亥の管理人
「ほう。亥か。我は初対面じゃのう」
ジャムを口元に付けたまま、稲荷神はニヤリと笑う。
他にも管理人が居るという事はそれとなく聞いてはいたが。
実際にその存在を認識するのは初めてだった。
「管理人…って、何人くらい居るの?」
「十二人じゃ」
答えてくれたのは狐だった。
「それぞれ"干支"を司った力を与えられておるのじゃよ」
「へえ。そっか。だから、ミキ君は"巳"なんだ」
ちらりと少年に目を移すと、彼はまだ宙を仰いでいた。
「ねえ、どうして……」
あんなに嫌そうなのか、と。
聞こうとした所で、突然窓を叩く音が部屋に響いた。
「……!?」
音の方へ振り向けば、そこには上下する影がいた。
激しく動くそれは栗色で、チラチラと見え隠れする肌が"人"であることを表している。
よく聞けば何か言葉を発しているようだ、
「あ、あれって…もしかして…」
「……"亥"だ」
ツチの低く冷静な声が正体を明かし、それと同時にミキが小さく舌打ちした。
気だるそうに起き上がり、窓辺へ向かうと、その影へ視線を落とす。
向こうもそんなミキの姿を見つけ、一層激しく飛び跳ねた。
はあ。と、ため息を吐きながら鍵を開けると。
結構な勢いで窓を押し開けた。
「痛゛っ…!!」
きっと影は普通の左右に開くタイプの窓だと思っていた事だろう。
外に向かって開いたガラス戸にぶつかった影は悲痛を上げたのだった。
痛みで動きが止まったのか、私からは見えなくなった影。
そしてそのまま何事も無かったかの様にミキが窓を閉めようとすると、ようやく栗色の先が窓の縁に出てきた。
「ちょ、ちょっと、待ってくださいよう!
………お師匠さま…っ!!」
見た目としては10歳から12歳という所だろうか。
栗色のフワフワした髪の毛に、瓶底の様に厚い眼鏡を掛けた児童はその奥の瞳を輝かせ、部屋を見渡した。
「やっぱりお師匠さまはすごいですっ!こんな立派な事務所を構えるなんて…っ!」
向かいに座った白い少年を"師匠"と呼び、尊敬の眼差しを送っている。
しかし、少年はというと心底面倒そうな顔で、児童の視線に答えようとはしなかった。
「ツ、ツチ君、あの子が管理人…なんだよね?」
物置にあった簡易な椅子を持ち出し、応接室の隅に座った私は膝に居る蛇へ小さく問いかける。
「まさか、あんな幼子とはのう…」
すぐ後ろの壁に寄りかかり、紫煙を吐き出しながら稲荷神は呟いた。
「正真正銘、アイツは亥の管理人だ。ただ、特殊な奴なんだ」
「特……殊……?」
「そう。通常、管理人の力を与えられるのは15歳だ」
私は頷く。それはここに来た最初にミキが話してくれた事。
「だが、アイツは12歳で力を渡されたんだ」
「ど、どうして…?」
「なるほどのう。先代が死んで、十五になる器が居らんかった訳じゃな」
稲荷神は紅い唇で煙管を挟みながら私の問いに答えた。
それでも、私にはまだよく理解できず、その答の続きを待った。
しかし、それを聞くことは無かった。
ばっちりと目が合った児童がこちらにむけて大きく頭を下げたからだ。
勢いよく下げられた頭は、すぐさま上げられ、その顔には満面の笑みが咲いていた。
「はっ、初めましてっ!
ボクは亥の管理人、"辛 萌亥"です!!」
ただただ純粋な瞳に、まるで施設に居た子供達の影が重なる。
「よろしくお願いしますっ!」
「かっ…………」
私の中の母性本能が溢れ出し、
「………かわいいいいっ!!」
気づいたらその児童を抱き締めていた。
「……で、今日は何しに来たの?」
相変わらず顔をしかめたミキがようやく言葉を発した。
メイはハッとして私の腕から抜ける。
「あっ、あの、えっと……
たっ、助けてほしいんですっ……!」
それは切実で、大きな瞳は真っ直ぐとミキを見つめていた。
瞳の先の白い少年は何も言わないが、無言でメイの説明を待っているようだった。
「ここ最近なんですけど……
ボクの区の力が弱まってるみたいで……」
しょんぼりと肩を落とし、今にも泣きそうな声で話し出す。
「そのせいで…悪い"気"が流れて来てしまっている様で…
区内の人達に影響が出始めてるんです……ボク一人じゃ間に合わなくて……」
眼鏡の奥に涙を溜めるメイに、私まで辛くなってしまう。
「………ミキ君……」
少年を見やれば私と目が合い、直後に溜め息を吐いた。
「…わかった、わかったよ。話を聞くよ。衣羽、コーヒー淹れてきてくれる?」
メイの話によれば、ハッキリとした原因はわからず、とにかく毎日テリトリー内を駆け回り、少しでも運の均衡を図る事に必死だったらしい。
「……お師匠さまに教えてもらった"物"から力を移す方法もやってみたんです……。
それでも、全然解決にはならなくて…」
結局の所、全体的に悪いものをいくら分けたり与えたりしても結果は大きく変わることはないのだ。
手詰まりとなり、どうしていいか分からなくなった所で、ミキを訪ねて来たらしい。
そういえば。
つい最近、こちらでも似たような事があったばかりだと思い出す。
その犯人はすぐ横に居る。
ミキも同じ事を考えていたのか、稲荷神に視線が集まった。
陽気に紅茶へジャムを溶かす狐がそんな視線に気づく。
きょとんとしていたが、すぐに状況を理解した。
「なっ、なんじゃ!?我は関与しとらんぞ?」
突然向けられた疑いに、唇を尖らせて否定した。
さらに弁明するように台詞は続く。
「わ、我は神社の周囲だけ喰っとったんじゃ!
亥のトコロは全てが悪くなっとると言ったじゃろ。
それに、我が言うのもなんじゃが……
本来なら、崇められる側の"神"が、崇める側の"人"の気を喰うなぞ、恥ずべき行い。
それを全ての神が一斉に喰うなんぞとても考えられぬ」
ティースプーンを振りながら話す内容は、少し考えれば確かにその通りだ。
私ですら納得しているのだから、ミキも理解している訳で。
「我を疑うとは…けしからん…っ」
ぶつぶつと文句を言いながら、稲荷神は紅茶をすすった。
そして、もう何度目かの溜め息を吐いたミキが立ち上がる。
「百聞は一見にしかずって言うし。
行ってみるしかないね。……面倒だけど」
ミキの言葉にメイが溜めていた涙がこぼれる。
「おっ…おぉ…お師匠さまあああ……!」
こうして、私達は亥の区へ出張することになったのである。