幕間 古いアルバムの中に
夕暮れのグラウンドには俺たち2人しかいなかった。夏の過ぎ去った肌寒い風の中、俺の耳を擽る少女の吐息だけが熱かった。
顔が思い出せないが、俺の肩にぶら下がるように捕まっていた小さな少女は俺の記憶の中だけではなく秋人の記憶の中にもあった。
『ねえ、かえくん』
耳を擽るその声が何度俺をからかい、俺が悩まされたかは覚えていないが、とにかく苦労させられた覚えだけは身に焼き付いた徒労感のように残っている。
決してあの日秋人が言っていたことに感化されたわけではない。ただうっかり思い出してしまうと俺もその少女のことが気になってしまっただけだ。
それを感化されたというのならもうそういうことにしておいてくれていいよ。
「誰だったんだ、あの子……」
記憶は既に遠い日の思い出になっている。チームメイトの顔だって日常的に見ている秋人の顔以外は正直朧気だ。みんな野球やらなくなって散り散りになり、会わなくなればそんなものだろう。
秋人の言う少女もそんな子がいたということしか覚えておらず、顔を思い出すためにアルバムを引っ張り出す羽目になった。
「早めに寝ないといけないんだけどな……」
明日は前回負けた【常葉スパイダース】との再戦だ。寝不足の中途半端なコンディションで臨めば舞の叱責は避けられないだろう。それでも一度気になると寝られないようになってしまうのは人情だろう?
スコアブックを挟んだアルバムは1ページを捲るごとに俺の楽しかった記憶も苦かった記憶も全てを鮮やかに蘇らせてくれる。見ている分には楽しかったが俺たちのチーム【橘ブレーブス】の勝率は5割なかっただけに、必然的に俺に蘇ってくる記憶は苦いものの方が割合は多かった。
「……俺、やっぱり勝ててなかったんだな」
トータルで見れば防御率は2点台後半といったところか。単純な値を見れば、大体1試合で平均して3点取られるくらいの計算だ。防御率自体は丁度舞と同じくらいだが、まさか負け運までそっくりとはな。
俺の平均援護率も舞のそれを笑えないくらいに低い。ちょっとトーナメントを勝ち進むとすぐに完封負けが出てくるという有様だ。
たまに勝った試合があったかと思えば偶然のような1点と偶然のような完封勝利の合わせ技だった。勝利打点は見れば勝った試合の多くのところに秋人の名前があった。分かってはいたけど、俺本当に打てなかったんだな。
ページを捲る度に思い出される試合の数々が焼き付けられていたが、肝心の女の子の姿は中々なかった。このアルバムは俺たちの世代の退団記念だから、俺たちの世代の写真ばっかりになるのは仕方ないんだろうけど、こうして見返すときに一緒にチームにいた他の学年の子を思い出せないのは少し不憫だな。
もう1枚、ページを捲る。次のページはおそらくチームの忘年会の写真だったんだろうが、写真の中央にミニスカサンタ姿で自棄染みた笑顔を振りまきながらポーズを取る少年の姿が写っていたのですぐにページを閉じた。
この時の主犯は……。いや、この時も椛だったな。
酒が入っていたせいで関係者の大人みんなが出し物だと思ってまともに取り合ってくれなかったが、あの時のもみじの顔は邪悪そのものだった。秋人も笑って見てるだけだったし、本当に酷いチームだったな!
「椛のやつ……!」
思い出したら椛に文句を言いたくなってきたが、こんな写真を片手に椛に文句を言えば返り討ちにされそうだったので深呼吸をして冷静になるよう努めた。短気はいけないな、うん。
その次のページもまだ忘年会の写真が続いていた。一体こんなもん誰が撮ったんだよと思うほどに俺の姿ばっかりだ。だが一緒に写っているのは秋人でなければ椛でもない女の子だった。何故か彼女も俺と同じくミニスカサンタだ。本当に何やってたんだろう、このチーム。
横に並ぶミニスカサンタ姿の俺よりも頭半分くらい低い背丈。当時の俺が既に秋人よりも頭半分くらい小さいことを思えば、女の子も結構小さい方だろう。
2人で腕を組んでノリノリ(という名のヤケクソ笑顔)で写真を取られている姿なんて姉妹にも似た気安い空気感が滲んでいた。
「この子か……」
朧げな記憶の中で俺に笑いかけていた少女。快活そうな笑顔が舞と被る小さな女の子は、全部俺の近くで写真に写っていた。尤も、本当に忘年会の間長時間俺の近くにいたのか、たまたま俺の近くにいたところだけを抜き出してアルバムに閉じてあるのかは今の俺には分からないが。
「……かわいい子だったんだな。ホント、秋人の言う通り勿体ないことをしたかもな」
年相応だろうあどけなさがありながらも、写真の中で俺の腕を引いて行くときの少しだけ大人びた表情が少しだけドキリとさせられる。
人を惹きつける妙な魅力がある女の子だ――というか当時小学生の女の子に今ドキリとさせられていてはこよみに言われたロリコンが言い返せなくなっちまうな。少しだけ自重して俺は指を次のページに進めた。
次のページの写真は年明けの引退試合の物だった。卒団生チームは俺が投げていたらしいが、まあなんというか大人気ない投球だった。秋人からも「公式戦でそれやろうよ」と言われてしまうくらいには力の籠った投球で後輩相手に無双していた。
スコアは1安打完封。相手の4番にシングルヒットを1本打たれただけだった。試合を決めてガッツポーズする俺の姿が後輩相手に大人げないって? たとえ後輩相手でも打たれるのは嫌なんだよ。
最後の写真ページを捲ると、アルバムの最後に残されたのは卒業アルバムとかにもよく見られる寄せ書きページだった。
ただし、多分寄せ書きのページだって言われなかったらこれがアルバムのどのページなのか分からないくらい、見開きのページはカオスなことになっていたわけだが。
『いつまでも楽しく野球しようぜ 赤木秋人』
よく言うよ秋人。お前この寄せ書き書いた2ヶ月後に『坊主やだ』とか言って中学の野球部辞めたじゃねえか。まあ約5年越しに今一緒に野球をやっている訳だから言いっ子無しかもしれないけどさ。
『またかわいい恰好しようね。次は巫女服かな? ナース服かな? 青木もみじ』
そして椛、お前は流石に自重を覚えろ。
手先が器用なのも知ってるけど、男のアルバムの寄せ書きにフリフリ付きのドレスとかメイド服とか書くんじゃねえよ。つーかアルバムなんて貰った直後しか見なかったけど、よく見たら寄せ書きは3人分しかなくて、空白スペースになるはずだったところのほぼすべてを椛が悪ふざけで書いた絵が占めてんじゃねえか。なんだよこのカオスな有様。
最後の1人の寄せ書きは椛の悪ふざけと、便乗した秋人の悪ふざけのせいで、紙幅の残り少ないページ下部に小さく整った控えめな字で記されていた。
『また一緒に野球をするときは私が勝たせてあげますね。だからその時まで待っていてください、せんぱい♡ こよみ』
「秋人の言ってたことが正しかった……?」
女の子らしい丸みを帯びた文字にハートマーク、写真に残った仲睦まじい姿といい、秋人の言っていたことがまるで事実のようだった。普通の関係なら異性の先輩の卒業アルバムにこんなこと書かないよな?
ハートマークが付いているだけで飛躍した勘違いし過ぎだって? 仕方ないだろ、モテない男って奴はこんなものでも期待しちゃうんだよ! 誰に言い訳してるのか分からないけどさ!
「こよみ……?」
そしてそれ以上に問題は名前だ。まさかの『こよみ』かあ……。確かに今身近にいる櫻井さんちの姉妹の片割れが同じ名前をしてるけど。
「……いや、似てないよな」
ぱっちりとした目にすらりとした顔立ちは将来この子が美人になるだろう素地を窺わせるが、ゴリゴリな俺の知るこよみとはイメージが合致しないにも限度がある。
寄せ書きページの先の最後の最後。裏表紙裏に貼ってあったのは在りし日の【橘ブレーブス】のチーム集合写真だった。
「秋人と椛は相変わらずだな」
集合写真のど真ん中を陣取り俺の腕を握る秋人。その隣で少しだけ困ったような表情を浮かべて立ち膝をする俺。秋人とは反対側の俺の隣に陣取り俺が写真の端の方に行こうとするのを押し留める椛。
そして逃げ場なしの俺の肩に被さるように背に乗っかり、カメラのレンズに向かって弾けるような笑顔を浮かべる少女は、やっぱり俺の記憶にあるような小さな少女だった。
「やっぱり別人か……?」
言われてみれば『櫻井こよみ』と似ている気もするし、勘違いのような気もする。正直今は3対7くらいで別人のような気がする。別にこれといった根拠があるわけではないけどさ。
だけど、もしこの写真の『こよみ』が『櫻井こよみ』だったのなら、俺はどうしたらいいんだろうか? 同性のような気安さがあって結構無遠慮に言い過ぎたところもあるぞ。
「まさか……。まあそんなわけないか」
考えても仕方ない。とりあえず今は秋人の言っていた女の子が本当に居たということが分かっただけで十分だ。これで気持ちよく眠れる気がする。
「さて、寝る前にこいつだけ仕上げちまうか」
ピロさえ知らないと言っていたこよみ愛用の鬼の金棒バットは、ソフトボール部と野球部で揃って凹みや曲がったことで使用不可能となったバットの墓とも言うべきバットの小山の中に埋もれていた。
雨ざらしになっていながらその身に錆は無かったが、根元に巻かれたグリップテープは既にふやけ切って滑り止めの役を為さなくなっていた。もうこれは丸々変えるしかあるまい。
新しいグリップテープを買えなかった以上、今家には俺のテープのスペアしか準備がないのだから我慢してもらおう。
「重たいバットだな……」
よく手入れされているが、時代の流れを感じる1本だ。バットにプリントされていたデザインは既にどんなものだったか類推することさえ出来ないほどに微かな色を残すだけ。
今巻かれていたグリップテープだって不器用ながら使い手が自らの手で巻いたものだと分かる仕上がりだった。いつから使っているのか知らないけど、こよみは本当にこのバットを大事にしていたんだな。
グリップテープを巻き上げ、庭に出て一振りしてみる。
新品のグリップテープのグリップ力で手に馴染みはするが、やっぱり俺には使いこなせないだろうということが改めて分かる重い代物だ。感覚的には素振り用のマスコットバットとかの方が近い。
こんなものを実戦に耐えうるレベルになるまで振り回していれば女子プレイヤーとしては規格外の馬力になるだろうさ。皮肉にもこよみの憧れる女の子像からは火の出るようなライナーの勢いで遠ざかっているだろう。だがこよみは何かを為すためにこんな得物を振り続けたのだ。その在り方に俺は改めて好意と、微かな嫉妬を感じずにはいられなかった。
「やっぱり凄いよ。こよみは……。俺なんかとは違う……」
俺は報われず透のようなすごい投手にはなれなかったが、こよみはおそらく自分のなりたかった何者かになったんだろうから。
「自分らしく戦え、かあ……」
表紙に描かれたチームスローガン——自分らしく戦え——その言葉の意味は今でも俺にはよく分からない。
自分らしさというのは難しいものだ。小学校時代の俺は「俺もいつか最速150キロを超えられる。どんな相手にも自信満々に直球勝負が出来る男になる」と確信して練習していたのに、気付いた時にはスローカーブとフォーク、ツーシームで逃げ回るような投手になっていた。自分の変質に気付いた時には『これが本来の自分だったんだ』と言い訳をする始末だった。勿論それでもかつて求めた自分の姿を諦めず研鑽は重ねていたけどさ。
おそらくこんな鬼の金棒を振り回せる姿こそが、少女だった頃にこよみが望んだ『自分らしさ』だっただろうに、その姿になれた時には求めている姿が変質していた、か。
俺とは正反対だな。そういうところを踏まえても結局辿り着けなかった俺の内には同情と微かな嫉妬心が疼いた。
☆☆
その晩、床に就いて間もなく夢を見た。
夕暮れのグラウンドで身の丈に合わないような長大なバットを、目を赤くしながら振り続ける女の子の夢だ。鈍いスイング。一振りごとに変わるグリップエンドの位置。バットに振り回されてまともなスイングが出来ない女の子を幼少時代の姿の俺が後ろから抱きしめ――てはいない。ただグリップエンドの位置を少し高めに引き上げただけだ。それだけのことで少しだけスイングがスムーズになる。
今の俺は写真を見るように第3者の距離で少女と、昔の自分のやり取りを見ていたが、振り向いた少女が、思いっきり背伸びをして幼い俺の顔に耳を寄せた。思わず赤くなりそうな大人びた所作に、ここにはない頬が赤くなるのを感じながら少女の唇に注視する。
「かえくんは私が勝たせます。約束です!」
いつか聴いた言葉だ。俺は確かに勝てない投手だった。
秋人は頑張ってくれていたが、秋人1人で俺の勝利を守ることが出来るほど、俺は大した投手ではなかった。
だからこそ少女は俺の背を守ると言ってくれた。確か7番レフトの女の子だ。
「……だからその約束を守れたら私と——」
夕日の中でさえなお一層に紅く頬を染めて少女は言う。だがその先の言葉は目覚ましのベルの轟音の波にかき消された。




