第18話 I wanna be
辿り着いたいつもの練習場所でもある河川敷で、舞はただ川の流れを見ていた。
小さな背中には覇気も力も活力もなく、いつにも増して小さく見える。まさかとは思うが、萎んではいないだろうか?
「燃え尽きるなよ。試合は明日だぞ?」
「楓……。来てくれたんだ」
「グラウンドに鞄ごと荷物全部置いて行ってよく言うよ。ちなみにグラウンド整備は笠寺の奴が引き受けてくれたよ。舞が掘り返したマウンドまで整地してくれたんだ。今度会ったらお礼言っとけよ」
「えぇ……? 分かったけどさ……」
そう言う舞は心底嫌そうな顔だ。普通昔馴染みで険悪な相手と、高校生になっても険悪なまま交流があるなんてことそうそう無いだろうに……。
なんだかんだ俺が苦手意識を持っている椛との交流だって、さっきの舞と透程殺伐としてはいない。
「……まだ投げるか?」
「……」
こちらの問いにすぐに返事は返ってこない。しばらく待ってようやく「ううん」と小さな返事が何とか聞こえてきた。
舞がつい今し方投げられうる最高のボールを完璧に打ち込まれ、その上で言葉でも反撃不能になるまでボロボロに言われ、無力さと惨めさに苛まれている事は分かった。ただ落ち込んでいる女の子を前にどうやって慰めたら良いかなんてことは、生憎と野球馬鹿に分かる訳が無い。俺も透の事は言えないな。
『そこは男の子なら後ろからそっと抱きしめてあげるところでしょ⁉ 抱きしめてほっぺにチュー!』
「うん、多分違うよな……」
脳裏で叫ぶ椛の幻影を、頭を振って追い払う。思い返そうとして真っ先にそんなアホなケースが浮かんでくる時点で、女の子への対応能力が知れてしまうな。
「笠寺の、ばかぁ……。ボクを追い詰めて楽しいか……!」
小さな背中越しにしゃくり上げながらの呟きが聞こえる。
透が想っていることはどうであれ、事実として透は舞を追い詰めている。舞を力の差で屈服させて、プレイヤーの道を諦めるように仕掛けているのは透に他ならない。やっていることは野球でも、実質的には支配的暴力と大差ないのだから擁護のしようがない。
「あいつの事は考えない方がいいだろ。そもそもあいつは男子の『普通』を考えてもズレてるしな。あいつに勝つことよりも明日の試合を完封するほうがよっぽど簡単だろ」
「……もう明日なんだっけ、試合……」
もうそんなことも覚えていないのか。透との応酬、勝負がよっぽどショックだったらしい。気持ちは分からないでもないけどさ。
「……練習、するか?」
「……したくない」
日頃は強引に俺のことを連れまわす舞の口からそんな言葉が出るなんて、思った以上に重症かもしれないな。
「それなら、俺の練習に付き合ってくれないか?」
「……それだったら、いいよ」
瞳に力は無いままだが、舞はそう承諾してくれた。
俺が投じた山なりのひょろひょろ玉に対して、舞が小さなテークバックから山なりのボールを投げてくる。それに返す俺も似たようなものだ。お互い大きな弧を描くボールを投げあうキャッチボールは、ただ手を動かしているだけだ。こんなもの練習でも調整でもない。
「なあ舞」
「なに」
「……俺にはさ、舞がいてくれてよかったよ。舞がいなかったら今でもまだ未練たらたらで、教室からグラウンドを見つめ続ける虚ろな毎日が続いていたと思う」
実際今でもまだグラウンドの白球を目で追ってしまうことはある。それでも舞がいるから、俺は今前を向いていられる。場所が違っても野球が出来る喜びを感じられている。
「だからこそ俺は、舞と勝ちたい」
「…………ありがとう」
ふわりと投げ上げた俺のボールが、舞のグラブの先端に当たって、そのまま地面に落ちる。もう心ここにあらずといった調子だ。
どうしたら彼女を元気付けられるか、考えても答えは出ない。知らない事の答えを無から生み出せる訳もない。
「……そうだ、見るか? 俺のスローカーブ」
やっぱり野球馬鹿には女の子を元気付ける妙手は考え付かない。全く冴えたことも言えず、出来ない俺に、舞は小さく頷いてくれた。
どうしようもない俺の、せめて何かという気持ちを舞は慮ってくれたらしい。良い奴だな。
「1球だけ、実際に見せるから、何か掴んでくれ」
「うん……」
頷く舞に「じゃあ行くぞ」と一声掛け、俺はセットポジションを取る。舞のように大きく振り被ることはなく、左足を上げて一本立ちした右足に全ての力を集約する。
ただ真っ直ぐ、構える舞のグラブを見据えながら、腕を振り抜き、体の前でボールをスッとリリースする。一瞬だけ、全てが楽になったようだった。
そしてその直後、その幻想が消えた。
「ッ!」
腕を緩く振り抜いた直後、痺れるような痛みが指先まで走り、俺は呻いた。
たった18mのキャッチボールで、軽くカーブを投げてこれなのだ。全力投球もキャッチャーからセカンドへの送球もまともには出来そうにない。日常生活の中ではあまり意識することもないが、こんなときばかりは自分の不自由さが恨めしかった。
「……ナイスボール」
緩やかに大きな弧を描き、舞のグラブにボールが収まる。スピードもケガをする前以下、キレもほぼない。情けない変化球だったが、それでも舞の闘志に火種を灯すだけの力は残っていてくれたらしい。
「……ありがとう楓。今度はボクが投げるから、見てて」
ボールを握り直した舞が大きく振り被る。高く上げた右足に付随してスカートが舞い上がる。それさえも気にせずに舞はただ俺のミットを見ていた。
俺には無い柔らかさのあるフォームから、緩やかなボールが山なりの軌道を描いて投げ出された。それは今まで何百球と受けさせられた単なる山なりではなく、しっかりとした変化を伴っている。
右バッターから見て外から内にゆっくりと食い込んでくる大きな弧を描くカーブボール。左右の逆はあれど、かつて俺が武器にしたスローカーブだった。
「出来たな、舞。おめでとう」
「…………これで、投げられた?」
まだ舞は現実が追いついてないらしい。確かにこの2週間で何十球も後ろに投げ飛ばし、見当違いな暴投を繰り返した末に、ようやく1球投げられたのだ。中々信じられないものもあるのだろう。
足元に転がった俺の返球を拾い上げ、舞が俺のミットに眼を向けて来る。もう1球要求したスローカーブは、綺麗な軌跡を描いて俺の構えたところに収まった。コースも完璧だ。
「ははっ、凄いな、舞は。天才だろ」
それは偽らざる俺の感想だ。確かに練習はしてきたが、あんな不完全なお手本1つでここまで完成度を上げるか。
「たぶん、舞が男子だったら、透と同じくらい凄いピッチャーになってたよ」
「でも、ボクは女の子だから……」
俺が賞賛するも、未だに開き直る事は出来ないらしい。
実際舞の言う通り、現実の舞には140キロの快速球も、容易くフェンスを越える打力もない。無いものは無いと割り切って、手元にあるカードを増やし、彼女自身の強さを以て戦うしかないのだ。
「……ボクには足らないモノばっかりだけど、楓がボクに足らない分は補ってくれる?」
そうだ。無い物をピッチャーに強請るのではなく、工夫してピッチャーの力を有効活用するのが、今の俺の役目だ。秋人は「キャッチャーの醍醐味」とか言っていたな。
「ああ、任せろ。俺が舞の力になるから」
望んだことを全て形に出来るほど、俺が大層な人間じゃない事は分かっている。それでも、望み、意思を示すことでしか道は拓けない。俺は舞を勝たせたい。
「……ずるいなあ、楓は。こういう時にボクが欲しい言葉をくれるんだから」
沈み行く日差しの中で、舞がふにゃっと泣き笑いの様な笑みを浮かべ、そう言った。
俺にとって実現させたいその言葉が、舞にとって欲しい言葉だったなら、僥倖だ。
夕暮れの中で、舞がラスト1球と声を張る。今も舞の眼は赤い。それでも、彼女は止まらない。立ち上がり、走り出す。そんな彼女だからこそ俺は共に行きたいと思う。共に勝ちたいと思う。
西日の中で投げられた最後の1投は、指に掛かった半速球となり、反応する間もなくのショートバウンドで俺の股間を直撃した——決断、少し、早まったかな……?




