懐かしい 1
僕はずぶ濡れになって松林に立っていた。
降り出した雨は、雷と共に激しさを増していた。
雷がすごい音で近くに落ちたので、この木の下はとても危なかった。
だけど僕は、違う場所へ移ろうとしなかった。というより、動けなかった。
僕は他人に怒鳴られたり、殴られたり蹴られたりしたのは生まれて初めてで、そのショックはとても大きく、僕を腑抜けにさせていた。
どうしても、さっきの恐ろしい出来事が頭から離れない。
僕は繰り返し同じことを思い出し、感じたくない恐怖を何度も味わった。
何時間、そこに突っ立っていたんだろう。周りが暗くなったのも、雨が止んでいたのも気づかなかった。
僕が正気に戻ったのは、誰かの手が僕の肩にそっと乗った時だった。
僕はびくりと振り返った。
そこには、女の子がにこりと微笑んで立っていた。
すぐにはわからなかったけれど、前に夜中の砂浜で見かけた、夢にも出て来た白いワンピースの子だった。
もし僕が今、平静な気持ちでいたなら、彼女に会えたことをどんなに喜んだだろう。
だけど、その時の僕はちがった。今はひとりでいたかった。誰とも話したくなかった。
僕はお愛想程度に微笑んで前を向いた。
女の子は何も言わなかった。
何しに来たんだろう。僕は思った。
女の子はその内、僕の前に回り込んできて、うつむいている僕の顔を覗き込んだ。
(何なんだ)
僕は横に顔をそむける。
女の子はそむけた顔の正面に立ち位置を変え、僕の顔をじっと見据えた。
まるで、小さな子供がするみたいなしぐさだ。
きょとんとした目をして、あどけない表情をしている。
僕は調子を狂わされて、思わずプッと吹き出した。
女の子は笑顔になった。
僕も自然と笑顔になる。
これだけのことで、僕はさっきまでの恐怖を忘れた。
今僕は、目の前のことだけしか、考えなかった。
「誰? どこから来たの? この辺の人?」
僕はちょっと恥ずかしかったけど、話しかけた。
女の子は、体を海の方に向けると「うみ」と言って笑った。
名前かな? それとも海から来たってことかな?それはないか。
「いつか夜中にここにいたね」
女の子は何も言わず、にこにこしてうなずく。
「ひとりで怖くなかった?」
女の子は、またにこにことうなずいた。
不思議な子だな、ぼくは思った。
「でも、夜中に海なんて、ひとりで来ない方がいいよ」
と、僕が言うと、
「うん。もう、ひとりで夜中に海なんて来ない」
女の子が言った。
素直なその言い方があんまり子供っぽくてかわいくて、僕は思わずはははっと笑ってしまった。
「いててて」
殴られたほほが痛んで、僕はさっきのことを思い出した。それで、ぼくはちょっとだけ嫌な気がした。
女の子が心配そうな顔をする。僕は大丈夫だよと言った。
女の子はゆっくりと手を伸ばし、僕の腫れた頬に触れた。
温かい優しい手だった。
この子はさっきのことを知っているな。知っていて黙っいてくれているんだ。
なぜか不意にそう思った。
僕がふふっと笑うと、女の子もえへへっと笑った。
その時、
あっ。
なんだかすごく懐かしい思いがした。
小さいころ、これとよく似たことがあったような気がする。
ずっと前に・・・。こんなことが。
だけど、思い出せない。
女の子は、無邪気に笑って歩き出した。
僕も横に並んで歩き出す。
僕と女の子は、自然に手をつないだ。
楽しいな。この時間がずっと続けばいいのに、と僕は思った。




