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プロローグ 野球部を辞めた日

2018/1/9 一人称を修正。描写について一部追加しました。

2018/7/10 行間を修正。一部改稿しました。

2021/10/21~ 一括改稿を開始しました

2024/6/6 大幅な改稿をしました。

 放課後の体育教官室は、俺と野球部の監督を除いて誰もいなかった。

 おそらくみんなそれぞれの部活の指導に出ているのだろう。部活が始まっているのに野球部の監督が未だに教官室にいるほうがおかしいのだ。


「翠川、本当にそれでいいんだな?」


 耳に残る重々しい監督の声に押し潰されそうになりながらも、俺は頷くしかなかった。

 監督も責めている風ではないが、それでも辛かった。


「……はい。もう決めたことなので」


 自分でも内心自嘲するほどに、嘘吐きだ。本心では後悔と無念で揺れ続けているのに、それが決意であるかのように話を進めてしまう。

 差し出した封筒に監督のゴツゴツとした指先が触れる。1通の封筒を間に挟みながら、俺と監督は見つめ合った。


「まだ高校生だ。先もある。指導する立場としては、怪我を治してまたマウンドで投げて欲しいと思うが、どうしても退部するのか?」

「はい。……病院の先生からは投げられるようになるまで1年半ほど掛かると言われました。とても来年の夏には間に合いませんから」


 そう事実を口にするだけで、右肩が疼く様に痛む気がした。現実ではないはずのその痛みに心が挫けそうになる。


「笠寺とお前の2人の投手がいればと思ったが——」

「透だったら1人でも十分ですよ」


 監督の慰めの言葉を遮り、小窓からグラウンドを見る。

 今日もブルペンに立ち、投球練習をする我らが橘南高校のエース。俺のかつてのライバル、笠寺透のボールは抜群に素晴らしい。身長185センチを超える恵まれた体格から放たれるボールは、とても同じ高校生2年生には見えない。

 駄目だな。今の自分の体たらくと見比べて悲しさばかりが増してくる。


「だから、お願いします」


 さらに一歩、監督に封筒を押し出す。封筒には震えた下手糞な字で『退部届』と書いてある。

 監督は目を閉じてそれを受け取り、鍵のかかる引き出しに突っ込み、鍵を掛けた。


「戻って来る気があるならいつでも戻って来い。ブランクがあればある程練習は厳しくなるだろうが、その時は歓迎するぞ」

「……ありがとうございます」


 他に言い残せる言葉も無い。俺は喉に溜まった言葉に出来ない感情を空気と一緒に飲み下し、無言で頭を下げ教官室の扉を開けた。


☆☆


 見渡す限り夕日に照らされたグラウンドは綺麗だった。

 白球を追いかける選手。練習の掛け声。金属バットから響く快音。そしてブルペンで投げ込みをするバッテリーの姿。それら全てが外から見る今の俺にはガラスを隔てた景色のようだった。

 いや、目には見えないだけで本当は壁もガラスもあるのかもしれない。たかが150mもない距離が、今は空の彼方ほどに遠かった。


「次。ストレート!」


 ブルペンでそう要求するキャッチャーの下へ透の投げた球が吸い込まれていく。

 ズドンと重く、耳に心地よい音が秋空を震わせるように響く。その音に俺は更に目を伏せた。手に入らない物を見ても惨めになるだけだ。

 もう退部届けは提出してしまった以上退路はない。「自分で出した答えだろ」と口の中で小さく呟き唇を噛み締める。口を突いて出そうな泣き言も、全て捻じ伏せるよう閉ざした唇からは、微かな血の味がした。


「……こんなもの」


 今俺の手の中にあるのはボールでもグローブでもなく、医師の説明内容をメモしたものだ。セカンドオピニオンを求め歩いても、医師の説明は同じだった。

 仮に手術をしても軽いキャッチボール再開まで6か月、全力投球の解禁までは14ヵ月と予想された。そしてほぼ9か月後にはもう最後の大会——夏の甲子園大会予選が待っていて、仮にみんなのおかげで勝ち残れても、8月の甲子園に俺は間に合わない。

 まして故障以前でさえ透の2番手に甘んじていた俺にとって、時間のハンデと怪我のハンデは選手としての自分の価値を見限るには大きすぎる要因だった。

 野球部の練習するグラウンドを尻目に学校を出て、雑踏に埋もれながら商店街を抜け、気がつけば足は川原に向っていた。

 見慣れた景色が夕暮れに沈んでいく。もう少ししたら街灯が点くだろう。野球を始めて10年、いつも練習してきた場所は、今日も変わらず俺のことを待っているようだった。

 内心、嘆息する。


「はは……。未練タラタラだな。だっさ……」


 通学カバンを下ろすと、思わず乾いた笑いが零れた。

 野球への未練を断ちたくて退部届けを出したというのに、体が自然とこの場所に向いていたことに行き場のない憤りを覚える。苛立って投げ捨てたブレザーのポケットから点々とボールが転がり落ちた。


「……ホントに馬鹿かよ、俺は」


 もう何も目指せないのに、行動は変えられない自分に苛立ちが募る。

 転がったボールを拾い上げ、未練と苛立ちを込めて河川敷から対岸に向かって投げ捨てる——いや、投げられなかった。ボールはただ重力に引き寄せられ、力なく足元に点々と転がった。


「っ……!」


 痺れるような、焼け付くような痛みが、右肩を中心に右腕全体を襲ってくる。

 拾い上げようとしたボールは、力の入らない指先では満足に掴むことさえ出来ずに地面に落ちた。


「クソ……!」


 悪態を吐いて症状が軽くなるなどと言うことはない。そもそもの怪我が自分の自己管理能力の甘さのせいだ。誰も責められはしない。それは夏前からずっと分かっていた。

 ただ人生で一度きりの高校野球で投手として花を咲かせるために練習してきた全ての時間が無駄になったことが、虚しくて悲しくて、近くに見えていた地面がぼやけた。

 唇を噛む俺の元に足音が近づいてくる。


「大丈夫? 救急車呼んだほうがいい?」

「……あ、いえ、大丈夫です」


 突然頭の上から聞こえてきた柔らかな女性の声に、ほんの一瞬痛みを忘れる程に驚いた。

 出来の悪いからくり人形のように、何とか視線を上げた先にいたのは俺とよく似た濃紺のブレザーを纏った女子生徒だった。


「本当に大丈夫?」

「大丈夫……。です」


 ギクシャクとした動きで立ち上がる。口調もこれ以上ないほどぎこちない敬語だったが、少女はそこまで気にした素振りを見せなかった。なおそうなってしまったことについて彼女は悪くない。問題はつい最近まで生粋の野球馬鹿だったせいもあって、異性に対する免疫が低めな俺の方にある。

 みっともないって? モテない高校男児を舐めるなよ?

 突然見知らぬ少女に会話を振られた衝撃が抜けきらないままなんとか立ち上がると、目の前にいた少女は思ったよりも小さかった。

 俺だって男子の中では背は高くないが、目の前に佇む彼女は俺と比べても頭1つくらい小さかった。多分小学生でもこの子より身長が高い子はいるだろう。

 彼女の目が俺のカッターシャツにとりあえず付いているような、ブルーの校章入りのネクタイピンに止まったように見えた。


「きみもナンコ―生だよね?」

「あ、ええ。そうです」


 落ち着いてから小さく頷き答える。ナンコーは俺の通う、橘南高校の地元での通称だ。

 言動と服装から察するに彼女もまた橘南高校の生徒だろう。ブラウスの首元の青いリボンを見れば学年も分かる。俺と同じ2年生だ。背丈と童顔のせいでにわかに信じがたいが。


「ボクは星野舞、2年1組だよ。きみは?」

「……翠川楓、2年2組です」


 彼女がナンコーの制服とリボンをしっかり合わせていたのは幸いだった。

 150センチにも満たないだろう小さな背丈。ちょっと叩いたらぽきりと折れてしまいそうな細い肩。その上で彼女が動くたびに可愛らしくふわふわと揺れる鳶色の髪。勝気な光を湛えた大きな眼に、頬を健康的な桃色に染めた童顔。外見全てが年齢詐称も甚だしい。

 多分高校の制服でなければ2年は2年でも、中学2年生と間違えていただろう。


「あの……。星野さんはこんなところで何を?」

「舞でいいよ。それからその堅苦しい言葉遣いもやめてよ。同級生なんだからさ」


 やや固くなる俺に舞は屈託のない笑顔で返してくる。だがその笑顔があまりに子供っぽかったのも原因だろう。異性というよりは妹か何かを相手にしていると思えば、幾分か緊張も和らいだ。

 まあ俺に妹はいないんだが。


「分かった。舞はこんなところで何してるんだ?」

「何って壁当てとか素振りとか、そんな感じの野球の練習だよ。流石に毎日じゃないけど、週に何日かね」

「ふーん、ダイエットのジョギングとかなら分かるけど、女の子で野球って珍しいな。そんなに練習してるってことは、この辺の草野球チームにでも入ってるのか?」

「ううん、ボクは正式にチームには入ってないんだ。たまにお父さんのチームの試合に代打で出してもらうくらい。本当はピッチャーやりたいのに……」

「そうなのか……」


 確かに舞が右手に着けているグラブからはよく使い込まれた感が見て取れる。それこそ1年どころではなく、使い込まなければ得られないような手との一体感がある。


「それじゃあ今度はボクから質問していい?」

「ああ、いいよ。俺に答えられることならな」


 秋口の河川敷を渡ってくる風は、夕暮れ時でももう肌寒い。

 舞に答えながら先ほど投げ捨てた制服を肩に引っ掛けた。だが、それは俺が覚えている重量よりも明らかに軽い。軽くなった分の無くなっていた物は、舞が俺の顔の傍に掲げていた。


「これ硬式野球のボールだよね? 楓は野球部なの?」


 舞の口から出た『野球部』という単語に、思わず痛む肩が強張るのが分かった。

もう——いや、少なくとも今だけは、その単語は聞きたくなかった。


「……もうやってない。さっき辞めた」


 自分の中の燻りを吹き飛ばしたくて、言葉が変に強くなってしまった。

 俺の内心を察してくれたのか、舞は何も言わずに川を臨む俺の隣に座ってきた。次の言葉を急かすこともなく、自分から詮索しようとしない彼女の態度に救われて、つい口も綻ぶ。


「……いやになって、もう辞めたんだ」

「さっき投げようとしてたところを見ちゃったけど、怪我?」

「ああ元ピッチャーだけど、もう、投げられない」


 自分の事ではあるが、口にするとなお悲しくなる。それでも口は止まらない。

 俺は誰かに聞いて欲しかったのだろうか? そんなこと思ってもいなかったのに。


「今肩にメスを入れても、キャッチボールをするまで半年くらい掛かるらしいんだ。全力投球出来るようになるまでには1年以上の時間を要するって、医者には言われた。最後の大会には間に合いそうもない。だからもう……」


 高校野球の先を考えて手術を受けることを考えもしたが、駄目だった。仮に長い期間を経て肩が治ったところで、俺には戦う場所がない。目標もないまま頑張ることが、俺には出来ない。思うままを吐き出した言葉は本当に単なる落伍者の理屈だ。

 それらは殆ど自嘲だったが、舞は同情的な表情を変えなかった。


「楓は本当にもう野球が出来ないの?」

「DH(指名打者)くらいなら出来るぞ。打率は2割以下、長打力も皆無だけどな。投げるほうはベース間も投げられないからどこも守れない。数合わせくらいにしかなれない。少なくとも野球部に居場所は……」


 現実を言葉にして並べてみると、嫌になるばかりだ。肩を壊してなおバットマンとして再起を図る奴はいるが、俺にはそんなバイタリティーが持てなかった。

 落ち込み具合を察してか、舞がとんとんと肩を叩いてくれる。怪我をしていない左肩のほうだ。こちらを見るその表情は、笑顔というにはかなり複雑なものだった。


「うちの野球部、結構厳しいよね。私だって野球したくて入部届けを出したのに、翌日職員室に呼び出されて届けを突っ返されたし、女の子は選手になれないって言われたんだよ?」

「それについては俺も監督に賛成だ。女性選手の参加を禁止してるのは高野連だしな。選手として野球をやりたいなら高校野球は薦めない。草野球チームでも探す方がいい」

「そうは言っても、この辺で募集を掛けてたチームには全部連絡したんだよ? 結局どこに連絡をしても女の子は選手としてチームに入れないって言われたけど」


 内心何を考えているのか分からなくさせるためか、あっけらかんと彼女は言った。


「まじかよ……」


 しかし、その背景にある彼女の艱難辛苦は察することが出来た。

 この辺りの草野球はかなり盛んだ。ほぼ休日ごとにそこら中のグラウンドで年かさのおじさんたちが試合をやっている光景を見かけるくらいに競技人口も多い。

 それを全部断られて、それでもまだ野球をしたいと言い出すのはたいした根性だ。思わず感心する。心が完全に折れてしまった俺よりずっと根性があるだろう。


「じゃあ学校の仲間でチームを作るのは?」

「知り合いみんな当たってみたけど、みんなほかの部活をやってるからって断られた。硬式野球部あるから男子はみんなそっちに流れちゃうし、ホント野球って女の子にとって門戸の狭いスポーツだと思わない?」

「ははっ……。それには賛同するよ」


 実際数年前に日本で始めての1リーグ限りの女子プロ野球が誕生したとはいえ、女子にとってプレイする方の野球はまだまだマイナースポーツだ。競技人口は少ないし、高野連の女子締め出しのルールもあって『野球は男のもの』という先入観も根強く残っている。

 アマチュア野球でも華の舞台でさえそんな有様なのだ。体質が改善される見込みは薄い。


「こればっかりはどうしようもないな。そう短い期間じゃ変わりようもないしな」

「そうだよね……」


 小さな子どもが拗ねて呟くように、舞も呟いた。だがそれを子どもっぽいの一言で片付けるなんて事は出来なかった。自己管理不足で肩を壊して野球をやめた俺とは違い、彼女は前提から野球が出来なかったのだ。俺の隣で肩を小さくすくめる舞に、少しだけ同情した。

 河川敷を渡る風が冷たくなってきた。いつもなら一汗流してから帰るところだが、もうそんなことをする理由も俺にはなくなってしまった。

 寂しいがそうやって培ったルーチンも時と共に風化していくのが人生なんだろう。こんな言い回しなど敗北者の安っぽい人生哲学だと笑い飛ばしたいが、今まさにその哲学を踏襲しようとしている俺は苦い想いを表情に出さないよう努めるだけで精一杯だった。

 女々しさが後ろ髪を引くが、もう目指す舞台もなければ、鍛える必要もない。今は全てを諦めてさっさと帰る他にすることもなかった。


「壁当ても良いけど、気を付けて早く帰れよ」


 立ち上がると鞄から垂れる紐が揺れた。巾着袋の口を縛る目立たないそれだったが、舞は見逃してはくれなかったらしい。

 驚くほど機敏な動作で紐を引っ張られて鞄から飛び出したのは、濃紺に染められた厚手の布地の袋だった。


「わーい! ちゃんと持ってるじゃーん!」


 野球経験者ならば一目でそれと分かるグローブを入れた袋。それを舞に見つかってしまった。


「せっかく道具もあることだし、キャッチボールしようよ!」

「舞はどんだけ野球に飢えてるんだよ……」

「飢えるに決まってるよ! なんと言っても壁当て6年選手だよ!」

「よく壁当てばっかりそんなにやってられるな……」


 右手にグラブを着け、左手に一般軟式野球で使われる大きめの軟式野球ボールを握り締め、逃げ出そうとする俺のすぐ傍まで舞は近寄ってきていた。

 女の子にこんな風に迫られるのはいつ以来か。いや、無い訳じゃないぞ? ただ記憶を相当漁らないと出て来ないから考えるのは止めるが。


「さ、しよう?」


 全身にやる気を漲らせ、期待のまなざしを向けてくる舞を前に、俺の選択肢は逃げるか受けるかの2択しかなかった。そして前者を実行しようにも足が根で張り付いたように動かない。ただその手は巾着袋の口に伸びていた


「……まともな返球は出来ないからな」


 そういいながら袋から取り出したグローブを着ける。ここしばらくの病院通いで、久しぶり感じる革とグラブオイルの匂いに、胸の奥がツンとした。


☆☆


 短い距離から舞が投げてくる軟式ボールをキャッチし、手首だけで投げて返す。

 比較的地面と平行の軌跡を描く舞のボールに対して俺のボールは見事な放物線を描いてワンバウンドで舞のグラブに収まる。情けないボールだ。


「割と普通に投げられるんだね」


 舞がそう言いながらボールを投げてくる。さっきよりも少し速いボールがパァンと乾いたいい音を立てて俺のグラブに収まる。

 こちらから投げ返す球はまたも山なりの軌跡を描くひょろひょろ球だ。


「これが目一杯だ。手首で放ってるだけじゃこんなもんだ」

「セカンドかファーストは?」

「さっきも言っただろ? 高校野球で塁間も投げられないんじゃ、どんなポジションだろうと使い道がない。俺がプロで3割30本打てる逸材ならともかく、俺の打率は高校レベルですら2割もない」

「……ごめんね。気が利かなくて」

「舞が謝るようなことは本当に何もないぞ」


 打撃が苦手なのは俺のせいだ。それを舞に謝られると立つ瀬がない。

 舞の投げたボールがしっかりとこちらの胸元、グラブを構えたところに投げ込まれる。綺麗なバックスピンの利いたボールがグラブを鳴らす度、胸が疼くような高揚感が湧き上がってくる。打つことも投げることも出来ない癖に、この楽しさを全て棄ててしまうことが惜しかった。


「ねえ楓、もう少しギア上げてもいい?」

「まだ本気じゃなかったのかよ……。良いぜ。付き合うよ」

「よし、行くよ!」


 俺の返事を待って、舞がワインドアップモーションに入る。落ち行く日が彼女の小さく儚いシルエットを際立たせた。しかし大きく踏み込まれた足に続いて放たれた一投——儚さとは無縁の快速球が俺のグラブで弾けた。


「ナイスボール!」


 速いな。120キロくらい出ているんじゃないだろうか? 少年野球時代にピッチャーをやっている女の子を見たことが無い訳じゃないが、ここまで速い子はいなかった。

 コントロールもよく、構えたところに飛び込んで来る混じり気のない「ナイスボール」だ。思わず受けている左手にも力が入る。

 手首から先だけで投げた俺の返球がワンバウンドして舞のグラブに入る。

 情けない俺の返球から、一呼吸おいて投げ込まれる舞の速いボール。綺麗なフォームから放たれる綺麗なバックスピンがかかったボールは、受け止めた俺のグラブから飛び出しそうだった。


「ただの女の子の趣味かと思ったけど、上手いんだな」

「ふふーん、元球児は伊達じゃないのだ」


 思わず見惚れてしまうような可憐な笑みを浮かべ、舞がまた投球フォームに入る。

 投げるたびに危なげにひらめくスカートも気にせずに、鳶色の髪を揺らし、舞は体格に見合わない速球をバンバン投げ込んでくる。


「ナイスボール! 男に混じっても見劣りしなさそうだな」


 受けているのも気持ち良くなるボールに、さっきまでの鬱々とした気分が薄れて行くのを感じる。返球は相変わらずだが、キャッチする手には力が入る。


「まあね、練習だけは欠かさなかったから」


 舞の言葉通りに、グラブに飛び込むボールの速さは相当なものだ。橘南高校の野球部の男子と比べてもそう明らかに劣って見えることもないだろう。

 ……まあ橘南高校の場合、エースだけは別格だけど。


「でもどこのチームにも入れないんじゃ持ち腐れだよね」


 2バウンドした返球を捕りながら、少しだけふて腐れるような口ぶりで舞が言った。

 夕日の残光に目をすがめた舞は、さっきまでの印象とは違い、少しだけ大人っぽく見えた。


☆☆


 その後もしばらく雑談をしながら、互いに速いボールと山なりのヒョロ球を投げ合っていたが、流石にキャッチボールを続けるには照度が足らなくなってきた。 

 投げ込まれたボールを捕球して、俺の方から一歩距離を詰めて返球する。意図が伝わったらしく、同じように舞も捕球して一歩分距離を詰めてくる。徐々に距離が縮まり、キャッチボールが終わる。俺はさっきまで考えていたことを彼女に伝えることにした。


「なあ舞、作ってみないか? 草野球のチームをさ」


 つい今さっき、キャッチボールをしている最中に思いついたことを、俺は言葉にしてみた。しかし、まだ拗ねたような顔をする舞の表情は変わらない。


「もう考え得るみんなには断られちゃったって、さっき言ったよね……」


 既に色んなところに申し込んで、その全てに片っ端から断られたと言うだけに、舞の表情は明るくならない。だが俺とてさっきそのことを聞いておいて、確認するためにそんなことを言ったわけではない。


「俺がいる、最悪人数が足りなければ助っ人だってある。草野球だしな」


 顔を上げながらも理解が途中で止まっているようなきょとんとした表情で舞が見つめてくる。そんな彼女に対して言葉を重ねる。


「だから、俺と野球してくれないか?」

「でも、いいの? そんなこと出来るの?」


 そう問い返して来る舞の不安は尤もだ。今の時点では言い出しっぺの俺にさえ人を集められる確信はない。

 ただ、怪我と自分の続ける意思が挫けたことが原因で、高校野球を諦めた俺とは違い、舞の野球はまだ始まってすらいないのだ。

 同情か、はたまた自分には出来なかったことへの代償か、その辺りはまだ良く分からない。ただそんなアプローチであれ、野球に関って居たくなった。


「舞がやる気なら、俺は力を貸す。どうせこっちも部活を辞めて暇を持て余す身だ」

「本当にいいの」

「俺に出来るのはあくまで手伝いだけどな」

「ありがとう!」


 舞の曇り、不安の表情が一変して満面の笑顔になる。「花が開くような笑顔」という陳腐な言い回しの意味を実体験出来る程に、それは華やかでありながら、守りたい儚さが同居する笑みだった。

 大変なのはこれからだが、それは彼女がモチベーションを上げて乗り越えられればいい。ぼんやりと手段と構想を練りながらそんなことを思った瞬間、首にいきなり凄まじい荷重が加わってきた。

 見れば舞が俺の背に手を回し、半ば飛び込む形で飛びついてきていた——いや、この子いきなり何してんの⁉ 心臓が止まるわ!


「ありがとう!」

「いきなり飛びつくな! ビックリするだろ!」

「ありがとう! 本当にありがとー!」


 小さい、子供っぽいと思っていても、やっぱり同級生は同級生だ。触れてしまうとちゃんとケアにも気を使っていることが分かる。近づけばほんの少しの汗の匂いに混じって男性物のシャンプーとは違う女の子らしい甘い匂いがする。密着すれば思わず触れた肩や、折れそうな腰の細さにドキドキする。

 まして抱き着かれれば、微かだが確かに彼女も女の子なんだと主張する2つの膨らみだって分かってしまう。分かってしまうのだ!

 それらは異性に免疫のない俺にとって、ほとんど毒みたいなものだった。


「あああああああああ! もう離れてください! お願いします!」


 背に腕を回してくる少女を、叫びながら振り払おうとする男子高校生というのは不審人物以外の何者でもないだろう。とはいえそんなことを気にしている余裕など当然俺にはないが。

 数分後やっと舞は離れてくれた。とはいえ心臓が早鐘を打ち続けている俺は、隣でケロッとする舞のようにはいかなかった。多分頭は耳まで真っ赤だろうと容易に想像がつくほどに、顔が熱い。


「大丈夫? 楓は肩以外もどこか悪いの?」

「えっと、ちょっと免疫とその標的が……」

「なんか大変そうだね?」


 婉曲に誤魔化した俺に対して、自身がこちらのグロッキーの原因であることも知らずに、舞は完全に他人事のようだった。事実彼女にとっては他人の事だが。

 そんな彼女だからこそ、気付いていないであろう事を指摘しなくてはならない。彼女を見る人の目のためと、今後の俺の心臓のため!


「それからもう1つだけ、今後スカートのまま思いっきりボールを投げ込むのは絶対にやめろ。一応校則の丈は守ってるみたいだけど。……かなり危なかったぞ」


 俺の視線はそっぽを向きながら、今も河川敷の風に揺れる舞のスカートに吸い寄せられてしまう。今も河川敷を渡るそよ風が吹くたび、彼女の短いスカートがふわりと持ち上がり、贅肉の無いミルク色の大腿を露わにしていた。

 舞の無防備さは出遭ってまだ数時間も経っていない俺にさえ、そのまま突風が吹いてスカートが捲り上がろうが何の頓着もしないんじゃないかと思わせるくらいだった。

 舞は暫く何を言われているのか分からないように首を傾げていたが、ようやくこちらの視線の意図に気付いたらしい。彼女の細い指が濃紺のプリーツスカートの裾を摘まんだ。


「ん? ぁ……。スカートだと何か拙かった?」


 俺は『そうだよ』という意思を込めて力強く頷く。だが残念ながら意図していた『危ない』の内容までは舞に伝わらなかったらしい。

 さも自然な動作でスカートの裾を持ち上げた舞に驚き、俺は思いっきり眼を背けた。何か黒いものが見えた気がするが、見なかったことにする!


「大丈夫、大丈夫。ちゃんと下にスパッツは履いてるから! そのあたりは心配ご無用!」

「自信満々なのは結構かもしれないけど、そういう問題じゃないからな⁉」


 かなり自信有り気に、問題を盛大に勘違いしている舞に思わず声が大きくなる。


「むぅ……。何が問題なのさ」

「その危機意識の低さ全部だ!」


 頬を膨らませる舞に、何とか分かってもらおうと声を大きくしたが、結局その話は平行線のまま終わってしまった。始終首を傾げていた彼女には、こちらの言いたかったことの1分としてまともに伝わった気がしなかった。


☆☆


 街のあちこちで電灯が点き始めるころ、舞がようやく鞄を掛けて立ち上がった。

 日が落ちても連絡先の交換やら次に会う約束やら色んなことを話していたせいで、結局遅くなってしまった。


「もう暗いし、送って行こうか?」

「大丈夫! ボクはランニングしながら帰るから、じゃあね!」


 それとなく見せたこちらの厚意を、舞は颯爽とスルーして走っていった。肩の上で鳶色の髪をふわふわと揺らし、小さな背は河川敷の階段を駆け上がって、商店街の方に走り去って行った。多分向かう方向一緒だったな。

 そしてどうやら先ほどの俺の注意は無駄に終わったらしい。階段を駆け上がる間、靡いたスカートの下から盛大にスパッツがお目見えしていた。


「はあ……。早まったかもしれないな……」


 河川敷に残された俺のため息が9月の夜空に吸い込まれていく。

 野球部を辞めたその日に、別の野球のステージに移行しようとしている自分を少し浅ましいのではないかと思う心はあるが、そんな自分の心を、俺は舞の笑顔を免罪符に黙らせることにした。


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