土曜日:play the game④
**4回裏
バスンという鈍い音と共にボールが秋晴れの空に打ち上がった。
舞は打球を見て一瞬悔しそうに表情を歪めたが、それ以上飛んでいくボールの先を眼で追うことはしなかった。
先頭打者のおっさんの一打は、無情なくらい鮮やかに、舞の外に逃げるツーシームを捉え、センターのバックスクリーンに直撃させていた。
「甘かったな坊主。」
「……」
大人気ないくらいニッと笑うおっさんに対し、俺は何も言えなかった。
俺のリードのせいでもあるが、確か舞にしてはコースが甘かった。完全に先制ストライクを優先し過ぎたキャッチャーの要求レベルのミスだ。
打撃部にウレタン系素材を用いたバットと、おっさんのスイングスピードを加味すれば、初球から迂闊な入り方をすべきでなかったことなんて自明の理だったのに。
「ごめん楓、失投した」
「いや、俺が悪い。もう少しちゃんと厳しいところに構えるべきだった」
おっさんのように球の勢いで振らせるような勝負をするような投手には当てはまらないだろうが、舞のようにかなりの精度でリード通りにコントロール出来てしまうピッチャーにとって、キャッチャーの温い要求はそのまま温いピッチングとして表に出てしまう。
今のこの失点は、俺の失策だ。
「バッテリー頭切り替えろー!」
センターから秋人の声がする。ここで責任云々で問答したところで、失点が帳消しになるわけでもないし、開き直るしかないよな。
「舞、切り替えるぞ。打たれないピッチャーなんていない。後をどう立て直すかだ」
「大丈夫。分かってるよ」
球審にボールを要求しながら舞はこともなげにそう答えた。実際舞の心配は無用か。
舞はたとえボロボロの大炎上で敗戦投手になろうと雄々しくマウンドに立っていられる胆力を持っている。女の子の誉め言葉に雄々しいなんて使っていいのかはさておくけど。
「楓は大丈夫?」
「ふぇっ!?」
急に目の前いっぱいに広がる舞の膨れっ面に、思わず変な声が出てしまった。
確かに少ししょうもないセルフツッコミの他所事を考えていたが、まさか舞の接近すら気付かないとはヤキが廻ってやいないだろうか?
「え……? 何が?」
「なんとなくだけど、いつもと比べて活き活きしてないから」
……確かに正直心理的に試合に没入しきれていない自覚はあったが、それを舞に指摘されるほどに、俺は気がそぞろに見えただろうか?
「……悪い。ちゃんと頭切り替えるから」
「かえで、調子が悪いなら秋人くんに代わって貰ってもいいよ? 我慢するから」
「……大丈夫だ。大丈夫だから」
舞の気遣いさえ、ナイフのように臓腑を刺してくる気がする。こんなことを言わせてしまっているのは俺なのにそんな風に感じてしまうなんて、果たして俺は、どこまで糞野郎なんだろう。
「試合はまだまだこれからだよ。楽しもう」
「おうよ!」
口角を上げ舞は笑顔を作るが、その笑顔もどこか寒々しい――いや、つられるように笑みを作っている俺にきっと舞もそう感じているだろう。とんだ虚仮のバッテリーだ。
言葉に出来ない気持ちの靄を、大きく深呼吸して飲み下す。まだ意気消沈するには早い。ここを抑えてやっとゲームは折り返しなんだ。
続く5番はインロー目掛けたフロントドアのツーシーム1球でショートゴロに打ち取ったが、6番にはスローカーブをセカンド後方にテキサスヒットで落とされ、7番のゲッツーコースのセカンドゴロを二塁を守る助っ人の白井さんが弾いてしまったことで1アウトランナー1,2塁。まともに弾き返されていないのに、みるみる内にピンチだ。
「嫌な流れだな……」
さっきまでの俺たちの攻めていた流れがそのまま向こうに行ってしまったような嫌な流れだ。このイニングでは、先頭のおっさんのホームラン以外まともに打球は飛ばされていないのに、着実に俺たちの首は締まっている。
テキサスヒットやエラーは結果論とはいえ、やはり守備力の差は大きい。打順は下位とはいえ、俺たちの守備力の平均を考えたら、バットに当てられただけでも危険はあるしな。
続いて打席に入った8番打者はいきなりバントの構えを取ってきた。
「さっきの意趣返しか……」
相手には聴こえないようマスクの内で小さく呟いた。
これがプロやレベルの高い高校球児達の試合であれば、こんな展開でバントしたところで得点期待値は下がるだろうが、俺たちはその限りではない。むしろ今かなり本気でやられたくないことだ。
サインは高めに真っ直ぐ。手だけでバントしに行って打ち上げてくれれば儲けものだ。
「ボール!」
舞の初球はアウトハイで、打者の顔の高さ辺りまで浮いたボールだった。要求した位置よりもかなり高めに外れている。
バントを警戒しすぎだな。投げると同時に前に出てくることに気が行き過ぎて、体重移動が疎かになっている。
「舞、バッター集中! 1人ずつ取るぞ」
舞の焦りは俺にも分かる。転がされたら何とかしてサードで先行ランナーを刺したいのだ。ランナーを2,3塁に進められてしまえば、ミス1つで即逆転が視野に入る。俺たちの守備力と今日のおっさん相手にようやく掴んだ1歩のリードの重みを、舞は理解しているんだろう。
「落ち着いて行こう。内野まずアウト1つ取るぞ!」
次のプレーも大事だが、今避けたいのは四死球やフィルダースチョイスなどのミスでこちらの傷口を広げることだ。もういいところに転がされたらある程度は割り切るしかない――少なくとも俺はそう思っている。同点までは許容する。少なくともイチかバチかのギャンブルプレーはなしだ。
サインは高めへの真っすぐ。強い当たりでピッチャー前に転がしてくれるようなら先行ランナーを刺そう。まずは1つ、アウトを積み重ねる他ないだろう。
俺の出したサインに、舞が頷いて投球モーションに入る。勢いのあるいいボールだ。
バッターがバントの動きを崩さないことを確認しサードのこよみが猛チャージで一気に距離を詰めて来たが、バッターは落ち着いて膝を柔らかく使い、打球を綺麗に転がしていた。
マウンドよりもややファースト寄り、上手く勢いを殺された打球はこよみが追っても届きそうになく、取った舞が三塁転送して先行ランナーを刺すことも出来ないだろう。
「舞、ファースト!」
マウンド手前でボールを捕球した舞が、一瞬サード付近の先行ランナーをチラッと見て、ファーストに送球する。塁審がアウトコールをして、これでツーアウト。ランナーは2塁3塁にされてしまったか。思惑通りに進められている悔しさはあるが、切り替えろ。
「さて、どうやって守るかなあ……」
これでツーアウトとは言え、ランナー2塁3塁か。下手すればヒット1本で試合がひっくり返りかねないし、仮にエラーでもしてここで1点やってしまって追い付かれた場合、勝ち越すための1点を俺たちは取れるだろうか……?
「9番か……」
その件の9番打者が打席に入ってくる。さっきからの素振りを見る限り、スイングが凄く鋭い訳ではないが、それでももみじよりは振れていそうだな。自分の事は棚に上げて俺は勝手にそう結論付ける。
もしもここで切ることが出来なければ、同点ないし満塁で打順が先頭に還るか。
1番は今日の1打席目こそセンターフライだったが、バットは良く振れていた。ピンチで回したくないのは間違いない。
「楓、勝負するよ!」
「……ああ!」
ここは攻める以外の選択肢はない。初球のサインはツーシーム。枠ギリギリいっぱいの外に構える。
頷いた後、舞の右足が上がり、ゆっくりと作られたタメから弾き出されたボールは構えた俺のミットに寸分違わず叩きつけられていた。
「ストライク!」
「ナイスボール!」
初球のアウトローへのツーシームは、ホームベースの隅ギリギリを突いていた。本当にこれ以上ないくらいのナイスボールだ。
バッターが「え?」という顔で球審を見たが、まあそんな表情もしたくなるよな。判定辛い審判だったら多分ストライク取ってもらえなかっただろう。
「いいぞ舞、このまま押していくぞ!」
そう言いつつも次のサインはスローカーブだけどな。外のスローカーブを振らせて、最後は舞お得意のクロスファイアでのストレートで〆にしよう。
舞がサインに頷き、セットポジションから投球モーションに入る。
要求通りの外のスローカーブだが、少しだけ外側ボールゾーンに外れたか。しかしバッターの振り出したバットは、緩やかなカーブを先端で強引に捉えていた。
「ッ……!」
打たれた瞬間、思わず息を呑んだ。
弾き出されたボールは緩い小フライでセカンドの頭上を越える。これは嫌なコースだな。
「センター!」
「オーライ!」
おそらく定位置からかなり前寄りに構えていたらしい秋人が迷いのない疾走で真っ直ぐ右中間に突っ込んで来るが、それでも落下地点はかなり厳しい位置だ。
セカンドが下がるには難しい当たりだが、本来センターが捕るには前過ぎる。それでも秋人は自分が捕ると大声で主張し、セカンドの白井さんの足を止めさせた。
「秋人くん! 突っ込めー!」
ホームのカバーに走りながら舞が叫んだ。
ライナー性というには聊か緩やかに弾道の上がった打球ではあるが、このコース、定石だけで言えば待ってワンバウンドで取って2点目を防げばいいだろう。
しかし4回で1点リードしているとはいえ、今の俺たちにとってはこの1点は取られたら取り返す目処の立たない、与えたら黄色信号の灯る1点であることは間違いない。
ただ仮に秋人が後ろに逸らせばランニングホームランで逆転。2点差のビハインドまであり得る事を想定した時どっちが正し――
「だりゃぁぁぁあああ!」
最速での落下地点ダッシュから、ショットガンタッチさながらの低いダイビングキャッチ。秋人が飛び込んだ位置からボールは転がっていないようだが、果たしてどうなった?
「アウト!」
秋人が掲げたグラブの中に、ボールはきっちり収まっていた。俺が本職として外野手をやったことが無いという側面はあるかもしれないが、多分俺なら取れなかっただろう。
何より、今だって頭の中で迷っていたし、きっとワンバウンド待って同点で防ぐことに終始していただろう。これは技術というよりもメンタルの問題か。
「ナイスキャッチ秋人。助かった」
「まあね。……今日くらいはちゃんと楓を助けてやらないと」
「十分助かってるけどな」
今のイニングで、秋人にボールが飛んだのは最後の1球だけだったが、秋人は何故か本当に申し訳なさそうにそう言った。




