金曜日:僕は……②
ちょっとえっちかもしれません
閲覧注意?
すっかり日の暮れたグラウンドの片隅で、こよみのバットが風を切る音と、ソフトボールの鈍い打球音だけが闇に染みて行った。
籠いっぱいのボールをネットに向けて打つティーバッティングをこれで何セットしただろうか。いい加減下手投げでボールを給している俺も指先が冷えて辛くなってきた。なんでこんな日に限って手袋を忘れるかなあ……。
何故かこよみはアウトドア用のランタンまで持ってきていたし、今日のこれは朝の時点からやるつもりだったってことだろう。ただでさえ練習後なのに、その後に1人で何百スイングしたんだろう……。
「これくらいでいいです。付き合ってくれてありがとうございます」
15セットを超えた頃からもう俺も数えるのを止めていたが、果たして何球打ったのか。
長時間のバッティング練習で頬に滴り落ちる汗をリストバンドで拭いながら、こよみは溌溂と笑っていた。この笑顔、本当に打つことが好きなんだな。
「撤収も手伝ってもらっていいですか?」
「おう、勿論だ」
言われなくてもそれくらいはやらせてもらおう。他にやれることもないしな。
ネットでバウンドし散らばったボールを籠に放り込んで倉庫に戻し、こよみの持ち出してきたランタンポールを袋に仕舞い、ランタンを抱えて部室棟に向けて歩き出す。もうすっかり日は暮れて、グラウンドに生徒の声はしない。もうみんな帰っているだろうな。舞は今日どうしたかな。ちゃんと明日の試合に備えてノースローで調整してくれたのかな。
「明日のちょい悪ドラゴンズ戦、私も行きますね」
「え? こよみは大会前だろ? ソフト部の練習は?」
「午前中に軽く全体練習をして午後はオフです。試合前にしっかり各々でコンディションを整えろってことでした」
「だったら休んでないといけないんじゃないのか……?」
実際のところ顧問が配慮しても、休まない奴なんてごまんといる訳だけどさ。
俺も、舞も、俺達がライバル視する透も結構休んでないことが多かったっけ。俺達の場合は単に心身の調整が下手とも言うけど。
「……イジワル。大体それ先輩の言えたことじゃないですよね?」
「そうだな。これは一本取られたわ」
俺が言ったところで今更説得力は皆無か。それに来てくれる分には俺とチームにとっては喜ばしいことだし、怪我していないならこれ以上追及したりはなしにしよう。
「ほい。ランタンとポール。ちゃんと持ち帰れよ」
「それはそのまま私のロッカーまで持ってきてください。どうせソフト部はもう私以外誰も残ってないから気にすることないですよ」
「そうは言っても……」
流石に誰もいないとはいえ、女子の部室に俺が入るのは不味い気がする。その、倫理的に。
「つまり先輩は女の子に重い荷物を持たせて1人で行かせても平気な人ってことですね」
「いや、そういう訳じゃなくて……」
「それならか弱い私の代わりにちゃんとランタンとポール持って来てくださいよ」
か弱いって何? ギャグ? こよみの腕力、俺より強いよね? そもそも設営の時は俺がボール用意してる間こよみが自分で持って来て設営やってたよね?
「……良いからちゃんと持って来てください。投げ出すなんて許しませんよ」
「……分かったよ」
なんでこう変なところ頑ななんだろう……。そもそもランタンとランタンポールなんてそんな重い物でもないし。
文句を言いたい気はするが、実際に俺に危害が及ぶわけではないし、彼女に従いランタンとポールを持って付いて行く。部室棟は既に男子女子問わず照明は落とされ真っ暗だった。
こよみに続いて女子ソフトボール部の部室に入ると、砂埃と様々な種類の制汗スプレーの混じり合った臭いがした。この辺はあんまり男子女子で変わらないんだな。
「……扉閉めて、ちょっとだけそこの椅子に座って外の方向いててください。着替えるんで」
「いや、着替えるなら外出てるけど」
「ちょっとだけでいいんでそこにいて話し相手になってください。流石にこの時間に1人で着替えは少し怖いです」
「そんな時間だっけ……?」
スマホで時計を見ると時刻はそろそろ20時になるかという頃だ。確かにすっかり人気のなくなった学校で1人着替えって怖いか。俺も居残り練習していた時に覚えがない訳ではない。
「先輩だって身に覚えくらいありますよね? 短時間とは言え完全に無防備なんですよ?」
「……確かにそうだな。目を瞑った瞬間なんか物音がしたりとかするとビックリするしな」
俺も以前着替え中に、筋トレしてきた透が部室に戻ってきた音に驚いて飛び上がったことがある。一応こよみも女の子だし、その辺りはちゃんと慮った方がよかったな。
こよみに促されるまま俺はこよみに背を向けベンチに座り、ギュッと目を瞑り視界を閉じた。
「そうです。私だって一応女の子ですから、怖いものは怖いです」
「それはすまなかった。配慮が足らなかったな」
そんな話をしながらもこよみは着実に着替えを進めているらしい。スルリと布の擦れる音がする。目を瞑ると嫌でも聴覚が鋭敏になってしまう。こういう時は素数を数えよう。1、2、3、4――いや、4は素数じゃない。えっと次何だっけ? 心臓が口から打撃練習用のマシンさながらに飛んでいきそうな中で考え事をする方が無理だ。
散々ゴリラだなんだとそんな笑い話はしたが、こよみが女の子だということくらい俺にも分かっている。こよみは一体何を想ってこんな状況に放り込んだんだろう……。緊張を解すために手に狂ったように『人人人入入入』と漢字を指で描き続けるが全く落ち着きはしない。こんなもので現状の何が解決するっていうんだよ!
「ありがとうございます。着替え終わりました。もうこっち向いてもらっていいですよ」
どうやら俺が悶々とした思考に取り付かれている間にこよみの着替えは終わったらしい。少し安心したような、ほんの――ほーんのちょっぴりだけ惜しい気がした気がするが、まあよし! これでいいんだ。これで。
言葉に誘われるままに振り向くと、制服に着替えたこよみが何故かすぐ目の前で俺を見下ろしていた。……なんか、近くね?
「……本当に振り向いたりしないんですね。私、先輩のそういう一切流されずに誠実であろうとするところ、好きだけど嫌いです」
「あ――」
こよみの右手が俺の左肩に掛かった。状況を理解して質問するよりも早く、俺の疑問を制するようにこよみが口を開いた。
「一死満塁、ですね……?」
「どういうことだ?」
「……大チャンスです。でも凡打1つで全てが終わる。そんなピンチも入り混じったシチュエーションです」
こよみの説明は要領を得ない。一体何の謎かけだ?
確かに一死満塁は攻撃側にとって大チャンスではあるが、内野ゴロならどこの塁に投げても併殺で無失点に切り抜け得る守りやすい形でもある。
1アウト2,3塁なら失点を防ぐためにあえて守りやすい形にするために満塁策を取ることもある。だがそれと今の状態の間に何の関係がある?
「それはな――」
「こういうことですよ。先輩」
俺の質問が終わるよりも早く、言うが早いかこよみが動いて身体がぐらりと傾いた。
力は入っていたし簡単に倒されるほどの隙は見せていなかったと思う。それでも反応出来ない速さで肩を押され、俺は狭いベンチの上でこよみに押し倒されていた。
少し土色に煤けた天井と、仄かに桜色に色づいたこよみの頬、そして爪が食い込み、万力のような握力で握られたせいで肩に走る激痛。
身体を逃がそうにも、狭いベンチの上で既にマウントポジションに近い圧し掛かられ方をしては、俺なんかが手加減してどうこう出来る状況じゃなかった。
「……よみ。なんで……?」
「嫌だったら本気、出してもいいですよ先輩。先輩は優しいから、今日の放課後も今も、何だかんだ言いながらも本気で抵抗してはいないって分かってます」
こよみはそんなことを言うけどさ、自慢じゃないが俺はもう何年も本気の喧嘩なんて物はしていない。最後に誰かとやり合ったのは小学校の頃に秋人としたきりだ。あれから身長はあまり伸びなかったとはいえ、それなりに力は付いている。仮に本気で抵抗して手が出た場合、こよみを怪我させないとも限らない。
「こよみ、やめてくれ」
刺激しないように務めて穏やかにそう言い、俺の肩を掴んでいるこよみの両手首を握って、外す。こよみが握った俺の手を再度握りなおして、手四つのような形で組み敷かれながら俺とこよみは向かい合った。
「やめてくれ」
はっきりと、それでも穏やかにもう一度そう告げる。だが、その”懇願”にも、こよみが怯む素振りは一切ない。ただ口元に小さく笑みを浮かべるだけだった、
「駄目ですよ。私に”私らしくあれ”なんて言ったのは先輩です。今更その言葉を翻すつもりですか?」
「それは……」
「だったら、受け入れてください」
仄かにふわりと香る桃のようなの制汗剤の匂いと共に、唇にじんわりと熱を感じる。冷たい夜気を押し退ける熱い吐息と、ずっしりと掛かる体重、微かに震える指先。その感覚だけを残して、世界が止まった。
「……決して、冗談ではないです」
俺から顔を離して、こよみは少しだけつんけんした態度でそう言った。これが冗談だったら、俺は冗談で危うく死ぬところだった。耳が自分の鼓動を聞き取れそうなほど心臓は暴れまわり、全身が燃え出しそうなほどに熱かった。




