恐怖。
「久しぶりだね、衣羽。元気にしてた?」
優しく語りかけてくれる声は、私が知っているいつもの壬影さん。たくさん聞きたいことはあるが、今はただ再会できた事の喜びで心が一杯だった。
「…み…みかげさん……壬影さん…」
大好きなその名を口にすることしかできない。
だが。
私の視界を遮るように、目の前に現れた白い少年。
"邪魔しないで"と、心の奥が叫ぶ。
しかし、振り返った少年の赤い瞳孔が私をハッとさせる。その瞳に少しの恐怖を感じたが、開いた彼の口からはたった一言だけだった。
「………ごめんね」
謝罪だった。それは、私の気持ちを理解した上で、それでもなを壬影さんを"悪"と見なすことへの。
そうだ、私のすることは思い出に浸ることじゃない。
((そうだ。お前のすることは、見極め、決断する事だ))
低いツチの声が頭の中に響く。
その言葉に、私は白い少年とその瞳の奥にいる白蛇に小さく頷いた。
「久しいのう、子鼠よ…」
先頭に立つ稲荷神が、彼に言葉を投げた。
私の首に掛かる翡翠を握りしめれば、熱を帯びていた。彼女の怒りがそこからひしひしと伝わる。
「ああ…、君は…伏見の狐だね。そんな格好だから分からなかったなあ。僕はあの装束も素敵だったと思うなあ」
自分に向けられた怒りを感じている筈だが、動揺せず、むしろ受け流しながら、あくまで軽い口調の彼。
私から色葉へ移された視線が、ミキへ、メイへとそれぞれ動いた。そして一周して、また色葉に戻る。
「……ふうん。せっかく私が磨きあげた"器"、汚したのは色葉か。そして……」
次に向いた先は亥の管理人。
「そこの"ボク"は亥か。ふうん、そう…か…」
含みを持たせながらその小さな身体に視線を突き刺す。メイは一瞬怯んだが、負けじと声を張った。
「あ…貴方が…!ボクの、先代を…こ、殺したのでしょう…!」
私にもハッキリと聞こえたその台詞。あれ、確かメイの"先代"は…。
「……ミ、ミキ君の……師匠…?」
今朝、彼から聞いたばかりの話。「死んじゃったけど」としか聞かなかったが。まさか…。
白い後姿を見つめるが、気づいているのかいないのか、少年は振り返らなかった。
「衣羽。その事実に嘘偽りはないのじゃよ…」
前を向いたまま色葉が告げた。
その先にいる壬影は何も言わない。
ああ、本当の話なのか…。
色葉の夢で見た、あの凄惨な場でも出てきた壬影さん。そして、たった今知った話。
「…壬影さん…真実の貴方は…何者なの…?」
絞り出した問いに、彼は変わらない声音で応えた。
「全て、真実だよ」
躊躇いも、戸惑いも無い。当然といったような口調で。
そして、その言葉を皮切りに、刹那、私以外の全員が動いた。
真っ先に飛び出したのは亥。
私の目にはまるで瞬間移動した様に見えたが、実際はその小さな身体と不釣り合いな程に跳躍し、敵との間合いを一気につめていた。
宙に浮いたままの体を大きく捻り、遠心力を駆使した蹴りを繰り出す。
だが、その攻撃を顔色一つ変えず片手で防いだ壬影は、そのまま腕を軽く払うようにメイを振り落とす。
体勢を崩した亥だが、綺麗に受け身を取りつつ地面に転がる。それは、訓練された動きだった。
「弾ぜろ、狐火…っ!」
間髪入れずに稲荷神の声が響く。
燃え盛る炎を両手に燃やし、それが彼女の合図で飛ぶ。
「……ずいぶん、ぬるい術だね…」
呟いた壬影は、身体を僅かに動かしただけで、いとも簡単に避けてしまう。
後方には社。炎は勢いそのままにぶつかるが、広がる事はなく消えた。
「へえ、弱くなってしまったんだね」
「ふんっ。誰のせいだと思うておる」
怒りが露な色葉とは対称的に、笑顔のままな壬影。
「君だろう?せっかく衣羽にプレゼントしたピアス、壊したでしょ」
「汝の臭いがしたからのう、当然じゃ」
着いていない事に慣れてきてしまった自分の耳たぶに触れる。
彼の考えている事は全く読めない。ピアスをもらった時に比べて、なんだかすごく遠い存在になってしまったような気がする。
二人の会話は束の間で、すぐに色葉やメイの攻撃が繰り出される。壬影は反撃する様子はないが、ことごとく、かわしたり防いでしまう。
「ミキ…くん…」
私を隠すように目の前に立つ白い少年に意識を移した瞬間だった。
嗅覚が懐かしい匂いを捕らえる。視界の端に映っていた筈の壬影が、少年をはさんだすぐ先に現れたのだ。
「……あっ…!」
だが、そこからはまるでスローモーションのように再生される。
彼の長い脚が上がり、左右へ振られれば、その先で鈍い音が立つ。
「…っは……っ!!」
体内の空気を無理矢理出されたようなミキの声。
鈍い音とは強烈な蹴りが脇へと食い込んだ音だった。少年は防ぐことも出来ず、まともに喰らったのだ。
「みっ…ミキ君っ…!!!」
少年が衝撃で横へと倒れこめば、私の視界には壬影だけが写る。
「巳は相変わらず体術はめっきりダメだね。手加減してあげたのにね」
冗談でも言うかのような調子で、倒れこんだ彼に目もくれずに言葉を捨てた。
「………っ」
私は声を出すこともままならず、手足は震え、上手く立つことすら出来ずにその場へ座り込んでしまう。
今、彼に感じている感情を、ようやくはっきりと理解した。
これは、"恐怖"だ。