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女王伝  作者: 桜ノ宮
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第二章 開かれた道  その一

 エルファーナはとても幸せな夢を見ていた。

 飢えることのない光に満ちた幸福な世界。

 孤独も不安も寂しさもすべてが暖かい光りに包まれて溶け消えてしまう。

 花畑の絨毯に包まれたエルファーナは目を瞑る。

 ずっとここにいたかった。

 ここにいれば、傷つくことも、辛いことも、なにもない。

 とても幸せだった。


「愛しい子」


 ふいに声が聞こえた。

 重低音のすばらしく美しい声音だ。

 空気を震わし、まるで音楽のように心地よい調べとなって耳に届く。

 その声に誘われるかのようにエルファーナは目を開けた。本当は開けたくなかったが、空からふってくる声はとても魅力的だった。


「愛しい子」


 だれに言っているのだろう。

 いとおしむような声に、エルファーナは想われている相手が羨ましくなった。


「さあ、目を覚ましなさい。これ以上ここにいてはいけないよ」


 エルファーナは声を聞きながらぼんやりとしていた。

 自分に言われているとは思わなかったからだ。

 黄金に包まれた空を見つめていると、突然大きな渦を巻いた。びっくりして固まるエルファーナの前で、渦は光りを吸収しながら小さくなっていく。光りが吸い込まれていくと、美しい青空が頭上に広がった。湖のように薄い色の空が、目を見開いているエルファーナの視界を埋め尽くした。

 やがて渦は小さくなると、すっと人型になった。そのままゆっくりとエルファーナの前に落ちてくる。いや、落ちるというよりは、優雅に降り立つといったほうが正しいだろう。

 光りと同じ色に包まれた物体をエルファーナはしっかりと見ることができなかった。とても眩しかったからだ。

 目を瞑っていてもきらきらと輝いているのがわかる。

 エルファーナが身を固くしていると、あの声が聞こえた。


「愛しい子、怖がることはない」


 すっと頬に冷たいものが触れた。

 驚いて目を開けたエルファーナは、目映い光に目を瞑ろうとしたが、目の前で屈んでいる人物を見て口を惚けたように開けた。

 染み一つない白い肌。黄金の絹糸で作られたかのような豊かに波打つ髪、溶かした黄金を蜂蜜で混ぜたかのような双眸。すっと通った鼻に、柔らかな弧を描く赤い唇。すべてが完璧に整った美貌。非の打ち所がない絶世の美を前に、エルファーナは目を背けることができなかった。

 衣装は純白の布を幾重にも巻いた簡素な姿だったが、それがよけいに侵しがたい気品を与えていた。

 美しいと一言に語るには、あまりにも陳腐で、味気ない。

 言葉で説明できる美しさではないのだ。

 圧倒されるばかりの美貌。

 彼の周りには光りの粒子が踊っているようであった。


「なぜ、泣いている?」


 彼のほっそりとした指先が、知らず流れ落ちるエルファーナの雫を拭った。


「ぁ……」


 エルファーナにもわからなかった。

 ただ胸の底からわき上がってくるものがあった。

 ひれ伏したい気持ちと、見つめていたい気持ちと、彼が目の前にいるという感動がごちゃ混ぜになってエルファーナの心をかき乱していた。


「貴方は……」


 エルファーナは瞬きも忘れて魅入った。


「愛しい子、そなたには辛い運命(さだめ)を背負わせてしまったな。そなたの声は私に届いていたぞ」

 とくん、と胸が高鳴った。エルファーナが祈りを捧げたのは、あの方だけだった。

 かみ、さま……? と呟いた瞬間、彼が柔らかく微笑んだ。


「さあ、もう行きなさい。これ以上ここに留まってはいけない」

「イヤ! 私は貴方の側に……」


 ずっと焦がれていた。

 我が主、我が主。

 エルファーナのすべて。

 彼に仕えることが夢だった。

 それが糧だった。

 なのになぜそんなつれないことをいうのだろう。

 だれよりもいとおしげな眼で見つめてくれているのに。

 だれよりも慈しむように触れてくれるのに。

 神々しすぎて近寄りがたいのに、彼との距離はこんなにも近い。


「エルファーナ」


 エルファーナの永遠の主は、顔を近づけると額に唇を落とした。


「これは別れではなく、始まりだ。だれよりも愛しい私の子。早く、私の元へおい

で」


 彼の美しい声が遠くなっていく。

 闇に吸い込まれていく。

 彼と離れたくなくて抗ってみるけれど、そう長くは続かなかった。

 エルファーナが目覚めたとき、そこは見慣れた風景だった。あまりの陶酔感にうっとりとしていると、見知らぬ顔が間近にあってびっくりした。同時に幸福だった夢がかすんでいく。ゆっくりと瞬きを繰り返したエルファーナの脳裏からは、あの夢のような一時はきれいさっぱり消え失せていた。


「あぁ、気がつきましたか」


 微かに身じろぎしたことに気づいたのか、じっとこちらを見つめていた青年の顔に安堵したような色が浮かぶ。

 金のふんわりとした髪を胸元で緩やかにまとめた姿は、女性めいた顔立ちに合っていて、一瞬目の前の人物の性別がわからなくなった。

 けれど、低いしっとりとした声は男のもので、エルファーナは不思議そうに瞬いた。

 こんなに綺麗な人が目の前にいることが少し信じられなかった。

 なにより、こんなにも触れそうな距離に自分以外の人がいることに驚いた。


「あなたは、だあれ……?」


 熱があったときはずっと夢うつつをさまよっていたせいか、エルファーナは彼のことを覚えていなかった。


「どうかリゼとお呼び下さい」


 優しい声音。

 労るような声に、ちょっとだけ涙ぐみそうになった。

 こんなに優しく声をかけてもらったのはいつぶりだろう。


「リ、ゼ、さん……?」

「リゼで結構ですよ」


 そう言ってとても綺麗な笑みを浮かべた。

 少しばかり見惚れてしまったエルファーナは、彼を呼び捨てにするのは、なんだかとても不相応に感じた。


「気分はどうですか? 喉は渇いていませんか? それとも何か口にされますか?」


 矢継ぎ早の質問に、答えようとしたエルファーナより先にお腹が鳴った。

 恥ずかしくて真っ赤になるエルファーナをくすくすと温かい眼で見つめたリゼは、携帯食が入っている袋から干し肉と乾燥させた果物を取り出した。


「あいにくとこれしかありませんが……」

「いい、の……?」


 エルファーナは目を疑った。何もしていないのに、食べ物をくれるというのだ。すでに何日ぶりかの食料しか目に入っていなかった。

 おずおずと手を伸ばし、まずは干し肉を口に運ぶ。とても固かったが、柔らかくなるまで咀嚼(そしゃく)した。干し肉とはいえ、肉を口にするのは何年ぶりだろう。噛んでいると肉のうま味が口腔にじんわりと広がった。

 三口ほどかじったところで、エルファーナは食べるのをやめた。まだ干し肉は半分以上あったが、エルファーナは、ちらちらとリゼを伺った。


「どうしました?」

「これ、全部くれるの?」


 不安そうな顔をしていたのだろう。

 リゼは優しく微笑みながら頷いてくれた。ぱっと顔を輝かせたエルファーナは、食べ物を清潔そうな布にくるんだ。


「食べないのですか?」

「少しずつ、食べるの。お腹が空いて我慢できなくなったら一口かじって、またお腹が空いたら一口かじるの。そうすれば、何日かは村の人たちに頼らなくてすむの」


 エルファーナは明るく言ったが、聞いていたリゼの顔色は冴えなかった。事態の深刻さを悟ったのだろう。


「あの、そばにずっといてくれたの? 私、倒れて……」


 そう、雨に打たれて長い間そのままだったせいか次の日熱を出してしまったのだ。けれど食料を確保しなければと家々を訪ね回っていた。仕事はないかと。しかしお腹が空いて力がでない上に、熱のせいでふらつくエルファーナは、いつも以上に役に立たなかった。

 どの家もエルファーナに仕事を与えることを拒否したのだ。

 あのときの絶望は、ずっと忘れられないだろう。

 けれど同時に温かい腕もうっすらと覚えていた。きっとそれが彼なのだろう。村の人でないことは一目瞭然だ。こんなに目立つ人を知らない方がおかしいのと、自分に平然と関わっているからだ。


「ありがとう。助けてくれて……」


 本当は、ありがとう、なんていう一言では言い尽くせない。

 だって彼の目が赤い。青い美しい瞳が充血しているのだ。きっと寝ていないのだろう。

 それを思うと胸が痛んだ。


「私になにかできる? 私、たいしたことできないけど……」


 どんなことでもいいから彼のために何かしたかった。


「私、なにかしたいの……」


 エルファーナは必死に言葉を紡いだ。無視されるか罵倒されることがほとんどで、人と話すことに慣れていないエルファーナは、とぎれとぎれにしか話せない。

 リゼが口を開こうとしたそのとき、外が騒がしくなった。


「出てこい、忌み子め!」

 壁が揺れる。どんっどんっと壁を叩く音が、激しくなっていく。

 四方から聞こえる轟きに、いいしれぬ恐怖を感じたエルファーナは体を震わせた。悪意に満ちた怒鳴り声と、地面を踏みならす音も加わり、不協和音となって青ざめた彼女の耳朶に届いた。耳を塞ぎたくても、殺気だった雰囲気に呑まれて固まった手は微塵も動かない。

「死んでしまえっ」

「悪魔の子っ」

 常よりもずっと憎悪のこもった罵声は、エルファーナの心を打ち砕くのに十分だった。村の人たちに愛されることを──普通に接してくれることを望んでいたが、決して相容れないのだと悟ってしまった。


「エルファーナ」


 リゼはそっとエルファーナの頬に触れた。

 その温もりを受けて、虚ろだった双眸がほんの少し光を取り戻す。


「私と共に行きましょう」


 それは問いかけではなく、決定事項であった。エルファーナを見つめる瞳は真剣で、冗談の欠片もなかった。

 リゼは震えるエルファーナを寒い思いをさせないよう毛布代わりの布にくるみ、壊れ物を扱うかのような丁寧さで抱き上げた。片手でエルファーナを抱きかかえると、携帯用のカンテラなどを素早くしまい、荷物を肩にかけた。

 エルファーナは何か言いたげに口を開こうとしたが、リゼは甘く双眸を緩めて人差し指を彼女の口に当てて黙らせた。


「ねぇ、エルファーナ。私はあなたのその清らかな魂を穢させたくないのです。さあ、目を閉じて……いい子ですね、あなたは何も怖がらなくていいのですよ」


 慈愛の声は、まるでエルファーナが愛してやまない神のように傷ついた心を包んでいった。

 エルファーナは誘われるまま大人しく目を閉じた。すでに震えも止まっていた。リゼの側にいるだけで、何もかもが浄化されていくようだった。

 リゼはきっと神が使わした使徒なのだろう。

 太陽をはり付けたかのような目映い金の髪に魚空よりもずっと濃くて澄んでいる蒼い瞳は、エルファーナが思い描いていた神の国に住まう住人のようで、もしかして彼が道案内をしにきてくれたのかと甘い夢に囚われた。

 自分に神の国へ行く資格などないとわかっても、目の前の人物の誘惑には逆らいがたい。

 会ったばかりの人だけど、優しくて綺麗なリゼがとっても大好きになってしまったのだ。

 リゼの存在自体に癒しの力があるようで、止まない罵り声も鋭い針となって心に突き刺さったりはしなかった。

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