第6話 橘BBG始動!③
2024/6/6 全体改稿
秋人の一発以降出塁すらままならない【橘BBG】と、毎回のようにヒットやエラーでスコアリングポジションまで進めるが、ここまで脅威の12残塁と決定打の出ない【オジサンズナイン】の試合は、1-0と【橘BBG】が一応優位で終盤戦に移っていた。
6回の表、【橘オジサンズナイン】の攻撃は、高めに浮いたストレートを打った9番打者がファーストフライに倒れ、打順が先頭に戻ってきた。さて、これで打順も4巡目か。
「おたくはピッチャーがあの子しかいないのか?」
「ええ、まあ……」
顎髭の彼の質問に俺は言葉を濁すしかなかった。何せまさに言われた通りに、ピッチャーがいないのだ。
せめてやりたがる誰かがいれば別かもしれないが舞以外にそのポジションを希望する子はいなかった。
最悪秋人に投げさせることも考えたが、あいつは送球ならともかく、ピッチングをさせたら試合が崩壊してしまう。物理的に。
「草野球は高校野球と違うからな、絶対的なエースは要らない。全員で楽しむためにも負担が大きいピッチャーはどんどん変えていく方がいいぞ。チームのためにも選手のためにもな」
「そうですよね」
一応それは彼なりのアドバイスだったんだろう。俺も言葉ではそうやって返せるが、現実的な問題として現在【橘BBG】には舞以外のピッチャーはいない。
「せめて……」
脳裏に吹き出る『俺が投げられれば——』という思考。そんな物は無駄と切り捨て目の前の打者に集中する。今の【橘BBG】のピッチャーは舞1人だけだ。
肩を壊したポンコツなどマウンドに立つも値しない。
「楓、早くボール返してよ」
「ああ、悪ぃ」
生憎、今の舞に取れる配球といえばストレートでの力勝負しかない。その頼みのストレートも今や甘いコースに入れば相手次第ではホームランボールだ。
考えたところで工夫する余地さえない。
「4巡目か、どう攻めような」
マウンドに駆け寄り、ボールを舞に返しながらそう溢さずにはいられなかった。
投球練習を見たところそれなりにはストライクゾーンに入っているが、ボールに初回のようにキャッチャーミットを弾くような回転の鋭さも、スピードもない。単なる棒球でしかないのだ。もう相手の目もボールの軌道に慣れ切っているだろう。
もはやこちらに残った武器は舞の根性だけだ。
「楓、弱気はNGだよ。前向きに行こう」
「……ああ、そうだな。後アウト5つだ。行くぞ!」
舞の背をポンと叩き、鼓舞して本塁に戻る。触れた舞の背中はびしょびしょに濡れていた。おそらくアンダーシャツを絞ったら雫が垂れるくらいでは済まないだろう。
全力全開のパフォーマンスで、初回から走り続けて6イニング目——5回と1/3を投げて球数は93球。この回でほぼ間違いなく100球を超えるだろう。舞にとっては苦しい局面だ。
打順が先頭に戻って、1番バッターが右バッターボックスに入った。構えを取りながら首を振ってこちらの守備を見ている? サードのこよみもファーストの椛も定位置だ。
こちらの守備位置を見て、舞の投球に合わせてバッターが動いた。ファーストベースに向けて駆け出しながらのバントの構え、セーフティバントか。
「サード前!」
打球を絶妙に殺したバントが、構えを見てチャージを掛けて来たこよみと舞の前を点々と転がった。畜生巧いな。
反応の良かったサードのこよみが舞を制して捕球する。それでもこよみが捕球したときには既にバッターランナーはファーストベースの直ぐ傍まで到達していた。
バッターランナーの位置を確認して、こよみは投げなかった。送球の暴投やエラーで進塁されるリスクを考えれば多分俺もそうしただろう。
「すまん、俺の指示が遅かった!」
「すみません、私も出遅れました!」
こよみがマウンドまで寄って、舞にボールを手渡しで返す。
左膝に手を置きながらボールを受け取る舞は、明らかに下半身が重そうな足取りをしていた。それでも頬に笑顔を浮かべ俺と、こよみに向き直った。
「はいはい、楓もこよみちゃんも気にしない! まだ一死一塁。ピンチでも何でもないよ!」
セーフティバントに対する出足が縺れかけていたのを見れば、既に舞がバテバテで、余力なんて欠片も残していないのは分かる。それでも彼女は言葉で、表情で、プレイで、俺たちを鼓舞していた。それをいじらしいと思ってしまうのは、彼女に対して失礼だろう。
「ピンチヒッターの石井です」
宣告しながらさっきまで打順にいなかったバッターが右の打席に入ってくる。代打か。
2番は確かにここまであまり冴えたバッティングはしていなかったっけ。後2イニングだ。ランナーの出たここを好機と見ての代打攻勢か。だがこちらとしても引く訳にも行かない。3番はともかく、4番にはここまでマルチ安打を食らっている以上、ここで無為にランナーを増やす可能性のある手は打ちたくない。
「舞、ランナーは無視でいいぞ」
ファーストランナーのリードは小さい。牽制を入れても余裕で戻れるだろう。
どうせ舞のクイックが上手かろうと、どんなボールを投げようと、キャッチャーが故障者の俺では盗塁したランナーを刺すことは不可能だ。
さっきから3回ほどオジサン方がお腹を揺らして悠々と盗塁しているのだ。今しがた足を見せた顎髭の彼が塁に出て仕掛けてこない訳がない。
「バッター集中! まずここで1つ取るぞ!」
俺の言葉に無言で頷き、舞がセットポジションに入る。
早いクイックから投じられた1球目が、指に引っ掛かったように右のバッターボックスを貫いた。
「危なっ——⁉」
打者が大きく飛び退いて避ける。
咄嗟に打者が躱したボールを押さえ込むように、防具を付けた我が身を壁にする。腹に鈍い衝撃があったが、それだけだ。
「舞、ランナーは捨てていいぞ。バッター集中!」
そのランナーだって俺がショートバウンドの処理をしている間に2塁ベース上にスライディングさえせずに立っていることだしな。どうせ刺せないなら投手が気を払うのも無駄だ。
「うん、そうだね……。1つずつ行こう」
「深呼吸しとけ。ゆっくり攻めるぞ」
舞にそう声を掛けつつ、俺も1つ大きく息を吐き、吸い込んだ。
焦るな。どうせ今嘆こうが焦ろうが、舞に新たな武器が出来る訳でもなければ、俺の肩が治る訳でも無い。ある武器で賄わなくてはならない場面で、焦りは思考への足枷にしかならない。
舞がセットポジションから右足を振り上げる。しっかりと均整の取れたフォームから繰り出されたストレートがストライクゾーンのど真ん中に飛び込んだ。
「ストライク!」
バッターはバントの構えを見せながら、あっさりとバットを引いて見逃した。本当にバントをする気があるのか疑いたくなるような仕草だった。
続く3球目も真ん中だったが、バッターはバントの構えからバットを引くだけで平然とストライクを見逃した。
これが彼の作戦なのは分かっているが、陰湿なおっさんだな。既にスタミナの限界に喘いでいる女の子に対してバントの構えで揺さぶり、走らせ、潰そうとするか。
「舞、仮に当てたら俺か椛かこよみがチャージ掛けて潰すから、走らなくていい!」
「……ゴメン」
「大丈夫だ。弱気は無し! 全員で補うぞ!」
さっき舞が言ってくれたことをお返しする。舞はここまでもよく頑張っている。今度は俺たちが盛り立ててやる番だ。
4球目は外角低めへ大きく外れてワンバウンドするボール球だったが、俺が飛び付いて後ろには逸らさないよう止めた。これで2ボール2ストライク。セカンドランナーには三盗を決められてこれで一死三塁だが、もし今の一球、後ろに逸らしていれば失点してたな。
球審にタイムを依頼し、砂に汚れたボールをズボンで拭いながらマウンドに駆け寄る。内野の櫻井姉妹と椛、それに椛が連れて来てくれた美術部の友達も集まって来てくれた。
「舞、大丈夫か? 今のボール殆ど指に掛かってなかったぞ」
「ゴメン。止めてくれて助かったよ」
「まあボールは止まっても、ランナーには進まれてるんだけどね」
椛が冗談めかしてそんなことを言ってくれるが、試合前から分かっていた上に、今の盗塁がこの試合1つ目でもない。今更な話だ。
「それを問題視してくれるなら、椛が秋人を説得して捕手やらせてくれ。俺だってやりたくて舞の足を引っ張ってる訳じゃない」
「とりあえず先輩たちの愉快なコントは後回しにして、どう守りましょうか? この1点、取らせたらいけない1点ですよね?」
櫻井姉妹の姉、こよみが脱線しかけた話を引き戻し、核心を突いてくれる。そう、このサードランナーは生還されればこちらにとっては黄色信号の1点だ。
「そうだ。だから内野全員バックホーム体制で行こうと思う。えっと——白井さんもボールを捕ったら俺に向けて投げてくれ」
今までの得点の動きを見るに、試合の帰趨を決めるだろう1点だ。全員で取るべきプレイを確認し、秋人達外野陣にも前進守備を促した。タッチアップによる1点すら許容するつもりはない。
タイム明けの舞の投じた5球目に力は無かった。緩い回転、甘いど真ん中。完全に失投だ。
今までバットの中央あたりを支えていた手が動き、バントの構えからバットをスイング出来る状態に構え直した。ヒッティングか。
軟式野球に特化したバットがボコンと言う鈍い音を立て、ボールを捕らえた。だが打球の球足は鈍くない。強烈なピッチャー返しが投球モーション直後の舞の右肩辺りを襲った。
「——!」
驚きは声にもならなかったらしく、前に出てしまった舞の目が大きく見開いた。
ボールはほぼピッチャーの正面だが、反応して捕球するには相対距離が近すぎる。
「避——!」
避けろ。俺はそう叫んだが舞にそのつもりは無かったらしい。
舞は直撃コースのピッチャー返しに何とかグラブを出そうとしていたが、間に合わない。
ボールが舞の右上腕に当たり、マウンド後方に大きく跳ねた。打球の勢いは幾分弱まったが、それでもセンター前に抜けるのは避けられないか。1秒にも満たない中で、俺はそう覚悟した。
セカンドベース間際に小柄な影が飛ぶ。櫻井姉妹の妹、ちひろの美しいダイビングキャッチが、舞の腕で跳ねたボールを地面に落とすことなく救い上げた。
「アウト!」
3塁塁審がそう宣言する。ライナーが守備側のプレイヤーに直撃し、それをノーバウンドで捕球すればアウトだ。記録上は投手に捕殺が付くショートフライになるんだっけ。
姉とよく似た愛嬌のある顔を土埃に染めながら櫻井姉妹の妹、ちひろが立ち上がり。しっかりと目で帰塁した三塁ランナーを牽制しながらマウンドの舞にボールを渡しにいく。
「ナイスプレイ、ちーちゃん」
「そんなことより、星野さんの腕が大丈夫ですか?」
「ボクは左利きだからね、右腕にボールが当たるくらいなんてこと無いよ!」
「それでも、身体は大事にしてください。草野球でピッチャー返しの直撃を喰らって怪我なんて馬鹿馬鹿しいじゃないですか」
「…………そうだね。次からは気を付けるよ」
明らかにちひろちゃんの言葉に対して何か言いたげな表情を浮かべながらも、舞はそう言ってボールを受け取った。
ちひろちゃんのファインプレーのおかげで命拾いしたことに安堵しつつ、瞬間の判断でボールがセンター前に抜ける未来——即ち敗北を受け入れてしまった自分が恥ずかしくなった。
それにしても、絶対に抜けたと思ったが、アレが中学生の女の子の守備か。自信が無くなるな……。
「ワンアウトですよ、バッター集中で行きましょう!」
そう言ってちひろちゃんが守備位置に戻っていく。確かに彼女の好守で今のプレーでの失点は免れたが、依然2死3塁。ピンチは続いている。
続く3番バッターはフルカウントまで縺れ込みながらも、結局8球目がワンバウンドし歩かせる羽目になった。今の3番打者の打席で、舞の球数は100球を超えた。握力が落ちてきているのだろう。ここに来て抜け玉が更に増えて来た。
「もうツーアウトだ! 1点も遣らないぞ!」
嫌な流れを振り切るように、俺は声を張り上げる。そんな俺の言葉も体で遮るように左バッターボックスに入ってきたのは【オジサンズナイン】の4番打者だ。
2死1、3塁で打席には今日マルチ安打の4番。塁は1つ空いている。満塁策も一考の内には挙がるが、2死から塁を埋めてもこの局面でリスクを利益が超えることは無いだろう。この試合における脅威度では4番と5番の間にそう大差はないのだから、
「ここ勝負でいいのか……?」
マスクを被り直しながら再度自問する。危険な気はする。だが彼を敬遠したとして後続に捕まらずに抑えきれるかと聞かれれば首を傾げる程度。
「バッター集中だよ、楓!」
劣勢も劣勢、真綿で首を絞めるどころか、首に断頭台の刃が押し付けられている状況ですら、舞は笑って見せてきた。それが既に何の裏も無い空元気だという事は分かっている。
「ったく……。いいよ」
覚悟なんて良い物じゃない。こんなものはただの短慮だと理解しながら、ミットをストライクゾーン低めに構え直す。
悠々と構える巨漢の威圧感は相当なものだ。マウンド上の舞はミットを構える俺以上にそれを感じているだろう。
「プレイ」
主審のコールを聞き、舞が大きく振り被る。足を上げ、投げられた第1球は、あわや打者の顔面へデッドボールという危険球だった。
「すみません! 大丈夫ですか⁉」
「ああ、当たってないから大丈夫だよ。むしろあの子の方が大丈夫? 代えてあげないの?」
「それは……」
舞が打者に帽子を取って頭を下げる。どう見ても筋力的に限界ということは分かっている。ただし投手経験者は舞を除けば肩を壊した俺しかいない。今からどうにか出来ることは無い。
「あはは、バッターに当てれば打たれてないってトンチはちょっと辛いかな……?」
小さな肩を上下させながら、ボールを受け取る舞は一応笑って見せる。しかしその空笑いが余裕のなさの現われということくらい、見れば分かる。
「ばーか、お前が狙ってないことくらいすぐ分かる」
「あ、やっぱり?」
舞はペロっと舌を出してイタズラっぽく笑うが、必死で手をグーパーさせ、肩で息をしているのは誤魔化しようもない。察するに、握力が厳しいのだろう。
「大丈夫。ボクがみんなを巻き込んだんだから。ボクが勝たせるよ」
「舞。気負い過ぎるなって」
「大丈夫だって。ボクはこんな所で負けていられないんだから」
舞はしきりに『大丈夫』と口にするが、どう傍目に見ても大丈夫ではあるまい。
それでも、俺に出来る事は彼女を信じる事だけだ。彼女が勝たせるというのだから、その言葉を信じ、その言葉に殉じてやろう。短慮だと分かっていても、今の俺が彼女にしてやれることなどそれくらいしかない。
「プレイ!」
試合が再開される。既に2死。この4番打者を相手に勝負するという方針に変わりはない。内野外野とも定位置に戻らせ、万全を期す。
「肘が下がらないようにな。フォームは注意しろ」
俺はそう声を掛け、地面擦れ擦れの低めにどっしりと構える。
舞が小さく1つ頷いた後、大きく振り被る。その指先から投じられたボールは変化もなければ伸びもない。ただ甘いど真ん中だった。
寸分狂わず振るわれたバットがボスンという鈍い音を立てて、舞は反射的にバックスクリーンを見上げた。俺も、グラウンド上の他の選手も、ダグアウトも向こうのチームの選手も一斉に。
「秋人バック!」
半ば諦めながらも指示を飛ばす。鈍い音だけを聞けば討ち取ったようだが、グラウンド内の野球経験者は一瞬で何が起こったのかを看破した。
高々と上がった打球は、半身で右中間後方へ全力疾走する秋人をあざ笑うかのように、そのままフェンスを越え木々の間に突き刺さった。
「ホームラン!」
球審がそう宣言する。無情な逆転のスリーランホームランだった。
「…………ごめん楓、抑えられなかった」
努めて明るく振舞おうとしているのだろうが、舞の表情に少し影が落ちる。確かにいい当たりは飛ばされていたが、それでもこの場面で逆転の柵越えを打たれたのはかなり堪えたのだろう。
球審からボールを受け取りまたマウンドに立つ舞に、さっきまでの闘志はない——疲労した体を支えていた最後の糸が切れてしまったように。