今日から。
「さて。」
ソファに深く腰をかけたミキが話を切り出した。
高嶺の所で行っていた事と同じようにスケッチブックに何かを描いている。
「まずは衣羽の命綱を直さなきゃね。ピアス貸してくれる?」
向かいに座った私は身に着けた物を取り外し、テーブルに置いた。何度見ても真紅にヒビが入っているのは変わらない。
「あの…私は何かすることありますか?」
私の声に反応してスケッチブックの隙間から視線を覗かせた。
すぐに目を伏せたもののカラフルなのれんの先を指差した。
「コーヒー淹れてきて」
予想をしていなかった頼み事にすぐには反応できなかった。
「ミルク無し、砂糖多めね」
テイストを告げられ、黙々と作業を再開してしまった。
困惑しつつも手持ちぶさたになってしまうのは気分が悪いので行動に移す。
のれんをくぐった先は窓からの光も弱く、薄暗かった。方角からしてこの時間にここにはあまり陽が差さないらしい。
電気を点けると4畳ほどの広さに使用感の少ないL字型のキッチンが広がっていた。
置いてあるものが少ないため、目的を果たすのに迷う事は無かった。
流し台にはオフィスを出る前に自分達が使用したマグカップが置いてある。ケトルに水を入れスイッチを点け、お湯が沸くのを待つ。
その間、後ろにある食器棚を覗くと渋めの湯吞みからロココ調のカップなど多彩に揃っている。不揃いなそれ達は、雰囲気で貰い物であると悟る。
しかし多彩な中から使っていいものの判断はできず、結局流し台の中の物を洗って使う事にした。
なんだか「オフィス」って感じがしないなあと、考えていた。
ケトルのすぐ脇にはインスタントコーヒーや砂糖の入ったお洒落な瓶が置いてあり、頻繁に飲んでいることが伺える。
洗いたてのカップにコーヒー粉末を入れた所でお湯も沸いた。
ミルク無し、砂糖多め……ってどれくらいだろう。
お湯を注ぐとほろ苦い香りが鼻を通る。
…よし、任務完了である。
温かい湯気を漂わせながらのれんを出れば、すでに何かを描き終えたようで、スケッチブックは手放していた。
テーブルに置かれた1枚の紙にはまた何かのマークが描かれている。自分にはよくわからないが、高嶺のところで見た物と違いは無い気がする。
「そこに置いといていいよ」
そう言われカップを紙の横に置く。
ミキの向かいに座るとマークの中心に赤いピアスが置いてある事に気づいた。
「あの……」
「髪の毛1本だけ頂戴」
言いかけた台詞にかぶせる様に指示される。
「ピアスの上に置いて」
急いで毛を抜いて指示通りに置いた。
そしてミキが一息吐くことで室内に緊張が走る。自然と、自分の心臓も鼓動が速くなるのを感じる。
白い手を用紙の上に重ねると橙色の光が漏れ出す。
部屋中に薄く渡っていた香煙が吸い込まれている事に気づく。周囲の空気が集まってきているらしい。
橙色が紙まで包んだところで空気の流れが止まる。
無意識に自分の呼吸まで止まってしまう。
光が水面の波紋のように波打つと手のひらから四ツ折りにされた紙が出てきた。
その手で握る仕草をするとそれは収縮し、まるで絞り出されるかのように紙から雫が垂れる。
音も立てず真紅の上に落ちた瞬間、真上にあった手のひらでピアスを覆った。
彼の口角がニヤリと上がった。
「哺時刻の宵、彼の物修復せし。巳蛇を以て命じる」
唱えれば光は集まり蛇を形取る。蛇独特の仕草である舌を出すと、それはこちらを向き、眼があってしまった。
「おい、巳己よ。なんだこの女」
自分のものでも、少年の声でもない低い声。
「女ぁ、何者だ?」
それは声の主は橙色の光を纏った蛇だった。舌を出しながらこちらに近づく。
「ひっ…!」
恐怖で声にならない叫びをあげる。
「ちょっと、ツチ、とりあえず手伝ってくれる?」
無感情な顔をしたミキが蛇に声を掛ける。良く見るとミキの手と蛇は繋がっていた。
蛇が舌打ちする音と共にそれは出てきた所に戻る。
紙に描かれた輪にそってとぐろを巻くと光はより一層強くなった。
「さ、衣羽、思いっきり一息かけて」
「えっ?えっ!?」
「早ようやらんかい、女!」
低い声にまで急かされ、反射的に体が動いた。その場の空気を一気に吸い込み、唾も飛ばす勢いで息を吹く。
光は揺れると、まるでロウソクの火のように消えた。良く見ると紙や蛇も無くなっていた。
「終わったよ衣羽。手を出して」
差し出した手のひらに落とされたのは綺麗な艶を取り戻した真紅のピアス。
「わあっ!ありがとうございます!!」
「それを直すのに手っ取り早かったのが幸運を込めることだったから、さっきの高嶺さんのが入ってる。それでまたしばらくは大丈夫だと思う」
高嶺の顔を思いだしつつ嬉しさで涙が出そうになりながら身に付けた。
「……で、報酬なんだけど」
「え゛っ!?」
一気に現実に引き戻された。考えないようにしていたが自分は無一文である。
別な意味での涙を溢しそうになったところで。
「今日からここで働いてもらうから」
そう言ったミキには悪そうな笑顔が輝いていた。
「だってさあ、衣羽ちゃん、これからどうするの?お金?住むところは?運も何もないのにどうやって生きてくの?」
何も言い返す言葉は出てこない。
「住み込みで、しかも職もあって、運が無くても大丈夫だよ?」
悪魔の囁きのようだ。
しかし、確かに考えれば考えるほどこんなに好条件はどこにもなかった。
「……よろしくお願いいたします」
少年そのものの笑顔で頷いた管理人と、無運の少女のコンビは難なく成立したのでした。