異変の始まり3
「さ、終わりだよ」
ミキのその声にゆっくりと振り返る三木谷さん。目にはうっすら涙が浮かんでいる。
「み、三木谷…さん?」
どこか具合が悪いのかと心配になり、私は駆け寄る。
「大丈夫ですか…?」
しかし彼女の表情は柔らかかった。
「ええ…大丈夫よ。鏡に触れたとき、沢山の思い出が流れてきたわ。……ずっと見ていてくれたのね…」
三木谷さんの手の平には鏡の欠片があった。すでに鏡の表面には大きなヒビが入ってしまっている。
「予想以上の力だったよ。これなら大丈夫じゃないかな」
「お疲れ様」と、鏡を撫でるミキも少し疲れたような顔をしている。
「ありがとう、ミキさん。確かに、大丈夫な気がするわ。なんだか、胸の奥が温かいの」
「あとは、旦那さんのお見舞いに行ってあげなよ。今の洋子さんの中には分けられる程の運がある筈だから」
「ええ。本当にありがとう」
事を終え、また客間に戻ると政子さんが温かいミルクティーを淹れてくれた。
「わあ、美味しい。ミキ君、オフィスにも紅茶、置こうよ!」
「衣羽さん、そしたら茶葉を少し分けてあげますよ。政子さん持ってきて差し上げて」
心なしか三木谷さんの表情は出会ったときより明るく見えた。
「それで報酬なんだけど、」
ミルクティーに口をつけ、ミキが話し出す。
「そうね。本当に助かったわ。……小林、「いや、お金じゃなくて、あの鏡を貰えないかな?」
彼女の言葉を遮るように少年は交渉をする。
「…で、でもあれは…もう割れてしまって…」
「うん。いいんだ。あの鏡は本当に凄いよ。棄ててしまうのが勿体無いくらいに」
「割れた鏡を置いておくのは良くないと聞きますけど…」
「そうだね。良くない。でも僕、あれが報酬として欲しいな」
彼の真意は私にはわからないが。
三木谷さんが物を売ってお金に換える程だから、気を使ってるのだろうか。なんて程度に考えていた。
三木谷さんは少し悩んだ後に答えを出す。
「わ、わかりましたわ。ミキさんがそれで良いのなら……」
「やった!ありがとう!」
喜ぶミキは無邪気な少年のようだった。
そしてそこで新たな問題が浮上する。
「ミキ君、どうやって持っていくの?」
「ツチが持ってってくれるよ」
「えっ!?」
((えっ!?))
私とツチの声は同時だった。
「蛇は丸呑みが得意なんだよ」
まるで悪ガキそのものな笑顔だった。
そうして、ミキはツチだけを先程まで居た三木谷さんの部屋へ派遣させた。
「だ、大丈夫なんですか?」
鏡の持ち主は不安そうに部屋のある方向を見る。
「全然大丈夫だよ。僕の持ち物は全部ツチの胃の中に入れてるし」
ああ、だからいつも手ぶらなのにスケッチブックやペンが出てくるのだ。しかし、本当にあの大きさが入るのだろうか?
「ミキ君…さすがにツチ君にも無理があるんじゃ…」
「ええ~?何言ってんの、オフィスのソファ運んだのもツチだよ。無理な訳ないでしょ」
この場に居る全員が不安そうにしている事に少年は不服なようだった。
そして突然。ミキの手から物が溢れ出す。
いつものスケッチブックやペン、携帯やお金、変なキーホルダーまで。
多くはないが、ミキの私物がボロボロ落ちる。
((鏡で満員だ。自分の物は自分で持て))
少し怒った口調でツチの声が戻ってきた。
「え~、僕荷物って持ちたくないんだよ。衣羽、持ってね。助手でしょ」
「ち、ちょっとミキ君…!!」
駄々をこねるように口を尖らせた少年に笑い出したのは三木谷さんだった。
「ふふふ、何だか安心したわ。ミキさんも年相応な所もあるのね」
楽しそうに笑うが誤解をしている。彼の実年齢を教えてあげたい。騙している様で申し訳ないと思いつつ心の中だけで謝罪をしておいた。
「政子さん、紅茶を少し大きい袋に入れてあげて。ミキさんの物も入るように」
さらに申し訳なくなってしまったが、三木谷さんは本当に楽しそうで。
つい、私まで笑い出してしまった。
ミルクティーが無くなるまで談笑した後、私達は洋子さんのお宅を出た。
政子さんも小林さんもいい人で。気づいたら私まで"洋子さん"と呼ぶようになっていた。
帰り際に私は洋子さんに聞いた事がある。
「洋子さん、鏡、本当によかったんですか?」
彼女はずっと笑顔のままだった。
「いいのよ。むしろ、割れてしまった後も必要とされて嬉しいと思うわ」
「でも……」
旦那さんからの贈り物では、と言いかける。
「あのね、あの時、鏡の向こうで最後に言われたの。"よかった"…って」
そんな事実に心に暖かいものが溢れる。改めてあの鏡を感心した。
「そうね、主人が退院したら、新しい物をおねだりしてみるわ」
そして笑う洋子さんに見送られながら私達は歩いて帰路についたのだった。
ポカポカした心は、きっと真上に昇った陽の影響だけではないだろう。
だが、しかし。
これで一段落かというとそうではなかった。この出来事は異変の始まりだった。
否、もう異変は起こっていた…。