第16話 小さなエースと怪童
舞の変化球修得は難航していた。練習を始めて今日で2週間弱。ろくに成長が見られていない。
正直俺はスローカーブに固執している事が失敗じゃないかと思い始めていた。
試合を翌日に控えた金曜の放課後。今日も舞と俺は野球部が早上がりなのを良い事にグラウンドを不法占拠していた。
「明日までにボクが変化球を投げられるようになると思う?」
「……正直俺にもわからない。あるときフッと投げられて、コントロール出来る場合もあるし、何千球投げても会得出来ない場合もある。ただ、俺は正直他の変化球も試して、舞の可能性を模索すべきだったんじゃないかって、今は思ってる」
舞の投げ方自体は少しずつ変化球を投げるときの変な固さが取れて来たが、スローカーブ自体は、まだ『投げられる』という域には到達していない。
時折捕っている俺に辛うじて変化しているのが伺える程度だ。とても実践には使えない。
正直、このままなら週末の試合では武器としては使えない。奇襲程度に1回投げるとかならともかく、常用すれば滅多打ちは想像に難くない。
「よう星野、楓、お前ら何やってんだ?」
不意に、俺にとっては久しい声がした。声のする方に目を向けてみれば、ファーストベース上に親しんだ橘南高校のエースの姿があった。
こちらに小さく手を振る笠寺透の声に、舞のほうは明らかに嫌そうな顔をしていた。
「どうしたんだ透。明日公式戦だから今日はもう解散じゃないのか?」
「ネットスローで最終調整しておこうかと思ってな。お前がいなくなって責任重大なんだぞ?」
透はそう言いながらも別にそれを苦にしているような顔ではない。俺が居なくなったことの意味を重く見せる透なりの励ましなのかもしれない。俺が居たって居なくたってこいつには何も変わらないだろうに。
「星野、この間も言った件、考えは変わらないのか?」
「なんだ。舞は透と知り合いだったのか? いや、確かに1組だからそもそも同じクラスか……」
「……知らない人。練習続けよ」
口先でそう言う舞だが、生憎舞の視線は嘘を吐けていない。思いっきり憎々しげに透を凝視している時点で、とても『知らない人』ではなさそうだ。そもそもクラスメイトに対する当たりとしては異常に強い。一体この2人の間に何があったんだろうか。
「星野、いつまでお前は選手に拘るつもりだ?」
傍から聞いた感じ、随分と無礼な物言いで透は舞に尋ねた。
空中で視線がぶつかり合い、火花を散らしているように感じるのは多分俺の気のせいじゃないだろう。
「透……。笠寺に勝つまで」
一方で応える舞も吐き捨てるようで、明らかに一触即発のムードが漂い出した。
大きな肩掛け鞄をベンチに置き、透がブレザーのジャケットを脱ぎ捨てた。
「さっきから見てたけど、それで俺に勝つつもりか?」
「……つもりじゃない。勝つ」
知らないとか言ったけど、2人の間に因縁があることを、もはや2人とも隠すつもりもないらしいな。知らぬ俺だけが置いてきぼりだ。
「まだそんなことを言ってるのか——また教えてやろうか?」
透がそう応えながら倉庫からバットを持ち出して来る。既に臨戦態勢というわけか。
「付き合ってやるよ。投げろ」
「それはどうも……!」
応える舞は明らかにイラついている。この状態で投げさせてどうなるものか……。
「透、舞、いきなり何言ってんだ?」
「悪いが俺たちの話だ。楓、お前にも話せない」
「ごめん楓、今は何も聞かずに受けて!」
受けているこちらの事はお構いなしか。舞も透もお互いの事しか見てないらしい。反目し合っているようで、こいつら根っ子の部分は結構似ているな。
「分かったよ、その代わり後でどっちでもいいから説明しろよ?」
「ああ」
右のバッターボックスに入り、バットを構えた透はそれ以上何も言わなかった。
サインを交わし、マウンド上の舞が大きくワインドアップモーションに入る。
大丈夫、舞のフォームはいつも通り。そこに苛立ちによる上体だけの前のめりなどはない。
サウスポーのスリークォーターから投げ出されるボールが、ストライクゾーンのど真ん中に飛び込んでくる。幾らなんでも初球から軽率すぎだ!
「ふーん……」
だが、透の奴は全く振る仕種さえ見せなかった。ただバットを肩の上に担ぎ、どうでも良さそうに見送っただけだ。
「そんな弱っちいストレートが全力か? よくそんなので俺に勝つとか言えるな」
「うるさい!」
透の煽りに、舞が人気の無いグラウンド一面に響くような大声を上げた。いつも可愛い笑顔を振り撒く舞から、初めて聞いたひび割れた声が、切迫感を伴って、俺の胸を締め付けてくる。
断わっておくが今の1球とて推定120キロ弱は出ている。舞のボールが弱いなんてことは決して無い。だが男子の中でさえ傑出している透からしたら、舞の全力でさえ有象無象のレベルと大差ないのだろう。
おそらく今の透の前では、現役の俺がマウンドに立っていたとしても同じだろう。
「無理だって分かってるだろ。いい加減小学校の頃の勝ちの事なんて忘れろよ……」
透が俯いて吐き捨てる。だがその言葉を聞き流してやることも、真面目に取り合うことも俺には出来ない。
2球目はストライクゾーンに掠ることさえなく、大外れのボール球だった。力んで上体が突っ込み過ぎて土台がガタガタになっている。これじゃ駄目だ。
「透、タイム頼む」
透にそれだけ言い残してマウンドまで駆け寄った俺に、舞は左手を伸ばしてきた。
ボールを寄越せという暗黙の意思表示か。だがそのまま渡したところでいい結果に繋がらないことくらい元投手の俺は知っている。
「舞、肩の力を抜け。力んでもいいボールは来ないぞ」
ポンと叩いた小さな舞の肩はやけに硬い。透に煽られ力が入りすぎている。
彼女の細い指先に触れると、冷たかった。確かに秋の夕方で気温は下がってきているが、この冷たさはそれだけじゃない。緊張から来る交感神経の作用で血流が抹消まで十分に行き渡っていないのだろう。舞のベストコンディションですら容易ならざる相手、ましてこのコンディションでは……。
「……ボクは弱くない」
俺が手渡したボールを握り締める舞の指先は、今の彼女の顔色とは対照的な真っ白だ。精神・神経の面でコントロールが出来ていない事が見て取れる。
だがここまで飲まれてしまったところから立て直すことが容易じゃないのも、また分かってしまう。
「舞は弱くない。受けてる俺が保証する」
そう言いながら俺はボールを握る舞の指先に手を重ねる。やはり冷たく強張っている。これを直ちに解決することは困難だろう。
「落ち着いて攻めるぞ。透は確かに打つ方も凄いけど、大雑把だ。付け入る隙はある」
「ありがとう、楓」
舞が力強く頷く。だが表情は強張ったままだ。舞の切り替えが早いと言っても、透の存在は彼女からその余裕を明らかに奪っていた。
こんなの野球じゃない。喧嘩が始まる直前の暴力的に張り詰めた空気を肌で感じる。
こういう時こそ笑顔だ。舞ほど上手く無くてもいい。口角を引き上げ、場に似つかわしくない程にっこりと笑って見せてやる。
「舞が俺たちを、皆を勝たせてくれるんだろ?」
俺に出来る事など、少しだけ彼女を鼓舞することだけだ。それでも、少しだけ舞の心には触れられたらしい。彼女の表情が和らいだ。
「うん、やるよ」
固いながらも笑顔を見せ、頷く舞がそうであるように、透に負けたくないのは俺も一緒だ。
いつまでも透を待たせておくわけにもいかない。俺も自分のポジションに戻る。
「すまない透。待たせたな」
「別に構わねえよ」
そう言ってまたマウンドに立つ舞を見据える透の表情は、何故か妙に切なげだった。
なあ、と不意に頭の上から声がした。透の奴何か用か?
「なんで楓も舞——星野の奴に付き合ってるんだ? お前は怪我したから野球部を辞めたんじゃなかったのか?」
バッターボックスで静かに気を放つ透がそう問いかけてくる。
確かに、怪我をして野球部を辞めたのは事実だ。高校ではカムバックも出来ないような怪我だった。その先、上の世界で自分が野球を続けて行くビジョンも描けなかった。だから逃げたのだ。それは決断なんて言えるほど、上等な物ではない。
「そうだな。お前の言う通り、俺は怪我をした。お前に追いつくための努力すら出来なくなって、部に居たくなかったんだ。それでも野球への未練は捨て切れないなんて中途半端なことを想ってた。そんな俺を、舞は野球に引き戻してくれたんだよ。あいつがいなかったら多分俺は野球を嫌って、今頃野球とは縁も所縁もないつまらない学校生活を送っていただろうさ。だからこそ俺はあいつを勝たせてやりたい。あいつが望むなら、お前にもな」
「そうか……」
透の返答はそれだけだった。
3球目もストレート、しかも外角高めのやや甘いところに入った。だが絶好球と言っていいそれにも透はピクリとも動かない。一体何を狙っているんだか……。
「透、ツーストライクだ。追い込んだぞ?」
「おいおい後1球もあるんだろ? こんなストレート打つくらい楽勝だ」
こんなストレートと言われて少しイラつくが、キャッチャーに堪え性がなければ話にならない。グッと堪えてサインを出す。
舞に出すのはずっと練習してきたスローカーブのサイン。完成形には至っていないが、ストレート2球で速球に眼が慣れているだろう今なら、不完全なカーブでも打ち損じくらいは狙えるだろう。
だが、出したサインに舞は首を横に振った。仕方ない。次のサインは外角低めのストレート。1球外すコースに構える。だが舞はそれにも首を横に振った。3つ、4つ目とサインを出してみるが、外に外す、高めに外すといったリード全てに舞は首を縦に振らなかった。
「お前も大変だな。あんな我が侭娘につき合わされて」
「キャッチャーを壁としか思ってない剛速球のノーコンよりリードのし甲斐があるけどな」
それは透へのジャブ程度の軽い嫌味だ。透は剛速球という武器こそあれど、典型的なノーコン右腕なのだ。
「それは俺への嫌味か?」
「さあ、どうだろうな?」
少しムッとしたように応える透に、こちらもにやりと口元を作って応戦する。
とにかく前哨戦はやり尽くした。後は舞の投げるボール次第だ。6つ目に出したインコース高めの要求に、舞は首を縦に振った。
舞が大きく振り被る。ピッチャープレートの一塁側から踏み出した右足はいつもよりも体の内よりに入り、本塁側から見ると軸足と踏み出し足が交差しているように見えた。リリースポイントがいつもよりも一塁側に寄ることで、更に角度のついたストレートが右バッターボックスの胸元に飛び込む。クロスファイヤーにしてもかなり極端だ。
「その手は食わねえよ」
短い言葉と、無情なほど踏み込まれた一歩。体近くを通るその1球に、透は体ごとぶつけに行くかのように踏み込んだ。太い腕、腰から繰り出される豪快なスイングが、風切り音と供に舞の渾身の1球を捉えた。
金属バットの放つキィンと澄んだ打球音と共に、白球が夕焼け空に吸い込まれる。
「そんな……!」
「お前たちの負けだ」
透の言葉通り、白球は無情にも、レフトに張られたネットの上段まで飛んでいった。
文句なしのホームランだ。飛距離だって120mを超えただろう。プロ野球で使うような球場でも余裕のオーバーフェンスだ。
「……ホームラン」
舞がマウンド上で放心したように呟いた。




