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第10話 舞の家へ

2024/6/6 全体改稿

 放課後の窓から見える景色は、数百メートル先が自分と全く関係ないような錯覚を起こす。3階の教室の窓から見下ろす先のグラウンドでは今日も野球部が練習をしていた。

 今日はサッカー部がいないのか全面を使ってバッティング練習をしているらしい。硬球を打つごとに響き渡る澄んだ金属音に、今もまだ平穏な気持ちにはなれない。


「やっぱり、高校野球は野球の華だよな……」


 そんな言葉が口を突いて出る。怪我のために部活を辞めて、舞と一緒に草野球を始めても、やっぱり甲子園という球児たちの夢の舞台を目指す熱気は忘れられない。

 それくらい高校野球というのは全てのアマチュア野球の中で熱が違う。


「そうだよね。やっぱり」


 1人呟いたつもりだったのに、思ってもいなかった返事があった。もうみんな帰ったはずの教室に通りのよいソプラノが抜けてくる。


「お待たせ楓。ちょっと先生に呼び出されちゃった」


 その声に振り返った先には当然のように舞がいた。


「じゃ、行こうか」

「ああ」


 舞に並んで中央の玄関から屋外に出ると、それぞれの部活動の活気がより近くに感じられる。それでも野球部の掛け声もピロティで壁打ちをしているテニス部も全部そこにあって、全部が自身と隔絶されている気がしてくるのは何故だろうか。


「やっぱり、怪我はしたくなかったな……」


 それは見ているだけしか出来ない者の宿命なのかもしれない。自分はそこに入れないからこそ、同じ空間でありながらそこに見えない壁を感じてしまうのかもしれない。


「楓、肩が痛いの?」

「いや、今は大丈夫。動かさなければ痛くない」


 幻が取り付いたような違和感はあるが、それは決して痛みではない。怪我をした瞬間のことを思い出して、気持ち悪い幻覚が襲ってきているだけだ。

 野球部のグラウンドには今も1.2年生合わせて30人弱の選手がいるが、当然その中に俺はいない。辞めた俺はここにいるのだから当然だ。


「誰かのやってる野球を、見るのも良いもんだな……」


 当然純粋な意味でそんなことを思ってはいない。呟きの大部分は皮肉と負け惜しみに因るものだ。

 多分グラウンドを見据える俺の目は相当荒んでいるだろう。そんな目を舞に見せたくなくて、舞から顔を背けてしまった。


「そうかな? ボクはそう思わないけど」

「へ……?」


 自虐をあっさり空かされて思わずまじまじと舞の顔を見てしまう。舞はさもそうするのが当然のように話を進めていく。


「だってボクが好きなのは野球を見ることじゃないもん。ボクは、自分でプレイするのが好きなの」

「見ても学ぶことは多いと思うけどなあ……」

「それは同意するけど……。でもやっぱり野球は自分でプレイするのが一番! 楓もやっぱりそう思うでしょ?」


 何を知ってか知らずか、舞は強くそう言い切った。

 俺の内心の自虐を察したのか、或いは単なる天然さんか——たぶん後者だろうが、その目は少なくとも確信に満ちていた。


「舞らしいな」


 そう舞らしい。

 野球なら何でもいいからとマネージャーにならなかったことも、舞台さえないのに今のように男子顔負けの直球を投げ込むまで練習を続けてきたのも、その全部が舞らしい。


「楓だってそう思ってるから、長い怪我になってもマネージャーにならずに、ボクと一緒に野球をしてくれてるんでしょ?」

「ま、まあ……な」


 本当のところ一時期は「2度野球なんてするか」という心境ではあった。ただ舞が俺の心を塗り替えてくれただけで。


「——実を言えば少しは未練もあるけどな」


 隣を行く小さな彼女に聞いて欲しい気もするし、聞かれたくない気もする。吐き出したアンビバレントな言葉に対して、舞は何も言わなかった。 

 薄っぺらな防球ネットの向こうはもう異世界だ。肩に怪我を負ってしまった今の俺にはもう立ち入る資格はない。今の俺の居場所ではない。

 防球ネットの向こう側で、橘南高校のエースピッチャー笠寺透の投げた剛速球がキャッチャーのミットを鳴らした。硬式のボールの剛速球。1球ごとに残響を残すその音の前では、俺と舞のキャッチボールが子供の遊びのようだ。


「透の奴、相変わらずえげつないボールを投げるな」


 高校2年の夏にしてMax145キロオーバーの本格派。しかも現在進行形で成長中。ゆくゆくは150キロの大台に届くとすら目された豪腕から投げられるボールは、同性の俺から見ても住む世界の違いを感じるものだった。


「さすがは怪童か。やっぱり凄いな」

「うん……。やっぱり凄いね……」


 西日のせいか、舞の表情に陰が差したような気がする。

 そこにいたのは昼に反省会をしたときと同じ、小さく儚い女の子の舞だった。


「舞、どうかしたのか?」

「ううん、何でもないよ。ちょっとぼうっとしてただけ」


 少し口早に質問をぶった切られる。何となく見覚えのある所作だったが、そんなことを追求することは出来なかった。


「ほら、熱もないでしょ?」


 そう言いながら舞の小さな手が俺の手を掴んだ。そのままグイッと引っ張られて、導かれた先は舞の小さな額だった。確かに舞の言う通り熱はない——舞はどうであれ突然手を掴まれた俺は一気に体温が上がったような気がするが。


「そ、そうだな」

「でしょ? 早く行こう、遊ぶ時間がなくなっちゃう」


 ちょっとだけ早口にそう言って前を行く舞の小さな背中を追いかける。先を行く舞が今どんな表情をしているのかはこちらからは窺い知れない。


「ちょっと待ってくれよ」


 グラウンドを通り過ぎる瞬間、歩みを緩め、目の粗い防球ネット越しに見据えたマウンドは、地続きに見える大地の果てだった。


「楓、そんなところでボーっとしてると、置いて行っちゃうよ?」

「え、ちょっとくらい待ってくれてもいいだろ?」


 立ち止まりそうになる俺を急かすのはやっぱり舞の声だ。立ち止まる猶予を奪われて仕方なく小走りで舞を追う。

 砂の舞うグラウンドは西日の照り返しで、もう見えなかった。

 舞を追って駆け出すその背中に、橘南高校のエース笠寺透の投じた剛速球がミットに叩き込まれる音を、空気の震えを感じる。グラウンド脇の道まで響くその音が、沈めようとする心を昂ぶらせても、今の俺には今の俺のまま立つべき舞台がある。

 今や投げられない俺に、舞がくれた草野球の扇の要という檜舞台。ポジションは変わっても、舞台が変わっても、やっぱり野球はプレイしてこそ楽しかった。


「……ありがとう」


 前を行く小さな背にそう呟く。多分舞がいなかったら、俺は今でも鬱々とした表情で野球を嫌ったままだっただろう。


「どうかしたの? 楓」


 くるりと振り返った舞が西日の中で笑って見せる。いつものような茶化す笑いではなく、触れたら崩れてしまいそうな儚げで、可憐な微笑だった。


「——何でもない」


 そんな舞に俺からは何も言えなくなる。なんというか、俺なんかが触れるにはあまりに綺麗すぎるような気がした。


「次の試合、絶対勝とうな」


 思わず誤魔化してしまったが、「ありがとう」と伝えるのはまだ先でいいだろう。少なくとも『試合の勝利』という形で舞に還元してからでも。


「うんっ! もちろんだよ! だから!」

「今日は練習させないって言っただろ? 約束守らないならもう受けてやらないからな!」


 既に鞄からグローブを持ち出している舞を追い越しながら口早にそう返しておく。

 さっきの舞の微笑を思い出すだけで、頬に感じる夕焼けの熱がより一層熱くなった気がして、俺は空を仰いだ。すっかり深まってきた秋の夕空は、昨年の練習ずくめの毎日の中で見た空とはまた違って綺麗だった。

 学校からの帰り道、野球の自主練習もなく家に直接帰る道すがら、舞はイマイチご機嫌斜めだった。理由は何となく分かる。オーバーユースを避けるために「今日は絶対にボールを投げるな」と厳命したからだ。

 河川敷のグラウンド脇を通り過ぎるときなど、制服のままグローブを持ち出して小学生の群れに特攻していきそうな勢いだった。


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