エピローグ 自分らしいスタイルで
週明けの学校でも舞の試合への興奮は冷めなかった。それも当然か。連敗からの久し振りの勝利が、ロースコアからの主砲復調による劇的なサヨナラホームランだ。
俺だって未だに瞼に焼き付いて離れない美しいアーチだった。勝利を渇望していた舞にはその恵みによる嬉しさも一入の事だろう。
「やっぱりこよみちゃんは凄かったね! 女の子なのにあんなにパワフルなんて、ボクも負けてられないよ!」
「俺も同感だ。凄いということは分かってたけど、あそこまでとは思わなかった」
俺もようやく1本が出たとはいえ、あのアーチストには逆立ちしても俺の打撃では敵いっこないと思えてしまう。それでも何もせず負けるつもりはない。ネガティブになったら舞にビンタされちまうからな。
何より、野球の構成要素は打撃だけではない。守備、走塁、インサイドワーク等々、総合能力なら『俺達』は負けない。強くなる方法は1つじゃないのだから。
「おはよう。翠川、それに星野さん」
校門を通り過ぎたところで聞き慣れない声に名前を呼ばれ、後ろを振り返ってみたら浩美——ピロが立っていた。
「ピロかおはよう。賭けは俺の勝ちだったな」
「うん……。知ってる。ナイスバッティングだった」
「まあ白状すると、半分くらいは偶然みたいなものだったけどな。多分もう一回やれって言われても厳しいし……」
苦笑いと共に、俺はそう白状する。
よく飛ぶと評判のビヨンドマックスに高い弾道、中々の追い風でレフトポール際スレスレという幾つもの幸運を重ねて、ようやく届いたホームランだ。飛距離だって90mギリギリで、公園の外周フェンスまでぶち込む化け物にしてみれば打ち損じみたいなものだろう。
「ばーか。偶然でも何でも、打てるだけの努力をした奴にしか打てないようになってるんだよ。アンタの努力も無駄じゃなかったってことだし、あのタイミングで打てたって言うのは、野球の神様が『私達』を見ていてくれたって事じゃない」
俺の打撃も苦手なりに多少は前進があったという事だろうが、お互いを同類だと認識しているピロからそう言ってもらえると嬉しいな。多分3か月前の自分に『3ヶ月後に草野球で人生初のオーバーフェンスのホームラン打っているぞ』と言っても信用しないだろうけどさ。
あの1本は、きっとピロの言う通り野球の神様の思し召しだったのだろう。
「ねえ、翠川」
吐いて、吸って、一呼吸。
間をおいて、ピロの頭がペコリと下がった。旋毛までしっかり見える不動の礼だった。
「……この間はゴメン。私、アンタに八つ当たりした」
「謝ることはねえよ、お互い様だ」
この間というのは、先週俺が呼び出した時の件だろう。あの時のピロは見るからに面白くなさそうにピリピリとした空気を纏わせていたし、俺も只管頑ななピロに少しイラついていたからな。
当事者なのに解決を諦め逃げようとしたピロと、部外者なのに解決させたくて突っかかった俺は完全にお互い様だ。笑って流した俺に、ピロは頭を上げて話を続ける。
「壊れるまで1人で練習の虫だったアンタに比べたら、私には出来ることがあったのに、不貞腐れて何も出来てなかった——いや、何もしなかっただけだって思い知った」
「俺については正しい努力をしなかったせいで壊れた奴のことなんだから、ピロが気にすることはねえよ。ただ悪いと思ってるなら、あるがままのあいつに張り合ってやってくれ。同調圧力であいつを捻じ曲げるんじゃなくてさ」
それは俺の偽らざる本心だ。俺や舞がライバル視している透や、ピロにとってのこよみのような眩い才能を目の前にして、絶望することはあるだろう。戦い方が見つからないことに心がチリチリと焼き焦げるようであっても、そいつらの足を引っ張ることはただ自分を惨めにするだけだと。そう思っている。
「そんなこと言っていいのかな? 私がアンタの可愛い後輩からサードのレギュラー奪い返しちゃうよ?」
「構わねえよ。やっちまえ。実力で奪われるならあいつは何も言わねえよ」
ピロだって並みの女の子に比べればずっとセンスがある。きっとこよみという怪物が相手であろうが戦えるはずだ。
実際こよみにだって穴はある。三塁手としての守備能力はピロの方が1枚上手だし、ケースバッティングや小技、走塁については2枚以上ピロの方が巧いだろう。打撃だけが野球の巧さ、強さではない。『俺達』が強くなる方法は幾らでもあるのだ。
「俺はピロに証を立てたぞ。次はピロが見せてくれるんだろ? 俺達も戦えるってさ」
ピロにそう告げる俺自身も、きっと見たいのだろう。特別な何かに恵まれなかった俺達だって、そいつらと戦えるという証明を。だからこそ俺は彼女を『戦友』として鼓舞する。
「ありがとうみ——楓」
「なんだよいきなり。いつも通り苗字でいいじゃねえか」
今もピロの瞳は少し恥じ入るように揺れていたが、それでもこよみを排斥することしか頭になかった時よりはずっと楽しそうだし、重荷が取れたかのように足取りも軽い。
「あんたの約束は絶対守る。私がキャプテンとしてチームを変えるから、見ててね」
気恥ずかしくなるほど真っすぐに俺を見据えてくるピロの目に迷いはない。きっと彼女はまとめ役としても、プレイヤーとしても、まだまだ1枚も2枚も成長するだろう。俺も負けていられないな。
「ああ。頼んだぜ」
「それと、またタイミングが合ったら草野球、参加させてね」
「もちろん大歓迎だ。【橘BBG】はいつでも野球がしたい全ての女の子を受け入れるぜ」
差し出されたピロの右手をギュッと握る。何だかんだ男の手をした俺に比べて細くしなやかな指だ。
だが、右手の小指の付け根のタコの硬さも、スカートから伸びる逞しい脚も、ピロもまたプレイヤーとして高みを目指していることの証明に他ならない。それが何故か嬉しかった。
「じゃあまたグラウンドでね! ちょっと今は急いでるから!」
なんか俺から視線を離して意味ありげな目配せをしたが、なんだったんだろうな? 意味が分からなかった。
まあなんにせよ、こよみは復調できたし、現役ソフトボーラーの新戦力が増えて、終わってみれば万々歳だな!
晴れやかな気持ちでピロティを通り抜けようとしたところで、またも聞き知った声が俺たちの足を止めた。
「楓先輩、舞先輩、おはようございます!」
170センチ以上ある俺や舞よりもかなり大きな背丈、浅黒く日に焼けた顔いっぱいに笑みを湛えて、件のアーチストが俺たちに手を振っていた。
「さっき先輩方と一緒にいたのってあれ田中山先輩ですよね? 楓先輩、あの人と仲良かったんですか?」
「多分悪くはないと思うけど……。どうかした?」
「なんか部活中よりも先輩が元気そうだったんで」
こよみが訝し気にそう言うが、その答えなんて俺にとっては自明の理だ。
チームを覆う同調圧力。自分の力への疑念と諦念。届かないと思い込んでいる相手に挑むことへの不安。色々な物が彼女の中で氷解したのだ。色々と言語化出来ることはあるが、一言で言うなら——
「憑き物が落ちただけだろ」
「憑き物、ですか……?」
チーム内の人々の思念や、自分自身の疑念とそういった憑き物が足を鈍らせるが、きっとピロはもう大丈夫だろう。さっきの笑顔を見れば、俺もそう信じられる。
「ああ、きっとアイツはまだまだ伸びるからな。折角奪取したレギュラー、奪い返されないように気をつけろよ」
それはピロの宣誓であり、俺の密かな願いでもある。
ピロがこの糞生意気な後輩から実力レギュラーを奪い返して、こいつを凹ませてくれたらさぞかし痛快だろう。同じくらいこいつに頑張って欲しいという思いもあるけどさ。
「それはもちろん頑張りますけど……」
そう応えるこよみの方は妙に歯切れが悪いな。折角一発出たのにまだ何か気になることでもあるんだろうか?
俺なんて細々した悩みは言い出せばキリが無くなるが、まだ手に残ったあの不格好なホームランの感触でそれも考えずに済んでいるんだがな。
手をグーパーと握って開いてしている俺を見て、こよみが切り出してくる。
「その……。先輩に約束の履行をしてもらいたいなぁ……。と思いまして」
「ああ、それで俺に何をさせたいんだ?」
今回ソフト部の面々と同じくらい悪いのは、こよみとの約束の全てを単なる思い出とラベルして、忘却の彼方へ追いやった俺だ。
こよみの言う『言うことを聞く約束』の履行についてもかなりの譲歩は覚悟の上だ。少々高額な出費も覚悟しておかないとな……。
「ちゅーしてください。駄目ですか? かえくん?」
こよみが口にしたのは、俺達が一緒に少年野球をしていた頃の呼び名だ。
普段俺を弄って来た時のように作った風でもなく、こよみが俺に耳打ちしてきたあの秋の日の続きのように、未だ俺の背にくっついて来る少女のように、こよみはそう言った。今までの王子様然とした漢らしい外見とのギャップに、脳の理解が追い付かない。
それで、今こよみはなんて言った? 聞こえはしたけど音として耳に入っただけで、耳から脳に情報が伝達されなかった。脳が理解を拒否しているとも言う。
「え? ……ぇ? どういうこと……?」
こよみが昔、俺のことを好いていてくれたことは一昨日本人から聴かされた。だがそれはあの頃のこよみと、あの頃の俺の間の話だ。今の俺たちの話ではない。
今のこよみと俺の間で、約束を何らかの形で履行することも約束し直した。そこは秋人みたいにジュースとか焼きそばパンとか言うところじゃないのか?
「相変わらずの鈍さですね。先輩。まあ私はそれが演技でもなくて天然なのを知っているので構いませんが」
そういってクスリとこよみは笑って見せる。手を伸ばせば届く距離で、クールかつ力強さを感じる切れ長の目が俺を見下ろしていた。
変な力の入らない自然で彼女らしく凛々しい笑顔は、性別を超越して人を惹きつける力があるが、それと俺の脳がショートしていることは多分別問題だ。
「それで、どうなんですか? 私とちゅーするのは不満ですか?」
「不満とかそういうことではなくて、こよみはそれでいいのか? 多分後悔するぞ?」
「ははっ、先輩はバカですねえ……」
呆れたように芝居っぽく被りを振るが、その目は俺から離れていない。この場から逃げだそうとすればおそらく肉食の捕食者の如く追いかけてくるだろう。
脚力自体は俺の方に分があるが、授業が始まるまで逃げ回るわけにもいかない。選択肢は封殺されたに等しい。
「これが私の望んだ——いや、違いますね。望んでいる結末ってことです。先輩に女の子らしく扱って欲しいとか、女の子達の中で女の子らしく振舞おうとか考えてましたけど、先輩のあの叱咤で目が覚めましたから」
確かに俺はあの日グラウンドで彼女を叱咤した。「自分らしさを貫け」と言った。
そして今、それが彼女のありのままとでも言わんばかりに、両目に爛々と漲る願望を隠すでもなく見せつけてくる。まるで肉食動物の檻の中に餌代わりに放り込まれたようだ。
「先輩が言ってくれたように、私はありのままの私で勝負するって決めたんです。他の人がデカ女とか、可愛くないとか陰口を叩いていても、先輩は今の私を受け入れてくれるって言ってくれたんで」
こよみが何かを決心するように拳をギュッと握りしめ祈るように目を瞑る。だがいずれにせよ俺の目には何かをやらかす前の仕草に見えることには変わりない。
どうやって往なそうかと思っていたらピロティの固く冷たいコンクリート壁に背中が着くところまで追いこまれていた。いつの間にこんなところまで?
「だから私は決めたんですよ。私は私の自分らしさ——つまりは腕力に訴えてでも楓先輩をいただくことを!」
「その理屈はおかしいだろ⁉」
「じゃあ先輩が私に言ってくれた言葉は嘘だったんですか……? 自分らしい私で良いって、魅力的だって先輩が言ってくれたんじゃないですか……?」
確かに俺はそう言った。完全に言質を取られているけど、だからと言ってこれは絶対おかしいでしょ⁉ 何がおかしいか説明しろって言われても分からないけど!
「それは……。確かにそうだけど……!」
「じゃあ大人しく手籠めにされてくださいね?」
輝くような白い歯を見せイケメンスマイルを披露しながら、こよみが迫って来る。筋骨隆々の彼女の右手にそっと左手を取られ、頭の上で壁に押し付けられた。
「ちょっと待ってこよみ、ここ学校だよ……?」
「別に場所なんて関係ないですね。先輩は嫌なんですか?」
「嫌も何も、俺たちそういう関係じゃないだろ……?」
「だから嫌だろうが何だろうが先輩を『いただきます』って言ったじゃないですか? 私らしさを以て先輩を篭絡する。先輩の言葉通りです。何もおかしなことはしていませんよ?」
その訳嫌だな。こよみに美味しくムシャムシャされそうだ。
そしてあの時の「すきでした」という過去形の独白はなんだったんだ⁉ アレは決別の言葉じゃなかったのか⁉
ヤバい、ヤバい……。どうしよう、ヤバい以外の考えが出てこない。逃げようにも何の変哲もなく握られ頭の上で壁に押し付けられた左手は動かない。空きの右手で後輩の女の子をどついて逃げるのか? いや、流石にそれは駄目だろう。
そもそも彼女の行動に正当性を与えているのも俺の言葉だ。
「や……。ぁ……」
「さあ先輩、顔を挙げてください」
そう言いながらこよみの左手が俺の顎を指先で持ち上げてくる。
こういうのは少女漫画とかでイケメンが美少女にやるから絵になることであって、俺がされる側で誰が喜ぶんだよ!
いや、喜ぶのはやる側のこよみか……。駄目だ。緊張し過ぎて頭がボーっとしてきた。
「なあに、すぐ終わります。天井のシミでも数えててください」
「ちょっと待って! それ女の子の台詞じゃないから! 離して! お願い話を聞いて!」
「終わったら幾らでも聞いてあげますから、大人しく——手籠めにされろ」
「命令形⁉」
押しの強さに思わず体が委縮する。あれだけお互いをゴリラだの非力だのと軽口を叩き合っていても、こうして間近で接近すれば分かってしまう。俺は男で、こよみは行為そのものこそイケメンの所業だが、やっぱり女の子なんだと。普通仕掛け側と受ける側が反対だろとか言いたいことはあるけど。
こよみの目から逃げるように視線を下に向けると視線を遮るようにこよみの豊かな胸元が揺れた。視覚的な暴力に咄嗟に眼を背けたが、その顔もこよみに後頭部を抑えられ、逃走を封じられる。
「まずはおでこからです。その次はメインディッシュに先輩の唇を――」
慈しむようにふわっと柔らかにほほ笑むこよみだが、その間も油断はなく、左腕を拘束する力は全く抜けていない。手首痛い……。
迫る顔から眼を背け、顔を背けようと頑張るがこよみは迫ってくる。俺に対する嫌がらせなのか、時間を取って弄ぶようにゆっくり迫ってくる。もう本当に全力で押し合って逃げてやろうか!
一瞬本気で走って逃げる事が頭に浮かんだ瞬間、横合いから伸びて来た細い指の小さな手がこよみの顔面をグッと握っていた。
「ふぅ、危ないところだったね」
迫るこよみの唇を退けたのは、俺の隣に立っていた舞の掌だった。
「まいぃぃぃ……」
「さっきから聴いてたけど、こよみちゃんは、ボクの楓に何しようとしてるのかな?」
舞が俺に背を向けたまま少しツンとした口調で尋ねる。……なんか怒っている?
ただ、悪いが舞、お前のボールを受け続けてやるとは言ったけど、俺はお前の所有物にまでなった覚えはないぞ。
俺の手を離し、舞の手から軽々と逃げたこよみもどこか臨戦状態に見えるが、何と戦う気なんだ?
「ふうん、舞先輩は楓先輩の何なんですか?」
「相棒——」
「そうですか、それはグラウンドの上での関係ですね」
「——のような、戦友のような、友達のような、チームメイトで恩人。……なのかな? クラスメイトではないもんね」
そういえば何かふわっとした関係だな。俺たち。まあその関係で困ったことはないし、事実そういう関係なんだけどさ。
「ならちょっとだけ脇にズレていてください。グラウンドでは舞先輩に返すんで」
「ちょっ⁉ 俺の自由意志は⁉」
「そんなものの所在は後で考えましょう。先輩が思った以上に、それこそ呆れ返ってしまうくらい鈍感なので、今1つだけ教えて差し上げます」
こよみが1つ小さく息を吸い込んだ。力強いようで、小さく震えていて、女の子らしいか弱さとこよみの力強さが入り混じった一呼吸。まるで会心の一振り直前のような空気をまといながらこよみが口を開いた。
「楓先輩——私は楓先輩のことが大好きです。小学校のあの時から、今も」
その言葉は力強く風化しない、櫻井こよみの生の言葉だった。
<了>
第2章完結!
2024/12/23改稿




