第1話 オフシーズンの始まり①
秋風というには冷た過ぎる晩秋の空気が河川敷を流れて行った。やはりここまで寒いと自主トレも身が入らないな。日が落ちるのは早いし、防寒用に制服の下を着込むせいで動き辛い。加えて汗をかけば冷えて風邪をひきかねない。……やっぱり沖縄行きたいな。沖縄。
バットを握る手もかじかんでしまっては気持ち良く振れない。バッティンググローブこそ着けてはいるが、コイツに防寒性能がある訳じゃないからな。
「流石に寒いね。河川敷は特に……」
急にやって来た晩秋の冷え込みの前では、子供は風の子を地で行く舞も白旗を上げざるを得なかったらしく、流石の彼女も今日は黒のタイツ着用で、グローブも持ち出さず俺の素振りを眺めていた。
縮こまる彼女の小さな身に纏った、学校指定のラクダ色のダッフルコートは、彼女が着ると幼さが際立って中学生——いや、もっと幼く見えるな。
「明日は今日よりも冷えるらしいぞ」
「うぇぇぇ……。ボク沖縄行きたいなあ……」
「気が合うな。俺も行きたい」
尤もそんなことを言ったところで、渡航費用や目的地がある訳でもなし。
どうせ月曜日には学校があるから帰って来なければならないのだ。そんなしょうもないことに大金を投じるくらいならチームで使うボールやバットでも買う方がいいだろう。
「来週にはもう12月だもんなあ……。日が経つのは早いもんだ」
「12月かぁ……。ボクと楓が初めて会ってからもう少しで3ヵ月なんだね。なんかもうずっと一緒にいるような気がしてたけど、まだ3ヵ月だったんだ」
「言われてみれば、確かにそうだな」
今年は5月の頭に肘の不調を感じ、それを庇ったまま練習を続けて7月の頭に肩を痛めて投げられなくなり、8月を殆ど病院巡りと筋トレに費やし9月の頭に野球部を退部と、ろくなものじゃなかった。
9月以降は出会った舞に振り回され、こよみに、秋人に、椛とその(不)愉快な友達に振り回されながら、なんだかんだ言って終わってみれば毎週のように草野球に勤しみ、楽しく過ごせていた。
正直、今の時間は夢なんじゃないかと思ってしまう時もある。死んだような目でグラウンドの白球を追いながら、教室の窓から飛び降りた俺が見ている都合の良い夢なんじゃないかと。
「なんていうか、夢みたいな3ヵ月だったなぁ」
「え……?」
舞の言葉にふわふわしていた思考が現実に引き戻される。もしかして今の俺の思考、声に出ていた?
「楓と出会って、自分たちでチームを立ち上げて、お父さんたちにも勝っちゃってさ。ボクだけじゃ絶対に来られなかったところに楓やみんなが連れて来てくれた。ボクにとって都合が良すぎて、たまに起きたら全部夢だったんじゃないかって怖くなっちゃう時があるんだ」
えへへと笑顔を作りながら、舞がそう打ち明けてくれる。
俺も同じように思っていたのに、舞の口からそう聴けたことがどうしようもなく嬉しく、くすぐったく、言いようの無い程に暖かく心を満たしていく。この暖かな感情は何なんだろうな。ただの嬉しい、ただの好きとは違う。
「俺も……。俺も同じことを思ってた。何もかも嫌になって消えて行くだけだと思ってたのに、舞が、俺に出会ってくれて……」
人生が変わった気がする。というのは言い過ぎだろうか? それでも俺の人生は舞に塗り替えられてしまった気がする。ただ全てに背を向け、無気力なまま過ぎて行くと思っていた日々の生活が色付いている。それは舞が居てくれたからだ。そこに疑いを挟む余地はない。
「俺も、夢を見てるみたいだった」
流石に人生云々言うのは気持ち悪がられる気がして伏せた。それでも嘘は付いていない。
「ふふっ、夢じゃないよ」
そう言って舞が俺の胸元に額を叩き付けて来た。ドンという鈍い音と共に、俺の身体に衝撃が走った。
爽やかで甘酸っぱい舞の髪の香りが、俺の胸元で弾けた。シトラス系かな?
「いたっ。何するんだよ?」
「ね? 夢じゃないでしょ?」
そう言いながら舞が顔を上げ、至近距離から満面の笑みで俺を見上げて来る。距離、近過ぎるでしょ。
前に透も言っていたが、舞の距離は近いって。こんなの、意識するなって方が無理だ。
「そうだな、夢じゃ、ないな……」
バットを立て掛け、そこにある事を確かめるように舞の小さな肩に両手を回す。小さくも柔らかく温かい。きっと幸せという概念が地上にあったらこんな感触だと思った。
舞の頭突きは痛かったし、吹き抜けて行く風は冷たいし、鼻先を擽る彼女の髪の香りも全てが現実の物だ。夢じゃない。ここにある。その事実がただ愛おしい。
こちらを見上げ、覗き込んで来る彼女の顔を覗き込み返すと、舞の茶色の瞳の中に俺の顔が映り込んでいた。いつ見ても男前とは言えない面構えだ。これが舞にはどんな風に見えているのか、ふとそんなことが気になってしまった。
「うん。夢じゃない」
そう言いながら舞は感触を確かめるように俺の背に手を回して来た。
厚いコート越しでは彼女の鼓動を感じる事は出来なかったが、緊張感の無いその笑顔からは舞がこの状況をなんとも思っていない事が伝わって来た。
……舞の肩を抱くの、俺には結構勇気が必要だったんだけどな。
「夢じゃないから、明日も練習出来るね!」
くるりと回って俺の腕から脱出し、舞はそう言った。寒さで頬をピンクに染めながらも、幸せそうな彼女の笑みを見ていると、また胸の中に名前の知らない暖かさが拡がっていくようだ。
……俺はかなりドキドキしていたんだが、舞には意識されてもいないんだろうなあと思うと少し複雑ではある。ただ、少しだけ名残惜しい気はするが、明日も一緒に練習することは俺も望むところだ。
「楓、明日の練習だけど、ちょっと足を伸ばさない?」
街灯の下で荷物を纏め、2人で河川敷を後にしようとしたタイミングで、舞の方からそう切り出して来た。
「ちょっとって、どこに行くんだ?」
「市営ジムだよ」
そう告げて来る彼女はいつも通り、快活だった。人の気も知らないで。
2024/12/19改稿




