第13話 舞の家にて③
2024/6/6 再編成に伴い追加
「じー……」
口でそんなことを言って見せる人を始めて見た気がする——舞の穏やかな寝顔を眺めた後の沸騰しそうな頭で、咄嗟に思いついたのはそんなズレた感想だった。
「え、えっと……。いつからそこに?」
「つい今しがたでしょうか? いえいえ、私のことは気にしなくていいんですよ? 若い2人でごゆっくりどうぞ……」
音を立てず扉が閉まるが、よく見ると微妙に開かれた隙間から目が見えていた。
好奇心に満ちた視線は、同級生の親のものというには余りに年齢不相応な感があった。
「えっと、そこにいるの丸分かりですよ……?」
「あらあら、もうばれちゃいました?」
「それ、隠れる気ないですよね?」
扉を閉じたように見せかけることもせず、微妙に開いた扉の向こうに好奇心で光る目が見えたら誰だって見られていることが分かる。それが分かっているのだろう。舞のお母さんは特に誤魔化すことさえしなかった。
「でも……。面白いものが見られそうなら、ついつい釣られてしまうのは人情だと思いませんか?」
そしてあまつさえ開き直りやがった! 自分の覗きを正当化する気か、いたずらっぽく光を放つ彼女の目は彼女の娘そっくりだった。
「『でも』に『でも』で返すのも失礼ですけど、自分の娘が知らない男を連れ込んでいたら心配になりませんか? もっと何て言うか……」
説明するにはボキャブラリーが足らない。幾ら頭を捻っても足らないボキャブラリーを埋めて、かつ上手い説明は出来なかった。
「うーん……。何て言うんでしょうか……? 翠川さんからあんまり女の子慣れした感じがしなかったので、初々しい男の子を陰からそっと見守っていたら、中々面白い絵が見られるんじゃないかなーって思いまして」
さっきは見た目から若いと思ったが、前言撤回だ。
幾ら見た目が実際の年齢不相応若くても、その実体はワイドショー好きのおばちゃんとなんら変わりない。むしろ実の娘とその友達をネタにする分前者よりも性質が悪いかもしれない。
「と言っても、半分くらいは冗談ですが」
「あ、でも残りの半分は本気なんですね……」
こんなやり取りどこかで聞いた覚えがあるが、今そんなことは瑣末なことだ。
そうそう、と言って舞のお母さんが勝手に話を進めていく。無視は肯定の証拠か。
「そういえば翠川さんには自己紹介がまだでしたね。私は星野彩夏と申します」
さっきまでのふざけ調子とは違う。静々と下げる頭に舞とよく似た艶のある鳶色の長い髪が従う。舞とは違う大人の気品を伴った一連の動作を見れば、彩夏さんはいかにも大人の女性といった佇まいだった。
舞とは違って背丈も平均以上にある。そして娘には全く遺伝しなかった豊満な胸元……。おそらくさっきの子どもっぽい謎の行動がなければ、俺も「舞とはあんまり似てないな」と思っただろう。
先ほど見せた自分の楽しみに向かって一直線なところを見れば、やっぱりこの親にして舞のような娘ありといったところだが。
俺も自己紹介に返礼する。
「翠川楓です。舞さんとはクラスは違いますが、一緒に野球をさせていただいてます」
「ええ、存じておりますとも」
そう言えばそうだ。特に意識はしていなかったが、彩夏さんに自己紹介していなかったにも関わらず、さっきからずっと苗字で呼ばれていた。
「あの子からお話は聞いてますよ。ありがとうございます」
なるほど、既に舞から紹介されていたか。俺自身、殊更にお礼を言われるようなことをした覚えもないが、そのお礼は素直に受け取っておく。
それで、と彩夏さんが続ける。
「今日はうちで夕飯を食べていってください。折角ですし」
「え? いや、でも家で母がもう作っていると思う——」
「食べていってくださいよ。折角ですし」
俺の返答は、彩夏さんに口早に制された。
おっとりとした柔和な笑顔の中で、目だけが獲物を逃さない肉食獣のように獰猛に光っているのが見て取れる。もし全力疾走でこの場から逃げることが失礼に当たらないとしたら、相手が女性だとか関係なしに、正直今すぐ舞の部屋の窓から飛び出したいくらい怖い。
「いや、あの——」
「食べていってください」
「はい……」
体の起伏とか、背丈とか髪の伸ばし方とか、そんなものは舞と彩夏さんの母娘が似ているかどうかに大した問題じゃない。自分の目的のためにグイグイと力技を押し通す強さに舞と同種のものを見てしまっては、もう2人が「似ていない」などとは言えなかった。むしろこれほど内面が似た母娘というのも珍しいかもしれない。
メールで母に一報を送って、彩夏さんに促されるままにリビングの椅子に座るが、何故か彩夏さんの手は俺の肩に乗ったままだった。
「あの……。何でそんなに力が入ってるんですか?」
別に逃げるつもりはないのだが、俺を椅子に座らせようとしてくる彩夏さんの手は何故か凄く力強かった。まるで椅子に押し付けるかのようだ。
「いえいえ、なんてことはないです。ちょっとこちらの都合がありまして」
疑問が残る俺の耳に、玄関のドアが開く音が聞こえた。
「ただいまー」
玄関から低い男性の声が聞こえた。
彩夏さんが「あっ、帰ってきた」と言ってリビングを出て行くが、最後に「そこに居ろ」と念押しするように左肩を押していったのが余りに気掛かりで、俺は立ち上がることさえ出来なかった。
「なあ彩夏、さっき米屋の婆様が『アンタの家、今夜は赤飯だよ』って言ってきたんだが、今夜は赤飯なのか?」
「はい、そうですよ。譲二さん」
廊下から聞こえてくる太い男性の声は、やり取りからしておそらくは舞の親父さんか。足音は真っ直ぐにリビングに向かってやってくる。
リビングと玄関を隔てる磨りガラスの向こう、大柄な人影が見えた。
「今日ってなんかあったか?」
言葉に伴いガチャリとドアが開く刹那、戸口に現れた身長185センチはあろうかという偉丈夫と視線があった。
パッと見分かる短く刈り込んだ黒髪や、野性味のある厳つい顔の作りは全く娘と似ていない。それでもその身体能力だけは確実に娘に遺伝していると思わせるに十分な細マッチョ体型の男がそこにいた。
「あの子が始めてボーイフレンドを家に連れてきたお祝いです」
凍った空気にヒビを入れる彩夏さんの追い討ちの一言がリビングに寒々しく残った。
「そこの坊主、歯ァ食いしばれ!」
「ちょっと待ってください! 舞とはただの友達であって——!」
両手を振って必死に必死の弁明をするが、鬼のような形相を浮かべて駆け出してくる相手に果たして弁明は有効なものか。
衝撃を予想して咄嗟に目を瞑ったが、2秒待っても3秒待ってもその衝撃は来なかった。
俺が薄目を開けると、そこにはニッと笑う舞のお父さん——譲二さんと、握手を求めるように差し出された彼の浅黒い筋肉質な手があった。
「なーんてな。冗談に決まってるだろ? 舞から話は聞いてる。『また野球が出来るようにしてくれた恩人だ』ってな。俺からも一度会ってお礼を言いたかったんだ。ありがとう」
握り返した譲二さんの左の手の皮は分厚く、小指と薬指の付け根に出来たタコは回数を重ねた素振りの結実で、握りしめられた手の甲に当たるゴツゴツとした感触は紛れもなく投げ込みの成果だった。俺の手にも同じものがある。
「いえ、あくまで俺がしたのは彼女の手伝いだけですから。頑張ったのは舞さんです」
「まあまあそう言うな。踏み出すきっかけをくれる奴は貴重なんだぞ?」
「だから私も申し訳ないと思いながらもお引止めしたんですよ?」
そんなことを言いながらさも面白そうに笑っているあたり、多分彩夏さんの言葉は嘘だろう。いや、少なくとも本気でそう思っている部分はあるのかも知れない。さっきの彼女の言葉を借りるなら多く見積もって半分くらいは。
「それで、どうだ? やらないか?」
一瞬「何を⁉」と本気で思ってしまったが、考えてみれば何でもないことだった。握手した瞬間からお互い野球人だということは分かっている。ならばその『やる』が意味するところは1つしかないだろう。
「舞さんのお父さんのチームと試合、ですか?」
「ああ。それと俺のことはおっさんでいい。その方がお互いに気を使わないだろ?」
「ええ」
何となく内心の緊張を見透かされているようで嫌な感じがするが、言いやすくなるのは結構なことだ。
もしも下手に「舞の」を抜かして「おとうさん」などと言おうものなら、多分彩夏さんにはあの柔和な笑顔のまま邪推されるだろう。
当のおっさんはどうなるか分からないが。
「その試合、受けさせていただきます」
俺の方から真っ直ぐにおっさんの目を見返してやる。おっさんの瞳には、彼の娘とよく似た闘志の光が既に灯っているのが見て取れた。
同級生のお父さんなんだから多分年齢はアラフォーだろうに、奥さんと同じく若く見えた。
「いい眼だ。それで日程だが、もちろんすぐ次の休みとかはなしでな」
「それはどうも。こっちはまだまだ準備不足なんで」
「ああ、そいつはわかってるよ。まだチーム創設して2週間とかだろ? 記念すべき初戦であいつがストレート1本勝負して【オジサンズナイン】の連中にボロ負けしたのは俺も知ってる。昨日も大荒れだったぞ? あの元気娘が静止も聞かないで狂ったように投げ込んでいたのなんて少年野球でエースナンバー剥奪された時以来だ」
何となくその当時の舞の姿が想像出来る。今と変わらない体躯で、今と変わらない眼差しで、今と同じ負けず嫌いさで、日が沈むまで投げ続ける彼女の姿が見えた気がした。
「それで、だ。俺だって準備不足でボロボロに打たれる自分の娘の姿なんて見たくねえんだよ。出来る準備は全部やっとけ。その上で勝負だ」
おっさんはそう言うが、当然俺だってそのつもりだ。
舞は負けず嫌いだし、俺だって似た様なものだ。端から負ける前提で勝負をする奴はいない。【橘BBG】が橘市の男達に勝つために。舞のため、チームのみんなのため、一戦必勝の心意気だ。
「再来週の土曜日。中部緑地公園グラウンドで、正午きっかりスタートでどうだ?」
「異論ないです」
欲を言えば舞の投球練習と守備の全体練習に3週間ほど空きが欲しかったが、好条件を提示されて贅沢は言えない。
週末の野球用グラウンドは半ば早い者勝ちの取り合いになっている橘市で、試合日と試合会場が早い段階で確定出来るのはかなり運がいいのだ。
「それじゃ、いい勝負をしようぜ」
「ええ」
椅子から立ち上がり、おっさんと再度がっちり握手と視線を交わす。俺とおっさんの身長差は20センチくらいか。至近距離に立つと必然的に見上げる形になる。
この体格が舞に遺伝していたら、多分舞はあんなに泣く事は無かっただろうなと思うと、複雑な心境だった。
「2人とも試合前から火花を散らすほどお熱いのは結構ですけど、ちゃんとお赤飯食べてくださいね? 譲二さんもちゃんと手を洗ってから座る。早く食べないと冷めちゃいますよ?」
彩夏さんにそう水を差されて、おっさんはすごすごと洗面所へ去っていった。
勝負の空気から急に食卓に引き戻されると、俺も何となく気恥ずかしかった。
なお蛇足ではあるだろうが、ご馳走になった彩夏さん手製の赤飯はとても美味しかった。結局赤飯の主役であるはずの舞は、俺が帰る時まで起きて来なかったが。
 




