カミガリ
長い腕がこちらに伸びる。
「…衣羽、一緒においで?」
その手は、昔、良く触れたもの。恐怖とは裏腹に、記憶は施設にいた頃の幸せだった思い出が再生される。
「……みかげさん…」
遠くで、色葉の呼ぶ声が聞こえる気がする。しかしそれは頭に入って来ることはなく、無意識に自分の腕が彼へと伸びていた。
もう一度、触れることが出来る…。
「……どうして、邪魔をするのかな?」
少しだけ苛立ちを含めた壬影の声。
気づけば、私は色葉の腕の中。
実際にはその手に触れる事は無く、直前で彼女に抱えられ、彼から距離を取っていた。
当初の立ち位置とは逆転し、壬影の後ろには私たちがくぐった居がある。
色葉の隣には脇腹を押さえ、苦悶の表情を浮かべたミキ。それに心配そうに寄り添うメイがいた。
「汝には衣羽は渡さぬ」
彼女は強い意思で言い放つ。抱えられた腕にも力が入り、少し苦しい。
「そうか、今は君の大切な"器"か」
元の軽い口調に戻った壬影。小さくため息を着きながら言葉を続ける。
「ま…、今は貸してあげるよ。その"器"は僕の物だから、いずれ返してもらうけどね」
「衣羽は人の子じゃ!汝の所有物ではない!!」
「勝手に依り代にしておいてよく言えたものだね。約十年間、僕が手塩にかけて育てた"器"なんだけどなあ」
色葉の怒りが頂点に達しているというのが、首飾りを通して伝わる。そして同時に悲しみが溢れる。
壬影の、まるで"物"を扱うかの様な言い種。私は、ずっとそう思われながら、世話をされてたのだろうか…。
「いつまでも馬鹿にしおって…!我がそう易々と渡すとでも思うておるのか!?」
「ふふ、今は無理だけど、そのうち回収しにくるよ。…力ずくでもね」
「………このっ…!!!」
怒りで声を詰まらせる稲荷神。だが、それを制止するように口を挟んだのはミキだった。呼吸すらままならない様子で、必死に言葉を絞り出す。
「……っは…管理人は…あくまで色葉の下だ…っ、命こそ奪えない筈だ……っ」
「そ、そうじゃぞ!それに、衣羽との契約は永劫じゃ!解けるとすれば我の命が尽きる時。汝ごときが何をしようが、もう一度衣羽を手にする事はできぬ!!」
二人の台詞を感情のない笑顔のまま聞いていた壬影。
まるで、意に介していない様子で、「それが、どうだって言うんだい…?」とため息混じりに吐いた。
「確かに僕は管理人だけど……、もう今は関係ないんだよ」
「何じゃと……?」
「…ふふ……」
壬影はようやく、感情を表に出し、わくわくしているかのように笑った。
それと同時だった。彼の背後にある鳥居がまるで蜃気楼の様に揺れる。
「あぁ、そろそろ時間だね」
楽しそうに呟き、体をこちらに向けたまま後ろ足で鳥居へと向かう。
「……子鼠め…逃げるつもりか…!」
追おうと体を乗り出した色葉。
しかしそれをミキは止めて、壬影へと問いを投げた。
「…壬影…何を企んでる……」
歩みを止めないまま、彼はポケットから小さな円筒を取りだし、ミキの質問に笑顔で答える。
「…ふふふ、僕はね、神様を殺せるんだ。これに入っているのは、ここの土地神だよ」
「……は…?」
「理解できてないって顔だね。ま、言葉の意味はそのままだよ」
円筒をまたポケットへ入れ、その手で指を鳴らす。
それを合図に鳥居の中に扉の様な物が現れ、手前で壬影の足は止まる。
「さて、僕が何を企んでいるか、だけど…」
背を向け、扉に手を掛けると首だけをこちらに傾ける。
「……僕はこれから、"神狩り"を始めるよ」
少し開いたその先は真っ暗な空間。本来あるはずの石畳の階段では無かった。
「…神…狩り……」
「そう。だから、いずれにせよ、そこの稲荷神も狩りにくるよ。精々、弱った力を元に戻しておいた方がいいんじゃあないかな?」
ゲームを楽しむかのようにそんな台詞を告げ、彼は扉を大きくあけ、足を踏み入れる。
「じゃあ、またね、みんな」
バイバイと、手を振りその扉を閉める直前、真っ暗な空間に別の人影がちらりと見えた。
「……えっ…?」
その影には見覚えがある。しかし、ハッキリと確認する前に完全に戸は閉まり、そこには何無かったかの様に元に戻ってしまった。
止まっていた空間に、5月の風が吹き、緑が擦れる音が響く。
そして、次に聞こえてきたのは色葉の舌打ちだった。
身体に重くのし掛かって居た何かも消えたようで、軽くなる。しかし、壬影と最後にみたあの影に心のモヤモヤは増すばかりだ。
「…お師匠さま…!今、治療を……」
砂まみれのメイがミキを支える。片手に纏った水色を押し当てようとするが、師匠はそれを断った。
「…僕は大丈夫。…まずは、社の中を確認して」
まだ痛そうで大丈夫には見えない。メイもそれはわかっている上で、ミキの指示に従った。
そして自分もまだ色葉に抱えられたままなことに気づく。
「いっ、色葉さん…降ろして…」
「………おお、済まぬ」
ゆっくりと降ろされれば彼女の表情が良く見えた。
怒りと、悔しさを滲ませている。
「………」
なんと声を掛けていいかわからない。なにより、自分の心の整理も出来ていない。
気まずい中、社からメイが出てくる。ずっと開いたままだった扉を閉め、涙を瞳に溜めてこちらに戻った。
「………ダメでした…」
涙が溢れないように、ただ一言だけを溢した。
「……壬影にどうしてそんな力があるのかは全く検討がつかないけど…神様を殺れるってことは、事実みたいだね…」
「ただ、中には術式の痕跡が有りました…。土地神様もふくめて、この地域の神様達の力が微かに感じたので…ここが原因ではあったみたいです…」
メイが手にしたボロボロな紙切れ。それにミキが触れれば一気に崩れ、風に流されてしまった。
空を仰いだ色葉が口を開く。
「土地神以外は弱く感じることは出来る…。術式が解けたのであれば、少しずつ力は戻るであろうな…」
「……そう…ですか……」
「ま、これ以上悪くなる事は滅多には無いじゃろう。幸い、社は無事じゃ。それなりに綺麗にしておる様じゃから、いずれ人の信仰心で新たに土地神は生まれてくるじゃろ」
「起きてしまったことはもう取り戻せないからね。今は、なによりも壬影を止めることが優先だ」
私はいつも、会話を聞いているしか出来ない。でも、そろそろ私自身の心が前を向かなければいけないみたいだ。
ずっと、心の拠り所だった壬影さんを、もっと知らなければ。
少なくとも、今、彼がしようとしている事は絶対に"悪"なのだ。