第19話 試合前
2024/6/6 全体改稿
迎えた土曜のグラウンドコンディションは、無風に近いながらも暑さはない、望み得る限り最高だった。まだ朝だからここから少し気温が上がるにしても日中最高気温は20℃前後らしい。残暑というにはいささか厳しかった前の試合よりは投げやすいだろう。
「どう、かな……?」
舞の細い指先が投げ出したボールが、俺のミットを叩いた。
昨日もそれなりに投げていたから状態を見ながら投球練習をしていたが、そこまで疲れが残っているようでは無さそうだ。
「……悪くないと思うぞ」
そう返す俺の返球がワンバウンドして舞のグラブに収まる。
また舞に的を見せるようにミットを構え、それを見た再度舞が振り被る。今しがた俺が口にしたように、状態は悪くは無いと思う。良いかと言われたらそうでもないが。
「ボール、走ってる?」
舞はそう訊いてくるが、正直走っているとは言えない。
実際ここまでの投球練習での最速は100キロ台半ば程度と言ったところか。彼女のベストパフォーマンスには到底及ばないし、ボールのスピンもいつもの綺麗な軌跡を描いていない。指に十分に掛かり切っていない証拠だ。
「……少なくともそこまで調子は悪くないと思う。ただ、何がそんなに気掛かりなんだ?」
「……お父さんたちのチームは強いからね」
そう言って舞がまた投球フォームに入る。その型はいつも通り美しいが、投じられたボールには最後の一伸びが無い。これは、少し確かめる必要があるか。
ブルペンのマウンドに立つ舞の下に走ってボールを持って行く。彼女のグラブに手渡し出来る距離まで近付けば、18mの距離を隔てては伺えなかった彼女の表情が細部まで良く見えた。
「どうしたの? 態々渡しに来なくても」
「ちょっとな。俺が舞の顔をちゃんと見たかっただけ」
舞の纏う沈み気味な空気や、少し浅い呼吸が気になって、ちゃんと表情を見ておきたかったのだが、完全に出力すべきワードを間違えた。これじゃただの勘違いの気持ち悪い男だよ!
「……私、なんか変なの。手、握ってみて?」
舞がそう言っておずおずと差し出してきた小さな手に、俺も手を伸ばす。
向かい合い、重ね合い、指が絡む。細く冷たい指が俺の手の甲を掻いた。昨日透と勝負した時と同じだ。緊張による交感神経の優位か。指先まで十分に血流が行き渡っていないのだろう。
「どう?」
「冷たいな。指」
「やっぱり? そんな気はしてた」
それは舞にボールを手渡した時点で、彼女の顔色や指先を見て分かっていたのだ。
ただ、何が彼女をそこまで追い詰めているのかが俺には分からなかった。
「駄目だな私。今日こそは格好良く決めないといけないのに、こんなに緊張して……」
「緊張することは普通の事だし、悪い事じゃない。ただ相手が強いってだけなら、舞はもっとテンション上がるだろ? 何か、他に不安な事があるのか?」
少なくともこよみを相手に迎えた時、舞は俺が居なくても最高潮のテンションでこよみを封殺していた。
そもそも舞が相手の強さに意気消沈するようなら、透と戦おうなどと思わなかっただろうし、自分よりも身体的に強い相手ばかりになる男女混合の野球なんてしなかっただろう。
「……やっぱり、楓には見抜かれちゃうか」
「俺じゃなくたって、普段の舞を知ってる奴が見たら分かるよ。表情も硬いからな。何がそんなに不安なのか、言ってもいいなら教えてくれ」
俺の問いに、舞は黙り込んでしまった。言えないかと思い、踵を返して定位置に戻ろうとしたところで、舞が口を開いてくれた。
「……少し怖いんだ。私の力の無さで、またみんなを負けさせるかもしれない。またみっともないところを見せて失望されるかもしれない。こんな私とまた野球したく無くなるかもしれないって……」
先の試合で滅多打ちにされての敗北。透との勝負での敗北。思い返せば苦い事ばかりだ。
そう言えば俺が舞とバッテリーを組んでから、俺達ではまだ一度も勝ってないんだよな。
「小学生の時はね、透にも勝ってたんだよ。私。でもね、透に負け始めた辺りから段々皆と距離が出来て、少年野球を卒団する時には透くらいしか話し掛けて来なくなってた。情けない私のままじゃ、また皆に見限られるんじゃないかって、どうしても考えちゃうんだ……」
絞り出すように吐露された舞の不安の告白に、何故だろう。俺は少しイラっとした。
俺の右手と舞の左手を絡めたまま、舞を引き寄せ、ミットを付けたままの左腕で舞の小さな肩を抱いた。何が「見限られるんじゃないか」だ。絶対に離してやらない。そう想いを込めて、抱き締める。
「え……? 何、かえで?」
「舞、少しだけ怒っていいか?」
「ふぇ……?」
「俺が舞を見限るなんて、ある訳ないだろ。こんな肩を壊したポンコツを置いてくれるところがどこにあるんだ? 俺は舞に希望を見出して一緒に野球したいと思ったんだ。『俺が舞の力になる』って言ったよな? 俺の言葉を嘘にさせる気か?」
舞は今でも十分頑張っていると思うし、俺に比べたらみっともないところなんて全くない。
負けても踏ん張り立ち続ける舞でみっともなければ、自業自得で肩を壊して勝手に絶望していた俺なんて生きている事すら烏滸がましくなってしまう。
「俺は舞が強いって知ってる。胸を張ってくれ。舞を信じてる俺の為にも」
そう伝え、ニッと笑って見せてやる。
重ね合わせた俺の指先が舞の艶やかな手の甲を愛撫し、舞の指先が俺の手の甲を撫でた。
ほんの一時だった気もするし、凄く長い事そうしていた気もする。気付いた時には、もう彼女の指はぽかぽかと温かかった。
「ありがとう。楓のその笑顔、ボクは好きだよ」
そう言って舞が口角を持ち上げ、ニッコリと笑う。そうだ。皆を奮い立たせるその笑顔だ。
「舞のその笑った顔が、俺も好きだ」
「ありがとう。元気出た! 楓受けて!」
舞の表情に生気が戻ったな。ブルペンの定位置に戻りストレートを要求する。
ワインドアップから投じられた1球はさっきまでの投球練習とはストレートの速さも回転の美しさも比べ物にならない程改善していた。
「なんか手足の先まで温かくなってるし、なんか今ならいける気がする!」
「なら次、スローカーブ行くぞ!」
「よし来た!」
俺の指示に舞が頷く。振り被り振るわれた指先からボールが見当違いな方向に大きく飛び上がっていく——あ、これ駄目な奴だ。
「おはよう楓。今日は勝と——」
「秋人避けろ!」
「へっ——っご⁉」
反応する間もなく、空高くすっぽ抜けたボールが、グラウンドに入ってきたばかりの秋人の頭頂を直撃していた。前にも見たぞ。こんな光景!
「なあ楓、僕は何か悪いことをしたのかな……? ガクッ」
頭に直撃を食らってグラウンド入口に倒れ伏す秋人に、とりあえず俺は手を合わせておいた。まあガクッと口で言っているくらいだし、よっぽど大丈夫だろ。
「舞先輩、結局スローカーブ完成しなかったんですか?」
「ボク、ちゃんと投げられたよね?」
こよみの疑問も当然だ。しかし、確かに舞の言う通り一応の完成を見せていたはずなんだがなあ……。
「俺もアレが夢だった気がしてきた……」
少なくとも2週間前よりはボールが前に飛ぶだけマシだが、高さはアレ以上だ。仮に試合でやられたら俺も止める自信は全くない。
「アキさんは大丈夫なんですか……?」
櫻井姉妹の妹、ちひろちゃんだけがそう言いながら倒れ伏した秋人の頭を撫でていた。
頭に当たったといっても所詮は軟式だ。眼球のような衝撃に弱く柔らかい組織に当たることなく跳ねたし、よっぽどたんこぶも出来ないだろう。
「ガクッて口で言ってるくらいだし平気だろ」
「僕を気遣ってくれるのは、ちーちゃんだけか……。グフッ」
「ほーら秋人、アイスノンだぞー。これで冷やしてろ」
俺が軽く投げてやったアイスノンがうつ伏せで無抵抗の秋人の背中に突き刺さった。
「ボールよりも保冷材の方が痛いッ!」
「捕らない自己責任だ」
足元で死に掛けのトドのようにビッタンビッタンのたうち回る秋人の事は無視して、俺と舞は投球練習に戻る。
なお、2球目のスローカーブはちゃんと俺の指示したコースドンピシャに決まり、俺も舞も揃って胸を撫で下ろすことが出来た。
☆☆
定刻5分前か。スターティングラインナップに再度目を通す。
1番 キャッチャー 翠川 楓
2番 ショート 櫻井 ちひろ
3番 センター 赤城 秋人
4番 サード 櫻井 こよみ
5番 ファースト 青木 椛
6番 ライト 波野 ゆい(助っ人)
7番 レフト 水井 文乃(助っ人)
8番 セカンド 白井 カヲル(助っ人)
9番 ピッチャー 星野 舞
前回椛が連れて来てくれた友達が揃って今回も来てくれたのは願ったり叶ったりだな。出来ればこのまま正式にメンバーになってくれないだろうか。
「波野さん、水井さん、白井さん、今日も参加してくれてありがとう。椛も、友達を連れて来てくれてありがとな。助っ人の伝手とか無かったからほんと助かった」
俺から前回も参加してくれた椛の友達3人と椛に謝辞を述べる。
ただ、椛の部活繋がりの友達って聞いたから、3人とも美術部なんだよな。多分学校の授業のソフトボールくらいしか経験ないだろうにどうして来てくれたんだろうか?
「良いって事よ。ただ楓が言葉以外で感謝を伝えてくれるというなら、アキと絡んでるところを1枚写真撮らせてくれれば」
「お断りだ馬鹿野郎! つーか実在人物をそう言う本のネタにするなって俺6年言ってるよな⁉ つーかこの間もこんな話したぞ!」
「なんでさー。折角来てくれたんだからサービスしなよ」
なんか日本語おかしくないか? まるでそれを望んでいるのが椛では無い様な言い方だ。
「…………来てくれた?」
「3人とも美術部で共通の趣味を持つ、私の友達だよ」
どうしよう。脳がガンガン警鐘を鳴らしている。これ以上深追いしたら危険だと、椛と関わり続けた十余年の経験則がそう告げている。
悪寒にフリーズした俺の前に、舞が身体をするりと滑り込ませて来る。
「この間は、みんなに悔しい想いをさせたと思う。ごめん」
舞を中心にした円陣の中で、舞がみんなの顔を等分に見ながら語りだす。
打たれることなど投手の常であって、気にすることもないだろうに、律儀な奴だ。
「相手は市内のリーグでも一番上のリーグに所属してる。正直ボクがどこまで抑えられるか分からないけど、力を貸して欲しい」
「なあに舞先輩、打たれたら全部楓先輩のリードのせいにすればいいんですよ」
「お姉ちゃん、楓さんに失礼ですよ」
今日もこよみの口撃は絶好調らしい。それでも、そんなことで舞が気持ちよく投げられるなら構うものか。
「行くよみんな。今度こそボク達の力を見せよう!」
「「「「「「「おー!」」」」」」」
円陣を組んで気勢を上げる女性陣から外れ、俺は外からプロテクターを装着しながら見守っていた。今日も守備からのスタートだ。このプロテクターの装着も早く慣れないとな。
「なあ楓、昨日舞ちゃんと何かあった?」
そう問われても、秋人が期待するような事は何もなかったと思う。
昨日は2人揃って透に負けて、消沈して、それでも練習してそして今日だ。
「何も無かったよ。それより、この試合勝ちに行くぞ。お前も気合い入れろ」
「ふぅ……。気合十分でそんなこと言ってくれるあたり、なんだかんだ言って楓も僕のことを頼りにしてんだね」
「ああ頼りにしてるよ。こよみやお前が打ってくれなきゃ勝てないんだからよ」
悔しいが、今の俺には秋人やこよみが味方に居なければ得点を挙げられる算段が付かない。こよみには非力だと笑われたが、それも甘んじて受け入れるしかない。今は。
先頭打者として俺に出来る事は精々チャンスメイクまで。決定打は中軸に任せる他ない。
ゆくゆくはそちらでも舞の力になりたいが、今の自分の力が及ばないだろうことに注力して、時間も機会も無駄にする訳にはいかない。舞の勝利のため、今の最善手を模索する限り、俺はチャンスメイクに徹し、秋人やこよみが決めるべきだろう。
「なんか少し変わった?」
「俺は何も変わってないよ。ただ、舞を勝たせてあげたいってだけ」
「お熱い事で」
秋人はそう茶化して来るが、俺と舞の間にある繋がりは多分秋人が期待するようなそれではない。俺は野球をしたい、勝ちたいという舞の想いに、野球をしていたいという俺自身の想いを仮託している。舞を支え、励ますように振る舞いながら、その実俺は逆境に立ち向かい勝とうとする舞の夢に依存しているのだ。
つい今月自分の夢を捨てたばかりの人間が、阿漕な事をしている自覚はある。それでも俺は勝利する彼女の姿が見たかった。その勝利に俺も救われる気がしたからだ。
バックネット裏から審判が出てくる。どうやらそろそろらしい。
ベンチ前に並んだ【橘BBG】一同をちらりと見渡すがみんな気合十分といった様子だ。強いと前評判は聴いていた【ちょいワルドラゴンズ】の面々を前に萎縮していない。
「整列!」
審判の号令に合わせ、ベンチ前を飛び出す。
澄み切った高い秋空の下、俺達の挑戦が始まる。
2019/7/20 感想にていただいた件、修正しました。ありがとうございます
 




