前編
強烈な酒精臭を鼻の奥に感じ唐突に目が醒めた。
ぼんやりした意識を奮い起こして匂いの元を辿ると、そこには職場の同僚である男――ティム・ラーソンの後ろ姿があった。
ほっそりと肩幅の狭い背中を丸め、ぐいっ――と一息にグラスに入ったスコッチを呑む仕草で、すぐに彼と解った。安物で辛味の強い酒を呷るティムの姿はいつだって淋しげだ。
「ティム――」
寝惚け眼の私が小さく彼の名を呼ぶと、ティムは限って一拍置いてから、
「よう、起きたか」
と、ぎこちなく振り向く。皺の目立った白いシャツの上に乗る彼の顔はどこか朧げだ。
良く見えもしない彼の顔をぼんやりと認め、深い眠りによって弛緩した手足に力を込める。しかし起き上がろうとする私の意思に反して身体は思うように動かなかった。寝そべっていたソファーからずれ落ちそうになって、寸前のところで傍にいたティムに腕を掴まれる。
「――大丈夫か?」
という彼の酒臭い声も、どこか遠くに聴こえる。
「――ああ、すまない、ありがとう」
咄嗟のことだと解ったが、彼に掴まれた腕の部分が少々痛んだ。血の気の失せた皮膚に、食い込んだ指先が弓形の痕を残そうかというところで漸く彼の手が解けた。
疼痛にも似た茫洋な感触だけが腕に残ったが、そこで漸く私の意識は真に覚醒した。
「どのくらい眠っていた――?」
浮かせていた腰を下ろしかけていたティムに、私は静かに問い掛けた。すると彼は即座に、「丸二日かな」
と小さく呟いた。そして空になったグラスに、新たな酒を並々と注ぎつつ、
「今回も死ねなかったようだな。ギルバート――」
と、溜息の雑じった低い声で私の名を呼んだ。
彼が言うように私は丸二日も眠っていたようだ――いや、正確には、昏睡していたのだろう。なぜなら私は二日前――とティムは言うが――に大量の睡眠薬を飲んで自殺を図ったのだから。
私こと――ギルバート・フィンレイには、どうしても死ななければならない理由がある。それは文字通り自らの命を賭して果たさねばならない事由なのであるが、どうしたことか私は一向に死ぬことができなかった。
ナイフで心臓を刺されようが、剃刀で動脈を切断しようが、水中に長時間没しようが、大量の油を呑んで食道に火を点けようが、毒蜘蛛に噛まれてのたうち回ろうが、私に死ぬことは許されなかった。
切った傷は、立ちどころに治癒するし、息苦しさに水中で気を失っても、すぐに息を吹き返す。ひどい下痢とともに呑んだ油は、体外に排出され、爛れた粘膜は一昼夜とせず恢復の兆しを見せ、蜘蛛に噛ませた毒でさえも、無害な蛋白質へと変質し体内に吸収される――そんな始末だ。
決して頑丈でない私の身体に、いったい何が起こっているのか。生体たる私の不可逆的生活機能の停止をいったい何が阻んでいるのか。科学的な説明は一切できず、生物学的な根拠も希薄であるが、原因として解ることが一つだけあった。
それは――四年前、私は死に、そして生き返ったという事実だ。
私は一度死んでいる。無闇矢鱈に死の淵を彷徨い歩いた挙げ句、何の前触れもなく私は甦った――生還したのである。そして、それを境に私は、一切死ぬことができなくなってしまった。
どんなに死を望み、どんなに死に足掻こうとも、死という概念は、私の中からすっぽりと抜け落ちてしまったかのように――実際に抜け落ちてしまっているのだが――漫然とした生温い生を私に与え続ける。致死量いっぱいの睡眠薬を飲み干した今回でさえ、やはりその事実は変わらず、不思議と過度な精神的緊張だけは感じるようで、慢性的に頭が痛かった――今も痛い。吐き気がするほどに。
それに頭痛を伴う精神的緊張は、嗅覚にある三四七種類の受容体に何らかの異常を与えるようで、現在の私は、少しの匂いでも過剰に反応する嗅覚過敏症と成り果ててしまっていた。
薬を飲んで死んだように眠っていた私を引き戻したのは、しんみりと友が口にする酒の臭いだった。
「寝覚めに一杯飲むか?」
物憂げな顔で、ティムは手にしたグラスを私に向けて傾けてきたが、私はそれをやんわりと断って力無く立ち上がった。
「いや、すぐに実験の続きに入らなければならないから、今はいいよ――それに、薬が抜け切っていない状態で呑んだら、また眠ってしまいそうだ。死ねもしない状況で、眠り転けても意味がない」
そう言いながら私は、蹌々(よろよろ)と蹌踉けるように薄汚れたソファーから降りて身支度を整える。学者よろしく身に纏うのは、純白とは程遠い黄ばんだ白衣だ。
「俺も行くよ。酔いを冷ましたい」
私の後を追うようにティムも立ち上がると、手近にあった自分の白衣を手に取った。頽然と音もなく白衣に袖を通すと、上気した赤ら顔のまま彼は軽く欠伸をした。
「寝てないのか?」
眠気を誤魔化すかのように、矢鱈と背伸びを繰り返すティムに向かってそう問い掛けると、彼は言った。
「親友が懸命に死のうとしているのに、ゆっくりと寝ているわけにはいかないだろう」
「そうか、すまないな」
私は、私のことを親友と呼んでくれる彼に対して頭が下がる気持ちでいっぱいとなった。
ティム・ラーソンは、歪んだ思想に取り憑かれた私のことを理解してくれる唯一の男だった。彼とは、学生時代からの付き合いで、かれこれ二十年以上にもなる。私たちが今所属している医療機関『罪なき聖嬰児たちの塔』が、経営母体となる学院の寄宿舎で知り合い、それぞれの故郷も近しいということで、自然と親好を深めていった。
『罪なき聖嬰児たちの塔』の将来を担う研究者を育成する学院での生活は、過酷を極めたが、しかし極端に気の弱い私が、ここまで生き残れたのは、寡黙で酒癖の少し悪い彼が、ずっと傍にいてくれたお陰だと思う。私が、何をするにも一歩引いたところから凝然と見守ってくれる彼の存在があるから、私は己が裡に抱えた歪んだ思想を実現することができているのだ。
だから彼には、頭が上がらない。私の死ぬことができない体質を知ってなお、私と距離を置かず、剰え私が推進する実験に快く手を貸してくれる彼の好意に、私は感謝の念を抱かずにはいられなかった。
そんなティムと足並みを揃えて、私は起居する部屋を後にした。
薄暗い廊下を進み、一分としないうちに錆びついた鉄製の扉に行く手を阻まれる。襤褸な把手に手を掛けゆっくりと押し開くと、中には、まるで揺り籠のような革椅子に座った男がひとり私たちの来訪を待ち構えていた。
ギィィィ――と耳障りな音を立てて扉を閉める私たちを余所に、男は平然とこちらに背を向け、腰掛けた革椅子に深く身体を預けている。
身動ぎのひとつもせず、ひっそりと座り込む男の姿を尻目に私とティムは、さっさと実験の準備に取り掛かった。
生命維持装置は、順調に稼働しているか。摩擦発電機は、十分な発電量を賄い続けているか。
生体監視記録装置は、誤差の範囲ないか。そして椅子に座った男は、しっかりと生きているか。
それを確かめずして、この実験の成功はあり得ない。故に私は、男の生存と男に繋げた電気探針の具合を確認するため、力無く椅子の上で項垂れている男の元へと歩み寄った。
男の顔は、先程の寝起きの私を彷彿とさせるような脱力しきった表情をしていた。半開きの口からは、無数の涎が垂れ、無理矢理に開かされた瞳には光がない。試しに持っていたペンライトで反射試験をしてみるが、瞳孔は完全に散大し、角膜の反射も消失している。傍から見れば、臨床上男は確実に死んでいることになるが――しかしてこの憐れな男は、まだ辛うじて生き存えていた。
それを可能としているのが、男の鼻の穴に差した生命維持装置の管である。私が開発し試験的に運用しているこれを介して、死滅した男の肺臓に空気を送り、心臓の拍動を補完している。
人間の死の判定基準たる三徴候――すなわち呼吸停止、心拍動停止、瞳孔散大のうち、生命維持に不可欠な肺臓と心臓の臓器死を未然に防ぐことによって、男は未だに死なずに済んでいた。
人工的な延命措置である――とはいえ、いち個体である人間という観念から見てみれば、男は明らかに死んでいるとも言えた。
なぜなら吹けば消え入りそうな男の魂が宿る脳は――その脳幹も含めて――完全に生命としての機能を喪失しているからだ。
――つまり『脳死』である。
そもそも脳幹さえ機能していれば、余計な延命措置などする必要はない。大脳と脊椎、または全身末梢神経とを有機的に繋ぐ脳幹の覚醒中枢さえ生きていれば、自発呼吸も可能だし、心臓の拍動も一定だ。謂わば植物状態なのであるが、私の目の前に鎮座する男の容態は、それを越して一歩上をいっていた。
知覚や運動といった動物的生命活動の中枢たる大脳は、既に死んでいる。高度な精神活動を営む人格の発露とも言える器官は、人間としての役目を疾うに放棄しているのだ。上部脳幹網様体から送られてくる信号を掌握することもできず、培ってきた記憶は疎か、高尚に育んできた意識でさえも、暗い闇の彼方へと堕とし込んでしまっている。
医学界の定説ではあるが、「全脳の不可逆的停止によって個体の生命は消滅する」らしい。慥かに意識の消失してしまっている個体としての人間は、死んでいるのも同然だろう。しかし私は、強ちそうではないと考えている。
それを確かめるために、私は被験者たる男の頭蓋を切開し、脳に直接電極の針を差し込んだ。
ガタガタ――と小うるさい摩擦発電機の駆動音とともに、生体監視記録装置の針が、事細かに男の脳波をセットした紙に刻んでいく。内側側頭葉に差し込んだ電極から採取される波形は平坦だ。深昏睡状態の脳の波形と一致する。何の変化も見られなかった。
「意識は、世間から得られる情報に基づき拡張され、更新されていくのだろうか――」
実験の準備を終えたティムが、私の傍に立って唐突にそんなことを呟いた。
私は答える。
「意識は、記憶の深層に関与し、それを以て現実へと浮上する。記憶とは、世間との繋がりであり、情報の集積地だから強ち間違ってはいないね。人間は、経験した記憶を元に意識を明確にしていくのさ。茫漠と拡張し続けていく世間の常識に順応するために、情報の更新は、日々欠かすことのできない生体記憶の上書き行為とも言える」
その答えに大いに満足したのか、ティムは不器用に口角を上げた。そして、
「人間とは忙しない生き物だな」
と言うので、私は、
「君も含めてな――」
と口にするばかりで、あまり笑う気にはなれなかった。
私とティムは、市立運営の医療機関『罪なき聖嬰児たちの塔』に務める棺察医だ。
棺察医とは、謂わば医者と研究者を複合したような仕事だ。内科的な疾病など病気治療の研究もすれば、外科的処置の必要な手術の執刀も行う医学・医療の専門家である。
学院の後期より私の専らな研究主題は、『人格の形成に潜行する長期記憶が与える役割と影響について』だ――いや、「――だった」というのが、正しいだろうか。今の私が主導する研究は、とても歪つで、常人には遥かに理解の及ばない領域に手を出している。それは、死ぬことのできない私の体質と深く結びつき、痛々しい暗鬼をも内包した歪んだ思想の実現を目指すためだけの試みでもあった。
恰も一脚の電気椅子と化した医療用チェアに座っている男は、そんな私の欲望を叶えるための唯一の被験者である。
脳死した患者を扱う研究は、医学倫理的にも禁忌に近いことだろう。「全脳の不可逆的停止によって個体の生命は消滅する」のだから、個人としては死んだことになる。脳幹を含めた全脳の機能停止は、近く細胞の器質死――つまり壊死を引き起こすのだから、延命措置など施さず、安らかに葬ってやるのがおよそ人道的な判断だ。
しかし、人間の尊厳を大いに軽視する私の実験にとって、脳死患者の存在は、無くてはならないものだった。
「――ティム、生命維持装置に繋げてある摩擦発電機の電源を落としてくれ」
脳死した被験者の様子に注意を払い乍ら、私は傍に控えたティムにそう簡潔な指示を出した。
「ん――」
私の指示を受けたティムが、短く頷いてからものの数秒で、摩擦発電機と延命装置の駆動音が一気に消失する。辺りには、生体監視記録装置の探針が紙の上を横滑りするスゥ――という無音だけが反響するだけで、被験者の脳波には、何の変化も表れなかった。
「――もういいよティム。電源を戻してくれ」
そうして優に一分近く被験者の様子を見守ってから、私は深く息を吐いた。
暗渠のような実験室に、また小煩瑣い摩擦発電機の駆動音が鳴り響いていく。
「今回も被験者の脳波に異常は検知されなかったか?」
差して芳しくない実験結果に、私は難しい顔をしていたのだろう。喟然と下唇を噛み締めている私の心境を敏感に察してか、厳かな口調でティムが語り掛けてきた。私は無言で頷いた。
「そうか――いや、判っていたよ。この実験に失敗も成功もない。脳死患者を利用した人体実験なんて道徳違反を犯している時点で、得られる成果なんて何もないのは理解しているつもりだった――だけど、ここまで無反応ともなると、お前が求めているものは、存外に夢や幻だったんじゃないのか? ギルバート――」
「ああ、そうかもしれない。あのとき私はきっと夢を見たんだ。四年前に死んだあの日、私の精神は明らかな異常を来していた。私にとってかけがえのない、とても大きな存在を不意に喪くしてしまったから、私の心は正常な判断力をなくしてしまったんだ――だから、私は――」
そう呟いた途端、不意に私の薄っぺらな胸の裡に、諦念にも似た卑しい気持ちが湧いた。
一寸の先も見通せないこの愚かな実験は、元より私が一度死亡したときに見た空想を根拠に押し進められている。然るに成功したとしても決して確たる証左も取れない破滅の実験なのだ。
それでも、死ぬことを許されない私には、この実験に賭けるしかなかった。いや、最早この実験以外、縋り付く術を持ち合わせていないのが実情だった。
何せ私が求めているものとは、聞く者が聞けば、およそオカルト染みた話なのだから。
「――あの日、自らの首を括って死んだとき、私の意識はとある門の前に立った。それはまるで死そのものを顕然と象ったかのような禍々しさを発する巨大な門だった。その傍には、ひとりの門番と思える奇妙な格好をした者がいた。奴――と言っても、あれは人間ですらない、黒い外套と烏の仮面を被ったその怪人は、門を潜ろうとする私の行く手を幽然と遮り、およそ私には聞き取ることができない声を発して、呆然とする私を門の前から強引に遠ざけたんだ――気が付くと、近くに君の顔があって、運悪く私は蘇生したのだと解った」
当時のことを恨めしく回顧する私に向かって、ティムは静かに頷いた。
「ああ、あのときは驚いたよ。部屋に帰ってきたら、お前が梁に紐を掛けて首を吊ってたんだから流石に肝が冷えた。梁から降ろしたときには、心拍も停止していて、既に死線も越えていたから、もう駄目かと思ったんだが、急にお前は息を引き返したんだ。不思議だったよ、これまでの人生の中で、あれほど奇異な体験はなかった。いや――」
と、ティムは、そこで言葉を一端切り、そして、
「その台詞を口にしていいのは、お前の方か」
と、まるで不憫な私に気を遣うように、細々とそう絞り出すのだった。
「ギルバート、お前は、あの日間違いなく臨死体験をした。そしてその日を境に、お前は一切死ぬことができなくなってしまった――そうだな?」
「ああ、その通りだ。四年前の不都合な生還から一遍、私の身体は死ぬことができない不遇を背負ってしまった。それもこれも死の淵で遭ったあの怪人が、私の記憶の裡にあったものを消し去ってしまったからだ。だから私は、こうして死に欠けている患者の脳を利用して、あのとき私が体験した状況を克明に再現しようとしているんだ。そうしなければ、私の望みは一向に叶わないからね」
そう私が推進する人道に反した実験は、脳機能の停止した患者を利用し、死に瀕した人間の見る夢――即ち臨死体験を科学的な側面から計測し人為的に再現しようという試みだった。
「人間は誰でも夢を見る。夢とは、その日の出来事を身体が眠っている間に脳が起こす記憶の整頓だ。記憶は、五感――つまり味覚、嗅覚、触覚、聴覚、そして視覚によって補完され、脳内の海馬へと無意識下に収納される。そうして収納された出来事は、常態として個人が認知できる範囲で取捨選択され、確乎たる記憶として内側側頭葉の神経細胞に定着するんだ。こうして脳内の限られた範囲に浸透した記憶は、当然個々人によって異なり独自的であるものだ」
「それはそうだろう。人間の記憶は、単一であるべきで他者との並列化は不可能だ。それまで
生きてきた環境も違えば、蓄積してきた経験も異なる。生育環境の差が、個人の能力を厳しく決定するように、成長過程の差が、個人の記憶を独自的なものとしている。お前の過去の研究
に照らした言葉を借り受けるならば、『人格の形成に潜行する長期記憶』は、まさしく人間の人格形成に深く影響を及ぼす。故に独自に確立した感性と思考を有する者同士が、全く同じものを視聴したとしても、神経細胞に記憶されるものの印象は限りなく異なるはずだ。結論として人間の記憶の裡には、何一つとして同じものは存在しない。人間の記憶とは、極めて単一に孤独的であることが初めから運命付けられている――まるで神様気取りの何者かの意思が、意地悪く働いているかのようにな」
そうしてティムは、至極観念的なことを口にした。彼の言っていることは、まさしく的を射ていると私は素直に思った。なぜなら『神様気取りの何者かの意思』こそが、私の実験を証明する唯一の裏付けとなるからだ。
故に私は、彼の言葉が耳の奥から消え止まぬうちに、以下のようなことを揚言するのだった。
「ティム。君は神様気取りの何者かの意思と、冗談めかして言っているがね。私はその意見を否定するよ。神様の実在性を証明することは難しいが、神様気取りの何者かの意思を証明することは可能だと思っている。なぜなら君も知っての通り、それが私の実験の主眼であり、本質でもあるからだ。そしてその何者かは、人間の記憶の裡にこそ存在していると私は考えている」
「そのことについては、深く了解しているよ、ギルバート。それこそがお前の提唱する理論の根幹を為す要素なんだろ? 何と言ったっけ――慥か――」
「――『人間の記憶の裡に介在する潜在的死の象徴』――だよ」
「それだ」
ティムは、片眉だけを上げて私の方を見た。
私は言った。
「君の考えた通り、人間の記憶とは単一で孤独的なものだ。長期的であれ、短期的であれ、時間を掛けて培われた記憶は、個人ひとりに対して限定的なものであり、如何なる事象が干渉しようと、他者と共有することは絶対にできない。しかし他方で、ある特殊な環境下に置かれた者たちに共通して顕れる精細な記憶の合致という不可思議な事象も報告されている。その鍵となるのが臨死体験だ。四年前の私が経験したように、臨床上すでに死亡していたにも拘わらず、奇跡的に生還を果たした者たちの中には、共通して死の淵に立ったとき、眼前に『巨大な門』を見た、という記憶が残されている。仮にその記憶を、睡眠時に見る夢――整頓された記憶とするならば、仮死状態にある脳が見た場景は、確立された一つの事実として脳内の神経細胞に深く記憶され、夢として顕れたことになる。そう考えると、人間の記憶の裡には、何らかの時点で、他者との見証を一致させる記憶が古くから存在し、また、それによって人間の死は確定するのではないか――と仮説を立てた。つまりそれは――」
「――死の概念――てやつか」
「ああ、そうだ」
私は力強く頷いた。
「死の概念とは、とても抽象的な言葉であるが、概念と呼ぶ以上は、想像の産物に近い性質を持っている。過去の記憶を脳内で復元するとき、脳は自動的に想像することによって、薄れ行く記憶の輪郭を補完している。ならば私を含めた臨死体験者が見た『門』とは、狭量な人間の脳が、辛うじて認識できるように『何者かの意思』によって意図的に具象化――復元された記憶の屑なのではないか。物体として『門』の形を為しているのは、これを通過することにより次なる世界に行ける、という単なる暗示で、死への恐怖心を薄れさせるための都合の良い舞台演出装置に過ぎないと考えられる。故に人間は、これを利用することによって安全安心な死を遂げることができ、即ち死とは、人間の裡に知らぬ間に介在する塩基情報のようなものに喩えられ、殊更に放棄することができない。謂わば生存本能ならぬ『死存本能』とでも言うべき既成概念である――これを私は『人間の記憶の裡に介在する潜在的死の象徴』と名付けた」
「記憶の裡に介在する潜在的死の象徴――か。当然それは、俺の記憶の裡にもあるんだよな?」
ティムが、人差し指を立てて己の頭を二度ほど小突いた。私は「勿論だ――」と言って頷き、目の前に立つ彼の頭部に視線を合わせてから、
「それは誰の裡にだってある。私の裡にも嘗ては存在したし、無論彼の裡にもね――」
と、医療用チェアに座っている無言の脳死患者の肩に蕭然と手を置いた。
「潜在的死の象徴――つまり『門』は、肉体が個体死に至る過程で、脳が一時的に見る夢のようなものであるという結論は既に出ている。記憶の裡にある『門』を通って人間の死が確定するのであれば、『門』を通ることができなかった人間はどうなるのか――その答えは、私自身で実証済みだ。不可逆的生体活動の停止が、個体としての生物の死であるなら、私は幾度となくそれを実行してきた。あるときには、広場の処刑場まで赴いて断頭台に首を突っ込み斬り落としもしたが、やはり私は死ぬことができず、どうやら物理的な要因では、容易に死ぬことができないと解ったのは、頭部の破砕を試みた何度目かの自殺の後だった――」
そこで上げていた視線をティムの顔に向けると、彼は、ひどく痛ましいものを見るような悲痛な表情をしていた。それを目にした途端、私の心に言い様のない鬱屈とした感情が滲み出たが、構わず言葉を続けることにした。
「――そこで死を――惹いては死ぬことを厳粛に制限された私は、あるとき悟ったのだ。人間の死とは、不可逆的生体活動の停止――つまり肉体の個体死によって、動機付けられるのではなく、飽くまでいち個人の人格の消失によって惹き起こされるのではないか――と。そう考えたとき、私の脳裡に蘇ったのは、あの烏の仮面を被った黒い外套の怪人の姿だった。そう、きっとあれは――いや、あれこそが『神様気取りの何者か』であり、死に征く人間を『門』の向こう側へと導く死に神そのものなんだ――そうして私の裡にある確証が湧いた」
「確証――か――それは奴がお前の記憶の裡からあるものを消してしまったということか?」
「ああ、『門』に近づこうとしたとき、奴は咄嗟に私の行く手を阻んだ。それは私の人格を――惹いては魂と呼べるものを、『門』の向こう側へ通したくなかったからだ。何らかの理由によって私の進行を邪魔した奴は、何らかの方法を以てして私の記憶の裡から、潜在的死の象徴を消し去ってしまった――だから私は死ねなくなった。もし天国か――地獄と呼べるものがあ
るならば、それはきっと私が死の淵で見た『門』の向こう側にあるはずだ。しかし『門』を通り損ねた人格――魂は、行く場を無くし、結局は元の肉体に戻るしかない。私が死ぬことができないのは、恐らくそこにある」
「なるほどな――」
長々とした私の弄舌を聞いていたティムが、そこで納得したように顎を擦った。
「魂なんぞと聞くと、一見オカルト染みた非科学的な話にも思えるが、現にお前が死ねないのが何よりの証拠だな――生き証人ならぬ『死に』証人なんだから――いや、すまない。言葉が過ぎた」
「構わないさ。事実なんだから」
ティムがひどく申し訳なさそうに私のことを見つめてきたので、私は気にしていない振りを装ってひとり静かに肩を竦めた。彼に悪気がないことは解っているが、私が抱える辛さは、やはり誰にも折半できるものでないことを改めて知って、私の心は少々虚しくなった。
「私は、死ぬことができない己の身体を呪っている。現に悪いのは、私の記憶の裡から『門』を消し去ってしまった、あの怪人の方だが、そのことを恨んだところで、遠ざけられた死が、不意に戻ってくることもあるまい。それに私は、疾うにその事実を受け入れている――だからこんな非道な実験にも手を染めているわけで――だから狂った私の悲願を成就させるために、彼の身体と脳を借り受けることにしたんだ」
それまで眼前にいるティムに向けられていた私の視線は、目下で眠る被験者の男へと移っていた。
茫然自失という言葉は、まさにこの男にこそ相応しい。意識を忘れ、魂の在処すら定かではない私の憐れな被験者は、およそ生きた人間がしないような腑抜けきった顔をしている。限られた栄養しか補給させていないので、頬の肉は痩けているのに、どういうわけか垂れて見える。落ち窪んだ眼、血色の悪い唇、毛のない眉――それに取り外された頭頂骨。
どれもこれもが、椅子のうえで行儀よく眠る彼の『生』を完全に否定しているようで、私はとても厭な気持ちになった――勿論、自分自身に対して――だ。
この男の名前は疎か、どんな状況で脳死状態となったのか私は知らない。知ってしまえば、情を移すことになり、恐らく実験に差し障るだろうと無意識に判断してのことだろうが、実験を優先するあまり、人間としての胸懐まで破棄してしまっているようで、何だか恨めしくも思う。
しかして非道な私の実験は、男の死んだ脳と、記憶によって成功の是非が決まるのであるから、この機会を、むざむざ棄てるわけにもいかない。『門』の向こう側へと消えることのできない私の魂は、疾うの昔に悪魔に売り払っているのだから――。
「脳死者の脳は、果たして本当に機能していないのか。脳死の判定には、幾つかの厳格な基準が設けられているが、その第四項には『脳波』についての項目がある。通常人間の脳は、あらゆる局面においても活発に活動し、その脳波は、常時山なり谷なりの振幅を深く繰り返していることが解っている。これは身体を休めている睡眠時にも言えることで、寧ろ整頓された記憶を夢として見るレム睡眠時の方が、覚醒状態にあるときよりも瞭然とした波形を申告している。脳内のある領域にて想像され、再構築された記憶を閉じた瞼の裏――いや、記憶の倉庫たる海馬へと逆投射し映像化することは、それだけ脳にとって負担と労力が大きいわけだ。しかし脳機能が、完全に停止した患者の脳にはかかる負担が殆どないため、その脳波は常に平坦を申告し続ける。心電図と同じだ」
「心臓の鼓動が停止すれば、心拍も測定できなくなる――慥かに心電図も振れないな」
「そうだ。だから平坦化した脳波は、容易に恢復させることはできないんだよ。脳死状態にある患者の脳は、中枢神経機能も麻痺しているから、外表に幾ら致命的な瑕疵を与えても、刺激反応性の消失が顕著で脳波も乱れない」
「瞳孔散大と並んで人間の個体死を認定する停止症状のひとつだな――」
そのときティムは、敢えて納得したような素振りで、私の意見に頷いた――が、直ぐさま眉根を寄せて、
「――となると、この男の死を認定してしまうことになるか」
と、まさに実験の核心を突くようなことを呟くのであった。
茫洋に発せられた彼の言質を補完するように、私は直ぐさま口を開いた。
「この男は死んでいるよ――いや、停止した脳幹の変わりに延命装置が、心臓の鼓動と呼吸を常に制御しているから、正確には、死の淵に立っている――だ。慥かに臨床医学的には、この男はすでに死んでいるが、その人格は今も生きている。なぜならこの男の肉体は現に朽ちずに今もこうして残っているからだ。人工的に幾ら延命処置を施そうと、彼の人格――つまり魂が『門』を通過してしまえば、有無も言わさずこの肉体は滅んでいるだろう。何せ戻ってくる魂がないのだから、肉体を残しておく必要がない。顕世でいらなくなった器は、微生物に喰わせて土に還そうが、火葬にして灰にしようが何の問題もないわけだ。しかし人格が消失した脳死状態にあるとはいえ、この男の肉体は人工的な補助を受けつつ、今もこうして朽ちずにいる。それは何故か――」
「それは――この男の人格を為す魂が、まだ『門』通っていないから――か?」
「そうだよ、まさにその通りだ」
一言頷いてから更に私は言った。
「この男の人格――魂は、いま彼の脳内にはない。意識が完全に消失してしまっていることが、何よりの証拠だ。しかし魂が離れた肉体が朽ちずに、尚且つ蘇生の徴候もないことから、彼の人格――魂は、恐らく死の淵にある『門』の傍にいるのだと推測される」
「そうか、お前のように魂が肉体に戻ってくるようなことがあれば、蘇生するしな――となると、この男の魂は、お前が遭ったという死に神に追い返されていないってことか?」
ティムの素朴なその質問に、私はゆっくりと首を横に振った。
「それは解らない。あちらで何らかの異常が起きているのは慥かだが、判然とした理由は不明だ。しかし彼の人格――魂が生きていれば、それもすぐに解る。故に私は、脳死患者の脳波に着目しているんだ」
「まさか死んだ脳機能を恢復させたいわけじゃあるまい?」
「それこそまさかだよ。この男の脳に最早恢復の見込みは殆どないよ。君も知っているだろう
私の実験の骨子とは、臨死状態下にある脳死患者が見る夢を、科学的な根拠に基づいて計測することだと――潜在的死の象徴たる『門』の映像が、仮にひとつの記憶として脳内の神経細胞に深く定着しているのなら、生死の境を常に彷徨っている脳死患者の脳は、時として夢を見るはずだ。そしてそれこそが臨死体験という名を借りた幻の正体だ。どの時点で混入した記憶か解らないが、それが再構築されて夢として顕れる以上、死んだ脳にも多分な負荷と負担がかかる。それが顕著に脳波として測定できれば、実験の第一段階は成功だ」
だから私は、死に瀕している脳死患者に、それこそ懇遇な延命処置を施してまで、生き存えさせているのである。
私は、私の実験に供された被験者たる憐れな男の死を昏々(つらつら)と待ち望んでいた。
脳死状態にある男の頭蓋を無惨にも切り開き、露出した脳の長期記憶を司る内側側頭葉に直接電気探針を差し込むことで、夢として顕れる死の象徴を漏れなく掌握できるように、脳波の測定を容易に可能とする生体監視記録装置に、常時接続しておく――というのが、私の実験の大まかな概要だ。
しかし、それだけでは、脳の死した患者は夢を見ない。能動的に患者が夢を見やすいような状態に誘導しなければならないのだ――要するに、患者の命を顕世に留めている生命維持装置の電源を忽然と切ればいいのである。
そうすることによって、自発呼吸が不能な患者の脳は、慢性的な酸欠状態となり、非常に危険な、死にやすい状態となる――つまり、臨死体験を夢として見やすくなるのだ。理論上では、この方法で患者の脳波に乱れが生じ、生体監視記録装置を通して目視で、患者が夢を見ているかどうかを確認することができる。それが叶えば、あとは簡単だ。それは――
「この男が夢を見るようなら、彼の脳内には潜在的死の象徴である『門』が、瞭然と形づくられているはずだ。それさえ確認できれば、私は彼の脳と直接繋がり、彼が見ている夢を追体験することによって、彼の記憶の裡にある『門』を彼の代わりに通過する。そうすれば――」
「――お前は確実に死ぬことができる――か。ギルバート――」
次に私が発するであろう言葉を正確に予測して、しんみりとした調子でティムが言った。
「潜在的死の象徴が、記憶の裡にない私には、最早他人の『門』を借りることのみでしか死に遂げる道はないんだ。だからこの男には、早く夢を見て貰わなければいけない。実験を急ぐ必要がある」
そう結論付けた途端、早急に実験を再開しようと思い直した。喋々(ペラペラ)と無闇に弄舌を働いていては、その分死期も伸びてしまう。私に――いや、あの子に残された時間は、あまりないのだ。
しかし、そんな焦燥に駆られた私の思考を遮って、再びティムが口を開いた。
「ギルバート、運良く実験が成功したとして――いや、お前がこの男の裡にある『門』を通過したとして、その後この男はどうなるんだ? 彼も一緒に『門』を通れるのか?」
彼は酷く神妙な顔をして私にそう訊いてきた。彼は何がそんなに心配なのだろうか。
「いや、お前が無事に死ねたときのことを考えると、実験の献体となってくれたこの男の役目も終わるだろう? この男に家族でもいれば、遺体を還してやりたいと思ってな」
ティムは、酒癖は悪いが優しい性格の持ち主である。人格の規範たる魂と意思がない者にも須く温情を与える彼の姿勢に、しかし私は残酷な事実を突き付けるしかなかった。
「残念ながら、私がこの男の『門』を通れば、彼が死ねることは永遠にないよ」
その辛辣な私の発言を耳にして、ティムは悲痛そうに顔を歪めた。
「なぜだ――?」
と素朴に問う声もどこか苦しげだ。
「これは推測の域を出ないことだが、記憶の裡に介在する潜在的死の象徴は、恐らくいち個人につき、一つしかないものと考えられる。仮に記憶の裡に複数箇所介在しているのなら、私が今こうして死ねずにいることは、現におかしいことだ。あの死に神が、私の記憶の裡に介在する潜在的死の象徴を、あの時点で消し去ったとして、それが古くから――例えば原初の時点から記憶の裡に潜在化していたのだとすれば、脳内の海馬や神経細胞には、少なくともその残滓が遺留しているはずだ。そうであるなら次回死亡したときに、脳内に残った記憶の屑が自動的に掻き集められ、再び『門』となって構築され、私の前に顕れることになる――が、それは現時点においても確認されていない。すると考えられることはひとつ、あの死に神が、現に私の裡から消し去ったのは、死亡時に『門』となる潜在的死の象徴ではなく、潜在的死の象徴を『門』として形作る〝想像力〟なのではないか――と、そう仮定すれば、私の前に死に連なる『門』が顕れないことも合点がいく。何より奴が、記憶の裡に介在する潜在的死の象徴を、完璧に私の裡から消し去ったのであれば、臨死体験時の『門』に関する記憶など、私の裡には皆無となるし、あの恨めしい烏の貌も覚えているはずがない。奴が本当に消し去りたかったのは、潜在的死の象徴を『門』として脳内に投影するための逞しい〝想像力〟だけなのだ。だから私の脳は、死を開くための『門』を夢想することができないでいる」
一区切り打つ――そして、
「潜在的死の象徴とは、他者と深層心理で繋がる共通認識のような側面もあると同時に、単一的な抽象概念であるとも言える。それが一個人の〝想像力〟によって補完され、夢として顕れるのであれば、個人が創造できる『門』の数も自ずと単一に固定されてしまう。これは狭量な人間の思考力では、一向に変更することのできない絶対数だ。故にいち個人が創造した『門』を利用できるのは、『門』を創り上げた本人か、あるいは、臨死状態下における当事者の記憶を精細に共有した第三者かに限られる。まぁ後者は殆どあり得ないだろうな――私のような人間を除いては――。故にいち個人が創造できる『門』の数が一つであるならば、それを通過できる人間の人格――魂もまた一つであることが予想される。なぜなら臨死状態の段階にある人間の狭量な想像力で創り上げられた『門』は、一貫して複数人の人格――魂が通過することを優に想定されていないからだ。いち個人が夢として想像する『門』は、飽くまで一人分の人格――魂のみしか許容し得ない。一つの『門』を通過できるのは、常に一人分の人格――魂であることは、最早自然の摂理と同義だ。どうすることもできない。活火山が噴火して溶岩流が街を飲み込むように、一人の人間が創造できる『門』は、たった一つ――故に、私のような考えを持った非人道主義者が、他人の『門』を当事者よりも先に通過するようなことがあれば、通れなかった者の人格――魂は、永遠に死の淵を彷徨い歩くことになり、その肉体もまた永遠に朽ちることなく顕世に留まり続ける――と、そう推測することができる」
「推測――飽くまで推測なんだな」
「ああ、こればかりは現に『門』を通ってみないことには判らない」
本当に、飽くまで推測の域を出ない未知の事象に関する持論であったので、判然したことは言えなかったが、それでも曇っていたティムの心は、少しだけ晴れたようで、
「そうか、それならいい。お前を信用していないわけではないが、その推測だけは、外れていて欲しいね。この男もひとつの人格を持った人間だ。できれば、このままの状態にしておくにも偲びないからな」
と、見るからに安堵の表情を浮かべていた。
そうして、いつものような寡黙な態度に戻ったティムは、不意に、
「そういえば、リタの具合はどうだ?」
と、自然を装い実験に戻ろうとした私にとって、とても窮屈な問いを掛けてきた。
「これから『恵み深き仔らの庭院』に行くんだろ? 孤児院の子供たちは皆元気だが、リタに限ってはそうじゃないからな――どうだ、あの子は元気にしているか?」
唐突に、友の口から吐かれた些細な問候に、私は一瞬言葉を詰まらせた――しかし次の瞬間には、
「ああ、直近では体調も然程悪くないし元気だよ――」
と、惨酷な現実を隠然と飲み込むように、平素な振りをして見せるのだった――が、
「――いや、すまない。嘘を吐いた」
数瞬の後には、啾々(のうのう)と吐いた前言を臆面もなく撤回していた。
「悪いのか?」
ティムが気遣うように訊いてくる。私は頷き答えた。
「決して良くはない――かな。日に一度屋外に連れ出すこともあるが、一日の大半はベッドのうえで過ごすことが多くなった。それに点滴する薬の量も増えたかな。あの細い腕に何度も針を刺すものだから、注射痕が鬱血して見るも無惨な青痣を作ってしまった。普段は長袖を着て私に疵を見せまいとしているが、健気に隠した袖を捲る度に、あの子に申し訳ないことをしているようで、とても後ろめたいよ」
「そんなことはないだろう。お前がリタに施していることは善意の治療だよ――しかし、そうか、具合はあまり良くないんだな」
そのときの私は、明らかに意気消沈としていた。ティムもきっと同じ気持ちだったのだろう。彼は静かにふぅ――と一息吐くと室内に一脚しかない椅子を私に勧めてくれた。
「リタの心臓、そんなに悪くなっているのか?」
彼が勧めてくれた椅子に私が腰掛けるのを待ってから、ティムがやおら訊いてくる。
私は再び瞞然と頷いた。
「ああ、あの子の心臓はもう駄目だ。いつ止まってもおかしくない状態まで来ている」
そう呟くのが精一杯だった。
「遺伝性の心疾患だったか?」
少女の身体のことを懇切に気遣う友の問い掛けに、私は惻然と目を伏せるしかなかった。
「ああ、母親からの遺伝だよ」
そうして、辛うじて声にできた言葉は、どこか淀んでいるようにも聞こえる。
「あの子の母親は、四年前に亡くなっている。勿論あの子と同じ遺伝性心疾患だったが、奇跡的に子供を産めるまで持ち堪えることができた――いや、彼女の場合、成熟するまで病状が安定していて深刻化しなかったというだけの話で、愛娘の方は、生まれながらの疾患持ちだったらしい。母親が存命中に何度か発作を起こしたという記録も残っているから、今も生きているのが不思議なくらいだよ」
そう言う私の唇は、枯々(カラカラ)に渇いていた。先刻からの喋々(ペラペラ)とした論説の所為か、はたまた幼い少女の容態を深く憂慮した所為か定かではないが、私の心はひどく落ち着かずにいた。
口腔に溜めた唾液を、何とか舌先に乗せて唇を舐めようと試みたが失敗する――唇が小刻みに震えていたのだ。続けざま三度失敗したところで、
「――今まで訊いたことなかったが、ギルバート、お前死ぬのが怖くないのか?」
と、まるで重い墓石を持ち上げるかのような息を吐く声が耳許で聞こえた。
「えっ――」
芒然とした調子で顔を上げると、私のことを黯然と覗き込むティムと目が合った。
見るからに沈痛そうな面持ちしている。今日の彼は、いつもと違って百面相だ――心なしか思わずそう思ってしまった。
私と目が合った瞬間から一呼吸置いてティムは言った。
「お前がどうしても死に遂げたいのは、リタのためだよな。心臓が悪いあの子に自分の心臓をくれてやるためにお前は死ぬ――そうだな」
「ああ――」
力なく掠れた声で私は返事をする。
「私は、あの子の心臓の臓器提供者となる。それしかあの子が助かる道はない。正式な手順を踏んで順番が来るのを待っていたら、確実にあの子は死ぬ。私なら適合条件も既に及第しているから何ら問題はない。あとは死ぬだけだ。怖くなどない」
そう揺るぎない決意を私が吐露すると、ティムは明らかに眉を顰めて、
「なぜ、そこまでする? あの子のことは慥かに可哀想だが、施設で暮らすひとりの子供だ。医者であるお前が、そこまでしてやる義理はないだろう――」
と今更に言うので私は、
「あの子は――リタは、私の娘なんだ――」
と、これまで友に秘匿していた事実を寞然と打ち明けるのであった。
※
『恵み深き仔らの庭院』は、私が所属する『罪なき聖嬰児たちの塔』が、管理運営を担う私立孤児院である。
厳かな教会を模した小さな建物の中には、随時三十人から五十人にも及ぶ子どもたちが起居を共にし、国に――惹いては『罪なき聖嬰児たちの塔』に貢献できるような人材となるべく日々勉学という名の研鑽を重ねていた。
そんな子どもたちの多くは、数年前、厳しい財政難の渦中にあった国が施行した、とある非情な政策の犠牲となってこの地――埋葬都市シャルニエに連れてこられた。
当時この国――輝ける夙夜の(レゼンディア)王国は荒れに荒れていた。度重なる大飢饉と、流行感冒の感染拡大により、多くの働き手たちが命を落とし、深刻な経済不安を招いたのだ。犠牲となった働き手たちの多くは、地方で農業を営む者たちがその殆どであったため、食糧となる穀物や家畜の流通が大いに停滞し、数ある市場で急激な物価上昇が相次いだ。大人二人と子供三人――計五人の家族が、一月生き抜くために必要な小麦を手に入れるのでさえ、金貨五十枚という暴騰振りに人々は次第に力尽きていった。
いち家庭が手にできる毎月の食糧はごく僅かである。当然その皺寄せは、幼く且つ食べ盛りの子どもたちに平然と押しつけられ、各地で間引という前時代的な慣習が盱々(ふつふつ)と甦っていった。
そうして古き時代を真似た悪しき慣習は、半年余りの期間で、凡そ二十万規模にも上る孤児を国内に輩出した。唐突に食い扶持を無くした子どもたちに、日々の糧となる食料を調達する術など当然ない。月の女神セルヴィスを崇拝する慈悲と慈愛の国は、嘗ての面影を忽然となくし、幼き餓死者たちの遺体で国土は埋め尽くされていった。
勿論、悪歳が諸々に及ぼした暴威的な餓えの大波に、国もただ手を拱いているわけではなかった。逼迫に喘ぐ貧国が、まず先んじて取り組んだのは、親許から放逐された子どもたちの受け皿となる孤児院の敷設だった。
当時の国王――ルゼルマインⅧ世の早急な勅命により、鳳形の国土を為した国の彼方此方には、教会の様相を呈した孤児院が次々と敷設され、飢餓によって輩出された子どもたちのうち、約八万人の孤児を収容するに至ったのだが――それがまた大きな波乱を呼んだ。
基より困窮を極めていた国家の財政は、最早風前の灯火だった。それに拍車を掛けるが如く各地方に何棟もの孤児院を敷設してしまったがために、僅々(きん)と化していた国の財貨は到頭底を尽き、財政破綻寸前というところまで追い詰められてしまったのだ。
『恵み深き仔らの庭院』も、そんな最悪とも呼べる経済情勢の中で敷設された孤児院のひとつであるが――子どもたちの悪夢は、寧ろここより先に始まったとも言える。
長年に及ぶ深刻な食糧不足と、流通経済の停滞は、迅速に解消せねばならない最重要国家課題として、能動的な是正措置の考案が急務とされた。
が、貧窮した弱小国家が取れる手段は、余りにも限られていて――そのひとつが人身売買による外貨の獲得だった。
幸い――というには、ひどく仁義に反する考え方だが、疲弊した国の彼方此方には、親許を放逐され、敷設された孤児院にも収容できなかった子どもたちで溢れ返っていた。国は、いや窮乏する国家財政を能率的に恢復させたい財務大臣の強固な思惑は、孤し児となった憐れな子どもたちを、近隣諸国に住む高級貴族の奴隷とすることによって、法外な外貨利益獲得に乗り出したのだ。
中略するが、当初この政策は功を奏した。国の路頭からは、飢えた子どもたちの姿が消え、他国から莫大な利益を算出することによって、看る看るうちに疲弊した国家財政は恢復、停滞していた流通経済も息を吹き返し、飢餓に苦しんだ人々の生活も元に戻り始めた――かに国民の誰もが思えたが、悪辣な金策を施行した国の財政機関は、更なる外貨獲得のために、とある法律を国内に向け発布することを決定したのだった。
その法律というのが『小人繁殖法』である。
当時十八歳以上の成人夫婦には、最低五人まで子どもを産むようにとの義務が強く課された。
これによって強制的な生殖行為が奨励され、事の結果産み落とされた産児たちは、家系を継ぐ長子を除いて、ひとり僅か銅貨十枚という安価な値段で国に買い叩かれ、または接収されてしまったのである。
親の顔も碌に知らず、見知らぬ土地へと送り出され――いや、輸出されていく無垢な子どもたちを余所に、その後国は大いに潤った。戦争特需ならぬ小人特需などと無責任に揶揄する者も偶にいたが、現に犠牲となった子どもたちの御陰で、平和と安寧を手に入れたことに、人々は感謝を為れど、文句を吐く者は殆どいなかった。若干の背徳感と、手放しに喜べぬ幸福な生活に人々が徐々に軋轢を感じ始めた頃、金満な思想に取り憑かれた国家は、次なる金策手段を講じる手筈を既に整えつつあった――それは先進的医療技術の国外輸出である。
輝ける夙夜の(レゼンディア)王国は、古き時代より続く医療国家だった。数ある近隣諸国に比べ、我が国の学術段階は、実に目を瞠るものがあった。類い稀な勤勉さを誇る学者気質の国民性と、献身的な福祉精神が、数多ある医療技術と医学知識の更新に寄与し、西方の小国を大いに発展させていったのである――しかし、裏を返せば、医療・医学に憖じ特達し過ぎてしまったがために、先の大飢饉を犠牲無くして乗り越えられなかったことは、如何ともし難い事実である。
何にせよ、次に国が手掛ける金融政策は、医療技術の輸出である。これまで伝統的に継承され培れてきた医療技術は勿論のこと、先駆的な救命措置を可能とする技術の開発に邁進することで、汚らしい欲に塗れた我が国の首脳部は、他国から巨額の富を得ようと画策したのである。
そこで犠牲となったのは、またしても純真な子どもたちであった。
輸出の主軸となる先駆的な救命措置の開発とは、実に聞こえはいいが、机上の空論で終わってしまっては何の意味もない。医学的新技術の開発には、必ず実験と検証が付き物なのである。
それに供すべく酪農家が家畜にするように、繁殖を善しとする悪法を暈に親許から切り離された子どもたちは、先駆的な救命措置の開発という大義名分のもと、非道な生体実験の被験者として、その幼き身体を容易に酷使されていった。
いったいどれ程の幼な子たちが、悪徳に駆られた大人の利欲的な思惑に掛かり、非道な実験の露と消えたのか、今となっては、その正確な数を把握することは、ほぼ不可能であるが、唯一言えることは、小さき子どもたちの純徳な犠牲によって、安寧を貪る私たちの生活は日々守られているということだ――窮極に貧した国の人柱となった彼らこそ、我らが真の救い主に外ならないのかもしれない。
――これは、その当時なにもできなかった私の勝手な言い分である。
当時の私は『罪なき聖嬰児たちの塔』に所属したばかりの駆け出しの棺察医だった。
医療・医学の専門家――研究者として新米同然だった私には、何の権力も与えられず、一切の発言権や拒否権すら認められなかった。強硬な姿勢を貫く上層部の指示には、絶対服従が鉄則化し、医療実験施設の中央機関だった『罪なき聖嬰児たちの塔』に次々と運びこまれてくる子供たちの身体を実験材料に、右から左へと、目を背けたくなるような、恤ましい疵と苦痛を間断なく与えることを職務としていた。
――いや、あれは仕事という名を借りた、紛れもない虐待と暴力の日々だった。
実験に供された子どもたちのことを思うと、決して忘却してはならない苦々しい日々の連続。
できれば、あの当時のことは釈然と忘れてしまいたがったが、それも若かりし頃の無力な私が犯した惨めな罪であるため、甘んじて記憶の裡に留め置いておこうと、そう心に誓った。
だから潜在的死の象徴を、死の間際で夢として見られなくなった私でも、度重なる苦痛に顔を歪め、必死に泣き叫ぶ子どもたちの姿を、時として夢に見ることがある。そうしてふと目醒めたとき、頬に伝う涙を感じて、私はまだ人間の心を喪失っていないのだと、何度も安堵に暮れたものだった。
私たちが――いや、私が手を貸していた先駆的な救命措置の開発実験は、純然たる子供たちの多大な犠牲の甲斐もあって、物の見事に成功した。これまでに類を見ない画期的な医療技術の完成に、人々――主に国の首脳部――は、大いに沸き立ち喜々として新技術の国外輸出に向け躍進を遂げていったのだが、ここでその全容を語ることは割愛しよう。
そうして、唾棄すべき生体実験の果てに、国が手に入れたのは、目も眩むような巨万の富と、一部の地方都市による叛乱だった。
変革は唐突に訪れたのだ。
悪しき金権に取り憑かれた国家に、忽然と叛旗を翻した地方都市――それがシャルニエだった。
埋葬都市シャルニエは、これまで唯々諾々と国の指導を受け、残虐非道な生体実験に心なく荷担してきた医療『実験』機関『罪なき聖嬰児たちの塔』が本拠地とする東方の小都市だった
――そう、つまりは『罪なき聖嬰児たちの塔』こそが、暴戻を振り翳す祖国に対して叛旗を翻した首謀者なのである。
恐らく組織の上層部も、国を揚げての悪行に悶々(ほとほと)嫌気が差していたのだろう。真実のところ詳しい経緯は一切明かされていないが、『罪なき聖嬰児たちの塔』は、国の意向に突如として背き、輝ける夙夜の(レゼンディア)王国に属してなお、いち自治領としての主権と独立を宣言したのである。
――この独立宣言は、国に虐げられてきた子どもたちのためであると、切に願いたい。
勿論、金満な思想に毒された国は、当初その宣言を断固として認めなかった。次代を担う莫大な利益を生む金の卵を唯々(やすやす)と国が手放すはずもなく、事態は『罪なき聖嬰児たちの塔』との間で緊迫化しようとしていた。一時期は、内戦勃発寸前との噂まで囁かれたほどであったが、『罪なき聖嬰児たちの塔』は、国との交渉途中に、生体実験に依らない医療技術の永続的記録提供と、機関が保有する医療施設の一部放棄――または譲渡を提案するこよによって、条件つきではあるが、いち国家に属する自治領としての主権を獲得し、独立するに至った。
『恵み深き仔らの庭院』は、『罪なき聖嬰児たちの塔』が完全統治、するシャルニエ内に施設を構えていたため、自治権を理由に国から敢然と切り離され、機関が管理運営する私立孤児院のひとつとして、再出発を果たすこととなった――ここにいる子どもたちは、暴政下にあった当時、生体実験の被験者として親許から奪取され、排抑的に施設へと収容された不憫な過去の持ち主ばかりだ。
彼らの小さな胸懐に与えられた心の疵は、如何ほどのものなのか、私には推し量る術もない。
せめて、子どもたちが負った疵を少しでも緩和できるようにと、贖罪の意味も込めて、私は
『恵み深き仔らの庭院』の副院長として、忙しない日々を送っていた。
そして、それはかけがえのない、ひとりの少女のためでもあった。
「――ギル先生、林檎が食べたい」
白く血管の浮いた少女の手首から脈搏をとっていると、耳許でそう声がした。
「ああ、今日の検査が無事終わったら、ご褒美に食べさせてあげるよ。それまで我慢して」
弱々しく拍動する動脈の流れに、意識を集中させた私が、それだけを答えると、
「すりおろした林檎は嫌よ。皮を剥いただけのやつがいい」
と、少女――リタ・フリークスは、明るい声を出して、そう要求するのだった。
いつも通りの遣り取りだ――それに私は決まってこう言う。
「残念ながら、その要望には応えられないかな――君の喉とお腹は、固い物が食べられるほど丈夫じゃないんだ。それに顎だってすぐに疲れてしまう。適度に疲れた筋肉は、発達し易いからラーソン先生のようなエラが張った四角い顔になってしまうよ。それは嫌だろう?」
「嫌――」
そうした私の脅し文句に、リタも決まって厭な顔をして即答する。
くっきりとした二重の瞼を器用に細め、リタは可愛らしく口を窄めている。よっぽど私の友と同じ顔の輪郭になりたくなかったらしい。渋々と言った調子で「わかった――」と呟く彼女の声には、何処となくほんのりとした怯えも含まれていた。
「ラーソン先生は格好いいけど、お酒臭くてあんまり好きじゃない。それに、他のみんなにはお菓子をあげているけど、わたしには一度もくれたことないもの――わたしのこと、嫌いなのかな――」
途端に落ち込んだような声を彼女があげるので、私は諭して言った。
「ラーソン先生は、リタのこと好きだと思うよ。私に会う度にリタは元気か? 調子はどうだ?
会いたい――って言って、いつも私のことを困らせているよ」
「嘘――」
「嘘じゃない――嘘だったら、こうしてラーソン先生から贈り物を預かってきたりはしないよ」
「贈り物?」
小さな頭を傾げるリタに、私は「ああ――」と軽く頷いてから、白衣の腰回り付近に縫い付けられたポケットから、一個の小瓶を取り出した。
「これ――バーベナ養蜂場の特製蜂蜜。リタのためにって、朝一番にラーソン先生が買ってきたんだ。すりおろした林檎と雑ぜて一緒に食べると、抜群にうまいってラーソン先生も言ってたよ。試してごらん」
「うん――」
そうして藹々(おずおず)と差し出されたリタの柔らかな手のひらに、整然と小瓶を載せると、彼女は、
「先生――林檎、いつもより多めにすりおろしてね――」
と、恥じるような仕草をして、手にした小瓶を胸の前にやった――そして、
「――それから、ラーソン先生にありがとうって言っておいてね。大事に食べるからって」
愛くるしい笑顔を作って、融然と私にはにかんでみせるのであった。
リタ・フリークスは、私の大切なひとり娘である。
十年前、まだ学院の研修生だった頃、私はリタの母親となる女性と密かに付き合っていた。
とても綺麗で聡明な、陽だまりのような赤毛の髪をしたその人は、ひとつ年上の花屋の娘だった。知人の命日に供える花を探して、ふらりと立ち寄った店で、偶々(たま)店番をしていた彼女に不覚にも私は、恋をしてしまったのである――一目惚れだった。
彼女は――エミリア・フリークスは、まるで太陽のもとに咲く向日葵のような人間だった。
明るく活発で、眩しいくらいの笑顔を常に湛えていた彼女の凜とした、それでいて華やかな姿に、私は能く強い憧れと、尊敬にも似た厚情を抱いたものだ。
生来的に気の弱い私にとって、彼女はまさに、豊穣と美の女神そのものだった。
故に何かと理由をつけては、彼女が店先に立つときばかりに足を向け、眷々(こそこそ)と花を買った。
誰に渡すでもなく、かと言って彼女に想いを告げるでもなく、寄宿舎の狭い部屋が満杯の花で埋め尽くされても、私は足繁く彼女がいる花屋に通った。それでも言葉を交わすのは、彼女が口にする「いらっしゃいませ」と「ありがとうございます」の定型文に、無言で瞞然と頷くときだけ――気の弱い私には、それだけで精一杯だったのである。
それでも私は幸せだった。街の中に親しい知人など殆どいない私であったが、学院には友であるティムがいて、街に出れば花売りをする彼女がいる。それだけで浅聞な私の世界は、十二分に満たされ、文句の付け様のないほど充足した日々を、淡々と過ごすことができた。
然れど転機は、突然にやってきた。
容赦のない日射しが、燁々(さんさん)と照りつけていたある夏の日、学院の課外活動の一環として、地方医務院巡回視察団の一員となっていた私は、休息を兼ねて滞在した村で、折しも恋慕う彼女と出遭う好機に恵まれた。
幅広の麦わら帽子を被った清楚な出で立ちの彼女は、私と遭った瞬間、目を丸くしていたが、
早くも常連客となっていた男の顔を、能く覚えていたようで「あら偶然ですね――」と、咄嗟に背を向けて立ち去ろうとした私に、愛想よく声を掛けてくれた。
そんな彼女の言葉に「偶然ですね――」と鸚鵡返しに答えたのは、失敗だったかもしれない。
極度の緊張によって聞くに耐えない私の上擦った声に、彼女は、何故か腹を抱えて笑った。眥に涙をいっぱいに溜めて「ごめんなさい――」と言いながらも笑う彼女の姿は、唖然とする私の目には不思議に映ったが、楽しそうに揺れる彼女の肩を見るうちに、私も上気したような照れ笑いをして頭を掻いたものだった。
それから束の間の時間、私と彼女は、他愛もない話に花を咲かせた。異性などと安易に談笑に耽る機会になど、差ほど恵まれなかった私にとって、それは実に楽しいひとときとなった。
聞けば彼女は、実家の花屋で売る花を――この地方でしか咲かない珍しい花を――愉々如仕入れにきたのだと言う。故に私は、彼女の為になればと思い、山郭に自生する花の採取を手伝おうと、申し出たのであるが、今にして思えば、それは出過ぎた真似だったと思う。。
しかしながら気立ての良い彼女は、私の見え透いた提案に、心良く同意してくれて、それからの数日間、私は彼女についてジキタリス――という花の採取に勤しんだ。
後で解ったことであるが、彼女と一緒に採取したこの花は、ジギトキシン・ジゴキシンという心臓の収縮を強くする配糖体が、葉の部分に多分に含まれており、主に強心剤の原料として心臓病を持つ患者に対し、有効な治療的効果を発揮する天然の特効薬であるらしかった。
現に私も、村に滞在中に、不整脈に苦しむ村人が、ジキタリスの葉を頻りに噛みしゃぶって急変した容態を何とか安定させた現場に、幾度か遭遇したことがあった。
物資の少ない僻地に住む人間ほど、蓄積させた経験と知識を糧に確然と命を繋ぎ止めている。
その発見に、私は大いに驚き感心した。そして、その事実をもっと早く思い出していれば、心臓病に苦しむ愛する我が子を、容易く助けられたのかもしれない。
思い出せる範囲であるが、リタの母親――エミリアは、当時、遺伝性心疾患を発症していなかった。にも関わらず、強心作用のあるジキタリスを採取していたことは、何処か嫌な未来を予感させるようで、とても鬼魅が悪かった――が、この花の御陰で、彼女と親交を深めることも叶ったのだから、どうにも複雑な気分である。
それに隣国との国境付近に集落を築いていたあの村で、深い疵を負った、名も無き国境守備隊員を彼女と一緒に救ったのも、今となっては、いい思い出だ。
そのような経緯も、後押しとなってくれたのかどうか定かではないが、あの村で別れ、街で再会を果たしたのを機に、私とエミリアは、自然と付き合うようになった。
とても幸せな一年を過ごした。
膨大な学院の履修科目に忙殺されていた私であったが、二日に一度は彼女が待つ花屋へと足を向け、濃厚な逢瀬を交わした。彼女が口にする「いらっしゃいませ――」という言葉は、「今日も来てくれたわね――」という確かな親密さを窺わせるものへと変わり、それに合わせて私も気軽に返事をするようになった。
次の約束を取り付けるために、市場で大量の食材を買い込み、彼女の実家の台所を借りて、不得手な料理の腕前を振ったこともあった。
塩と砂糖の区別も碌につかない私にとって料理とは、未知の研究に等しい行為であったが、苦労して仕上げたスープを彼女に飲ませると、彼女は頻りに美味しいと言ってくれて、「今度は、あたしが作ってあげる――」と、次の約束を取り付けるのに、成功するのであった。
当時の私は、大層浮かれていたと思う。好きな人が出来て、その人と肌を重ね合わせる関係にまで発展した私の人生は、まさに絶頂の極みだったのだ。施々(ゆくゆく)は、愛する彼女と結婚して所帯を持ち、幸せな家庭を築くことが、恋にのぼせた私の細やかな人生設計となりかけていた。
そう『なりかけていた――』のだ――彼女が失踪するまでは――。
私とエミリアが付き合い始めてから、ちょうど一年が経とうとしていたとき、彼女は唐突に私の前からいなくなってしまった。花屋を営む彼女の両親に、行方を訊いても首を横に振って知らぬと言うので、私は仕方なく、各地を回って彼女を捜すことにした――が、結局彼女を――エミリア・フリークスを見つけるには至らず、優しげな彼女の面影は、私の記憶の裡に儚い幻となって消えていってしまった。
彼女が姿を消して六年後――つまり四年前、風の噂でエミリアが死んだことを知った。
それまで何の手懸かりも得られず、ほぼ諦めかけていた私の胸懐に、その訃報はあまりにも惨酷に突き刺さった。なぜ悪い報せばかりが耳に届くのだろうと、鼓膜を突き破りたい衝動に強く駆られた私は――気がつけば、部屋の梁に紐を掛け首を吊っていた。
私は一度死んだのだ。
そうして生き返った後、風の噂で耳にした、晩年彼女が暮らしたとされる家に行ってみると、そこには、エミリアにとても良く似たひとりの少女がいた。
それが――リタだった。
当時五歳だったリタは、生まれながらの重い心疾患で、明日とも知れぬ命だった。直ぐにでも治療せねば確実に死んでしまう、という切迫した状況で、私は『恵み深き仔らの庭院』の副院長権限を行使し、何とかリタを孤児院に収容し、保護することに成功した。
それから四年――私は、エミリアの忘れ形見である娘と、月日を共にした。
リタは、母親に似て良く笑い、そして明るい性格の持ち主だった。遺伝性の重病な心疾患を誰の所為とするわけでもなく、常に気丈に振る舞い、笑顔を浮かべる彼女に、私は図らずしてエミリアの面影を重ねていった。愛する人――愛しい人を守れなかった私は、いつしかリタのためにこの命を捧げようと心に決めた。
そして私は、リタの心臓提供者となった。心臓病に有用なジキタリスでも、彼女の小さな胸を襲う症状には、何の効果も発揮せず、最早外科手術による心臓移植のみしか、残された手段はなかったのだ。
だから私は、早急な死を願った。彼女のために、愛する我が子のために、この身を賭して死に遂げなければ、私はきっと『門』の向こう側で、エミリアに遭うことなどできないと思ったから――。
私がリタの父親であることを、彼女は知らない。
教えてしまえば、私が居なくなったとき、彼女はきっと悲しんでしまうから、そう思った。
彼女は、生まれた時分から、父親などという疎ましい存在を知らなかった。知らないのであれば、敢えて教えてしまって、余計な悲しみを与えてやる必要もない。
在ったものが無くなってしまったとき、人間の胸懐には、悲しみと後悔が宿る。感情の発露の一環として顕れる悲しみは、一瞬のうちに消え去ってしまうが、後悔は、人間の心理の奥底に深い爪痕を残す。ほんの数年前に母親を亡くした彼女に、これまで以上の心労を掛ければ、幼くしてリタの精神は、容易に崩壊してしまうに違いない。
後悔とは、謂わば悪性の癌のようなものだ。本人の気付かぬうちに発芽し、肉体を惹いては心腑を蝕む腫瘍のように、時間を掛けては瞑々(ようよう)と、悲しみを忘れた記憶を溶かす。そうして、溶けた記憶の表層に顕れた悲しみは、また新たな悲しみを呼び、人間の心の裡に、いつまでも留まり続ける――永遠に――永遠に――。
私は、リタにだけは、そうなって欲しくなかった。知らないことを知って、傷つき後悔するよりも、知らないままでいた方が、何よりも幸せなときもある。私が父親であることを知らせて、両親を喪った憐れな孤し児として生きるよりも、片親を喪った可哀想な子どもである方が、
遥かに救い様がある――少なくとも、顔も見たことがない馬鹿な父親が、何処かで生きているかもしれない、という微かな希望は持てるだろう。
我ながら身勝手な話ではあるが、私は、これから先も娘に――リタに素性を明かすつもりは
ない。できれば――本当にできればであるが、私が父親であることは、墓場まで持っていかねばならぬ秘匿事項である。私は真実を黙殺する――。
私は現在、孤児院内にあるリタの私室を訪れていた。
『恵み深き仔らの庭院』は、『罪なき聖嬰児たちの塔』が管理運営する孤児院の中でも、唯一小児病棟を併設した医療福祉施設である。
孤児院は、子どもたちの生活拠点となる教会区と、病気や障碍を持つ子どもたちが暮らす小児病棟区に分けられ、本棟から徒歩五分ほどの距離に建てられた此処には、十人にも満たない子どもたちが、副院長である私の管理のもと、日々懇遇な治療を受けていた。
勿論、リタもその一人であり、今日は、彼女の半月に一度の検査日である。
ベッドのうえに上半身だけ起き上がらせたリタは、私が先程渡したティムからの贈り物を、まだ大事そうに胸の前で抱えていた。
「リタ、そろそろ検査室に行こう。その瓶はメルビットさんに渡しておくよ。検査が終わったら直ぐにでも蜂蜜を雑ぜた林檎が食べれるよう準備もしておく――林檎、何個食べたい?」
力弱く握られたリタの手から、小瓶を穆然と取り上げると、彼女は頬を赤らめながら、
「――三つ食べたい」
と小さく呟いた。
私は「判った――」と頷き、彼女を検査室まで移送するための車椅子を準備する。
「よっと――」
彼女の両脇に手を差し込み持ち上げると、その身体は、以前にも況して軽くなっていた。
九歳の女児とは思えないほど軽微と化した彼女の体重に、私は一瞬顔を曇らせたが、直ぐに平素を装い、痩せ細った娘の身体を、展開した車椅子のうえへと恐々然座らせた。
「さあ、行こう――」
そうして彼女を乗せた車椅子を押して廊下に出る――と、不意に、リタが口を開いた。
「ねぇ、ギル先生――先生は、『天国の林檎』ってお話し知ってる?」
「いや知らないな――どんなお話しなんだい?」
窓から差し込む柔らかな日射しに、母親譲りの赤毛を爛々(あかあか)と煌めかせながら、リタは、ほんの数瞬「えーとね――」と真剣に考え込む素振りをしてから、
「これはね――昔お母さんが読んでくれた絵本のお話しなんだ」
と、私の知らないエミリアとの記憶を懐かしむかのように、静かにそう切り出した。
「――昔々のお話しです。あるところに、病気に苦しむお母さんと一緒に暮らす、頑張り屋の少年がおりました。少年は、どんな辛いことがあっても絶対にめげることなく、病気に苦しむお母さんのために、毎日毎日一生懸命働きました――」
そう懸命に語るリタの声は、一瞬の淀みもなく、とても澄んで聞こえた。
「――来る日も来る日も少年は、お母さんの病気を治す薬を買うために、身を粉にして懸命に働いたのですが、一向にお金は貯まりません。どうしたことだろう、と少年は頻りに考えました。すると、ある日のこと、少年が働きに出て家を空けている間に、隣りの襤褸小屋にひとりで住んでいた老人が、少年の家に無断で入り込み、寝込んだ母親の隙を窺って、勝手にお金を盗んでいたことが判ったのです――そう男は、悪い悪い泥棒でした。そのことに気付いた少年
は、咄嗟に機転を利かせて、悪い泥棒を難なく捕まえることに成功したのですが、泥棒は必死に言い訳ばかりして、盗ったお金を返そうとしません。そんな老人の悪びれない態度に、悶々(ほとほと)呆れた少年は、もう二度と同じ過ちを犯さないことを条件に、腰がすっかり抜け切ってしまった男の身体を背負って、隣りの襤褸小屋まで送っていくことにしたのです。その道すがら、老人は己の犯した罪を深く悔いてか、力無く項垂れてばかりいました。そんな腰も抜け、精気も抜け切った老人を、隣りの襤褸小屋まで無事に送り届けると、少年はその中で、ある一枚の地図を目にしました。『これは何だ――?』と少年が老人に問い掛けると、老人は『それは天国の林檎がなる木の場所を示した宝の地図さ――』と正直に答えました。老人が言うには、天国の林檎というものは、それを食べた人間の魂を、安らぎと幸せのある天の国へと導いてくれる、不思議な力を持った果実のことなのだそうです――」
そこでリタは、恬然と一呼吸置いた。
「――言い伝えでは、天国の林檎は、貧しく飢えに苦しむ人々を強く憐れんだ神様が、せめて死後の世界だけでも安心して暮れせるようにと、ここより東の果てに広がる名もない荒野に、
一本だけ生えた古木に実らせる伝説の果実で、老人の襤褸小屋の中にあった古びた地図には、その木の在処が克明に記されているということでした。それからどうしたことか、老人は突然に罪の告白を始めました。老人には、離れたところで暮らすひとりの孫がいて、その孫は不治の病に罹り、今にも死に絶えてしまうそうなのだそうです。今世での治療は極めて難しい病に冒された可哀想な孫のために、せめて安らかな心で天の国へと行けるように、と老人は、旅の行商人から天国の林檎の話を聞きつけ、木の在処を記す地図を手に入れるお金を得るために、仕方なく少年の家に泥棒に入った、とのことでした。老人の罪の告白を聞いた少年は、自分も病に苦しむ母親を持っていたため、悲しみに暮れる男の小さな姿に、深く深く共感してしまいました。そうして涙を流す少年の姿を見るうちに、老人も同じく心を打たれてか、天国の林檎がなる木の在処が記された地図を、少年に譲ると申し出たのです。地図を買ったお金は、元々少年から盗ったお金だったため、林檎を手にする権利は少年にある、と主張した老人は、天国の林檎を探し出して、病に苦しむ母親に、是非とも食べさせてあげなさい、と力強く少年を説得しました。老人の言葉に、少年は暫く考えたすえ、お母さんに林檎を食べさせたい、と決意し、天国の林檎を探す旅に出ました――」
物語の語り部となるリタの声が、そこで少し調子低い(トーンダウン)する。
「――お母さんのことを心に強く想う少年は、旅の途中様々な困難に遭遇しました。しかし生まれつきの頑張り屋さんである少年は、度重なる困難を何とか乗り越え、数年の歳月を掛けて、遂に天国の林檎を見つけ出すことに成功したのです。湧き上がる喜びに心を躍らせた少年は、早くお母さんに天国の林檎を食べさせてあげたいと、急いで家に帰りました――しかし、少年が家に着いたとき、悲しいことにお母さんは、もう亡くなっていました。少年が旅に出た一年後に、拗らせた病をひどく悪化させ、あっさりと死んでしまったのです。大好きなお母さんが死んでいたことに、少年は大いに悲しみました。お母さんのためを思って、天国の林檎を獲りに行ったのに、その所為で、お母さんをほったらかしにしてしまい、死なせてしまったことに、少年は深く傷つき、とても後悔しました。耐え難い絶望を味わった少年は、もう生きているのも嫌になりました――と、そこへ、少年に天国の林檎の在処を記す地図を渡した老人が、突然現れ、絶望のどん底にいる少年に向かって『――天国の林檎は無事獲ってきたのだな。どれワシに寄越しなさい』――と、とても意地の悪い感じで話しかけ、少年から強引に天国の林檎を奪い取ってしまったのです。そう全ては老人の計画通りでした。年老いた男の足では、東の果てにある荒野まで行くことができない、と考えた老人は、病気に苦しむ母親を気遣う心優しい少年の気持ちを利用して、天国の林檎を、自分の代わりに獲ってきて貰おうと計画したのです――」
愈々(いよ)物語も終局に近いのだろうか。昔噺を語るリタの声にも熱が籠もる。
「――卑しい老人の口車に乗せられ、利用されたことに、少年は更に絶望しました。深い深い悲しみのあまり、言葉と声を無くしてしまった少年は、自分のことを騙した老人に、復讐しようとしたのですが、老人が密かに持っていたナイフで心臓を刺されてしまい、少年は敢えなく命を落としてしまいました。計画通りに少年から林檎を奪い取った老人は、それから、とある街に出掛けました。その街には、天国の林檎の噂を聞きつけた、卑しい心を持った、たくさんの人たちが集まっていて、少年を殺した老人は、そんな人々の前で天国の林檎を、堂々と見せびらかせ、大いに自慢しました――すると、どこからともなく、一本の矢が老人の心臓を目掛けて飛んで来て、それに胸を貫かれた老人は、あっけなく死んでしまいました――そして、それを合図に、老人の周りに集まっていた、たくさんの人たちが、天国の林檎へと一斉に群がり――そこで凄惨な争いが始まったのです。卑しい心を持った人々は、我も我もと天国の林檎を一度は手にするのですが、次の瞬間には、別の人間に殺されてしまい、殺しては奪い、奪っては殺す、といった負の連鎖が国中に広がっていきました。そうして長い年月を経て、食べた人間の魂を、天の国へと導くとされる林檎を巡る醜い争いは、とある一人の兵士が、それを手にしたことで漸く終わりを迎えることができました。たくさんの人間の血で、その手を汚した兵士が、天国の林檎を食べて、本当に天の国に行けたのかは、誰にも分かりません。それとも、天国の林檎は、本当に実在したのでしょうか――それもまた昔々のお話しです――おしまい」
「それで終わりかい?」
「うん――」
リタが語り終えた昔噺の結末に、私は少々拍子抜けしてしまった――というよりも、何だか酷くすっきりとしない話だった。
最終的に天国の林檎は、名も無きひとりの兵士のものとなったが、それ以降は、どうなったのか判らず仕舞いである。剰え天国の林檎が実在したか、どうかさえ疑うような物語の結尾に途轍もない違和感を感じざるを得ない。昔噺の役割とは、偏に教訓的な事理を、後世の人々に突き付けることにあるはずだ。この物語には、悲劇的な遣り取りと、漫然に見え隠れする卑賤な人間の心理以外に、取り立てて耳を貸す要素など、微塵も介在していなかったと思う。
出来の悪い幼稚な昔噺に、それでも耳を貸せたのは、リタが、優秀な語り部だったからだ。
「――ギル先生は、最後に林檎を手に入れた兵士は、ちゃんと天国に行けたと思う?」
歪曲した私の心の裡を知ってか知らずか、リタは、飽くまで兵士が、天国の林檎を食べた、という前提で、私にそう問い掛けてくる。
私は、暫く考え込む振りをして、
「――林檎を食べた人の魂を、天の国に導いてくれる、という伝説が本物なら、林檎を食べた兵士は間違いなく天国に行けただろうね――」
子ども向けの昔噺だと思って、当たり障りのない言葉を選んだつもりだった。
すると、私の答えを聞いてリタは、
「そうかなぁ――」
と、穆々(コトコト)と揺れる車椅子のうえで、小さく首を傾げた。
「このお話しに登場してくる人たちって、少年以外みんな悪い人たちばかりでしょ。天国の林檎を荒野の古木にならした神様も、悪い人たちのことは絶対に許さないよ。他の人たちを傷つけてまで、林檎を欲しがる人なんて、絶対に地獄に送っちゃうと思う。それに神様が、天国の林檎をならしたのは、飢えに苦しむ人々のためであって、悪い人たちのためじゃない。天の国に受け入れるべき人たちじゃないことは、神様だって十分に判っているはずよ――」
「でも、伝説が本当なら、林檎を食べた人は無条件で天の国に行けるんじゃないかい? 神様も馬鹿じゃないなら、林檎を巡って悪い人たちが、地上で争い合うこともきっと予知していたはずだ。それなのに、荒野に生えた古木に林檎をならしたのは、食べた人なら誰でも天の国に行けますよ、という神様なりの優しさなんじゃないかな?」
子ども向けの昔噺の解釈に、縷々(つらつら)理屈を捏ねてしまった。リタも色々と思案しているようで、車椅子のうえで頻りに「う~ん」と唸ってから、
「ギル先生の言う『優しさ』ってなに?」
と、新たな問いを投げ掛けるのだった。
「先生は、天国の林檎に込められた不思議な力が、神様の優しさだって言いたいんでしょ? それは解るわ――でも、それって善い人と悪い人の行いを、神様は分けてないってことだよね」
「――慥かに、人の魂を天の国に導くのは、天国の林檎であって神様じゃない。神様は、ただ契機を与えているだけで、地上での行いによって、瞭然と人間を選別しているわけじゃないね」
「そうでしょ――だから神様のやっていることって、ひどく無責任だと思うの」
リタは、明らかに昂奮していた。私との議論に熱が入ったのか、今にも車椅子を蹴って立ち上がりそうな勢いである。
「人のやることって、人によってそれぞれ違うでしょ。善いことをする人もいれば、悪いことをする人もいる。それって当然のことだと思うけど、本当はそうじゃないのよ。神様はきっとそこを解っていなかったんだわ。人が悪さをするのは、人の心が、まだまだ未熟だっただけ。
善いことと、悪いことの線引きが曖昧になったとき、未熟な心は悪い方に傾くのよ。私が話した昔噺だって、天国の林檎なんて能く解らないものが存在したから、起こった悲劇じゃない。人は神様に騙されていたのよ――」
「――つまりリタは、兵士が天国の林檎を手に入れる以前に、天国の林檎自体がなかったと言うのかい?」
「それは解らないけど――でも、お話しの最後にもあるじゃない。『天国の林檎は、本当に実在したのでしょうか――』って。昔噺を作った人が、林檎はあったことにしてお話しを作ったのなら、天国の林檎は『あった』でいいと思う――でも、わざわざ疑問を残すような終わり方にしたのは、『なかった』とも言えるはずよ」
「なるほど――」
リタの鋭い指摘に、私は独りでに頷いた。
「それに考えてもみて。天国の林檎が不思議な力を持っているって、どうして解るの? 天国の林檎のことを、人々に見せびらかせて争いの種を蒔いたのは、卑しい心を持った老人だけど、それを男に吹き込んだのは、旅の行商人でしょう? 物語の中には、ほとんど出てこないけど、林檎のことを一番良く知っているのは、間違いなくその人よ――なら、その人こそが一番悪いひと――ううん、神様なのよ」
「旅の行商人が、神様だって?」
リタの想像力の豊かさに、私は脱帽した。思わず頓狂な声を上げて、彼女の調子に合わせてしまったが、真面目な声で語続けるリタの邪魔をせぬようにと、俄然と唇を引き結んだ。
「天国の林檎が、本当に不思議な力を持っていたと知るのは、旅の行商人だけ――だって、それ以外、天国の林檎が、神様によって作られたなんて信じられないもの。作った本人が言うのであれば、そこに何の疑いもないわ――そう考えると、天国の林檎は、食べた人の魂を天の国へと導くことに、間違いはないの――」
「それじゃあ、先生の意見に賛成ってこと?」
「ううん――」
そう私が訊くと、リタは目下で小さく頭を振った。
「もし林檎が『なかった』のなら、争いなんて起きなかった。でも『あった』のなら、神様は起こさなくてもいい争いを起こした、一番悪いひとになる。人の心は未熟だから、悪い方へ傾き易いけど、善いことにも確然と、寄り添うことができる。神様はそれを忘れて、死後の世界にだけ希望を持たせようとした。だから争いなんて失敗が起こったのよ。神様が、本当にしなくちゃいけなかったのは、未熟な人の心を、ちゃんと成長させること。それには、瞭然とした曖昧さを持たない善悪の区別が必要なの。神様が、もし地上で争う人たちのことを、どこからか見ていて、そのことに気付いたのなら、悪い行いをした人は、絶対に天の国には、行かせないはずよ――だって未熟な心を持った人の世界でも、悪い人は悪いって除け者にされるもの。神様がそうしない理由はないわ――ううん、そうしないと可笑しいもの」
「神様は、人の模範となるべき――か――」
「模範ていう言葉の意味は、能く解らないけど、神様が確然すれば、人間も確然すると思う」
そうして私が何気なく吐いた言葉に、リタは俄に賛同するかのように、うんうんと頷いた。
「結局、長い争いの末に林檎を手に入れた兵士は、天の国に行けなかったとわたしは思うの。
悪いことを、悪いと判断できずに、たくさんの人を手にかえた兵士の罪は重いわ――喩え天国の林檎を口にしたとしても、神様の思惑とは違う結果に絶対なるはずよ。この物語は、善意の欠片もない愚かな人々の心を、神様が試す物語なの――そして誰も天の国には、行けない物語なんだわ」
「それはお母さんのために、天国の林檎を獲ってきた少年もかい?」
「うん――少年は、この物語の中に登場する唯一の善い人だけど、飢えに苦しむ人々を神様が憐れんだ時点で、天の国に行けないことは解っていたわ――だって、死後に希望を持たせるために天国の林檎を作ったのよ――それはつまり、天国の林檎を食べなければ、天の国に行けない、ということを言っているのと同じだもの、結局、神様は誰も救う気なんてなかったのよ」
中々に辛辣な物言いである。九歳の女児とは思えないほど達観した論説に、私は自然と言葉も出なくなっていた。
そうしてリタとの濃密な議論を展開しているうちに、目的としていた検査室の前まで、いつの間にか到着していた。清潔な白を基調とした扉を要する部屋の前には、数名の看護助手たちがいて、私たちふたりの到着を今か今かと待ち侘びていた。
そのうちのひとりが近づいてきて、
「ギルバート副院長、リタちゃんをお預かりします」
と言って車椅子の押し手を、私の手から奪い取ると、さっさとリタを連れて検査室の中へと消えて行こうとした――すると、その寸前に、リタが私の方を振り返って、
「ギル先生、またね――」
と、少し寂しそうな面持ちをして、私にそう言ったような気がした。
※
私の一日は、私物と化した実験室から始まる。
眠気に揺れる重い足を引き摺って、これまた重い金属質の扉を潜ると、嗅覚過敏症を患う私の鼻腔は、異様な匂いを瞬時に嗅ぎ取っていた。
その何とも形容し難い悪臭は、私が行う凶行的な実験の副次物である。様々な薬品から漂う刺激臭をはじめ、嗅ぐ者が嗅げば、そこは容易に嘔吐感を催す多彩な臭気で満たされていた。
最も酷いのは、私の実験に供する被験者の身体である。大概にして気にはしていないが、彼の痩せ衰えた矮躯は、此処に来て一度も拭浄していなかった。外界から瞭然と隔絶された陰気なこの場所には、私とティムのふたりしか訪れないため、ただ黙々と椅子に座る彼には、清潔さを保つ義務はない、と感じたからだ。勿論、昏睡状態の――正確にはそうではないが――彼の意思に反して、このような非人道的実験に、その身を借りているこちらとしては、彼の人格を尊重するための、最低限の『待遇』を提供する必要もあるかとも考えたが、それを実行する有機的理由と、時間的余裕を考慮して、そのままとすることにした。故に、幽鬼のように眠る彼の身体は、見るからに垢だらけであった。
なので、皮膚の老廃物が作る匂いは、何とか我慢できた――というか慣れた。しかし問題は、
下の匂いである。
生理的に排泄される汚物の匂いというものは、流石の私でも、一寸耐え難いものがあった。
殊更に意識を亡くしている彼の場合、受動的に吸収できる栄養と謂えば、痩せ細った腕に装着した点滴から取れる僅かな熱量だけである。消化機能及び、大腸の活動は、疾うの昔に停止しているため、便こそは出ないが、腎機能は生きているので、尿は出た。
これがまた、途轍もないアンモニア臭を放った。堅固に萎縮した膀胱は、僅かな量の尿でさえ、その嚢中に留めておくことができず、直ぐに尿管を通って排泄に至るから、事前の徴候が全く読めない。溶々(だらだら)と垂れ流される排尿の波に、実験の中断を何度余儀なくされたか、解ったものではない。そうなる度に、彼が身を預ける医療用チェアの周囲には、黄色い泉が滾々(こん)と出来上がる始末である。まるで家畜の世話をするような、閉塞的な気分になるので、私は急遽、排泄物を自動的に処理できる装置を開発し、彼の尿道をその管で塞いだ。
それからは、一切、刺激を伴うアンモニア臭はしなくなった――が、次に少しだけ気になったのは、頭蓋を切開した被験者の脳から立ち籠める異臭だった。それは極めて鼻を突く、所謂生臭さであろうか――と言っても、鮮魚が発する生臭さとは異なり、もっと動物的な臭さとでも言おうか、敢えて喩えるなら――そう、数日間放置した卵が放つ臭い――腐敗臭に近かった。
慥かに、脳死状態にある彼の脳細胞は、その殆どが死滅しているため、既に自己融解の段階に入っていてもよさそうなものだが、彼の死は、正式にまだ確定していないので、刻一刻と崩壊の段に入る細胞を、私は俄に誤魔化す手段を色々と講じていた。
だから、これは断じて腐敗臭などではないが、それに近いものは感じた。
体臭とも、臓器臭とも知れない、何とも出鱈目な匂いを脳の奥に犇々(ひしひし)と感じながら、私は、生命維持装置に繋がれた彼の身体に近寄っていった。
朝一番に目にする彼の面長な顔は、実に辛気臭く見えた。脳内にあるはずの人格――魂を空の彼方へ遣ってしまった彼には、胸の裡に秘めた感情を、表に顕す手段が殆どない。茫然と口から涎を垂れ流し、虚ろに宙空を凝視する瞳は、まるで本当の死人のようである。
彼は歴然とした『死の過程』にあった。人間死するときは、一瞬のときもあれば、緩やかに死ぬときもある――彼の場合は、まさに後者だ。人間は死んだら骸となるだけ――と言ったのは、誰だっただろうか。慥かに魂の不在が、肉体の消滅を証明するのであれば、それは事実当たっているのかもしれない。現に彼の肉体は、此処にあるのだから、魂の不在を決定づける証拠は何もない。何もないのだ、今のところは――。
頭頂部のみを、大胆に露出させた脳には、生体監視記録装置が接続してある。それは今現在も問題なく稼働しており、彼が潜在的死の象徴を――つまり夢として顕れる『門』を、臨死体験として脳内映像に捉えれば、微弱なその脳波は、確実にレム睡眠時に発生する脳波と同調するはずである。
それを実現するためには、生体監視記録装置の針を振らせなければならない――そして、さらに言えば、死の淵を彷徨う彼の背中を、軽く塡然と押してやる必要があるのだ。
私の実験を補佐してくれたティムの姿は、今日はない。『罪なき聖嬰児たちの塔』が半年に一度主催する中央医学審議会に昨夜から出席しているためだ。
故に今日の実験は、私ひとりで執り行うこととなるわけだが――まずは、彼の呼吸を代替している生命維持装置の主力電源を切ることにする。
部屋の中央付近に鎮座する医療用チェアから、三歩離れた距離にある摩擦発電機に近づき、その電源に指を掛けた。一・二――と心の中で、入念に数を数え電源を切る適当時宜を見計らう――そして、三――と同時に指を僅かに動かすと、間もなくして、密閉された空間に響いていた喧しい機械音は、寂寞と静かになるのだった。
そうして、人工的に補完されていた彼の呼吸は、途端に止まり、心臓の音も俄に聞こえなくなる。辺りには、実験の経過を見守る私の息を呑む音と、生体監視記録装置が発する、無音に近い落書き音しかせず、スゥ――と無抵抗に紙の上を走る探針の音を耳にして、やはり今回の実験も失敗か、と肩を落としかけたところで――微細な変化が起こった。
最初は、一匹の小さな蚯蚓が、凹凸のない紙の上をのたうち廻っているのかと思った。それまでは、一本の直線が、単調な調子で黒い線を永延と描き込んでいくばかりであったのだが、敢えて良く注視してみると、微かに先端の針が振れていることに気がついた。
それは次第に判然とした規則性を持ち始め、軈ては、一般的に脳波と解るほどの振幅を示すようになっていった。
――脳死状態にある被験者が、夢を見始めているのだ。
途端に顕れたその徴候に、私は、ほんの数瞬狼狽えた。念願としていた成果が、まさかこんな形で唐突に顕れるとは、夢にも思っていなかったからだ。勿論、実験の成否に関わらず、ある程度の心構えはしていたつもりであったが、不意に虚を突かれた所為か一瞬茫然となる。
が、待ちに待ったその瞬間を、具に観察せねばと我に返り、呆けた精神に鞭を打って、被験者の脳波が刻々と記されていく記録用紙を手に取った。
それはやはり、レム睡眠時に発生する脳波に能く似ていた。
小さくはあるものの、緩やかな山渓を連続的に反復するように、小刻みに針は揺れている。ゆっくりと、しかし、しっかりと揺れ動く針を見て、私は、実験の第一段階の成功を確信した。
彼は、慥かに夢を見ているのだ。疾うの昔に脳死状態となり、人格は疎か魂すらも無くした憐れなこの男は、臨死体験としての夢を見ている――つまり『門』の前に立っているのだ。
それが解った瞬間、私は、彼の人格――魂が、私より先に『門』を潜ってしまうことを、僅かに懸念した。そのため、彼が見ている夢を、追体験するための準備が、まだ整っていなかった私は、ここで彼を死なせては元の木阿弥だと思い立ち、切っていた摩擦発電機の電源を、直ぐさま『入』の状態とし、死に瀕している被験者の早急な蘇生を試みた。
また、あの喧しい機械音が密閉された室内に鳴り響いていく。
そうして、やおら息を吹き返した生命維持装置が、元の機能を取り戻すのと同時に、被験者の胸部が上下するのを確認して、私は思わず一息吐きそうになった。
人工心肺によって、生命活動を著しく補完している、彼に対する実験の『遣りすぎ』は、即座に失敗を意味する。過度に『遣りすぎた』ことによって、彼が死んでしまっては、私の念願はあと一歩のところで叶わなくなってしまう。それは即ち、リタの死に繋がるのだ。だから気をつけねばならない――しかし、次にその徴候が顕れたときこそ、実験の最終段階に入ろう、などと考えながら、被験者に近づいていくと、見開かれたその眥から一筋の涙が流れていることに気がついた。
意識の消失した脳死患者が流す涙に、私は不思議と、おや、と興味を惹かれ、気がつけば、まるで吸い寄せられるかのように、自然とそれを採取していた。眥に溜まる涙の雫をスポイトで掬い、シャーレに移すと、何処からか仄かな花の香りを鼻腔に感じ、私は、硝子のうえに広がる小さな水滴の址を、呆然と見詰めるのであった。
※
昼過ぎ、私は街中にいた。機関の職務で多忙を極めていた私は、午前中だけ『恵み深き仔ら(エヴェル)の庭院』を訪れ、そこで暮らす子どもたちの健康と、生活を監督することにしていたのだ。
今はその帰り道である。
院からの道すがら通る街中は、埋葬都市と名打つだけあって、終始昏く淀んだ空気に包まれていた。都市名のシャルニエとは、その名の通り『納骨堂』を意味する。故に、街の彼方此方には、地下へと繋がる横坑が無数に空いており、ふとすれば、容易に迷い込んでしまうこと請け合いである。街の背景は、百年ほど前に栄えた鉱山都市を基礎として出来上がっているため区画整理などは、一切行われておらず、古き石造りの家々が、今でも雑然と建ち並んでいた。
嘗て隆盛を誇った鉱山都市――元の名は、ロマンティック・ルインズと言ったか――からは、『銀瓏石』と呼ばれる不可思議な鉱石が、大量に採れたそうだ。
街に残された文献によれば、その石は、水晶の輝きにも増して、絢爛な眩い光を放つ銀色の鉱石で、精錬具合によっては、あらゆる病気を治癒させるほどの霊薬となり、遥か古の時代から、この土地で暮らす人々に、広く持て囃されていたそうである。
輝ける夙夜の(レゼンディア)王国の最東端に位置した、嘗ての鉱山都市は、そんな魔法のような――医療従事者にとっては、疑わしくも怪しい――鉱石を頻繁に採掘することによって、国の一大産業を担う大都市として、一夜の繁栄を謳歌したのであるが、往々にして相次いだ乱掘と、狡猾な闇業者の暗躍などによって、稀少な鉱物資源は、次第に枯渇していき、僅か十年と保たずして、都市は滅んでしまった。
ほんの五十年ほど前までは、この街は、本当の『死の街』だった。
その当時、国教たるセルヴィス教を後ろ盾に発足した『罪なき聖嬰児たちの塔』は、活動拠点となる土地を探し求めていた――そんな折り、嘗て鉱山都市として荒廃するに至った街の噂を聞きつけた上層部は、この土地の最も高い場所に、一棟の塔を建てることによって、福祉医療機関としての前身を、国中に喧伝するに至ったのである。
当時から続く『罪なき聖嬰児たちの塔』の活動方針は、主に三つある。
第一に、『罪なき聖嬰児たちの塔』は、医療機関としての命を忘れず、医療奉仕の精神を違えることなく、それに従事すること――つまり社会福祉に貢献せよ、ということ。
第二に、『罪なき聖嬰児たちの塔』は、医療を以て人命を救うことを善しとし、これを以て人々の生活と安寧を守ること―つまり人命の尊重による社会保護の実現。
第三に、『罪なき聖嬰児たちの塔』は、奇しくも人命を無くした者たちのために、安穏たる眠りを保証する、永住の地を須く提供すること――つまり死体埋葬の請負い、である。
第一、第二項だけであれば、凡そ如何なる土地に於いても、何の問題もなく発足できたかと思う。しかし『罪なき聖嬰児たちの塔』にとって肝要となるのは、第三項をも揃えた活動方針の確約であり、それが容易に叶う用地として有力だったのが、嘗て滅んだ鉱山都市、その跡地だったのだ。
第三項の要約――つまり死体埋葬の請負いの根幹には、『罪なき聖嬰児たちの塔』が推進する、とある計画の存在があった。
その名も『共葬墓地計画』――である。
共葬墓地計画――とは、何とも大仰で大層な名ではあるが、これは所謂ひとつの都市を丸々利用した広大な集団墓地を建設しようと画策された都市構想の一環だった。
五十年前の世相とは、推して量るべきところも多々あるが、地方では、諸々の事情により死者を埋葬できない地域が多分にあったそうだ。
それは習俗の所為か、地域性の所為か、将又風俗の問題か、能くは解らないが、当時、国の彼方此方には、埋葬されなかった死体が溢れ返っていたそうである。
それはまるで、数年前にこの国を襲った、大飢饉の余波に匹敵するような有り様だったようだ。軒に棄てられた死体は、軈て腐るのが道理であり、漂う腐臭は、健やかなる国の土台を揺るがすのに、差ほど時間を掛けなかった。そのままでは、それこそ国は立ち行かなくなってしまうところに、白羽の矢が立ったのが、『罪なき聖嬰児たちの塔』であり、この土地であったのだ。
『罪なき聖嬰児たちの塔』は、朽ちた鉱山都市の跡地を、巨大な墓地として開拓することによって、国中に氾濫した死体の受け皿とすることにした。
そして嘗て多くの労働者が、汗水垂らして掘削に励んだ坑々は、今や多くの死者が眠る地下墓地となって、国中に猖獗する不浄を集める役割を一身に担っている。
この街が、『埋葬都市』と呼ばれる由縁は、まさに其処にあったのだ。
道を行けば死体に――基い死体運搬人に当たる――というのが、この街での定説だった。
余所の土地から埋葬できなかった、或いは、されなかった死体を、『罪なき聖嬰児たちの塔』に雇われた死体運搬業者が、郊外に建設された死体集積場――通称『霊柩堂』まで運び、荷下ろしをして帰る、というのが、いつもの光景だった。
この街に埋葬される死体の九割は、外部から遣って来るのだ。街には、殆ど人間は住んでいない。住んでいたとしても、殆どが、『罪なき聖嬰児たちの塔』の関係者か、その家族である。そして、例外的にではあるが、外部から運ばれてきた、死体の身内――遺族もいた。
丁度、通り掛かった建物の前に、それらしき人影があった。
女性である。歳の頃は、五十代ぐらいだろう。酷く窶れた面持ちをした、何と言おうか、幸の薄そうな気配を要した年配の女性は、頻りに――と言うよりも、呆然とある一点を見詰めてその建物の前に座り込んでいた。
生気の欠片も無い、呆けた視線の先を何気なく追うと、そこには、歳若いひとりの女性の姿があった。
二十代前半と覚しきその女性は、気品の良さそうな顔をして、か細い指先を肚のうえで組んだ状態で、静かに目を瞑っていた。しかし彼女は、決して眠っているわけではなく、その証拠に、ふくよかに膨らんだ、ふたつの丘陵は、一切寝息を立てていなかった。
そう彼女は、既に死んでいたのだ。
差ほど背の高くない肢体を、真っ直ぐに伸ばした彼女の亡骸は、樫の木でできた朱塗りの棺桶に入れられ、衆目に曝すが如く、建物の壁際に、悄然と立て掛けられていたのである。
そこは死体公示所と呼ばれる公共施設の前だった。
埋葬都市を大々的に謳うこの街において、死体公示所は、少々異例な場所である。
白い煉瓦で設えた、小さな襤褸小屋のような建物は、国教神セルヴィスの教えに背き、赦されざる罪を犯した者の死体を、衆目のもとに曝すことを目的として設置された、謂わば見世物小屋のような役割を果たしていた。
それというのも、国民の七割にも及ぶ信心深い信徒を抱えるセルヴィス教は、非常に厳格な宗教と目され、定められた戒律を違反した者には、過酷な厳罰を課すことを、善しとしているからだ。
察するに、死体公示所の前に安置された女は、心中自殺を図ったものだと断定できる。
なぜならば、死体がある建物の色が、貞淑を顕す白だったからだ。
セルヴィス教は、信徒が犯す罪を、一目でそれと解るように、色分けするのが特徴だった。
赤は殺人。青は窃盗――というように、一瞬で罪人が犯した過ちを、他者が一目で判別できるように仕向けられた、この仕組みは、実に効率能く信徒の間に浸透している。故に、それに当て嵌めれば、白は姦通か、若しくは男女心中を顕す色なのであるが、女の死体が一つ曝されていることを考えると、心中であることが察せられた。
姦通の場合は、命までは失うことはない――まぁ、ほかの要因も考えられるが――しかし、男女心中の場合、死体運搬人に回収された死体は、男女とも分けられて運ばれてくる。戒律に違反したのだから、死後の身体も、一緒にしておくことは許されず、離して街に持ちこまれた死体は、別々の場所で、罪人としての烙印を押され、見せしめのような形で、その亡骸を曝すことを善しとされていた。
きっと、この街のどこかに、うら若き女と、死を共にした男の亡骸が存在するはずである。
そうして微動ともしない女の死体を前にした、年老いた女もまた微動ともしなかった。
棺の中で眠る女の親族と覚しき女は、悲しんでいるのか、哀れんでいるのか、能く解らない顔をして、死体をいつでも見詰めていた。
虚しいことをするな、と声を掛けて遣りたかったが、そんな詮ないことをしても無意味だ、と思い直した私は、無言で彼女らの傍を通過しようと歩みを進めたとき、ふと何処かで嗅いだことのあるような匂いが、鼻腔の奥に広がったような気がした。
気の所為かと思って周囲を見回すと、女の死体が横たわった棺桶の中に、見たこともない花が満杯に敷き詰められていることに気がついた。
きっと、それが臭いの元なのだろう、と思ったが、果たして、その香りを何処で嗅いだのか思い出すことができなかった私は、雲行きが怪しくなった空を見上げながら、先を急いだ。
※
「先生――ねえ、ギル先生――」
茫然とした意識の隅で、私の名を呼ぶリタの声がした。
「どうしたの? 先生、検査終わったの?」
「あ、ああ――終わったよ。服を着なさい――」
私は、慌てて止めていた手を動かし、検査のために服を脱いでいたリタに、そう促した。
「ギル先生、どこか気持ち悪いの? なんかぼうっとしてる」
「あ、いや、すまない。何でもないんだ。少し考えごとをね――」
「考えごと?」
九歳の娘に体調を気遣われたことに、少々気恥ずかしくなった私は、それだけを言って愛想笑いを浮かべた。
私のその言葉に、リタは、「ん――?」と愛らしく疑問を浮かべていたが、それ以上口を開きたくはなかったので、私は黙っていた。
死体公示所で、女の死体を見てからというもの、私の鼻腔の奥には、そこで嗅いだ名も知らぬ花の匂いが、永延と広がっていた。
その胸の焼けるような甘い匂いは、確かに何処かで嗅いだ覚えがあった。
しかもつい最近にである。しかしどうにも記憶が不明瞭で、何処で嗅いだのか判らず、リタに呼び掛けられるまで、私はそのことばかりを考え耽っていた。
別段、その匂いは、何と言うことのない、ただの花の香りであるのだが、どうにも気になって仕方がなかった。私の傍には、匂いの元となる花は、何処にもないにも拘わらず、鼻の奥には、いつまでも芳しい香りが漂っている。そのことが至極不思議でならなかったのだ。
匂いは記憶に直結している、と言われるが、何処で嗅いだ匂いなのか、思い出せない時点で、その理論は、私の中で既に偽証の論理と化している。いったいこの匂いは、何なのか、と私は非常に落ち着かない気持ちでいっぱいだった。
「――ねえ、ギル先生。先生は、お花に詳しい?」
私の指示に従って服を着終えたリタが、唐突に、そんなことを口にするので、私は思わずどきりと表情を強張らせた。
「――どうして、そんなことを訊くんだい?」
まるで私の心中を読んだかのような質問に、私は恐る恐る問い掛ける。するとリタは、少し嬉しそうに、
「うーんとね、ジキタリスってお花のこと知ってるのかなぁと思って」
と、私のとって久しくも懐かしい、思い出の花の名前を口にするのだった。
「ジキタリス――勿論知っているよ」
それは、リタの母親であり、私の恋人であったエミリアとの出遭いをくれた花のことだ。
真っ直ぐと伸びた一本の茎に、幾つもの鈴のような花弁を垂らした桃色の花を追って、私とエミリアは、山間にある深い森に何度となく入り浸り、時には群生地も見つけて、彼女の生家である花屋のために、ジキリタスの採取に勤しんだことは、昨日のことのように、直ぐにでも思い出すことができた。
あの時のエミリアの顔も、声も、仕草も能く覚えている――懐かしい。
しかし、どうしてリタの口から、その花の名が出たのか疑問を投げ掛ける前に、リタが答えた。
「ジキリタスってね。お母さんとの思い出の花なの」
「えっ――」
私は、再び茫然とした。
「お母さんが生きていた頃にね、ピクニックにいったんだ。暑い暑い夏の日で、いっぱい汗が出たけど、一生懸命頑張って、住んでた村からずっとずっと遠く離れた山まで歩いて行って、そこでお母さんと一緒にお花摘みをしたの。ピンクや白の綺麗なお花がいっぱいあって、それからお母さんは、誰にも内緒よって言って、森の中にあるお花畑に連れてってくれたの――」
そこって――まさか、
「ジキタリスの花畑――」
「うん、そうだよ。まるでピンク色の鈴をならしたみたいな可愛らしいお花が、そこら中にあって、まるでお花の絨毯みたいだった。綺麗だったなぁ。お母さんと手に抱えきれないほど摘んで、村のみんなに配りましょうねってお話ししたっけ――そうだ、お母さんこうも言ってたっけ。このお花畑は、お母さんの大好きな人と一緒に見つけた場所なのよ、ここに来ると綺麗な思い出が、いつまでも色褪せることなく咲き続けられるの。だからこの場所をよく覚えておきなさい。私がリタの前からいなくなっても、ここに来れば思い出の中で、また会えるからって――」
そう大切な思い出を懐かしむリタの声は、そこはかとなく悲しい響きを孕んでいた。そして私は、期せずして愛する人がまた、私との思い出を大切にしていてくれたことに、心から切なくなった。
突然に行方を眩ませた彼女は、決して私のことを忘れたかったわけでも、嫌いになったわけでもなったのだ。身重の体に鞭を打つように消え、ひとりの子を産み落として猶、彼女は、私のことを好きでいてくれた。それが解っただけでも、私は、とても嬉しかった。
「――だからね、先生。わたし病気が治ったら、あのお花畑に行くんだ。行ってね、お母さんに会うの――ううん、お母さんを見つけるの」
「お母さんを見つける? どういうことだい?」
そう高らかに宣言するリタの心意が、全く読み取れず、不意に沸いた喜悦は一瞬で霧散した。
リタには、何か思惑があるようだっだ。少々暗い面持ちとなった彼女は、静かに、然れど確然とした調子で言葉を紡いだ。
「先生には、まだ話してなかったけど、お母さんが死んでしばらく経ってから、死体運搬人って名乗る人がふたり、おうちを訪ねてきたの。その人たちは、死んだお母さんの身体を引き取って供養してくれる、お国の遣いだって村の人たちは言ってたけど、わたしは何だか怖かった。お母さんと離れ離れになるのも、怖かったし、その人たちにお母さんを渡したら、どうしちゃうんだろうって考えると、渡しちゃいけない気がして、いやって言ったんだけど、村の人たちが、ここにお母さんを置いておいても、可哀想だから埋めてあげなくちゃね、って言われて、ほんとはいやだったんだけど、お母さんをその人たちに渡すことにしたんだ――」
リタの言う死体運搬人とは、『罪なき聖嬰児たちの塔』と個別に契約を交わした個人業者のことである。
彼らは、定期的に各町や村々を廻り、あらゆる理由で、その土地に埋葬できなかった死んだ
人間の亡骸を、金と引き換えに回収することを生業としていた。彼らの賃金は、回収した死体一体につき支払われる『埋葬税』なる税金のもと、賄われている。埋葬税とは、この街、埋葬都市シャルニエに、亡骸を埋葬する際に掛かる費用のようなものであり、自治領として国から独立している、この街にとっても、貴重な収入源なのである。
独立主権を獲得したとはいえ、この街そのものは、常に押し寄せる貧しさと隣合わせだった。
埋葬そのものは、ほぼ慈善事業に近い形を取っているがために、近親者を亡くしたばかりの民草から、多額の金銭を要求できずにいるのが、この街の現状であり、早急に解決せねばならない問題でもあった。
故に、街を統治する『罪なき聖嬰児たちの塔』は、各地方を廻る死体運搬人に、より多くの死体を回収してくるように命じ、可能であれば、埋葬税の適時上乗せも行うようにとの布告をだし、積極的な税金の徴収に乗り出している。
リタのもとに訪れたふたりも、そんな運搬業者の一員なのだろう。『罪なき聖嬰児たちの塔』との契約により、死体を集めれば集めるほど、彼らの利益も増すと聞く。なれば我先にと、目新しく死んだ亡骸に群がるのも、当然と言えば当然の成り行きだった。
しかし、エミリアの死体が、ハイエナの如く鼻の利く彼らに、回収されていたとは、至極残念極まりなかった。
できれば、エミリアの墓を訪れてみたかったのだが、それは叶いそうもないようだ。
私は、内心肩を落としてがっかりとしてみたが、しかしリタの考えは違った。
「先生、わたしね、お母さんのお墓を、お母さんが連れてってくれたお花畑に建てたいの。それには元気になって、死体運搬人って人に、連れていかれたお母さんの身体を、探さなくちゃいけないの。だから先生、絶対に、わたしの病気を治してね」
動かなくなった私の手を取って、リタは力強くそう言った。
私のことを真摯に見詰める彼女の瞳を見返して、私はまたもや切ない気持ちになった。
彼女は――リタは、まだ母親との再会を信じているのだ。何処にあるとも知れない母親の亡骸を取り返して、墓を建てる、それが彼女の願いであり、生きる理由でもあるのだ。なのに私ときたら、愛する人との再会を、心中で勝手に断念し、勝手に諦めていた。急にそのことが恥ずかしくなって、柄にもなく私は目尻に涙を溜めていた。
「どうしたの、先生? やっぱりどこか気持ち悪いの?」
そんなみっともない私の姿を前に、リタは優しく私のことを気遣ってくれた。
それもまた嬉しくなって、私は、
「リタ、君の病気は絶対に私が治すよ。そして君は、絶対にお母さんのお墓を建てなさい」
と言って、鼻を啜るのであった。
※
実験室に戻ると、そこにはティムの姿があった。
「ティム、会議は終わったのかい?」
私が入ってきた扉に、漫然と背を向けていた彼に、そう声を掛けるとティムは振り返って、
「ああ、今日の午前には、こっちに帰ってきていたよ」
と言った。
「そうか――今回の会議では、何かめぼしい発表はあったかい? 前回の会議では、『埋葬派』所属の埋葬学士が、永続的死体保存技術の構築を題材に、実験内容を中途発表していたじゃないか。その後の進展はあったのかな?」
部屋の中央にいる被験者の様子を横目で確認しつつ、何やら手に持っていた実験器具を弄くっていたティムは、私が、何気なく振った話題に真面目に答えた。
「いや、進展も何も、今回の会議には出席していなかったな。彼の実験の進捗状況に関する噂もなかったし、失敗でもしたか、然もなくは、途中放棄したんじゃないか」
「そうかな? 私が出席した前回の発表では、彼の熱意は相当なものに感じたよ。彼の実験内容には、私も関心したし説得力もあった。何より彼の研究は、完成まであと一歩のところまで来ていたはずだ。いち研究者として、彼の発想は面白いと私は思うよ」
半年前、中央医学審議会の壇上で、己の研究成果を利発的に、発表していた若い埋葬学士の姿を脳裡に瞭然と思い起こしながら、私がそう言うと、何故かティムは溜め息を吐いていた。
「面白いと言っても、彼――あ、マーヴィン・エッカーと言ったか――は、所詮死体相手の埋葬学士だぞ。医療技術の発展に貢献する俺たち『棺桶派』、惹いては棺察医とは、扱う主体が全く違うんだ。あっちは死体を相手に、保存技術の研究をしている。生きた人間を相手にしている俺たちにとっては、毒にも薬にもならないことをやっているんだぞ」
「それは解っているさ。だけど死人の身体を、永続的に残したいという気持ちも解らないでもないだろう。人間は死んだら骸となるだけだが、生きた証しくらいは、残しておきたいものだろう。それが魂の器となった肉体であるなら、尚更顕世に残しておく価値があると思うのだが、どうだろう?」
「それでは、街中が――否、国中が保存処置の施された死体で埋め尽くされてしまう。道端に死体が溢れるのを防ぐために、この街は存在するのに、それも軈ては機能しなくなるぞ。それでは本末転倒だ。自己融解する死体を引き受けているからこそ、この街は世論から、惹いては国から存在が許されているんだぞ。それを忘れてはいけない」
恐ろしく真面目な顔をして、ティムがそう言うので、私は少々言葉に詰まった。彼の言っていることは正論であるのは、間違いないが、若干の余裕も感じられない彼の意見に、私は少々困惑気味の色を浮かべていた。
「そうだね、ティム、君の言う通りだ。私たちは、この街に生かされている。この街の御陰で私たちは、命の研究ができているし、生きることへの迷いも捨てることもできる。彼の研究は、死者の尊さを問うものであって、私たちの研究目的からは、大いに外れている。埋葬学士である彼には悪いが、私たちが見詰めているのは、生者のことだけだ。死人の身体を観察て生者を生かすこともできるだろうが、死人の身体を保存することで、生者を救うことはできない。死人の研究は、私たちに必要もない代物だ」
「ああ、マーヴィン・エッカーの研究姿勢には、敬意を払えるが、実験の結果如何については、どうでもいい関心事だ。所詮は、何の見込みもない死者の研究だと考えた方がいい」
「忘れるべきか――」
「忘れる忘れないは関係ないことだ。樣は気にしなければいい」
「そうか――」
そう諭すティムの声に、私は芒然と頷くしかなかった。
「――ところで、ギルバート。これは何だ?」
そうして、暫しの間、黙り込んでいた私の眼前に、ティムは、先程から持っていた実験器具をちらつかせた。
頑健な彼の手のひらのうえに置かれた、それは二日前に使用したシャーレだった。
「中に液体のようなものが入っているが、これは何だ? 実験に関係するものか?」
と、彼が口にするので、私は、それを徐に受け取って、
「ああ、それは先日の実験で被験者が流した涙だよ」
と、二日前の実験について、彼には、何も説明していないことを思い出した。
「涙? 脳死患者が、涙を流したっていうのか?」
「ああ、いつも通りの手順を踏み実験を試みたところ、なんと被験者の脳波が微かに振れたんだ。これは大いなる前進だと喜び勇んで彼に近づいたら、涙を流していたんだ。脳死者の涙だ」
「じゃあ実験の第一段階は――」
「――成功だよ」
そう私が、勢いよく口にした途端、ティムは、見るからに、胸を撫で下ろしたようだった。
「そうか――それはおめでとうギルバート。では、脳死状態にある彼は、己の記憶の裡にある潜在的死の象徴を垣間見たってことだな?」
「まだ確証は、持てていないが、恐らく彼は死の淵で『門』を見たはずだ。そして、その影響の所為かどうか判然とは解らないが、彼は確かに涙を流した。感情を司る大脳辺縁系の機能も消失しているにも拘わらず――だ。これが何を意味しているのかは、これからの研究次第だが、少なくとも、私が提唱する理論の実在性を証明する根拠となるはずだ。だから次に彼が夢を見たとき、私は彼の脳に繋がろうと思う」
「危険ではないのか?」
「危険は承知のうえだよ。それを込みで私は、この実験に心血を注いでいるんだ。それで死ねれば本望さ」
嘗て己が失った『死』に、また手が届くことを考えると身震いがした。この実験が成功した暁には、リタの命を救うことができる。私はそれがどうしても嬉しくなって、暫し雀躍したい思いに駆られたが、滾る衝動を必死に理性で抑えつけ、平静を貫き通すことにした。
そんな私の浅はかな内心を、ティムは容易に見抜いたのだろう。
「全くお前という奴は、本当に研究熱心な男だな」
と僅かに嘆息して、私の肩を叩くのである。
「初めは、荒唐無稽とも思えるお前の理論に、やや懐疑的な気持ちもあった。勿論信じていないわけではなかったが、とても心配だったんだ。四年前に自殺してから、お前は変わったと思った。一番困惑したのは、お前が死ねなくなったことだ。どうしても死ねないことに悩み苦しむお前の姿を見て、俺は友人として、何ができるか必死に考えたが、何も浮かばず、お前の願いを叶えるための実験に手を貸すことで妥協したんだ。しかし、それも結局、俺がいないうちに、結果を出してしまったんだから、お前はやっぱり凄い奴だと思う」
そう言うティムの声は、何処か虚しそうな響きを孕んでいた。まるで私にとって、ティムという友人の存在が、不必要とでも言うような雰囲気である。
そう感じた瞬間、私も何だかやるせない気持ちになって、
「私は決して凄い人物ではないよ。そんな大層なこと、私はした覚えがない。私は私の望みを叶えるために、この実験を興じているに過ぎないよ。それに公明正大と言うのなら、君の方だティム。私ひとりのちからでは、この結果はあり得なかったと思う。君が傍にいて、常に尽力してくれたから、勝ち得た結果だと私は思っているし、事実だと感じてもいる。君は私の誇りある友人にして、優秀な相棒だ。これからもよろしく頼む――」
そう言って、私はティムに右手を差し出すと、ティムもまた握り返してくれた。
「お前が思いを遂げるまで、俺はお前のために行動するよ、ギルバート――」
程なくして気を取り直したティムは、大振りな目を細めて、私に笑いかけるのであった。
「ところで、被験者が流した涙だが、もう成分分析などは終わっているのか?」
「いいや、まだだ――」
私が手にしたシャーレの中身を差して、ティムがそう尋ねるので、私は徐に首を横に振る。
そういえば、確かにまだ成分分析などは済んでいない。次の実験を行う前に、成分分析だけでもやっておこうか、と硝子の蓋で封じてあったシャーレを開けると、唐突に、敏感な私の鼻腔に、あの芳しい花の匂いが広がった。
「この匂いは――」
そのとき私の脳裡には、死体公示所で見た、うら若い女の死体の映像が映っていた。
そうだ、見たことのない花に覆われた、女の死体の傍で嗅いだ匂いと、同じ匂いは、この涙の匂いだったのだ。
しかし何故、脳死患者が流した涙と、女を囲む花の匂いが同じなのか、と私が身を固くして考えこんでいると、
「どうしたんだ、ギルバート。何かあったのか?」
と、心配そうな顔で、ティムが私を覗き込んで来るので、
「ティム、この脳死患者は、いったい何処から連れてきたんだ?」
と、湧き出た疑問を、直ぐさま問い掛けるのだった。
※
ティムの話によると、私の実験に供する脳死患者は、彼が懇意にしている、死体運搬人から譲り受けたものとのことだった。
孤児院に赴くとき以外、常に実験室に籠もり切りだった私には、交友関係と呼べるものが殆どなく、実験に供するべき脳死患者の調達が上手く出来ずにいた。そんな折り、困った私のことを心配したティムが、知人の死体運搬人に、脳死者を回収する機会があったら、こちらに回してほしい、と頼み込んでくれて、漸く被験者を手にいれることが叶ったのである。
被験者たる彼を手に入れたとき、私は差して彼の身元も、出処も探る必要はないと感じていた。しかし、死体公示所にあった女の死体と、脳死患者が流した涙から漂う香りが、驚くほど同じだったことに気づいた私は、事此処に至って、彼の身元を探ることにしたのである。
手懸かりは、彼を連れてきた死体運搬人であるが、彼ら徘徊業者は、国中を周期的に回っているため、いつ会えるとも知れない者ばかりであった。そのため街の出入り口に構えた関所の監督官に、ティムの知人という死体運搬人の凡その風貌を伝え、彼が来たら私に報せるようにとの言伝をし、私は研究室に戻ろうと、街中を歩いていた。
先日通った死体公示所の前を、再び通ると、また、あの年配の女性がいることに気がついた。
先日同様、彼女は、死体となった女の前で、膝をつき、微動ともせず、潸々(さめざめ)と泣いている。私は、その背後を通って通り過ぎようとしたのだが、何だか見ているのも偲びなくなって、いつまでも死体を見続けている女に、ついつい声を掛けてしまった。
「あの――大丈夫ですか?」
何ともありきたりで、如何ほどの誠意も感じられない私の問い掛けに、しかし女はゆっくりとした動作で、生気の抜けた瞳を私の方へと向けた。
「――どちら様ですか?」
ひどく聞き取り難い掠れた声で女は、私の素性を尋ねた。女の目は、恐ろしく腫れていて、幾日も寝ずに泣きはらしたような涙の痕が、幾筋も頬に残っていた。生気の欠片も微塵に感じさせない罅割れた唇に問い掛けられて、私は、
「通りすがり医者です」
とだけ答えた。
私の答えを聞き、女は「お医者様ですか――」と短く呟いてから、また目を伏せてしまった。
「娘さんのご遺体ですか?」
早急に、私から視線を外した女を尻目に、私は、すぐ傍で眠る女の死体について訊いた。
うら若き女の死体は、先日と変わらず、朱色の棺に納められ、衆人の目に曝されている。
その容姿――というか、様態は相も変わらず美しいままだったが、見た目と裏腹に内部の状態は、刻々と変化しているようで、芳しい花の香りに雑じって、そこはかとない腐敗臭が、彼方此方に漂っている。いつ死んだのか定かではないが、女の死体は確実に腐敗の道程を辿っているのだと、確信し、私が黙っていると、女が、
「――息子の恋人です」
と小さな声で言った。
「息子さんの恋人ですか――」
「ええ、この娘の名前は、フランシスと言って、とても気立てのいい、優しい子でね、病弱な私のために、いつも温かいスープを作って食べさせてくれた息子の幼馴染みなんです」
そう語る女の渇いた瞳には、いつしか光が戻っていた。まるで彼女との出来事が、つい昨日のことのように思い出されているかのように、語る女の言葉を私は静かに聞くことにした。
「この娘のお家柄は、とある貴族様のお家でね、それはそれは厳しいお父様で、外に出ることも一向に許さなかったそうなんですが、息子がまだ小さい頃、この子を連れて家に帰ってきたことがあったんです。聞けば、家族に黙ってお屋敷を抜け出したフランシスは、森の中で道に迷い野犬に襲われていたところを、うちの息子が助けたってことでした。それを聞いて私は、すわっ大変だってひとり勝手に騒いで、きっとフランシスのご家族も、黙って消えた彼女のことを心配して、大慌てになっていると思い、急いで彼女をお屋敷まで送り届けたんです」
女は、柔和に眥を下げ、次々と溢れ出す過去を懐かしんでいるようだった。
「お屋敷に帰り着いたとき、フランシスは、大いに御父上のお叱りを受け、当分お屋敷からも出して貰えなかったそうですが、あるとき、御父上を連れて、私たち親子の家を訪ねてこられたことがあったんです。どうやらそれは、お屋敷まで送り届けたお礼だったようなんですが、私たちは、大変恐縮してしまってね、そのときどう出迎えたものか、あまり能く覚えてないくらいでした」
そこで女は、ひとり微笑んだ。
「それからというもの、フランシスは、従者さまを連れてではあったけど、私の家――ううん、息子のところに、能く会いに来るようになった」
「息子さんを好いてらっしゃったんですね」
私が、徐にそう口を挟むと女は、静かに頷いた。
「ああ、息子が、この子を森で助けてから十年――ふたりは、いつしか恋人同士になっていた。その仲睦まじさは、村の中でも一際評判で、誰もが羨んだくらいだったよ――だけど、結局は貧富の差には、勝てやしなかったんだね、彼女の御父上は、ふたりの交際を認めず、フランシスの縁談を強引に取り付けることによって、ふたりの仲を裂こうとしたんだ。それを知って私の息子は、彼女を連れて駆け落ち紛いのことをしでかしてね、追っ手の手が振り切れないと知るや、心中自殺を図り、この子は死んだそうだよ――」
女の声が、途端に小さくなった。
「全く馬鹿な子たちだよ。何も死ぬことなんてないじゃないか。生きてさえいれば、いつか結ばれる日だって来たかもしれないのにさ――」
散々泣いただろうに、女は、また細めた眥から涙を流した。
「守ってやれるもんなら、守ってやりたかった――でも、貧乏な私ら夫婦の間に生まれた息子と、貴族様の御令嬢とは、決して釣り合わなかったんだね。この子たちは、命を賭けてまで、己が生まれついた境遇に、反抗したっていうのに、頑固な大人たちと来たら、貧富がどうしただの、将来がこうしただのと、余計なことばかりのたまって、本当に愛し合うふたりの気持ちなんて、これっぽっちも考えなかった。駄目な親さね――こんな子どもの気持ちも考えられない親の元に生まれちまったばっかりに、あの子は――あの子は――」
茫洋な言葉を吐いて、女は、俯き加減に肩を落とした。埃の雑じった地面に向けて、女が鼻を啜る度に、円い雫の痕が、幾個も小さな染みを作っていく。
「――その花は、贖罪の証しですか?」
地面に蹲る女の背中に、私は静かにそう問い掛けた。すると、女は「え――」と、微かな呟きを漏らし、泣き腫らした顔を、頭上にいる私の方へと向けた。
「その女性――フランシスさんでしたか――の棺に入っているその花は、なんて言う名前なんですか? 見たこともない花だったので、気になったんです」
悲しみに暮れた女の心に、極力同調せぬよう注意を払いながら、憫然とそれだけを問うと、女は、
「ああ、これはヘリクリサムって言うんですよ――」
と、感情を無くした声で言った。
「ヘリクリサム?」
「ええ、私たちの地域で夏に最も多く咲く花の一種で、蒲公英のような花の形をしているけれど、花びらのひとつ、ひとつが、固い鳥の羽みたいになっていて、その質感と、いつまでも残る花の特徴から、『永遠の想い出』なんて花言葉もあるくらいの多年草です。この花は、ふたりの思い出の花でね、せめて死者への手向けと思って、故郷から持ってきたんです」
「そうですか――思い出の花――ですか」
女の言葉を聞いて、私の胸懐にそこはかとない親近感が湧いた。愛する人との思い出を補完する花は、私も持っている。私とエミリアの間には、ジキリタスという夏に咲く薄い桃色をした花があり、そういえばジキリタスも多年草だったか、などと思考を巡らせていると、
「――あのお医者様と仰いましたよね」
という張りのない声が聞こえた。
「お医者様なら、知っているかもしれません。息子を、レオナルド・ハーヴィーを知りませんか?」
「レオナルド・ハーヴィーですか?」
聞いたこともない名前だった。
「はい、息子は、ここにいるフランシスと一緒に自殺を図ったのですが、完全には死にきれなかったようで、脳死――? というんですか? になってしまって、巡回に来た死体運搬人に連れ去られてしまったんです」
「え――」
私は、少々絶句した。
「その死体運搬人が言うには、息子の意識は完全に無くなっていて、もう目醒めることも一生ない、死体同然だ、と乱暴に言って、有無も言わさずに連れ去ってしまったんです。行き先は、この街と聞いて、もし埋葬されているのなら、何処に埋められているのかだけでも、知りたいですし、仮にまだ生きているようなら、息子のことを見てやってほしいんです。そして、もしもう意識が戻らないのであれば、息子を、息子を、殺してやってほしいんです――」
「殺してやってほしいとは、随分な言い草ですね。息子さんのこと、見捨てるんですか?」
私は内心、平静を装うのに必死だった。私の実験に供する被験者が流した涙と、死体公示所で嗅ぐ匂いは、ヘリクリサムという花の匂いだったのと、自殺を図った女の息子が、まだ生きており、それも脳死状態にあることが解って、しかも死体運搬人に回収されていたとなると、若しかしたら、女が探しているレオナルド・ハーヴィーという男は――。
一瞬のうちに、私の裡でひとつの事実が組み上がっていった。人間の縁とは、何とも奇矯なことだろうか――しかし、そのことを口に出してしまっていいのだろうか、否、良くないなどと人知れず煩悶していると、女は言った。
「見捨てるなんて、そんなことしたくはありません。でも、このまま生きていたって、あの子に将来はない。なら、ちゃんと殺してあげて、あの子が望んだ通り、この子との思いを遂げさせてやりたいんだ。あの子の、レオナルドの亡骸を、この子の横に並べてやりたい、それが親心ってもんではないですか、お医者様?」
女は殊更に、縋り付くような眼差しを私に向けてきた。それもひとつの考えであるかもしれない。この女は、息子の安楽死を望んでいるのだ。しかし、私には、真実を告げる勇気がなかった。なので私は、
「解りました、あなたの息子さんを探してみます。身体的な特徴があれば、教えてください」 と、頷くしかなかった。
※
夕方、私物と化した実験室に戻ると、直ぐさま医療用チェアに座った被験者へと近づいた。
私が、遭遇した昼間の出来事も露知らず、彼は呑気に深い眠りについている。
死体公示所の前で、出遭った女が探している息子の特徴が、頭から離れなかった。
女の息子の右腕の内側には、幼い頃にフランシス――心中自殺を図った女――を野犬から助けたときにできた古疵があるのだという。それを確かめるために、私は、私の実験に供する彼の傍に立ったのである。
女が探している、息子も脳死状態となっている、という話しを聞いて、まさか、そんな偶然など在るまいと、私は内心半信半疑だった。そのため特段、彼が女の探している息子――レオナルドであることを確認する必要もなかったのであるが、好奇心というものは、恐ろしいもので、探求欲の強い私の心裡は、それを確かめずにはいられなかった。
生命維持装置が鳴らす駆動音と共に、膨らむ彼の胸を尻目に、私は、椅子の肘掛けに置かれた彼の右腕を手に取った。
ゆっくりと右腕の内側を視線の届く位置へと、動かしていく――そうすると、程なくして、痩せ細った脳死患者の腕の内側が露わになっていく――そうして、目にしたのは、何かの動物が残したであろう牙の痕だった。
疵はあったのだ。
それが解った瞬間、私の裡であらゆる疑問が氷解していった。
脳死状態にある彼と、死体公示所に置かれた女は、紛うことなき恋人同士であり、彼――レオナルドが流した涙と、女の棺に納められた花の匂いは、完全に一致している。
憐れなレオナルドは、脳死状態にありながらも、恋人であるフランシスのことを想い、その思い出をヘリクリサムの匂いのついた涙を流すことで、反芻していたのではないだろうか。
通常ではあり得ない現象ではあるものの、そう考えると、不思議と納得できるものである。
レオナルドとフランシス――心中自殺を図ったふたりの恋人は、死後――レオナルドはまだ死んでいないが――に於いても、深く深く結ばれていることを俄に知り、どうしてか、不意に私の心裡は暗くなった。
何も背徳めたくなったわけではない。私にも、叶えなければならない望みがあるのだから、それに向かって邁進していくのが、ベストなのであるが、どうにも私の行いは、愛し合うふたりの恋人を、引き裂くような悪質な行為に思えてならなくなったのだ。
愛する者を想う気持ちは、こんな私にでも理解はできる。私には、愛する娘がいて、嘗て愛した女がいた。そのふたりのことを想うと、胸が締めつけられるように苦しくなった。他人には、理解の及ばぬ、狂気の実験に手を染めた私にも、『愛情』という二文字の言葉を胸に抱けるのだと知って、夜にひとり安堵に胸を休めたことは数知れない。
故に、死後も愛し合うふたりの男女を引き裂く権利は、私にはないのだと思った。そうすることは、まるで自分のことを棚上げしているようで、とても気が引ける。自分は良くて、彼らは駄目などという論理は、どの口が言えるだろうか。私の身勝手な行いは、非人道的な行為であり、非感情的な所業であることは、最早自明の理である。
しかし、それが解ったところで、私は、自らが凶行する実験を止めることはできなかった。
レオナルドの母親が、私に懇願したように、仮に息子が生きているのなら、安楽死させてやって欲しいという望みは、今の私からすれば容易に叶えてやることのできる願いでもあったのだが、いち研究者として――否、ひとりの子を持つ親として、些かも容認できないことである。何より、こんな中途半端な形で、実験を中止に追い遣ってしまえば、私の果たさねばならぬ願いは、日の目を見ることなく、愛する娘の死という悲劇に辿り着く結果となってしまう。
それだけは、断じてあってはならない。
レオナルドの母親が、脳死状態となった息子の死を、心から望んでいるように、私も、重度の病気を患うリタの生命を繋げようと、心から奮闘している。
愛は狂気なのだ。荒れ狂う愛情を糧に、私は、私の凶事を完遂せねばならない。
だから私は、無心になることにした。脳死状態の被験者の素性を、殊更に知りながらも、私は、私の現前で深い眠りにつく、彼に関するあらゆる事項を、己の胸懐の裡に、昏然と秘匿することにした。
あの死体公示所の前に行くこともないだろう、と思った。行けば必ず、レオナルドの母親に会ってしまうか、彼の恋人であるフランシスの死体を目にしてしまうことになり、今しがた心裡に誓った決心が、鳴動りと揺らいでしまうかもしれない。それだけは、どうしても避けたい。
だから私は、己の心意に忠実であろうとした。
実験を続けることにしよう――私は、そう心に決め、生命維持装置の電源に懍然と指を掛けた。
※
被験者の心肺を補完する生命維持装置の電源を切ると、程なくして、彼――レオナルドは、死に至る夢を見始めた。
生体記録監視装置の針は、微弱だが確かに振れていて、久しく覚える脳波の乱れを紙面のうえへと、嫋々(なよなよ)と起こしていく。ピッ、ピッ、ピッ――と規則正しく波形が示されていくごとに、固く閉じられた彼の瞼は、細々と痙攣し、急速眼球運動を発揮していることが、手に取るように解った。
彼の人格――魂は今、発現した『門』の前に、確かに立っているはずである。
今回は、ヘリクリサムの匂いをつけた涙を、彼は流さなかった。
鼻腔の奥には、まだあの花の匂いが残っていたが、最早残り香とも言えないほどに、それは薄まってしまっている。
何とも芳しい花の匂いを思い起こす度に、心中したふたりの男女の姿が想起され、私の胸懐は、何だか苦しくなった。
決意は揺らがない――そう決めたはずなのに、私の心意は、少しだけ揺らいでいた。
今、この瞬間にも、彼の脳に繋がって、彼が見ているものを追体験し、彼の代わりに『門』を通ることができれば、私は死ぬことができる。そうすれば、死んだ私の臓器を転用して、重い心臓病に苦しむリタに移植手術を施し、彼女を救うことができる。それが私の願いであり、
果たすべき最終目標であるものの、しかし、そうすることで『門』を通過できなかったレオナルドの人格――魂は、未来永劫死の淵を歩み続けることになる。
果たして、それが正しいのかどうか、私には解らなくなっているのが実情だった。
レオナルドの母親は、彼の死を願っている。安らかに安楽死させることを願っているのだ。
それは私の行いひとつで、容易に実現できる願いである。このまま生命維持装置の電源を切り続け、蘇生させなければ、彼を死に追い遣ることができる。
この期に及んで私は、大いに躊躇した。
私は研究者である前に、医者である。医者は人命を尊重し、生命を救う義務がある。生命倫理に反する行いは、医者の為べきことではないし、人の道すら歩めなくさせる。それは解っているのだが、優先して守るべき生命のことを考えると、やはり非人道的な行いも是となるのではないか。天上に生わす神も、私の狂った行いを容認してくれるのではないか、と自己弁護にも似たことを沸々(ふつ)と考えていると、実験室の扉が突然に、バンッ――と開いた。
「ギルバートッ! 大変だッ!」
そう言って飛びこんできたのは、ティムだった。
「――どうしたんだ、ティム?」
酷く血相を変えて、私の元に駆け寄ってきたティムに、私は声を掛けた。
するとティムは、奄々(ぜぃぜぃ)と肩で息をしつつ、
「――リタが――、リタの容態が急変したッ!」
と捲くし立てるように言った。
「なんだと――」
愛娘の容態の悪化を報せる彼の言葉を耳にして、私は絶句した。じんわりと額に汗を滲ませつつ、
「そ、そんな馬鹿な――昨日の検査では、そんな徴候は見られなかったのに――」
と呟くのがやっとで、途端に膝から力が抜け、私はその場に崩れるように膝を着いた。
昨日の検査では、何の異常も見当たらなかった。少なくとも、容態が急変するような徴候は一切検出されなかったので、私は安心しきっていたのだ。しかしやはり実験を急くべきだったかと、徐に後悔の念が、私の矮小な心裡に去来し、まだ間に合うかという希望を胸懐に、私は実験の最終段階を施行することを、ここで決めた。
つまり――
「――ティム、準備をしてくれ。彼の脳に繋がる――」
と、頽れた私の身を案じていたティムに、立ち上がり様そう告げた。
「繋がるって――今ここでかッ――?」
「ああ、そうだ。今ここで私が死なないと、リタが死ぬ。幸いにも被験者は今夢を見ている最中だから、最終段階に入るには丁度良い頃合いだ――」
ぼんやりとした、端から見ても空虚な眼差しを被験者に向けると、ティムもその視線の先を追って、
「彼は、夢を見ているのか――?」
茫然と呟かれた言葉に、私はひとり頷いて、
「今しかないんだ――頼むティム――手伝ってくれ」
と言った。
「ギルバート――お前――」
「頼むティム――」
再度私がやや強めにそう懇願すると、ティムは暫く躊躇してから、
「解った――やろう」
と、決意の言葉を口にしてくれた。
「すまない、恩に着るよ」
友の決意を耳にして僅か数分で、私は夢を見ている脳死患者の横に並んで寝そべっていた。
深昏睡状態の極致にあるレオナルドが見ている夢を、追体験するには、彼の脳に繋がっている生体監視記録装置と直接繋がる必要がある。早急に、頭頂部の剃毛を果たした私は、実験を補佐するティムの処置により、内側側頭葉の位置上にある頭蓋骨に、穿孔器具で穴を開けて貰い、そこに生体監視記録装置の電極を差し込んで貰わねばならない。
潜在的死の象徴を優に無くした私は、この程度の処置では死ぬことはなく、ティムも慣れたように、頭皮の露出した頭に、穿孔器具の先端を押し付け、殷々(こわごわ)とその深度を深めていった。
「脳には傷を付けないでくれ、ティム。記憶を司る内側側頭葉に、万が一にでも傷が付けば、若しかしたら、彼が見ている夢を見れなくなるかもしれない」
生きた人間の頭蓋骨に穴を開けるという恤ましい作業に、黙々と没頭するティムに、そう注文を付けると、彼は微妙に頬を引き攣らせながら、ぎこちなく頷いた。
柔らかな脳を保護する頭蓋骨を削る音が、耳の奥でする。
これより私は、潜在的死の象徴を、夢として見ているレオナルドの脳に繋がり、彼が臨死上で見ている光景を、追体験することによって、死に遂げようとしているのだ。
そう考えると、不思議と緊張した。この現状は、遠く待ち望んでいたことなのに、どうにも落ち着かなくなって、遂々(ついつい)私は、繊細な作業に勤しんでいるティムに声をかけたくなった。
「ティム――ティム――聞いてくれ――」
私の声は震えていた。
「君の献身な姿勢には、感謝の念が尽きない、ありがとう。こんな私の狂った実験に付き合って貰って、何と言ったらいいか解らない。学院で君と出遭えたことは、私の生涯にとってまたとない僥倖だった、感謝する。君は、私の唯一無二の親友だ――だから頼みがある」
独り言のように呟かれた私の言葉に、ティムは返事をしなかった。
それでも私は、己の裡に湧いた言葉を口にするのを止めなかった。
「――この実験が成功して私の心臓が止まったら、直ぐに私の身体から摘出してくれ。開胸器具は揃えてあるから、何の問題もない筈だ。そうしたら直ぐに孤児院まで行って、リタの心臓と私の心臓を交換してくれ。執刀医は君だ。君にしか頼めない。やってくれるか――」
疑問符も付けない問い掛けに、彼は一瞬、瞥然と私の目を見て、
「命を賭けた親友の門出に水を差すようなことはしないさ。その役目は、俺にしかできない。最後まで付き合わせてくれ――」
とだけ言って、また口を噤んでしまった。
ああ――私は、良い友を持った。最後にそう思えて良かったと、私は感慨に耽る。
耳の奥では、まだ骨を削る音がする。意識が遠退く――。
――暫くしてから、私は瞑っていた目を開けた。その先には、私の顔を覗き込むティムの顔があった。
「処置が終わったぞ、ギルバート。気分はどうだ――?」
そう問い掛けられた私は、少しだけ眩暈を覚えたものの、揚々(みるみる)意識を覚醒させていった。
「――ああ、大丈夫だ。問題ない――」
穿孔術の処置は、見事成功したようだった。脳内の言語野にも何の支障もないらしく、瞭然と自分の声を耳で捉えながら、私は、僅かしか動かない視線をやっとの思いで動かし、その視軸を、横に寝そべるレオナルドに向けた。
生体監視記録装置が起こすカリカリ――という音も耳に捉え、猶も彼は己の記憶の裡に潜在化した死の象徴を見ているのだと確信する。
どうやら、気を失ってから、それほど時間が経っていないことに、人知れず安心すると、私は、酷く悩ましげな視線で私のことを見るティムに、ゆっくりとした調子で声を掛けた。
「――ティム、後のことは頼んだよ――そして、ありがとう――」
「ああ、任せてくれ――ギルバート――お前に、女神セルヴィスのご加護があらんことを――」
優しき友の声を耳朶の奥に残し、私は静かに目を閉じた。
固く閉ざされた瞼の裏は、真っ暗で、所々に炯々(ちかちか)と微かな光が朧げな輪郭を作っている。
次の瞬間には、その妖しい蟲のような光は凡て消え失せ、変わりに、全身を強烈な衝撃が駆け抜けていった。穿孔した頭蓋骨の隙間から、ティムが、生体監視記録装置の探針を、私の脳内に突き刺したのだと解った瞬間、私の意識は、今度こそ深い深い闇の底へと落ちて行った。