第28話 ウィニングボール
コロコロと舞が小さな掌の中でボールを転がす。さっきの試合のウィングボールだ。
既に試合会場にて入念にタオルで拭いて舞がサインペンで一筆入れている。ただ自分の名前を書いただけかと思いきや何か長々と書き込んでいたが、生憎舞はボールに記された文面を見せてくれなかった。見られたら困ることでも書いたのだろうか?
「やっと勝てたね……」
舞が譫言のようにそう呟く。
全力を使い果たして半ば意識がサヨナラしそうな状態で、舞はファミレスの席に腰かけていた。さっきまでおっさんから貰った小遣いで【橘BBG】一同揃って盛り上がっていたのだが、すっかり日は暮れ、今残っているのは俺と舞の2人きりだ。秋人すら俺達を置いて帰りやがった。
「中々険しい道程だったな」
「そうかな……? ボクにとっては、楽しい、毎日だったよ…‥」
そう言いながら舞は眠そうな目を擦っている。そもそもグラウンドを出る前から気力体力共に限界だったのだ。早く帰してあげた方が良いだろう。
「眠いなら帰るか? 送って行くぞ?」
「……どうせ家に帰ってもお母さんもお父さんもいないから、楓がここに居てくれるならまだここに居る」
高校生にもなる娘がいて夫婦仲がラブラブなのは良いことなのだろう。それでも今俺のすぐ隣で船を漕いでいる舞を見ていると、ほんの少し文句も言いたくなった。
まあ言われるべきバカップルはここに居ないのだが。
「ねえ、楓」
ふわりと耳を綿で包むような擽ったい舞の声が隣に座った俺の耳を捕まえてきた。
互いの肘が触れ合う距離では、もしかしたら今跳ねた心臓の鼓動さえ舞に伝わったかもしれない。とはいえ舞がそんなことを一々察するようにも思えないし、今回もドキドキしているのは俺だけってことか。
「ありがとう」
眠そうな目のまま舞が居住まいを正して、首を上げた。俺を真っ直ぐ見据えてそう言ってくる。
「い、いきなりなんだよ?」
「ありがとう。ボクを勝たせてくれたこと。——私と野球をしてくれたことに」
いつも少年のように快活な舞からは窺うことも出来ないような、散る間際の花を思わせる儚い笑みに胸の奥が熱く疼いた。
「……舞はいつでもいきなりだな」
初勝利を挙げたら舞に伝えようと思っていた言葉、先を越されちまったな。
舞が握り拳を開くと掌からコロコロとボールが転がり出てきた。テーブルの上を緩やかに転がり、俺の目の前で止まったボールの表面の女の子らしい可愛い文字を指先で撫でる。
その文面のいじらしさに少しだけ胸の奥がツンとした。
『2090日ぶりの勝利を祝して、星野舞』
2090日——つまりはおよそ6年という歳月、舞は今日のこの勝利をずっと待っていたのか?
6年前といえば10歳か11歳だった頃だ。俺とて数年後に利き肩をぶっ壊して大好きなマウンドから降りざるを得ないなんて思うことさえなかった。そんな頃だったはず。
不意に脳裏を過ぎる声がある。砂の舞うグラウンドで舞の過去を知る奴が言ったことだ。
『もうこれで分かっただろ? 女の子が野球なんかやってもあまりに報われねえよ』
透は舞にそう吐き捨てていた——曰く『報われない』と。
アイツが大したプレイヤーなのは俺も、多分舞も認めるところであろうが、そんなアイツにも読み切れていないところはあった。「ざまあみろ。透。舞はやったぞ……」心中でそう呟き、そこに居ない超高校級投手に、俺はそっと自分の相棒を勝ち誇ってやる。
今日舞は勝ったのだ。相手の温情もあった、運も多分にあった。それでも結果は結果。舞は勝って見せたのだ。彼女の勝ちたい相手からしたらほんの一端かもしれないが、彼女のやっていた練習は報われたはずだ。
「楓少しだけごめん」
そう言って舞が俺の方に倒れ込んで来た。俺の膝の上に頭を持たせ掛ける。所謂膝枕の姿勢だった。これがソファタイプのボックス席で良かった。テーブル席なら絶対目立って仕方なかった。
「舞?」
呼び掛けてみるが返事はない。桃色に色付いた小さな唇からはすーすーと穏やかな息が漏れるだけだ。どうやら本格的に電池切れらしい。
「寝ちゃったか」
今日は心身擦り減らして頑張っていたし、俺の硬い膝枕で構わないなら貸してやろう。
「頑張ったもんな」
ぽんぽんと舞の頭を撫でた俺の手の下で、舞の柔らかい鳶色の髪がサラサラとこぼれた。
投げるときに邪魔にならないよう肩の上あたりで切り揃えられ、先端は日焼けし少し色素の抜けた髪は、彼女が何者なのか、何を目指していたのかをよく示していた。
人一倍マウンドに執着し勝利を渇望する少女に、俺からも頭を下げた。
「舞、ありがとう。俺と野球をしてくれて」
試合に勝った喜び。それに舞の力になり勝てた喜びが同居することに、微かな罪悪感は今も燻っている。肩を壊しマウンドで戦う事すら出来なくなった自分の望みを舞に仮託し、舞の勝利に勝手に救われている自分の醜さや浅ましさに対して自覚はある。
それでも、俺の根拠も乏しかった提案に乗り、俺に居場所をくれた事に感謝する。いつか、舞が起きている時にもちゃんと伝えないとな。
俺のズボンに舞のよだれが垂れて来たので、よだれ対策に口元にナプキンを置いてやったら不意打ちのように舞に左手首を掴まれた。手の甲に唇が触れそうなほど近く、彼女の寝惚けて熱い吐息がこっちの頭まで沸騰させるように熱さを伝えてくる。
「ま、舞……?」
「ずっと私と……。お願い」
小さな桜色の唇が嗚咽のように、悲鳴のように言葉を絞り出す。幼子が親に捕まるように遠慮なしの全力で握られた左手首が、熱く、痛く、痺れた。
舞は捨て行かれることを予期しながら震える捨て猫のように、怯えているようだった。
「私を、置いていかないで……。私はまだ……」
「……それは俺の台詞だって」
俺の左手首を握り締める舞の手に右手を重ね、そう呟く。
投げることもままならない身で図々しいと諫める自分の心も踏み付ける。舞の存在を、続けられなかった自分の野球の代替にしている罪悪感はあっても、今この関係を喪う事に俺は耐えられないだろう。
「舞の方こそ、俺を置いて行かないでくれよ」
「ん……」
舞の口から不明瞭な声が漏れる。眠っていて尚強張る表情の裏に何があるのか思いを馳せたが、透から聴いた事や、舞から聴いた事以上の事は分からない。それでも、彼女がマウンドで見せる笑顔とは裏腹に、涙脆い過去がある事を、俺はもう知っている。
「……色々あったんだよな。でも、お前の野球はこれからだろ。俺が居る。皆も居る。これからも、俺に見せてくれ」
小さく震える舞の肩を、背中を撫でながら呟く。
細く、なよやかな女の子らしい柔らかさの奥の方に、しなやかで熱い筋肉の発熱を感じる。舞の努力の結実は外見からは見えなくてもこうして息づいている。
「大事なのはこれからにしようぜ。お前も、俺も、な……」
舞の野球が上手く行かなかったという6年もの歳月を、俺はほとんど知らない。
それでも舞自身の言葉や透の言葉からして、俺が中学、高校で野球をしていた間もきっと舞は色々なところで門前払いを喰らい続け、それ以上に色んなことで痛みや壁を知り続けたのだろう。逆境に打ちのめされても、それでも野球が好きだと言い続けた彼女が、俺には今でも少しだけ眩しい。
「お前なら勝てるよ。俺が保証する」
テーブルの上で揺れるウィニングボールを睨みつけながら、舞の頭を撫でる。今日の勝利が2090日ぶりの勝利か——次の勝利まではそう時間を取らせはしないさ。
「勝とうな。100でも200でも」
一緒に勝とう。きっと舞にならそれが出来る。
舞に握られていた左手を引き抜き舞の小さな左手を握ると、白魚のようにか細く白い指先にほんのり硬い感触があった。投げ続けることで出来たタコだろう。
こんなに頑張っていたんだ。報われたっていいだろうし、俺はその努力に報いてやりたい。それだけは舞に仮託していない、俺だけの確かな想いだ。
「頼むぜ、小さなエース様」
独り言のような呟き。それに応えるように舞の手がギュッと握って来た。
「ん。ボクに任せなさいな」
ほにゃほにゃとした溶けるような笑顔で、彼女はそう言って、咲っていた。




