第三章 輝きに満ちた外の世界 その一
エルファーナは目を覚まそうとするたびに不安になる。
もしかしてこれまでのことはすべて夢だったのではないかと。
目を覚ましてしまったら、幸せな夢は消え失せ、あの辛い現実が待っているのではないかと。
幸せを知る前は多少辛くても我慢できたことも、この上ない幸福を知ってしまうとあの生活には戻りたくないと切に願ってしまう。
もちろん、神に仕えようとしているエルファーナが、神が導いてくださった道を拒否することは許されない。
イバラの道であっても、それが神の示した道であるならば受け止めなければならないのだ。
苦行を苦しいと思ってはいけない。
喜んで受け入れるようにならなければいけないのに、エルファーナの心はとても沈んでしまう。
だからエルファーナは毎朝目を覚ます前に神に祈るのだ。
これが夢であるならどうか覚まさないでくださいと。
ずっと花の蜜のような甘い世界に浸っていたかった。
そうして祈っていると、美しい歌声が耳朶に触れた。弦楽器の深い音色も聞こえてくる。
そうしてようやく夢がまだ続いていることを知ったエルファーナは、目を覚ますのだ。
大きくて柔らかで温かい寝台から半身を起こしたエルファーナは、ちょっと不安そうに視線をさまよわし、目当ての人物を見つけると見惚れた。
陽の光りを浴びてきらきらと輝く黄金の髪。白皙の美しい顔。白金の日差しがリゼの全身を華やかに包み込み、そこの一画だけが別世界のようだった。神秘的で、神聖ささえある。
何度みても見慣れぬ朝の眼福ともいうべき光景にほんの少し魅入ったエルファーナは、寝台から下りて、出窓に腰掛け優雅に曲を奏でていたリゼにすがりつく。
「リゼ……!」
「おはようございます、エルファーナ」
薄着のエルファーナに眉を潜めたリゼは、羽織っていた上着をかぶせた。
「怖い夢でも見ましたか?」
リゼは楽器を横に置くと、軽々とエルファーナを抱き上げ、膝の上に乗せた。
間近にあるリゼの顔は、神々しいまでの気品と壮麗に満ちていて、エルファーナはやっと表情を和らげた。
「ちがうの。今日も幸せな夢が続いてるからうれしいの」
人とふれあえる幸せを知ってしまったエルファーナの心はずっと不安定だった。
これまでの反動か、独りになると恐怖を感じてしまい、いつでも温もりを欲していた。
リゼに請われたあのときから、エルファーナのすべては彼のもので、これまでの孤独を癒すかのように甘やかせてくれるリゼと離れがたくなってしまっていた。
もしこれが夢だったら……そう考えるだけでエルファーナは、ふわふわとした気持ちが真っ黒に染まっていく気がするのだ。
だから夢だと思いたくなくて、親鳥のあとを追いかける雛のようにリゼにくっついていた。夜ですら一つの大きな寝台で一緒に寝てもらっているのだ。
エルファーナの特殊な環境を知っているリゼは嫌な顔一つしなかったが、エルファーナは彼に対してちょっぴり申し訳ないなと思っていた。エルファーナが側にいたら彼の仕事の邪魔をしてしまうからだ。
リゼにはずっと捜している人がいるらしい。吟遊詩人のふりをして各地を旅しているのは、その人を捜すためだと言っていた。
それを聞いたとき、エルファーナは胸が痛くなった。リゼの心にはその人しかいなくて、もしその人が見つかったら自分はどうなってしまうのだろう、と。
リゼに依存しているのはエルファーナ自身も自覚していた。
永遠に見つからなければいいのに、とそんなことを考えてしまう自分がとても罪深く感じられて、そのたびに神に懺悔するのだ。
「さ、いつまでも寝間着のままでは朝食を摂れませんよ」
落ち着かすようにエルファーナの髪を撫でていたリゼは、そっと体を下ろした。
そうして必ずエルファーナの顔を見つめ、具合が悪そうではないか確認してから、隣室に行くのだ。
もう少し甘えていたかったエルファーナは、寂しそうに目を伏せたが、言われた通りに着替えた。
リゼが買ってくれた服は、とても手触りがよくて、エルファーナのお気に入りだった。
エルファーナが着ていたつぎはぎだらけの服は、ベルーという村で処分してしまった。
そこで綺麗な服を買ったものの、測ったものではなかったから寸法が合わなかったのだ。
そのため、バディハスという大きな街に寄ることとなった。バディハスは、建物こそ古びているが、活気があって賑やかだ。そこの腕が良いと評判の仕立屋で、きっちり採寸してもらって新しく服を作ってもらったのだ。
ベルーで買った服は、リゼが古着屋に売ってしまった。
リゼはお金持ちの女の子が着るようなドレスを何着も作ろうとしたのだが、エルファーナが断ったのだ。
服など寝間着と普段着が二枚ずつあれば十分だった。
はたから見れば飾り気のない地味な服であったが、エルファーナはふんわりとした袖や裾が珍しくて好きだった。同じ型でわざわざ色違いに作ってもらったほどだ。
リゼの瞳を思わせる青い服と藍色のどちらにしようと迷ったエルファーナは、昨日は藍色の服を着たからと青いほうに手を伸ばした。
それを素早く着込むと鏡の前で髪を櫛でとかした。この透かしの入った櫛はリゼが最初に贈物してくれたものだ。
リゼと出会ってからエルファーナは大事なものがどんどん増えていく。
それがなんだかとても甘酸っぱい気持ちにさせた。
髪は櫛でとかすものだと初めて知ったのは、ベルーで宿を取ったときのことであった。
見知らぬ女の人たちに汚れた体を丹念に洗ってもらい、のび放題だった髪を整えてもらった。
だれもが恭しく接してくれた。あたかもエルファーナが令嬢であるかのように。
綺麗になったエルファーナを見てリゼは優しく頬にキスしてくれた。そんなことをしてくれたのはリゼが初めてでびっくりした。村の人たちが親しげにそうしているのは何度もみたが、エルファーナにする者などだれもいなかったのだ。
そして驚いているエルファーナに櫛をくれたのだ。まだ濡れているエルファーナの髪を丁寧にとかしてくれたのは、リゼだった。
リゼはずっと優しい。
身分の低い、忌み子であったエルファーナにとしても紳士的に接してくれる。
初めて会ったときからずっと。
リゼを想うだけでエルファーナの心は温かくなった。
鏡に映った自分を見てエルファーナはちょっと首を傾げてみた。すると鏡の中の少女も同じように首を傾げる。手を伸ばせば、同じような動作をしてくれるのがとても楽しい。
目の前に映っているのは自分なのだ。
目ばかりが大きながりがりに痩せた自分。少しは肉がついたようだが、ふくよかというにはほど遠いだろう。
食生活が貧しかったせいか、ずっと幼く見える。
リゼにも十歳くらいだと勘違いされていたのだ。
とても醜いわけではないが、かわいくも美人でもない自分の顔。
エルファーナはじっと見つめてにっこりと笑った。
背まで流れた銀の髪と蜜のような瞳は気に入っている。もしかして、顔も知らない両親もこんな顔をしていたのかなと想像するととても楽しい。
「エルファーナ? 入りますよ」
支度が遅いのを訝しく思ったのか、リゼが戻ってきた。
心配そうな顔つきでやって来たリゼは、鏡の前で遊んでいるエルファーナを見てくすくすと笑った。
「しょうがない子ですね」
「だって鏡がとっても面白いの。私と同じことをするのがとっても不思議なの」
狭い世界しかしらないエルファーナは、目に映るすべてが楽しくてしかたない。自分の姿を映すのは、森の泉くらいだった。水鏡よりずっと鮮明な鏡が面白くて仕方ないのだ。
無邪気に瞳を輝かせるエルファーナをだれが叱れるだろう。他者には容赦ないという冬将軍ですら、きつい言葉は飲み込んでしまうだろう。
そうしていつものように二人は穏やかに食事をした。
まるで昔から旧知の仲のような心地よい空間は、つい二週間前に二人が知り合ったばかりだとだれが気づくだろう。
「うぅ~」
ナイフやフォークの持ち方を知らないエルファーナは、これまでずっと手で食べてきたせいかそういった食事が苦手だった。
祖父の家で育てられた頃はスプーンを使った食事がほとんどで、こんな堅苦しい食事などしたことがなかった。
それでも慣れようと努力はするが、うまくいかない。
「エルファーナ」
泣きそうな顔を見ているとリゼはつい甘やかせてしまうのだ。肉入りのパイを一口大に切り、エルファーナの口元に寄せる。
「……おいしぃ」
ぱくっと口に入れたエルファーナは頬を押さえてうっとりと呟いた。
行儀の悪い行為だと知りながらついやってしまうのは、この笑顔を見たいからだろう。
美味しそうに食べるエルファーナの顔は、見ているほうまで幸せになる。作法など追々覚えればよいのだ。今は楽しく食事をさせてあげたいというのがリゼの考えであった。
エルファーナは好き嫌いなくなんでも食べるが、胃がとても小さいのだ。これまでの環境のせいだろうが、リゼの密かな野望は、エルファーナに一人前食べさせることだった。だからこうして、雛に御飯を与える親鳥のように自分のパイをエルファーナに食べさせるのであった。
コンコンッ
無粋な音が聞こえる。
口元をナプキンで拭ったリゼは、入るように促す。
「失礼いたします。イーシスト様宛にお手紙が届いております」
銀の盆に手紙を乗せた宿の召使いが頬を赤らめながら入ってきた。
リゼは注意を引くような態度を取る召使いの態度に気づかぬ様子で手紙を手に取ると、口元を盛大に汚しているエルファーナを見て自分のナプキンで拭ってやった。
「ありがとう……」
エルファーナは顔を真っ赤にした。夢中になって食べていたのでちっとも気づかなかったのだ。
「あ、あの……」
甘い二人の仲を打ち消すかのように召使いが声を上げた。
「まだ何か?」
少しばかり不機嫌そうなリゼに、びくっと体を震わせた召使いはそそくさと逃げるように出て行った。
リゼは、二通の手紙の差出人を確認すると、わずかに眉を潜めた。
「リゼ……?」
「あぁ、すみません。デザートの用意をしますか?」
「ううん。もうお腹いっぱい」
エルファーナは変わらず小食だ。
エルファーナの皿は全然減っていなかった。ひもじさを知っているエルファーナは何よりも残すことを嫌ったが、最初の頃は無理して食べ過ぎて夜中に吐いてしまったのだ。それ以後は、腹に入るだけの量しか食べていない。
「お手紙?」
エルファーナの視線が興味深そうに手紙に注がれる。
「えぇ、どうやら知り合いからのもののようです。まったく、どのような手段で私の居場所を嗅ぎつけたのでしょうね。エルファーナ、先に勉強をしていてください」
会話はできても、エルファーナは文字の読み書きができない。
神の御言葉を記した聖書というものを知ったエルファーナは、それを読もうとリゼに教えてもらっているのだ。
飲み込みの早いエルファーナは、幼い子向けの寓話を一人で読めるまでになっていた。
エルファーナ自身勉強が好きなのだろう。いや、勉強というより、なにもかもが初体験で楽しくてしかたがないようだ。
幼子のようにぴょんと椅子から飛び降りたエルファーナは、嬉々として奥の書斎に向かった。
その様は本当に無邪気で可愛らしい。
エルファーナと一緒にいると心が穏やかに、澄み切ったようになるのをリゼは感じていた。
リゼはこの年になって初めて、失いたくないと――守りたいと思える存在に出会ってしまったのだ。
しかし、藍玉の騎士であるリゼに、女王以外にそう思える人物がいることは、よいとはいえない。
ほかの八聖騎士がリゼのふぬけた体たらくを知れば、糾弾することは間違いない。
八聖騎士にとって女王がすべてであり、お仕えする唯一の存在なのだ。
ほかの者に心を移しては、女王をお守りする資格はない。
愛おしいエルファーナとまだ見ぬ女王の姿がリゼの内で複雑に交差する。
守りたいと思う者。
守らなければならない者。
エルファーナと出会う前またでは、女王がリゼのすべてであった。至上の存在。命を捧げるべきお方。
リゼは、女王のために生きてきたのだ。
なのに、今。
リゼの心はぐらついていた。
ふっと苦い吐息を漏らしたリゼは、手の中の手紙に視線を落とした。
一通は、バラに絡まる蔦の紋章が入った落款があった。暁の領主の紋章だ。
もう一通のほうは、翼にリズの葉が絡まり、中央に獅子の描かれた落款が押してあった。これは、八聖騎士が好んで使うものだ。
暁の領主のものから目を通したリゼは、うっすらと冷たい微笑を浮かべた。
「さすがに仕事が早い」
ベルーの村で暁の領主宛の親書をしたためたのだ。ベルーから領主城まで二日もあれば届くはずだ。きっとほかの仕事を放り出して、ベルッセの問題に取り組んでくれたのだろう。
暁の領主は、女王に忠義深く不正をなによりも嫌う人物だ。ベルッセの村のことを事細かに調べ上げ、自分の耳に入らなかったことを激怒したことだろう。その憤懣を役人たちに当たり散らしたかと思うと、笑いがこみ上げてくる。
今頃、ベルッセだけでなく聖職者や周防司官、関わった人たちすべてを詰問しているだろう。周防司官のことは教主にも知らされ、彼が司官の地位を剥奪されることは目に見えている。
ベルッセの村長は、周防司官によって葬られていた数々の咎が暴かれ、拷問ののち極刑となった。串刺し刑は、かなり重い刑罰だろう。
村長の血縁者――息子とその妻、そして孫娘の三名は、領地や資産没収の上、箔凰地方からの追放となった。村長のように直接手は下さなかったものの、助長する発言や行動があったという。それが厳しい宣告となったのだろう。
ほかにも数名、刑に処された村人がいる。ガーロもそのうちの一人だ。村長の命令で何人もの命を奪ったという。
忌まわしきベルッセの村は焼き払われることとなり、住人は暁の領主の目が届く城下町で役人の監視のもと、長きにわたる奉仕労働を強いられることとなったようだ。
人格に問題はあるものの、ベルッセの技術は失うに惜しいと感じたのだろう。
奉仕といえば聞こえはいいが、悪くいえば奴隷だ。よい職人が報奨なしに手に入ったのだから、暁の領主としてもこの度の裁きは満足しているはずだ。
だが、エルファーナにこれを知らせてはならないだろう。きっと心優しいあの子のことだから、心を痛めるはずだ。祖父が死刑となったことに涙を流すかもしれない。
「最期までご自分の孫としてエルファーナを見なかったのですね……」
村長は、拷問にかけられてもまだエルファーナを憎悪していたらしい。
すべてはエルファーナのせいだとわめいていたという。
己の失墜も、息子家族たちの追放もエルファーナが呪いをかけたせいだと本気で考えているようだった。
現実主義の暁の領主は、呪いといったような考えは好かないようで耳を貸さなかったようだが、もし信仰心の厚い領主だったならエルファーナを捕らえて魔女裁判にかけていただろう。もしかして村長はそれを狙っていたのだろうか。
同じ孫娘だというのに、ヒーリアに対する態度と正反対である。仮にも村長が愛した娘の子だというのに、なぜあんなにも嫌っていたのだろう。
村人たちの態度もそうだ。村長の命令だとしても、彼らのエルファーナに対する嫌悪感は本物であった。
あんなにも心根がまっすぐで優しい子だというのに。リゼなど、エルファーナのいじらしさに接するほど愛玩したくなるというのに。
道中も万事何ごともなく、村長たちが恐れていた災など起こらなかった。エルファーナは悪魔の子でも、忌み子でもなく、ただ虐げられた憐れな子供であった。
なぜリゼよりも長く生活をともにしていた村人たちが理解できなかったのだろう。どうしてもそのことが腑に落ちなかった。
難しい顔で、もう一通を開いたリゼは、「これは、また……!」珍しく顔色を変えた。