
腹黒云々は置いておく。骨が折れていたものを、ほんの数時間で動かせるまでに治療できるものなのだろうか?—という思いも胸にしまった。目の前には魔法使いとしか思えない女性がいるのだ。その傍らには見事な石の嵌った杖まである。手首に嵌るリングも謎の技術だ。
きっと魔法のある世界なのだろう—と判断すると、魔法使いの言葉にあたしは首肯して、目を閉じ強く念じてみる。
『飯田真と申します。助けていただき、有難うございます』
ぺこりと礼をすると、今度こそ三人は破顔した。どうやら通じたらしい。あたしが安堵の息を吐く中、戦士が言う。
『いや、驚いたぞ。こんな森の中に軽装で死にかけの子供がいるのだ。しかも聞いたことのない言葉でうなされている。服装もそうだが…最初は妖怪変化の類かと思って斬るか助けるか揉めたものだ。助けて良かったよ』
あっけらかんと内情を吐露する戦士の脳天目掛けて、修道士が鉈の柄頭を振り下ろした。ゴス—と良い音がして、戦士は蹲る。修道士はニコニコと笑顔を湛えながら鉈をしまった。
(修道士なのに鉈…鉈ってどうなのよ?)
唖然として修道士を見ていると、魔法使いが咳払いを一つして注意を促す。
魔法使いへ視線を送れば、再び魔法使いは口を開いた。
『で、助けた対価の話をしたいんだけど〜…良いかな〜?』
『え?対価?…あ、あたし無一文ですが?』
言った後でハタと動きを止める。その後、教科書を買ったお釣りの事を思い出すと、己のポストマンバッグの中から何枚かの紙幣と硬貨を取り出して、三人へ見せた。
『無一文ではありませんでした。ここに紙幣と硬貨なら何枚かありますが…これは使えませんよね?』
あたしの差し出した紙幣と硬貨を拾い上げた魔法使いは、戦士と修道士へも幾つかの紙幣やら硬貨を手渡す。三人は矯めつ眇めつ確認していたが、やがて全員が首を振った。
戦士が顔を上げて言う。
『細工は見事だ。芸術品としての価値はあるかもしれないな。だが、見た事はない。価値のある金属でもなさそうだから、申し訳ないが、これをそのまま譲り受ける訳にはいかないな。そもそも、もので払ってもらおうと思っている訳では—
『か、身体ですかっ!?あたし、自慢じゃないけれど、すんごい貧相ですよ!寸胴ですよ!?』
あたしは己の身体を抱き込む様に覆い隠す。三人は再び何とも言えない顔をした。
魔法使いがあたしを手で制し、口を開く。
『話を最後まで聞く〜。というか、私達は全員が女だよ〜…一人疑わしいのがいるけれど〜』
魔法使いの言葉に、あたしを含めた三人は一斉に戦士へと視線を送る。
そんな三人の視線を受けた戦士は、青筋の浮いた満面の笑みを浮かべて答えとした。
魔法使いは満足げに笑うと、あたしへと向き直ってから続けた。
『君は見たところ色々と不可解な点が多いから〜。何故こんな所にいるかもそうだけど〜、その風体〜、持ち物〜、言語に至るまで〜。君の情報が欲しいんだよね〜。それが治療の対価だよ〜』
魔法使いはニヤリと笑って言い切った。戦士と修道士もまた、興味深そうにあたしへ視線を送っている。
どうやら、三人は互いに了解済みであるらしい。逆にあたしは苦り切った顔を作る。
あたしは、どう考えてもこの世界とは縁のない世界からやってきた異邦人である。そんな世界の事を語ったとて、彼女達の役に立つとは思えない。どうしたものか—と、考え込んだ。
(まぁ、何にしても、助けてもらった恩は返すべきだよなぁ。となると、正直に言うべきかな…幸い悪い人達ではないみたいだし、言ってみて反応を見てから、今後のあたしの設定を考えよう)
あたしは顔を上げて三人の間で視線を一巡させると、誰ともなしに話し始めた。あたしが生まれた日本という国に始まり、そこで15歳まで生きてきた事、学校、車、電車や飛行機、あたしの経験した事は木の枝で土に絵を描きながら事細かに説明する。ポストマンバッグの中には教科書という丁度良いサンプルがあったため、それも見せた。
そしてカフェでの出来事だ。魔法陣と思わしきものから発せられた光、目が覚めたら森の中であった事。適当に歩いていたら緑色の小人に襲われ、止む無くこれを殺害した事。
そして、朦朧としながら森の出口を探して道を歩いていた事—全てを語り終えた時、三人は、すっかり難しい顔で押し黙ってしまっていた。
あたしの口がそれ以上の言葉を紡がないと判断した魔法使いは、仲間である二人へと向けて言った。
『先に言っておくけど〜、この子の言っている事は事実である可能性が極めて高いよ〜。何一つ破綻していないし〜、これ程の紙はどこの国でも作り出せないし〜。衣類にしてもそうだし〜、ジッパー?見事な発想だよね〜。これを考え出した人は神だよ〜』
気怠げな印象も話し口もそのままに。魔法使いは語る語る。実に熱の入った感想を一通り並べた後、仲間二人の様子には頓着せず続けた。
『ごめんね〜、興奮した〜。もう少しだけ言わせて〜…現物がある以上〜、疑う必要すら無いと思う〜。製紙と言ったかな〜?活版印刷〜?素晴らしい技術だよ〜。科学万能の世界とは良く言ったものだよね〜』
魔法使いは教科書をペラペラと捲りながら愉快そうに笑う。
けれど、笑顔を消すと、あたしを見て申し訳なさそうに告げた。
『君…マコトと言ったっけ〜?良く聞いて〜マコト。君はおそらく〜、元の世界に帰る事はできないと思う〜。この世界には〜、世界を渡る様な魔術はないんだ〜』
あたしは面食らうも、納得ができなくて食い下がる。
『え?いや、だって…あたしは魔法陣の光に包まれてこの世界に…この世界には魔法があるんですよね?あの魔法陣は、この世界の魔法陣ではないのですか?この世界の魔法陣だからこそ、あたしはこの世界に引き寄せられて—
あたしの言葉には誰一人として答えない。三人とも渋い顔でこちらを見つめている。
あたしは三人を前にして安堵しきっていただけではない。帰る術も見つかるのだろう—と、無意識のうちに思い込んでいたらしい。
魔法使いはあたしの言動からそれに気が付いたため、期待が大きくなり過ぎないうちに掣肘したのかも知れない。
けれど、今のあたしには余計な気遣いであった。あたしは項垂れると、その場にへたり込んだ。