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プロローグ いつか届くように

 学童野球をやっていた頃、私には好きな人がいた。

 彼は私のいた少年野球チーム『橘ブレーブス』のエースピッチャーではあったが、別に小学6年にして強豪シニアにマークされているとか、プロ注目の片鱗を見せているとかそんな凄い人ではない。ごく普通で身近なお兄さんだった。

 彼の同級生と比べても頭半分くらい背は低かったし、顔なんか女の子みたいだし、正直野球のセンスというのもあまり感じられなかったが、それでも彼はエースピッチャーだった。

 涙脆いし、その癖強がりは言う。力不足を自覚しながらも、意地を貫こうとする愚直なところ。自分が恵まれていない事を頭で理解しながらも野球に真摯でひたむきなところ。それと『私には』優しい彼が、私は好きだった。


☆☆


 夕暮れのグラウンドのホームベースの後方に一枚の防球ネットが立っていた。

 マウンドから1人泣き腫らしたような赤い目をしながら、そこに向けてボールを投げ込み続ける少年の姿は、もはや私からしても見慣れた光景だった。


「楓のやつまだ投げてるよ、そんなに今日の試合負けたのが悔しかったのかよ」

「そもそもピッチャーからしてレベルが違うだろ。なんだよあの化け物」

「青木コーチの家のマシンの120キロより速かったよなぁ。楓ってこの間のスピードガンコンテストで何キロ出したっけ?」

「確か91キロだろ? スピードだけなら俺の方が出せるぜ」

「ははは、違いないけどストライクをとれるだけのコントロールは身に着けようぜ」

「笠寺って言ったっけ? あんな奴がいたらそりゃ県大会上位だって行けるんだろうな。もしかしたら、全国行ったりして?」

「楓の奴も大分頑張って食い下がってたけど、俺達とはモノが違うよなぁ……」


 口々に勝てなかった試合の戦評をしながら帰路に就くチームメイトを、私は苦々しい思いで見ることしか出来なかった。

 今日の試合のスコアは0対1の完封負け。しかもチームはノーヒットノーランを喫しての完全敗北だ。

 孤軍奮闘した我らのチームのエースピッチャーを、最後には味方の連続エラーで背中から討っての失点が決勝点。彼は防御率:0.00で敗戦投手になったのだ。

 もちろん7番レフトで先発出場しながら、相手投手の快速球に手も足も出ずに3三振を喰らい、一糸報いることさえ出来なかった私も、同罪は同罪だろう。

 だからこそただ戦評を口にするだけで行動しないことが許せなかった。


「負けてへらへらするだけの男なんて……!」


 そう呟きバットケースから自前の金属バットを抜き出す。

 スポーツ用品店の店主からも女の子が使うには長過ぎる、重過ぎると酷評されたバットだった。それでも、私の目標を成し遂げるには鬼の金棒のようにも思えるバットを自在に振り回せる力が必要だった。

 買ったその日はこんなもの振れる奴はゴリラじゃないかと思ったものだが、今は少しだけ振れるようになってきた。重量も長さもあるこのバットは、当たれば飛ぶのだ——問題は自在に操れなくて空振りばかりということだが。


「あれ、よみちゃんも居残り練習?」


 マウンドの上で、タオルで汗を拭いながら彼が訊いてくる。柔らかい黒髪を白い帽子に押し込んで、泣き腫らした目を隠すこともせず優しい笑顔を見せてくる彼に、少しだけ胸の底が疼いた。


「そうです」

「そっか、みんな帰っちゃったけど、よみちゃんは帰らなくていいの? またお母さん心配してない?」

「大丈夫だよ。かえくんが一緒だもん。大体、それを言ったらそっちのお母さんはどうなのさ? こんな可愛い子が1人で練習してたら攫われちゃうよ?」

「攫われるって、僕男だよ?」


 どうやらこの危機感皆無な先輩は1回誰かに攫われてみないと危機感が湧かないらしい。

 私としてはこの先輩を1回押し倒して、涙目になるまで虐めてみたいと思ってしまう。

 まあそんなことを伝えていたら、話が脱線していつまでも言うべきことを言えなくなってしまうので、私の方から話題の軌道修正を試みる。誰が話を逸らしたって? そんなこと覚えてない。


「……今日の試合、援護出来なくてごめんなさい」

「ああ、そんなこと」


 私の謝罪に、彼はそう言って“にへら”と緩んだ笑顔を見せる。だがボールを握る右手は決して緩んでいない。顔だけで誤魔化しても態度が全く隠せていないのだ。

 その笑顔で人を気遣うような挙動が暗に『君がいても試合の帰趨に何の関係もなかったよ』と言っているようで、つい私も声が大きくなる。


「そんなことって何⁉ 私は真剣だよ!」

「打てるか打てないかなんて相性や時の運もあるさ。よみちゃんなら次は打てるよ。今日はただアイツが強かった。それだけだよ」


 さっきまで泣きべそをかいていた赤い目をそのままに、彼は柔らかな笑みを浮かべ、小さな手で私の頭をわしゃわしゃと撫でてきた。

 割と平然とこんな事してくるんだよなあ。この人。不快感は無いが、妹分としか見られていないのかと思えてしまう。彼は一人っ子だから妹ポジションに落ち着けるならそれはそれでアリかもしれないが。


「今日の試合、6回の2死1塁の場面、私に1発が出れば勝ってたのに……」

「勝負にたらればは無いよ。それを言うならエラーでランナーが出た後、僕が後続全員連続三振に取っていれば負けて無かった。あくまで結果は結果だから」


 我慢しているつもりだろうが、未だ真新しい心の傷に指を突っ込まれ、彼の頬には薄っすら涙の筋が光っていた。本当にポーカーフェイスって物が出来ないんだな。この人は。


「でも、次は負けない。あの笠寺って奴にも勝って、全国に行くよ」

「次……。もうあんまり次の機会は残って無いよ……?」


 グラウンドに吹き込む10月の夕の風は既に若干冷たい。小学5年生の私と、6年生の彼が一緒に野球を出来る時間はあと僅かしか残っていない。晩秋の市内リーグ戦と、年明けの1月末に行われる小学校最後の全国大会。この2つの大会が終われば、彼ら6年生は卒団——少年野球引退だ。


「それなら最後の大会に勝ち上がればいいんだよ。どうせアイツがいればあのチームがそうそう負けることはない。僕達が勝ち上がればリベンジの機会はある!」


 彼はそう言って意気高々だが、今日の仲間の有様を見て勝ち上がる望みがあると思っているのだろうか? 言っては何だが壊滅的な守備に、少しいい投手が出て来るとろくに得点出来ない情けない打線だ。

 彼が対戦相手全部三振に封じ込めて、ホームランを打って勝ち上がるなら話は別かもしれないが、彼にそんな力がない事は彼も私も知っている事だ。


「でも、かえくん1人じゃ勝てないよね? アキさんと2人だけで勝ち上がるつもり? そこまで野球は甘くないよ?」

「そう言っても、みんなを引っ張る力なんか僕にはないし……」


 そして現実を指摘されて一気に意気消沈するあたりが本当に私のツボに入って来る。幾らでもいじめたくなってしまう魅力があると思わずにはいられない。とはいえ、だ。それ以上に私は彼の力になってあげたい。そのために鬼の金棒のような金属バットを求め、振り続けたのだ。


「だったら、私を頼ってよ!」

「よみちゃんを?」

「私が、勝たせてあげるって言ってるの!」

「よみちゃんが?」


 彼が逐一疑問符を呈して来ることに若干の苛立ちはあるがそこは仕方ない。私は未だ彼に何の実績も示すことが出来ていない。

 とはいえ彼にも自分の身の程は知って貰いたいものだ。


「かえくんは私より打てないんだから、私を頼ればいいんです!」

「ねえ、よみちゃん何か僕に厳しくない……? よみちゃんより打てないのは椛もなのに……」

「好きな男の子には悪戯したくなっちゃうのが、女の子ってものなんですよ」


 ほんの少し目線よりも上にある彼の頬を、私の硬い指先が撫でる。それにしても瑞々しくツヤツヤなほっぺだ。伸ばした手が彼の頭を支え、私だけしか彼の視界に入らないよう固定する。


「もう少し、女の子について学んでね?」

「え? う、うん。もう少し頑張るよ」


 私からしてみれば流れでサラリと告白したつもりだったんだが、苦笑いの彼は受け止める余裕もなく受け流したらしい。

 世間では男子の方が『スキ』という想いの細分化は遅いというし、私が彼に対して抱いている心情の想像がついていないのかもしれない。

 まあそれならそれでもいい。同じグラウンドに立つプレイヤーとして、彼に近づく女の子達の誰よりも近くにいるという確信が私にはある。でも、もしものことを考えて、楔くらいは打ち込んでおこう。


「そうだね、全力で頑張ってね」


 そして早くこっちの気持ちに気付け、とは言えない。

 それでも想いを込めて彼の顔に少女の方から顔を寄せる。今はまだ、私より少しだけ背が高い。つま先立ちで何とか耳打ち出来るくらいまで高さで並ぶことが出来た。


「いつか、私と——————」


 いつか届くように、そう想いを告げる。

 耳打ちされた告白に、顔を完熟リンゴのように真っ赤に染めて動揺する彼が可愛くて、嬉しかった。


 あの秋からもう5年、その約束は未だ果たせていない。


2024/12/19 改稿

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