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日曜日:野球しようよ①

 目覚めは、最悪の一言だった。左頬に残ったじんわりとした痛みと、赤々と残る1本の爪痕が、昨日俺がしでかしたことが何なのかをどんな記憶よりも雄弁に物語っていた。微かなくせに、頭を震わせるようなその痛みと、心を震わせる去り際のこよみの紅い目が脳裏から離れない。

 俺にとって、チームにとって最良を何かと考えたはずだったのに、俺は未だにその選択を後悔しているのだろうか? もうどうしようもないというのに、いつまでも考えている俺は、やっぱり愚かなんだろうか?


「……分かる訳ないよな」


 それを考えて、理解して、行動出来るだけの聡い人間だったら、きっとこよみにあんな表情をさせることもなかったし、そもそもこんな事態に陥っていなかったような気がする。結局のところ、俺はどこまで行っても俺のままでしかない。


「飯にするか」 


 そう呟いて携帯を持ち上げる。時間を見つつメッセージボックスと着信履歴を確認するが、もちろんあの騒がしい後輩の形跡はない。

 済んだことと吹っ切れるべきなのかもしれないが、気は重くなる一方だ。

 そもそも、こよみを最終的に傷付けたのは俺の身勝手さだ。俺にとっても胃が痛いことだったとはいえ、俺に後悔する権利なんてものはないだろう。

 とりあえず、今は飯にしよう。米と味噌汁でしっかり栄養補給して、これからのことを考えよう。


「まずぃ……」


 味噌汁を作ったはずなのに、出汁を入れ忘れていたらしい。色こそいつもの味噌汁でありながら、目の前のそれは酷く味気のない味噌湯になっていた。


☆☆


 秋人に電話をしてから20分後、俺はもみじの家のバッティングセンターに来ていた。とりあえず場に沿うように自前のバットは持ってきたが、全く打つ気にならない。

 ただ居られても利益にならないので青木コーチに白い目で見られたけど。


「うん、こうなると思ってたよ」


 開口一番の秋人の言葉に、のっけからイラっとさせられた。

 とはいえ連絡した瞬間1コールで電話に出られて、予定も確認せずに遊びに誘ったのに2つ返事でオッケーしてくれる以上、感謝せざるを得ない。


「で、1日経って、釣り落とした魚の大きさに気付いたってところ?」

「……分からない」

「だろうね。楓だもん。まあ、僕にしても楓の方から来てくれたのは手間が省けてよかったけどね。何時ぞやみたいに拗ねて家から出て来ないかとも思った」

「お前の中の俺の人間像は小学生で止まってるのかよ……」


 言われるだけの心当たりはあるさ。今となってはどーでもいいようなつまらないことで秋人や、当時のチームメイトと喧嘩して、不貞腐れて練習をサボり、週末プチ引きこもりを敢行したこともあった。だが、10歳そこらの頃ならいさ知らず、俺もう17よ?


「ケロッとしてたら少しくらい抉ってみようかなと思ったけど、そうでもないみたいだったしね。安否確認くらいはしてやらないとね」


 つまり俺の方から電話しなくてもいずれ秋人から電話していたと。なんでこいつこんな時ばっかり優しいんだろうな……。何か裏があるにしても、今はいてくれるだけありがたかった。1人でいると考えたくないことばかり考えてしまう。


「実際のところ、どうせまた”自分のせいで”なんて自罰的な思考に陥っているんでしょ? 諦めなって。どうせ別の選択をしていても、今度は舞ちゃんを傷付けたことや、チームを瓦解させたことを楓は気に病んでいたと思うよ」

「それは……。分かってるよ」


 そう。そんなことは分かってるのだ。だから俺はこよみの手を取れなかった。だがその理解と、後悔という感情は全くの別物だ。

 俺はチームにとって正しい行動をしたという自己弁護と、それでももっと別の何かがなかったのかという自己憐憫染みた甘っちょろい考えがどうしても脳裏に残り、それが余計にイライラする。一体俺は何がしたいんだろう? 何を求めているんだろう?


「とりあえず遊ばない? 延々こんなやり取りしてても気が滅入るだけでしょ?」

「……そんな気分じゃない」


 バッティングセンターの脇に併設されたレトロさすら漂わせているゲームコーナーのチープで明るいメロディも、俺の心を明るくしてはくれない。

 今でも去り際のこよみの何かを訴えたそうに見える顔が、脳裏に張り付いて消えない。


「昨日のこよみちゃんとのやり取り、一晩経って、今はどう思ってる?」

「……やっぱり変えられない。こよみの事は大事だと思うけど、チームを捨てたくはない」

「なんだ、答え出てるじゃん」

「何がだよ。俺は昨日こよみにそう言って――」

「確かに昨日は咄嗟にそういう言葉が出たかもしれない。だけど頭を落ち着かせても、それが楓の答えなんだから、もうそれに殉じるしかないでしょ。僕個人としてはあの子のせいで舞ちゃんと楓が本気で困るようなら小姑のような真似をすることまで視野に入れてたけどね」

「お前がソフト部の先輩の代わりになってどうするんだよ……」


 先日は力になってくれた秋人が今度はこよみの敵になるって酷い話だな。こよみが人間不信になってしまいそうだ。


「どれもこれも楓が温いことばっかり言ってるのが悪いんだけどね。楓、人を好きになったことないでしょ?」

「いや、俺だってそれくらいの事はあるぞ。馬鹿にするな」

「へー、いつ? 誰に?」


 え? 面と向かってそんなこと訊かれるなんて思っていなかったんだけど……。

 思い出せ、確か誰かいたような気がする。ぼんやりした記憶でしかないけど。


「あれは……。確か小学校1年生の夏休み――」

「あーはいはい。もういいよ」

「何だよその態度!? 訊いたのお前だろ!」


 自分から訊いておいてあからさまなくらい興味なさそうにそう応えた秋人に思わず大きな声が出る。俺にだって好きな人くらいたからな! 今ちょっと明確に思い出せないだけで。


「楓が執着していたのなんてマウンドだけだし、人が人に抱く独占欲を理解出来てなかったんでしょ。それでまんまとこよみちゃんに振り回されて勝手に追い詰められているんだからアホだよね」

「んん……」


 それは……。確かにそうかも。否定しようにも今の俺には否定出来る材料がない。


「割り切ってお仕舞いにしてもよかっただろうし、割り切ることが難しいなら、まあ、適当に付き合うくらいしても良かったんじゃないの? こよみちゃんは楓にべた惚れだったし、おっぱい大きいし、悪くはなかったんじゃないの? 彼女作って、やることやって、楽しく青春したいなんて話してたことあったでしょ?」

「そういう言い方止めろよ。こよみに失礼だ」


 秋人の物言いにカチンと来て、言葉が固くなる。

 苛立ちを隠すことなく答えた俺に、秋人が処置なしと言わんばかりに呆れるような手振りとため息を見せた。なんだよこいつ腹立つな。


「……結局、楓は変わらないね。そういうところはこよみちゃんに同情するよ」

「それは皮肉か?」

「ただの感想だよ。やっぱり楓は面倒くさい奴だなあって」

「何がだよ」


 意味深長なことを言いながら、俺に対する嫌味のような事だけはきっちり言ってくる秋人に苛立ちは募る。そんな俺を見て、何故か秋人は慈愛があるとは言えない、なんとも温い眼差しを浴びせてきた。

 あまりに鬱陶しいから目潰ししてやろうかと思ったらヒラリと躱された――うぜえ!


「でも分かったよ。楓は本当にこよみちゃんのことが性別の垣根とか関係なく大事で、一緒に野球がしたいんだってさ――だったらそう言って来なよ」

「だから、それは昨日こよみに言って――」

「今日はどうなの?」

「え……?」

「昨日駄目だったからって、今日が駄目だとは限らないでしょ? 少なくとも僕の知っている翠川楓って奴は、動けさえするなら最善を求め続けるし、喧嘩別れでチームを去った後輩には自分を擲ってでも出来ることをすると思うんだけどなあ」


 …………そうかもな。今駄目だったらもう何もしないなんて諦め方は、してこなかった。身体が、心が動く限り、倒れる時には前のめりを信条にしてきたのは俺だ。確かにそれで肩は壊して高校野球を諦めたが、後輩に想いを伝え直すだけなら、間に合うかもしれない。

 ストーカー紛いなことをするのは本意ではないが、こよみが俺と再会するまでの経緯もそれなりなものだったし、ある程度はご寛恕いただこう。


「そうか、そうだよな……。何度でも当たって砕けるしかないか」


 いつまでも同じメンバーで野球を続けられるなんてことある訳がない。

怪我と自身の限界に部から逃げた俺は悪いケースだろうが、おっさんが言っていた通り、学業で、仕事で、折り合いは付けられず、チームのメンバーはいつか入れ替わっていくだろう。それでも新たなメンバーが入ってチームは存続していくのだから、どうあってもこよみに戻ってきて欲しいと思う俺の行いは、来るべくして来た代謝の時に抗しているだけだろう。それでも俺は――


「やっぱり、あいつとの縁を諦めたくない」


 自分を喉元まで締め付けていた何かが、解けたような心地だった。今までの視界が灰色のフィルターを通していたかのように、色付く。

俺がどうしたいのかが、はっきりと見えていた。


「その意気だよ。楓は男らしくないけどさ、目的に向けて食らい付く粘り強さはあると思うから――頑張れよ」


 そうだな。『何が出来るか』と訊かれても俺には分からないが、少なくとも『諦めない』ことは出来る。まだ足は動かせる。口も動く。こよみに伝えられなかったことを伝えるくらいは出来る。


「ありがとう、秋人」

「まだ結果は出せてないよ。礼をするなら結果で応えてね」


 秋人に礼を言って、バッティングセンターを飛び出す。

 今日のソフト部の試合会場は先日ピロに聴かされた。遠いが、今日のソフト部は勝ち残れば準決決勝のダブルヘッダーだ。きっと間に合うだろう。

 秋めきつつもまだ本気で身体を動かすと汗ばむくらいの陽気の中、自転車を漕ぎ出す。目的地までどれだけかかるだろう。

 間に合うだろうか。橘南高校が負ければ現地ですれ違うかもしれない――それがどうした。今日会えなきゃ明日、明日ビンタされたら明後日また行くだけだ。

 チェーンが軋みを上げ、タイヤが廻り出す。動け。動け。進み続けることだけが、俺の能なんだから。


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